答案用紙を提出した俺は、荷物をまとめると教室を出た。階段を降りて、屋外へ出る。
その途端、むわっとした熱気が肌にまとわりついた。同時に、じりじりした夏の日差しが照りつけてくる。いつもならうんざりするような夏の暑さだが、今だけはちがう。全身を包み込む夏の空気が、俺の高揚する気分をいっそう盛り上げている。いまこの瞬間から、夏休みが始まるのだ。
すーっと大きく息を吸う。夏の空気が、全身を満たす。
これから2か月間、家と大学を往復する日々から解放される。講義がない分、バイトのシフトを多く入れているが、それでも自由時間はたっぷりあるはずだった。いろいろやりたいことはあるが、まずは溜まっている夏アニメを消化したい。
試験中は電源を切っておいたスマホを取り出し電源をオンにすると、メッセージアプリの通知が表示されていた。
アプリを開くと、『これから先輩のおうちに行きますねー』というメッセージと、デフォルメされた車を運転するうさぎのイラストのスタンプがトーク画面に現れる。送信時刻を見ると、1時間ほど前に送られたものだった。
はーっと大きくため息をつく。
俺の完璧な夏休み満喫計画における唯一の不確定分子、それが一色いろはだった。
一色に合鍵を渡した日から、1か月半ほどが経つ。
あの日以降も何度か俺の家を訪れた一色に対し、俺は繰り返し鍵を返すように要求していた。
しかし、そのたびに「まだレポートが終わってないんですー」とか、「先輩のおうちだと試験勉強が捗るんですよー」とか、「わたしが来たときに先輩がいなかったら困るじゃないですかー」みたいな、よく分からない言い訳で煙に巻かれるのだった。どう考えても、一色に合鍵を返却する意志がないことは明らかで、俺も内心ではほぼ諦めている。
一応、一色は、俺の家を訪れる前に、今日のように連絡をくれる。でも、俺の返事に関係なく来るんだよな……。
家に帰ってくると、玄関に見慣れた靴が置いてあった。一色が大学に来るときによく履いているスニーカーだった。メッセージの時間から、おおむね予想できた展開だった。
「あー、先輩、おかえりなさい」
俺が部屋の中へ入っていくと、一色ののんびりした声が俺を迎える。
一色は、ベッドを背もたれに床に座りながら、スマホで動画でも見ているようだった。
「何してるの……」
「んー、ドラマ見てます。これおもしろいんですよー。一緒に見ますか?」
「いや、いい……」
俺が興味を持っていないことを感じ取ったのか、一色は見ていた動画の再生を止めると、スマホをテーブルの上に置いた。
「試験どうでした?」
「単位はなんとかなるだろ。成績は知らん」
「あんまり成績悪いと、就活のとき不利になるって聞きますよ」
「そこまで酷くはない。お前こそいいのかよ?」
一色の成績がどうなろうと俺には関係がないのだが、レポートを書いたり、試験勉強をしている彼女の姿を見てきたので、気に掛けてやるのが人情というものだろう。なにより、ぼろぼろの成績を取って、冬学期に泣きつかれたら困る。
「うーん、大丈夫じゃないですかー」
俺の心配をよそに、一色はまるで他人事のように言う。
大学に入って初めての試験なんだし、多少は緊張感があって然るべきものじゃないの……。もっとも、その肝の太さが一色らしいのかもしれない。
「そういえば、アイス買ってきたんですよ。いっしょに食べませんか?」
終わってしまった試験のことなんてどうでもいいと言わんばかりに、一色は話題を変える。その切り替えの早さは、見ていて清々しい。たしかに、過去を振り返ったところで黒歴史しかないからな。
それにしても、今日の差入れはアイスらしい。
初めてこの部屋を訪れた日に言っていたとおり、一色は、この部屋を訪れるたびにお菓子を持ってきていた。さすがにいつも手作りというわけではなく、今日のように、スーパーかコンビニで買ってきたお菓子のときもあるが、律儀なことだと思う。そういえば、高校生の頃もこいつはそういう気遣いをしていたことを思い出す。
