000
たとえ水色でもそれを空色だと思うのなら、
きっとそれは空色なのだろう。
001
臨時休校、三日目。
先日シロコが入院した病院と同じ病院に、ノノミは転送されていた。というか、つい先日までシロコが寝ていたベッドの上に、ノノミはいた。
驚くことに、シロコは既に立って歩ける程度に──歩くどころか、嬉しそうに飛び跳ねているが──ともかく、そのレベルまで回復していた。
ノノミに関しては、あくまでも検査入院という形である。頭部を強打している以上、未だ表出していない何らかの異常が出てくるかもしれない。いやまあ、キヴォトスの生徒たちは頑丈なので、そこまで心配は必要ないのだが。
故に、
曰く「この前から先輩なのに後手後手に回っちゃってるから、おせっかいくらい焼かせてほしいな」ということらしい。
ちなみについ先ほど、ノノミはシロコに
分かりやすく表現するのならば、つまり、シロコは入院していた時にノノミから受けた辱め──お世話の数々をやり返していた。
おかげでノノミの表皮には一つの汚れもない。ノノミの顔は未だにやや朱を帯びていた。
「それにしても、まさか私まで怪奇現象に巻き込まれてしまうとは思っていませんでした……」
「ん。正直なことを言うと、私もそんなに早く巻き込まれるとは思ってなかった──それから、
「私は命の危険もそこまで早く訪れたわけではないし、まだ平気だったんですけど……もし私がシロコちゃんの方の空間に閉じ込められてたら、多分今頃は──」
ノノミの思考は、未だに例の怪奇現象に囚われていた。(おそらく)死にかけたのだから、まあ無理もない。
が、せっかく助かったというのに、ノノミが浮かない顔をしているのが、どうにもシロコは気に入らなかった。なので、努めて明るく言葉を発した。
「悪いことばっかり考えちゃ駄目だよ、ノノミ。どうにかして臨時休校期間に、みんなで遊びに行かなくちゃいけないんだから、落ち込むのはやめて前を向くべき」
「……あれ、みんなで遊びにいく約束、もうしてたんですか? てっきりまだ約束してないのかと」
「ん? いや、まだしてないよ。誘ったのもノノミが最初。でもまあ、アヤネたちは今日みんなで買い出しに行ってるらしいけど」
「えっと、シロコちゃん、もう少し計画的に……いや、やっぱりそっちの方が……」
……いまいち会話が噛み合っていないような気もするが、しかし本人たちの間では通じているのだから、恐らくはこれで問題ないのだろう。
何はともあれ、ノノミもシロコも、みんなでどこに遊びにいくのかだけを考え始めた。
と、そんな風に、いかにも楽しそうなことを考えていたというのに、シロコはそこでとあることに気づいてしまう。
そうなってしまえばもう、シロコも意識を怪奇現象の方に向けるしかなかった。
「そういえば、ノノミ。閉じ込められた空間は『無限階段』だったって言ってたけど、なんだか
「シロコちゃんのって、つまり、『蜃気楼』のことですか? 確かに、
「ん。あと、実はもう一つ思ったことがあったんだけど……」
「もう一つ、ですか?」
「うん……あのさ、私たちが巻き込まれた怪奇現象──
「……学習、ですか?」
学習。学んで習う。
いや、語意は今はどうでもいい、というかなんだっていい。現在問題にするべきは、薄っぺらな表面のことよりも、もっと本質的なことだ。
つまりこの場合、シロコが言い放った学習する怪奇現象という存在について、ノノミは考えなければならない。こういう時は、順序立てて考えるのが、物事の道理というものだろう。
まず初めに考えるべきは、
一つ目。「続けばいいのに」と考えてはいけない。
二つ目。考えた時点で怪奇現象に取り込まれる。
三つ目。脱出方法が必ず一つは存在する。
四つ目。脱出できなかった場合、恐らく死に至る。
