赤みがかった西日が倉敷市の街並みを照らす。
護堂はいたるところに裂傷・擦過傷を負いながらも、なんとか巨狼から逃げていた。
護堂は今、市街をななめに分断する国道のど真ん中を走っていた。
これだけ追い詰められても護堂が反撃に出ないのには理由があった。
護堂が倒したペルシアの軍神ウルスラグナは非常に複雑な属性を持つ神である。ウルスラグナは十の姿を持ち、そして相手に応じて次々とその姿を変えて勝利を掴み取った。
そのためか通常なら一つの力であるはずの権能だが、護堂が簒奪した権能は十に及ぶ多彩な力をもっていた。
しかしその有利を補うかのように、それぞれに嫌がらせのように高いハードルの使用条件があった。
銃弾と同じかそれ以上に速い攻撃を受けることといった
それゆえに護堂は好きに権能を使えるわけではない。また一度に発動できる権能は一つであるため、毎回の戦闘でそれぞれ条件に合う権能を使い分けていかなければならないのだ。
「そろそろ追い掛けるのにも飽いてきたな」
巨狼は、右前肢を持ち上げると路肩に停められていた車に載せ、器用に弾き飛ばした。途端、グシャッ! という轟音が一瞬なり響き、 押し潰された軽自動車が一直線に護堂めがけて降ってくる。
護堂は倒れるようにして地面に伏せてなんとか躱したが、 思わぬ攻撃に体勢が崩れてしまう。その隙を巨狼が見過ごすはずもなく、一息に護堂に迫ってくる。
ドカンッ、と後ろから爆発音が聞こえる中、護堂はずぶりとわき腹を抉られるのを感じた。なんとか体勢を起こし致命傷は避けたが、直撃からは逃れられなかった。
気力を振り絞り護堂はどうにかその場から後退する。肋骨が折られたのか、息を吸うと脳に痛みが送られてくる。
「その傷ではこれ以上逃げ回ることはできまい」
護堂は巨狼の問い掛けに応えることはしなかった。
わき腹にぽっかりと空いた孔からは、先ほどからどくどくと勢いよく血が溢れ出ている。人間より遥かに丈夫なカンピオーネの身体であっても、これ以上動き回るのはできそうにない。
圧倒的に追い込まれている状況。絶体絶命のピンチ。
ニィっと、護堂はいつのまにか自分の口角が上がっているのに気づいた。
やはり真剣勝負は面白い。どちらが勝つのか分からないスリル、そして自分の全力をぶつける快感。久しく味わっていなかった
さて、どうやってコイツに勝とうか。
歯を剥き出しにした獰猛な笑みが浮かんでくる。
追い詰められたことで、かえって護堂は多くの権能を使えるようになっている。
中でも最大の威力を持つのは『猪』『白馬』そして『
『白馬』と『山羊』はまだ条件を満たしていない。けれど、『猪』なら……。
「さて汝は契約を破り、世に悪をもたらした。主は仰せられる――咎人には裁きをくだせ。背を砕き、骨、髪、脳髄を抉り出し、血と泥と共に踏み潰せと。我は鋭く近寄り難き者なれば、主の仰せにより汝に破滅を与えよう」
護堂の足元から巨大な黒い塊が突如現れた。その塊は次第に形を成し、車道を覆い尽くすほど重厚な体躯の“猪”の姿をかたどっていく。
ウルスラグナ第五の化身は《猪》である。護堂の持つ《猪》の権能は巨大なモノを《猪》への供物として標的にすることで使用可能になる。今回護堂が標的に選んだのは当然巨狼である。
《猪》は膨らんだ筋肉と鋭く反り返った牙を見せびらかし、巨狼を威嚇するかのように低い唸り声を上げる。
現れたその体躯は、巨狼をもやや上回るほどであった。
―ブオオオオオオオッッッ!
車道のど真ん中に居座る護堂たちを遠くから取り囲むように、この辺りに住む人だろうか、服装も年齢もバラバラな市民たちが徐々に集まってくる。果てには護堂たちのバトルにより渋滞させられていたドライバーたちまでもが車を降りて、こちらにケータイのカメラを向ける。頻繁にたかれるフラッシュで、現場はまるで記者会見場のようである。
「ふむ、こんな獣ごときで我を倒せるとでも思ったか?」
巨狼は自身を取り囲む観衆のことなど微塵も気にしていない様子である。
神にとって人とは路傍の石ころと変わらない、ただの風景の一つにすぎないのだ。
―ブオオオオオオオッッッ!