俺としては、その気遣いをもっと別の方面にも発揮してほしいと思うのだが……。せめて、俺がいないときは勝手に来ないとか、俺の返事を見てから来るとかさ。しかし、そのあたりの強引さも高校時代から変わっていないから、これが一色いろはらしさなのだろう。
ともあれ、駅から家まで歩いただけで、体が溶けそうになるほどの夏の暑さだ。アイスは、とてもありがたかった。
「あー、うん、食べるか」
俺の返事を聞くと、一色は立ち上がってキッチンへと向かった。そして、鼻歌交じりにカップアイスを二つ手に持って戻ってくると、ローテーブルの上に置く。使い捨ての木製スプーンが添えられていた。
味はバニラと抹茶だった。お先にどうぞと一色が促してくるので、バニラを手に取って、ふたを開ける。
「やっと夏休みですねー」
抹茶味のアイスを食べながら、一色が感慨深そうに言う。
「先輩は、夏休みどんな予定なんですか?」
「基本バイトだな」
「そうじゃなくて、遊びに行く予定のことですよ」
遊びね……。
きっと一色は、海に行って海水浴をしたり、山に行ってキャンプをしたり、浴衣を着て花火大会や夏祭りに出かけたり、そんな予定を立てているのだろう。俺とは無縁の世界だ。
夏らしい予定と言えば、サークル旅行とコミケくらいだ。あとは、人と飲みに行く約束があるくらいで、わざわざ言うほどのものではないだろう。
「サークルの旅行と、あとは夏コミだな。それくらいだよ」
「夏コミ……、なんか儲かるやつですよね?」
目をキラキラさせながら一色が言う。高校の頃にも同じようなことを聞いた記憶があるな。こいつのサブカルチャーに対する知識は、やたらと偏っているようだった。
「俺は一般参加だからな。買う方だよ」
俺の言葉を聞いた途端、一色の瞳から輝きが失われる。ほんと現金な子ですね……。
「そういえば、コミケって、お盆の時期にやってますよね。じゃあ、お盆は実家に帰らないんですか?」
「ああ。その時期はバイトも多めに入れてるしな」
世間が休みのときに多くシフトに入れる学生バイトは、なにかと重宝される。どうせ、夏休みはたっぷりあるのだから、人が手薄な時期にシフトを多めに入れていた。
「へぇー、実家に帰ってこいとか言われませんか?」
「言われないな。むしろ、小町が受験だから邪魔するなって言われてる」
「あー、先輩の家の家庭内ヒエラルキーは想像できます」
納得したように頷くと、一色は、嘲笑うような表情で俺を見てきた。
俺は言い返す。
「どういう意味だよ」
「先輩は猫ちゃん以下ってことですよ」
そうだけどさ……。そういうのは黙っておくもんでしょ。これでも傷つくんだからね。
それにしても、一色は比企谷家の家族構成(ペットを含む)を知っているのか。
「お前、うちの猫知ってるの?」
「はい。おうちにお邪魔したときにソファでごろごろしてて可愛かったですよ。ふてぶてしい感じが先輩に似てますよね。えっと、たしか、カラスマ、でしたっけ?」
まったく違うのに、絶妙に似てるな……。文字の一致率だけでいえば、四分の三は合ってる。
だが、あのふてぶてしい血統書付きの猫は、黒の組織のボスみたいな名前ではない。
「……カマクラな」
「あぁ……、そうでした。お米ちゃんが『カー君』って呼んでたのは覚えてたんですけど……。たしかに白いですもんねー」
「いや、丸いからカマクラ」
「えっ、そっちですか」
そもそもあいつは白くない……よな。あれ? 春休みに実家に帰ったときに姿を見ているはずなのに、記憶がおぼろげだ。グレーの縞模様だったはずなんだけど、なぜか白いカマクラの姿の記憶が混ざっている。……これが前世の記憶というやつか。おおかた、どこかほかのところで見た猫の記憶だろう。
猫の名前に気を取られてしまっていたが、それよりも、今の会話で引っかかったことがある。