「……多分この四つと、空間内に存在する何かが無限に伸びているという点は、間違いないですよね?」
「うん。私なんて暑くて干からび──あんまりこういう言い方はよくないか。熱射病で危うく死んじゃう所だったし」
「私は多分、あの階段を四十九回登ってたら……
「本当、巻き込まれたのがアヤネとセリカじゃなくて、私たちでよかった」
「そうですね……かわいい後輩たちには、やっぱり変なことには巻き込まれてほしくはないですから☆」
ノノミは笑顔でそう語ったが、あながち的を外しているというわけでもなかった。実際シロコもノノミも、自分たちと後輩の命を天秤にかけるとなると、ギリギリ後輩たちの方が大切だし、そもそもそんな状況にならないよう努力を重ねるつもりではある。
第一、仮にそんな状況になったとしたら、自分たち二人よりも先に、いち早く命を投げ出してしまいそうな人が一人いるので、そんな状況は本気で阻止するつもりだ。
「それで、シロコちゃん。『学習』というのは、具体的にどういった学習ですか? パッと考えただけでは、シロコちゃんと私の件では場所が違うだとか、脱出方法が違うだとか、そういうことくらいしか──」
「ん、
「──
そこでノノミは、ようやくシロコが何を言いたいのか、何を言わんとしているのかを理解した。
ベッドに横たわったまま、ノノミは傍らの鉄パイプに腰掛けているシロコと目を合わせ、真剣な顔をしたまま口を開いた。
「つまり、シロコちゃん。
「そう。私の時は
「
「しかも、どう考えても
「ああ、いえ……正直
やや耳が下がり始めていたシロコは、ノノミのその言葉を聞いてやや持ち直したらしく、再び普段通りの様子に戻っていた。
基本的に危ない言動が目立ちがちなシロコではあるが、彼女とて普通の女子高生である。故に、自分のせいでノノミを危険に晒した(と本人は考えている)ことに対して、責任を感じずにはいられなかったらしい。
少しばかり物騒がすぎるものの、しかしこれもまた、一つの青春の形であると言えるだろう。
それはそれとして。
二人はここで、怪奇現象には巻き込まれていない残りの三人に、例の空間について考察した結果を共有することに決めた。
その行動自体が、もしかすると怪奇現象の狙いなのかもしれないが……それを考慮して情報共有を疎かにするのは、これまた何か違う。
少なくともシロコとノノミは、後輩と先輩が巻き込まれでもした時に、取れる選択肢をちょっとだけでもいいから広げてあげたいと、そう思っているだけなのだ。
特に、可愛い後輩である
「──……これでよし、と。ひとまずアヤネちゃんとセリカちゃんには、私から共有しておきました。ホシノ先輩の方はどうですか?」
「ん、問題なし。2秒で既読付いたよ。しかも『りょうかい〜』って送られてきてるから、ちゃんと読んでる」
「あっ、こっちもセリカちゃんは既読が付きましたね。それに『分かった! 気を付けておく!』って帰ってきました。ただ……」
「ただ? どうしたの、何かあった?」
「ああ、いえ。何かあったというか、
「……もしかして、既読付かないの? 珍しいね、セリカとホシノ先輩も一緒にいるから、見なくてもいいと思ったとか……?」
ノノミがシロコに見せつけたモモトークのトーク画面上では、確かにアヤネからの既読は付いていなかった。まあこの程度なら、普段であればよくあることではある。
が、しかし。どうにも病室の二人組は、そこに生じた違和感を拭いきれずにいた。
「いや、いやいやいや……ちょっと待ってください、
「いや、ないと思う。なんか気になるし、ちょっとアヤネに電話かけてみる?」
「……いえ、ここはあえてセリカちゃんにかけてみませんか? だって、あの二人が一緒に買い物に行っているなら」