《猪》の咆哮に呼応するように空には暗雲が立ち込め、大地は揺れる。
「獣風情が! 思い上がるな!」
二体の怪獣は互いに威嚇し合い、直後に激突する。巨大な質量同士の衝突は、とてつもない衝撃波を生み、辺りにあったガードレールがねじ曲がり、グラグラと揺れていた電線はそのまま千切れてしまった 。
とてつもない光景に目を剥く観衆の前で、巨狼は暴れまわる猪を両腕の鉤爪で抑えつけ、抵抗できないように横に倒す。
どうにか体勢を起こそうともがく『猪』をものともせず、ぎらりと輝く太い牙が、周りに見せつけるかのごとく、ゆっくりと『猪』の首筋に突き立てられていく。
唐突に護堂は思い出した。確か昔祖父と共に奥多摩にフィールドワークに赴いたときに、日本にはかつて狼信仰があったと聞いた覚えがある。
西洋と違い家畜文化の薄い日本において、狼は鹿や猪を食べ、獣害から農作物を守ってくれる存在であった。そのため、古来より日本では狼は信仰の対象であったと。
もしかしたらこの巨狼も『まつろわぬ神』となる前、かつてはこうして猪から人々を守ってきたのかもしれない。
初めのうちは五月蠅いほどの悲鳴を上げていた『猪』だったが、巨狼の牙が首の半ばほどまえ埋まる頃には、ただ小さく手足をばたつかせるのみだった。
ずぶりずぶり、という肉を抉る嫌な音が、静寂に静まり返った辺り一帯に響き渡る。
巨狼に横倒しにされた猪は、喉笛をかみ砕かれて消えていった。
術の効果が切れたのだろうか、猪を倒すと同時に巨狼の体躯が元の大きさへと戻っていく。
限界を越えた酷使に痛みを訴えてくる身体を、脳から放出されるドーパミンでなんとかごまかす。
いつの間にかシャッター音は鳴り止んでいた。ギャラリーは護堂と巨狼の戦いを固唾を呑んで見守っている。
護堂は段々と周囲の人々の抱いている感情が分かるようになっていた。
不安、恐怖そして畏怖。それぞれが混ざった感情が護堂に流れ込んでくる。
護堂は《山羊》の権能が使えるようになりつつあるのを感じた。
周りにいる群衆の無意識に働きかけ、心を揺さぶる。
お前らに恐怖を与えているのはこの巨大な狼の怪獣だ。
この神様はお前らのことなんて微塵も考えちゃいないぞ。このままここでコイツが暴れつづければ、お前らだって巻き込まれるかもしれない。
俺にお前らの力を分けろ! そうすりゃ俺がコイツにお前らの力をぶつけてやる。
護堂の元に集まってきた不安や恐怖心を束ねていく。
原始宗教において角とは
“不幸”や“苦難” に晒され心を乱した民衆を導くのが権威を持った者の役目であった。
そう。《山羊》の権能の発動条件は、民衆の乱れる心を束ねて相手へぶつけることなのだ。
護堂の元へ無限とも思えるほどの力が集まってくる。
「義なる者たちの守護者を、我は招き奉る。義なる者たちの守護者を、我は讃え、願い奉る」
護堂の口から自然とウルスラグナの聖句が溢れ出す。
「天を支え、大地を広げる者よ。勝利を与え、恩寵を与える者たちよ。義なる我に、正しい路と光明を示し給え!」
いつのまにか空は黒々とした分厚い雲で満たされ、そこを眩いほどの量の雷が生き物のようにうねっている。急な低気圧のせいか、道路脇の街路樹が一様にざわざわと揺れる。
雷の轟音。天から稲光が次々と降ってくる。
「なんたる呪力! それがおぬしの切り札か!」
まっすぐに巨狼に向かっていたはずの雷はしかし、ひとつも当たることはなかった。護堂が雷を放つ直前に器用に身体を翻して躱したのだ。
「いくら威力が高かろうが、当たらなければどうということはない!」
高らかに哄笑しながら、巨狼はサ、サッと雷撃を躱していく。
巨体な分、的は大きいはずなのだが先ほどから掠る程度にしか当たらない。まるで護堂がどこに当てようとしているか分かっているようだ。
(このまま戦っていてもジリ貧になるだけか……)
いいかげん血を失い過ぎて立っているのがやっとだ。ならば、次の一撃に勝負を賭けるのも悪くないかもしれない。
あいつはさっきから攻撃を受けるのを異様なほどに避けてる。勝機があるとすればそこにしかない。護堂の体力が尽きる前に、何としても勝ち切るのだ。
護堂は『山羊』の権能の出力を全開にした。
全集中力を振り絞り、ひたすらに周囲から力をかき集める。生命力を吸われ過ぎたのだろうか、バタバタと誰かが倒れる音がするが、ごめん、と護堂は内心謝りながら意識的に無視する。
護堂の眼前で、空から招いた稲妻の束が炸裂の瞬間に備え、火花を放っている。
大地に落ちるはずの雷が空中にとどまり、とぐろを巻いている。
一つ一つが人ならば即死の電撃を、一つに束ねていく。
最終的に護堂の前には巨狼を二回りほども超える大きさの雷が集まっていた。
「貴様、正気か! それだけの大きさでは貴様も巻き込まれるであろう!」
「安心してくれ。こう見えてもオレの体は大分しぶといんだ」
巨狼が後ずさりし、跳躍する寸前、護堂は限界まで膨らんだ雷撃を解き放った。
盛大に空気を鳴らしながら、眩い雷が瞬時に迫る。
巨狼も呪力を振り絞っているようだが、さすがにこれだけ大きな雷撃を逸らすことはできない。
ボガァァン‼ という鼓膜を破りそうなほどの轟音を、護堂は遠くなる意識のなか聞いた。
同時に衝撃。そして焼け焦げた臭い。
護堂の放った極大の雷は、巨狼の全身を包み込み、その身体を一瞬にして黒炭にした。
回避不可能の極大の雷撃を食らった巨狼は、ゆっくりと地に斃れ伏した。