「お前、うちに来たことあるの?」
「ありますよー」
一色はあっさりと答える。
家族構成だけでなく、実家の住所まで抑えられてるってことかよ……。いろはす、俺の個人情報にやたらと詳しいよな。
「去年の夏休みに生徒会の打合せでお邪魔したんですよ。うちの生徒会室ってエアコンないので、暑くって。夏休みの活動は学校の外でやってたんです」
公立高校は大して設備が充実していないから、ほとんどの特別教室にエアコンなんて設置されていない。奉仕部が部室として使っていた教室にも、エアコンはなかったことを思い出す。生徒会室も似たような環境だったのだろう。
「そういえば、そのときもお米ちゃんが言ってましたね。夏休みだけど、先輩は少ししか帰ってこないって。今年もそんな感じですか?」
「ああ、八月の後半に少し帰るくらいだな」
実家にいた頃は、家事の負担がない環境が最高だと思っていたが、一人暮らしに慣れてくると、好き勝手に生きても誰からも何も言われないで済むことの快適さから抜け出せなくなっていた。両親は放任主義で、帰宅時間も遅いから実家でも自由気ままに暮らしていたのだが、やはり共同生活というのは知らずのうちに気を遣っていたのだと感じる。
問題は、オアシスであるはずの一人暮らしなのに、一色いろはという異分子が居座っているということだった。
その異分子は、俺の不満なんてつゆほども知らない様子なのだが。
「ふーん、結衣先輩たちと会うんですか?」
「その予定はない」
「まあ、あの二人も大学こっちですしねー」
そう、由比ヶ浜は俺たちと同じJ大だし、雪ノ下はT大だ。なにも千葉で会う必要はない。
「実家に帰るつっても、四、五日くらいの予定だしな」
「じゃあ、実家に帰ってごろごろするだけですか」
「ごろごろするために実家に帰るんだろ」
「気持ちは分かりますけど……」
一色が呆れ気味に言うが、それが目的なのだから仕方がない。
実家暮らしと一人暮らしのどちらがいいかという話題で盛り上がっているうちに、アイスはすっかりなくなっていた。話題が落ち着いたところで、一色が尋ねてくる。
「そういえば、8月8日ってどういう予定ですか?」
8月8日ね……。一色は、その日の意味を知っているのだろうか。
俺は自分の誕生日を一色に伝えた記憶はないから、普通に考えれば知っているはずはないのだが、一色は俺の知らないところで、この家の住所や、俺の家族構成、実家の住所まで把握していたのだ。誕生日まで知っていたとしても、おかしくはない。それに、ピンポイントでその日の予定を尋ねるというのも、有力な状況証拠といえるだろう。
……そんなことを考えること自体が、自意識過剰に感じられた。
やめやめ。
考えても仕方がない。
一色が知っているかどうかで、俺の答えが変わるわけでもないのだ。
「夕方までバイト」
「夜はなにか予定があるんですか?」
「いまのところ何も」
とくに予定ができる予定もないのだが、なんとなく二十歳の誕生日を一人で祝うという事実をあからさまに口にすることが憚られて、つい見栄をはってしまう。
俺の口ぶりに引っかかりを覚えたのか、一色が怪訝な表情で見てくる。
「その微妙な言い方はなんですか……」
「いや、まあ、予定は未定ってことだよ」
「どっちでもいいですけど、まだ決まった予定がないなら、その日の夜は空けといてください」
「えっ、なんのために」
思わず聞いてしまう。
すると、一色は、艶めいている桜色の唇に人差し指をあてると、パチンと片目を閉じて言う。
「な・い・しょ・です☆」
いつものようにあざとく、かわいい仕草に見入ってしまった俺は、その日が誕生日だということを伝える機会を完全に逸してしまった。
……いまさら言っても、なんだか誕生日を一緒に祝ってほしいと伝えるようで、恥ずかしいからな。
一色じゃあるまいし、わざわざ誕生日をアピールすることもないだろう。一色が祝ってくれるにせよ、そうでないにせよ、一人で誕生日を迎えるより華があることは、まちがいないのだから。