「──ああ、なるほど、確かにそうだね。多分ずっと一緒に行動してると思うから、もしセリカの隣にアヤネがいなければ、
知らず知らずのうちに、部屋の温度が上がっているような気がする。なんだか体が内側から温まっている感覚が湧いてくる──シロコとノノミは、固唾を飲みながら、セリカに電話をかけ、通話をスピーカーモードへと切り替えた。
コール音が病室に鳴り響き始めてから、たっぷり5秒ほど経った後。予想よりも遥かに早く、セリカは通話に応答した。
「もしもし? セリカちゃん、今ってちょっとお時間いただいても大丈夫ですか?」
「もしもし、どうしたのノノミ先輩? もしかしてさっきのメッセージについてまだ何かあったの?」
「セリカ、ちょっといい? 少し気になることがあって」
「……あれ、シロコ先輩もそっちにいたのね……っていうか、ノノミ先輩と同じところに入院中なんだから当たり前か」
「うん。まあこっちの事情は置いておいて、セリカに一つ質問があるんだけど──隣にアヤネ、いる?」
「えっ、アヤネちゃん? アヤネちゃんなら──」
電話口の先でセリカが紡ぐであろう次の言葉に、シロコとノノミの二人はかじりつかんばかりの様相で聞き入った。
永遠のように感じ取れる体感時間を通り過ぎ、ついに待望した二の句が二人の鼓膜を揺らす。
002
「──私の隣にいるけど……それがどうしたの?」
「……そうですか! それなら大丈夫です☆」
「あー、うん……? まあ先輩たちがいいならいいんだけど……とにかく、一人にならないように気を付ければいいんだよね?」
「ん。私たちみたいに巻き込まれたくなければ、できるだけ一人にはならない方がいいよ」
「もう、分かってるってば! それじゃあ、私はアヤネちゃんと二人で買い出しを続けるから、二人ともお大事に!」
その言葉を聞いて、音が鼓膜を揺らして、情報が脳に伝達されて……そこでようやく、病室の二人組は安堵のため息をついた。
なんだかどっと疲れが溜まったような気がする……が、しかし、これで安心だろう。二人はとりあえず、セリカにお礼を言って電話を切ることにした──
「さて、それじゃあもう一回電話をかけましょう☆」
「ん、そうしよう。もし本当にアヤネが隣にいたなら、既読を付けてないことに対して、セリカの携帯を借りるなりして
「まず間違いなく、私たち──私たちの携帯は
「あ、そうだ。一応なんだけど、アヤネにも電話かけてみていい? もしかしたら、普通に繋がるかもしれないし」
「はい、お願いします! それじゃあその間に、私はもう一度セリカちゃんに電話を……!」
せっかく二人もいるのだから、わざわざ一つの作業をする道理もないだろう。そんな考えのもと、シロコとノノミはそれぞれアヤネとセリカに通話をかけ始める。
結果から言うと、大方の予想通り、シロコがかけた通話はアヤネには繋がらなかった。しかしどうやら、今までのように
一方ノノミの方はというと、今度こそ本物の回線を通じて通話をかけることができたらしい。
「それじゃあ、まだアヤネは怪奇現象に巻き込まれたわけじゃない──いや、それとも、今回の怪奇現象は空間を分断しないものになっている……?」
「……あっ、セリカちゃん? 今近くにアヤネちゃんとホシノ先輩っていますか?」
「えっ? うん、いるけど……いきなりどうしたの?」
「……えっ、いるんですか?」
「うん、だからいるってば。ホシノ先輩も一緒にいるけど、アヤネちゃんに何か用事でもあるの?」
いや、どう考えても
だって、アヤネがセリカたちと一緒に行動しているなら、
それならきっと、恐らくは。
「……それじゃあ、セリカちゃん。アヤネちゃんに『メッセージに既読を付けてほしい』と伝えてくれませんか? できればちゃんと読んだかどうかも確認してください」