* * *
8月8日、俺は新宿駅近くにある書店にいた。俺のバイト先である。
今日は、俺にとっては特別な一日だが、世間にとっては普通の平日に過ぎない。シフトの希望さえ出せばだれに気兼ねすることなく休みにすることもできたのが、数日後から開催されるコミケのために休みを取りたかったので、開店から夕方までのシフトに入っていた。
要するに、いつもどおりの一日を過ごしているのだが、完全にいつもと同じ一日というわけでもない。日付が変わるのと同時に送られてきた、いくつかのメッセージを思い出す。
『ヒッキー、誕生日おめでと 』
『お兄ちゃん、誕生日おめでとう!』
『八幡、お誕生日おめでとう!』
去年も同じ顔ぶれだった。
今年がいつもと違ったのは、朝、両親からそれぞれメッセージが送られてきたことだろう。現代日本では、二十歳の誕生日が特別な日なのだということを実感する。成人年齢こそ十八歳になったが、酒とタバコは二十歳からだし、かつての成人式も「二十歳のつどい」と名前を変えて、二十歳になる年の一月に行う自治体が多い。
とはいえ、増えたのは両親からのメッセージだけで、それ以外は去年の誕生日と変わりがなかった。
つまり、一色からは何の連絡もなかった。
いや、一色から誕生日を祝うメッセージが送られてこなかったことはどうでもいい。問題なのは、今日の夜、時間を空けておくように言われたものの、詳しい話がないままそれっきりになっていることだった。
まあ、一色が忘れているならそれでも構わない。
どうせ、いつものように一色の用事に付き合わされるだけかもしれないのだ。バイトをあがる時間までに連絡がなければ、お酒でも買って帰り、ひとりでお祝いしよう。
夕方になり、俺はレジに入っていた。シフトが終わる時間まで、あと30分ほどだ。
ネット通販や電子書籍の普及により、書店が斜陽産業と言われるようになって久しいが、この店舗は、そんな情勢とは無縁でいる。立地に加え、国内でも屈指の売り場面積のおかげなのだろう。日中はいつも混雑している。今も複数のレジが稼働しているが、列に並んで会計を待っている客が五、六人ほどいた。
「お次のお客様、こちらのレジへどうぞ」
俺は、会計待ちの列に向かって声を掛け、分かりやすいように片手も挙げる。すると、列の先頭で待っていた若い女性が、亜麻色のミディアムの髪を揺らしながら近付いてくる。大きなブラウンの瞳を俺に向けていた。普段より赤みが強いリップが塗られた唇が艶めいている。
一色いろはだった。
「何しに来たの……」
仕事中ではあるが、思わず呟かずにはいられない。
しかし、小さく零れた俺の言葉が聞こえなかったのか、一色はいつもの営業スマイルを顔に浮かべたまま、俺の顔を見返すだけだった。
いや、書店に来る理由なんて尋ねるまでもないか。一色がカウンターに置いた文庫本を見れば、彼女の目的は明らかだった。本を買いに来たのだろう。
……予期しない出来事で驚いたが、一色が客として来店した以上は、客として扱わなければならない。すぐ隣のレジでは別の店員が接客をしているから、私語を咎められるのも面倒だ。
俺は、つとめて普段どおりの接客をする。一色の希望を確認したうえで本にカバーを掛け、会員カードの有無を尋ね、会計金額を伝えて端末を操作し、決済処理をする。
一色も、接客マニュアルどおりの俺の問いかけに対し、「お願いします」とか、「いいえ」とか、「カードで」と答えるだけだったが、俺がカウンターのうえに差し出した商品を受け取るときに、一瞬、すっと顔を屈めると、ひそめた声でささやいた。
「近くで時間潰してるので、あがったら教えてくださいね」
そう言い残し、去って行く。
一色はこの店が俺のバイト先だと知っているし、偶然訪れたということはないだろう。わざわざバイト先まで来て連絡事項を伝えた理由は分からないが、とりあえず、一色が今日の約束を忘れていないことと、この後どうすればよいかは分かった。
シフトが終わり、タイムカードを打刻した俺は、一色にメッセージを送る。すぐに返事があり、一色はまだ店内にいるというので、入り口前で落ち合った。
「ちょっと買いたいものがあったんです」
一色は、30分遅れで俺のつぶやきに対する答えを口にする。いまさらそんな説明はいらないんだが。
「そうか。で、これからどうするの」
「だから、買いたいものがあるんです」
ループに入ったかのような一色の言葉に、俺は一瞬戸惑うが、その意味するところはすぐに理解できた。
つまり、一色が言う「買いたいもの」とは、さっき買った本のことではなく、別のものを指しているらしい。こうやって、コミュニケーションミスというのは発生するのだろう。言葉って、難しいね……。
俺の顔に一瞬だけ浮かんだ戸惑いの表情を見逃さなかったのか、一色がさらに説明する。
「これから買うんですよ」
やっぱり、一色の買い物に付き合わされるだけなのか……。
書店を出ると、一色は駅とは反対の方向へ歩き出した。
真夏の太陽はまだ西の空の高い位置に居座り、地面をじりじりと焦がしている。太陽とアスファルトに挟まれて熱せられた空気が身を包み、数ブロック歩くだけで汗ばんでくる。
目的地が遠いところだと辛いなと思っていると、隣を歩いていた一色が大通りに面した建物の一つへと入っていく。助かったとの思いで、その後に続く。店内に入るときに目に入ったのは、老舗百貨店の店名ロゴだった。
多くの客で賑わう明るい店内を通り抜け、一色は下りエスカレーターに乗る。この百貨店に入るのは初めてだったが、行き先はだいたい想像が付く。百貨店の地下フロアといえば、デパ地下――食品エリアと相場が決まっている。
案の定、エスカレーターを降りると、目の前にはお惣菜やお菓子を販売するショーケースが並んでいた。一階も混雑していると思ったが、食品エリアは輪を掛けて混雑していた。
一色は振り返ると、俺の顔を見ながら言う。
「先輩、好きなの選んでくださいね」
「えっ、なにを……」
「なにって、ケーキですよ」
一色は、そんなの当たり前でしょーという口ぶりで答える。
「悩んだんですけどねー。先輩のおうちだと道具がないので難しいですし、実家で作って持ってくるのは、保冷とか形崩れとか気にしないといけないですし。失敗するのは嫌なので、お店で買うことにしたんです。こっちの方が、先輩が好きなもの選べますしね」
「ああ、そう……」
ここはテイクアウトのお店しかないだろうし、ケーキを持ったままショッピングということも考えづらい。つまり、いまの一色の発言を踏まえて合理的に推論すれば、ここでケーキを買った後、俺の家に移動して一緒にケーキを食べることになるのだろう。
相変わらず、一色の目論みは分からないままだし、晩ごはんがどうなるのかも気になるところだったが、少なくとも、誕生日のお祝いらしいことをする予定の存在は分かった。大きな前進といえる。
頭の中でそんなことを考えていると、一色は、その沈黙をどう捉えたのか、にやりと笑いながら俺の顔をのぞき込んできた。
「もしかして手作りを期待してましたか?」
言うと、一色はくすくす笑う。
いや、期待もなにも、一色の遊びに連れ回されるだけなんじゃないかと思ってました……とは、さすがに言わない。かわいい後輩が祝ってくれるというのだ。水を差すことはないだろう。
人混みをぬうように通路を歩く。両脇に並ぶショーケースには色とりどりのお菓子が並んでいて、目移りしてしまう。どれもおいしそうで、一つに絞るのは難しい。
俺の迷いを察したのかどうか分からないが、一色が説明してくれる。