「既読を? なんでそんなこと──ちょっと待って、ノノミ先輩。まさか、
「はい、恐らくは。なのでそれを確認するためにも、既読を付けるように言ってもらいたいんです」
ノノミがそう言うと、電話口の向こうでやや騒がしい音が聞こえた。少し遠いところからセリカとアヤネ、それからホシノの声が聞こえる。
耳を澄ませてよく聞くと、どうやらアヤネが何かを有耶無耶にして拒否しているらしかった。ここまでの流れから鑑みるに、恐らく既読を付けることを渋っているのだろう。理由は不明だが、しかしこれはもう、
すぐさまノノミはシロコに目配せし、直後シロコは現場にいるであろうホシノへと電話をかけた。
「もしもし、シロコちゃん。どうしたの〜、おじさんに何か用かな〜?」
「ホシノ先輩。やっちゃって大丈夫」
「……根拠は?」
「根拠? そんなの、一つしかない」
ホシノの質問に対し、シロコは大きく息を吸って、わざとらしく、大仰に、大袈裟に、大きな自信をもって、こう返した。
「普段のアヤネへの信頼」
「それなら十分すぎるね」
直後。
携帯電話のスピーカーから、音が割れた破裂音と、セリカの悲鳴が響いてきた。どうやらホシノは無事に、アヤネに似た何者か──アヤネに似た怪奇現象を
まあセリカからすれば、突如として中学時代からずっと仲良しの親友を、敬愛する先輩がショットガンでぶちのめしたということになるわけだから、その驚きもむべなるかな、という感じではある。
「ちょっ、ちょっとホシノ先輩何やってんの!? いくらお昼寝の時間が減ってストレスが溜まってるからって、こんなこと──って、何これ……砂?」
「うん、おじさんたちがアヤネちゃんだと思ってたのは、どうやら砂で出来た人形だったみたいだね〜。いやあ、参っちゃうね、ほんと」
「はあ!? また怪奇現象!? 最近なんなのよ、せっかくのお休みなのに!! ねえ、ホシノせん、ぱぃ……も……?」
電話の向こうから、何かが崩れ落ちるような音がした。恐らくは、アヤネを模した砂の人形が形状を保てなくなって倒壊したのだろう。
なんとも恐ろしいことに、いつの間にかアヤネと砂の人形が入れ替わっていたらしく、シロコ、ノノミ、セリカの三人は驚愕しっぱなしだった。
だが、
アヤネの命が危ないかもしれないことが? 確かにそれも恐ろしいが、しかしアヤネのことは絶対に助けると決めている。そこにあるのは恐れではなくて決意でしかない。
それでは、三人は何を最も恐れるのか。どこまでも終わらない灼熱の蜃気楼? 無限に続く行き場の無い階段? いやいや、まさかそんな。
「……えっと、ホシノ先輩? どうかしましたか……?」
「……この怪奇現象さあ。なんだかこの前から、おじさんのかわいい後輩ばっかり狙ってるみたいじゃん? これで、三回目だったっけ?」
「ホ、ホシノ先輩。まだそうと決まったわけじゃないし、一旦落ち着いて──」
「シロコちゃんに、ノノミちゃん、そして今度はアヤネちゃん。随分とまあ、好き勝手やってるみたいだよね。ははあ、いやいや参った、参ったね、ほんっと、本当にさ──」
対策委員会の面々が最も恐れていること。
そんなこと、わざわざ説明するまでもない。
だがしかし、敢えて語るのならば、それは──
「舐めやがって」
小鳥遊ホシノを、
003
ホシノが怒り心頭に発していた時点から遡ること三十分。
渦中のアヤネは何をしていたかと言うと、アビドス高校のインフラ整備を行なっていた。
どうしてそんなことをしているのかというと、答えは単純に、放っておくと水が出なくなったりするからである。臨時休校だろうがなんだろうが、これは誰かがやらなければやらなければならないのだ。
そしてその
というのも、アヤネ自身には