「ここは、フルーツを使ったケーキとかタルトがメインですね。この時期だと、メロンとかシャインマスカットがおいしくて、みずみずしさが夏らしいですよ。………ショートケーキとかモンブランみたいなクラシックなプチ・ガトーなら、あっちのパティスリーがおすすめです。わたし、あそこのミルフィーユ好きなんですよ。………あっ、でも、先輩、チョコも好きですよね。チョコレートケーキなら、こっちのお店がイチオシです。チョコレート系のケーキだけで、何種類もあるんですよ!」
弾んだ声で一色は言う。こいつのお菓子作りの趣味は知っているが、もちろん、作るだけでなく買って食べるのも好きなのだろう。
もともと強いこだわりのない俺は、一色のオススメに従ってケーキを選ぶことにした。
ケーキを購入してから、駅へ向かい、電車に乗る。俺の最寄り駅で降りて歩きだすと、一色がスーパーの前で足を止めた。
「お酒、買っていきますか? 一応、スパークリングワインを冷やしてあるんですけど、ハーフサイズなんです」
ちなみに洋食です、と言い添える。
――お酒。
そう、今日から俺はお酒を買えるのだ。
昨日までは買えなかったものが、寝て起きただけで買えるようになったのだ。いや、日付が変わる瞬間は起きていたから、地球が自転しただけで、というべきか。
ともあれ、これまで法律で許されていなかったことが合法的にできるようになるというのは、感慨深くもあり、不思議な感覚だった。つまり、二十歳の誕生日は特別な一日で、そのことを実感するためという意味でも、お酒を買う価値があるだろう。
ところで、ようやく分かったことがある。どうやら一色は、食事を振る舞ってくれるらしい。
家に着くと、まずは買ってきたケーキとお酒を冷蔵庫に入れる。冷蔵庫の中には、ラップがかかったお皿がいくつか見えた。コンロの上には鍋が置かれている。料理はほとんど出来上がっている様子だった。
「あとは仕上げをするだけなので、20分もかからないと思います」
「了解」
キッチンで作業を始めた一色に返事をして、部屋の方へ入っていく。その俺の背中に、一色の声が届いた。
「テーブルにプレゼント置いといたので、さきに開けてくださいねー」
一色が言ったとおり、ローテーブルの上にラッピングされた包みが置かれていた。しかも、三つもある。
こういうのは食事の最後とかに開封するのが定番だと思う。しかし、一色が先に開けろというのだ。贈り主の指示には従うのがマナーだろう。
一つ目の包みを手に取る。中身を取り出すと、一色が先に開けるように言った理由はすぐに理解できた。――カトラリーセットだった。
ステンレス製のシンプルなデザインで、これならどんな料理にも合わせやすいだろう。テーブル用のスプーン、フォーク、ナイフと、小ぶりのティースプーン、ティーフォーク、全部で5本のセットが二組あった。そういえば、以前一色がここで料理をしたときに、フォークやナイフがないということを言っていた。それに、この前、カップアイスを食べたときも、使い捨ての木のスプーンを使っていた。つまり、この部屋に不足している日用品というわけで、実践的なセレクトが少し意外だった。
続けて、二つ目の包みを開ける。箱の中から出てきたのは、マグカップだった。造詣がないから詳しいことは分からないが、どこかの地域の焼き物らしい。花びらの模様がきれいに絵付けされている。絵柄は和風だが、色合いはパステルカラーで、こちらも使いやすそうなデザインだった。しかし、どう見ても……
「ペアだよな……」
箱に入った二つのマグカップを取り出し、テーブルの上に並べてみるとよく分かる。同じ図柄で、使われている色の系統が異なっていた。カトラリーも同じものが二組だったが、あちらはステンレスを造形しただけで飾りのないデザインだからか、ただ同じものが二組あるという印象だった。同じ図柄で色だけ違うというのが、ペアという印象を強めているのだろう。
最後に残ったのは、小さな細長い袋だった。中には、箸が一膳入っていた。形を整えた木材に漆を塗っただけのシンプルなつくりで使いやすそうだ。とはいえ、俺は普段から使っている箸があるので、これを使うのは一色だろう。