シロコとホシノは指名手配犯を捕まえる時の主戦力だ。ノノミは備品の買い出し等で若干の身銭を切ってくれることもあるし、セリカも一年生ながら会計の業務に力を入れている。
しかし、自分はどうだろうか? 対策委員会に貢献できているか? そんな風に考えている部分があることには間違いなかった。
恐らくはアヤネのそういうところを見抜いた上で、ホシノはインフラ整備を
実際のところホシノとアヤネであれば、アヤネの方が断然器用な上、作業スピードも速いため、譲っているというよりももっとシンプルに
当のアヤネ本人がそれに気付いていないようでは、そんな事実に意味など無いも同然であろう。
「ふうっ……ひとまずは、こんな感じでいいかな」
現在アヤネは、アビドス高校のプールを整備していた。せっかくの臨時休校なのだし、普段は時間がなくて手が回らないところまで直してやろう、という魂胆である。
シロコもノノミも、あと二日もすれば復帰できるはずだ。復帰した時のお祝いとして、みんなで水着を身に纏って、プールに飛び込みでもしたら最高の思い出になるだろう──そんなことも、実は考えていたりする。
「……そういえば私、どうして高校にいるんだっけ?」
体調が悪いわけでもないのに、何故かぼんやりして思考がまとまらない。思えば三日間も休んだことなんてなかったし、そのせいだろうか。
いやしかし、それにしたって、
「あっ、そうだ。せっかくの機会だし、雨雲号の整備もしておこうかな」
アヤネの脳裏に浮かんだのは、ボロボロになったヘリコプター──なんとかまだ動かせることは確認できている──今度使うとなった時に、整備を怠ったせいで墜落したとなれば、悔やんでも悔やみきれない。まあ墜落程度で死んだりはしないのだが、痛いのは嫌だ。
そういったわけで、アヤネはお試しでプールに水を張るまでの間、雨雲号の整備をすることに決めた。
「新しくヘリを買う余裕もないし……できれば長持ちしてほしいなあ」
ちらとプールの方を見ると、25mプールの空洞部分にしっかりと水が張られているのが見えた。今から飛び込むのが楽しみだ。
そんなことを考えているうちに、アヤネは校舎の中庭に放置している雨雲号の元へと辿り着いた。無骨な黒々とした機体に入っているワンポイントの青が、先ほどのプールを満たす水の色と重なって見えた。
「……? あれ、雨雲号って
当たり前のことを何故か疑問に感じつつも、アヤネは雨雲号の整備を開始した。頭がぼんやりとしているから、整備が終わるのには普段に比べて少し時間がかかりそうだ──
と、整備を開始してしばらく経ったその時。どこか遠い場所で、着信音のようなものが聞こえた。音がこもっているように聞こえるため、具体的にどんな音なのかと問われると、自信を持って答えることはできないが、しかしアヤネは、その音に
「あれ、この音って──私の着信音?」
遠くから聞こえるその音は、何を隠そうアヤネが持っている携帯電話の着信音だった。のだが、しかし、
アヤネはポケットから携帯電話を取り出し、通知を確認してみることにした。すると、やはり取り出す前から予想していた通り、そこに通知は一件も届いていなかった。
となれば、つまり。遠くから聞こえてきている着信音は、十中八九
「……どう考えても、この音に釣られて移動したところを、例の怪奇現象は狙ってるよね……というか、
シロコから聞いた蜃気楼の例では、あくまでも
ノノミから聞いた無限階段の例では、多少複雑な手順を踏んでいるようには思えるものの、しかし実情はシンプルな無限──というか、ループでしかなかった。これもまた閉じ込められた原因は、どちらかといえばノノミの方にある。
が、しかし。それを踏まえて考えてみると、今回の自分の例はどうだろう。恐らくは既に怪奇現象に目を付けられているのだろうが、何というか、やり口が