ここでふと気が付く。
カトラリーもマグカップも二人分あるし、これ、半分以上は一色が自分で使うものだよね……。
いや、一色の意図は分からないから、単純に来客用なのかもしれないが、仮にそうだとしても、この家の来客は一色しかいないから、事実上、一色専用になるだろう。
本来なら家主が準備すべき来客用の食器類をプレゼントしてくれたといえば聞こえはいいが、そもそも俺は、この部屋に客を呼ぶことを想定していない。一色にしても、俺が招いたわけではないのだ。今日だって、一色は昼間に勝手にあがって、料理をしていたのだろう。俺はなにも知らされていない。……そのことに文句があるわけではないのだが。
「どうですか?」
一色がてとてとと様子を見にやって来た。
「ああ、ありがとな」
思うところはあるのだが、物自体に不満はないので、素直に礼を言う。
「今日使いたいので、洗っちゃいますね」
そう言って、テーブルの上に広げられた食器類を流しへと運んでいった。
まあ、毎回割り箸というのは不経済だしな。そう思いながら、テーブルの上に残された包み紙を片付ける。そういえば、昔、同じような言い訳を聞いたことがある気がする。あれは贈る側の言い分だったが、そのときの彼女の気持ちが少しだけ理解できたように感じた。
しばらくして、狭いローテーブルの上には、ところせましとお皿が並んでいた。
中央の平皿には、薄くそぎ切りされたタコがきれいに並べられている。マリネされているようなので、カルパッチョと呼べばいいのだろうか。その隣にある深皿に盛られているのは、ゆでたブロッコリーとアスパラガス。粗く刻んだゆで卵とマヨネーズをあえたディップソースがのせられている。
主菜は、ビーフシチューだった。大きめの牛肉と、ていねいに面取りされたニンジンやジャガイモがごろっと入っている。彩りに、ブロッコリーが一房だけ添えられていた。
残りのスペースには、スライスされたフランスパンが盛られた平皿と、サラダとタコを取り分けるための小皿二枚、そして先ほど開封したテーブルスプーンとテーブルフォーク、お箸も置かれている。ちなみに、プレゼントだというお箸は、やはり一色の前に置かれていた。
……それは別に構わないのだが、どう考えても、俺の部屋にあるお皿の枚数を超えている。
「お皿、どうしたの?」
「買ってきました」
ボトルとグラスをテーブルの上に並べながら、一色は答える。
「100円ショップとかで買ったので、気にしなくていいですよ。むしろ、食材に比べれば全然安かったです」
「そうか……。悪いな」
礼にもなっていないような返事だったが、一色はとくに気にした様子もなく、軽く頷いた。
一色は、ボトルを傾けてグラスにワインを注いでいく。澄み通った透明な液体が、トクトクと音を立てながらグラスを満たしていく。シュワシュワと小さな泡が浮き上がっているのが、きれいだった。ワイングラスではなくて普通のグラスコップなのが残念だが、そこは仕方がないだろう。
そのまま一色は、もう一つのグラスにも同じワインを注ぐ。
うーん……、一応、確認はしておいた方がいいよね。
「……お前も飲むの?」
「お祝いなので、この一杯だけお付き合いしたいと思って」
噛んで含めるように、ゆっくりと言う。
「大丈夫ですよ、ワイン一杯くらいは何ともないです」
その言い様からは、お酒を飲むのが初めてではないことが察せられた。
まあ、本人がそう言うのなら構わないだろう。俺は一色の保護者ではないし、一色も大学生なのだからお酒との付き合い方の知識はあるだろう。なにより……、一色が祝ってくれるということが、うれしかった。
俺が軽く頷いたのを見て、一色はグラスを片手に持つ。
そして、穏やかに微笑みながら言う。
「せんぱい、二十歳の誕生日おめでとうございます!」
二人だけの空間に、コツンっとグラスを重ねる音が響いた。