どうせ罠にかけるのなら、もう少し早めに──それこそ学校に来る途中とか、雨雲号の修理が終わって気が緩んでいるところを狙うとか、そういうタイミングの方が良いのではないか。というかアヤネが件の怪奇現象だったとしたら、ほぼ間違いなくそうする。
だって、そうだろう。わざわざ
「……えっと、確か『続けばいいのに』と思っちゃいけないんだったよね。シロコ先輩とノノミ先輩のおかげで、なんとか巻き込まれずに済みそう……本当に、今度お礼を言わないと」
遠くから鳴り響き続ける偽の着信音に対しては完全に無視を決め込み、アヤネは雨雲号の整備を続けた。そうして何十分か経ったところで、ようやく嘘の着信音は聞こえなくなった。
それとほとんど同時に、雨雲号の整備も完了したようで、アヤネは額から滴るひとすじの汗をハンカチで拭った。
が、しかし。現在の時刻がちょうどお昼頃であるということも相まってか、アヤネはひとすじどころか、寧ろ滝のような汗を書いている有様だったので、ハンカチ一枚程度では到底歯が立つはずもなかった。
「……顔、洗おうかな」
顔に髪の毛がペタペタと貼り付いて若干の鬱陶しさを覚えたアヤネは、どうやら近場の水道まで移動して顔を洗うことにした。
直射にさらされ熱された蛇口をひねると、それに呼応して水が飛び出してきた。水道管も同様に熱されていたためか、出てくる水はまだ熱い。ただ、水道管はこの前修理したばかりなので、濁っていたり錆が混じっているようなことはなかった。
指先で何度か流水に触れる動きを繰り返していると、その内水温が明確に下がったという手応えを感じられた。ちょうどいい具合に冷えているため、この水で顔を洗えば爽快だろう。
アヤネは手をお椀のような形にして構え、しっかりと冷えた水が一杯に溜まったことを確認してから、そこに自らの顔面を沈めた──
瞬間。
アヤネは
004
視界一面の水色。
どこまでも澄み渡る、青い世界。
気付けばアヤネは、水の中にいた。
「ッ!? ゔっ、ごぼっ」
あまりに突発的すぎる怪奇現象の襲撃。周囲を見渡すとどうやら完全に水中の空間に組み込まれてしまったらしい。アヤネは急速すぎる
驚いたせいで少しだけ水を飲み込んでしまったが、しかしアヤネはすぐさま冷静さを取り戻し、怪奇現象に対する考察を瞬時に開始した。
(なるほどっ、ようやくちょっとだけ掴めた……多分、この怪奇現象には
アヤネが生命の危機の最中に弾き出した解答は、
つまるところは、こういう考えだ。
シロコの例では、怪奇現象はまず初めに存在しない道路を
ノノミの例でも同様に──というか、むしろこちらの方が構造としてはシンプルだ。聞いた話によればノノミは怪奇現象に巻き込まれる直前に「こんな穏やかな時間がずっと続けばいいのに」と考えていたらしい。シロコの例に倣うのであれば、やはりこちらも
そして恐らく、ここまでで第一段階だ。この時点では、まだ命に別状はない。
第二段階の空間には、怪奇現象に巻き込まれた後に、違和感に気付いてから「無限に続くのではないか」と考えてしまうことで移動してしまう──組み込まれてしまうのだろう。
こうなると砂漠の灼熱然り、明らかに不吉なカウント然り命の危険が発生するため、何が何でも第二段階に移動するわけにはいかないというのが、アヤネが瞬時に組み立てた仮説だった。
それから他にもアヤネはこの土壇場、というか火事場(水場なのだが)で気付いたことがある。それは、恐らくこの怪奇現象は何らかの手段で標的を呼び寄せているということだ。
そうでなければ、アビドスの生徒が三人連続で怪奇現象に巻き込まれることの理由についての説明が付かない。あくまでも推測の域は出ないものの、そうでなければおかしい。
理屈は全てに優先されるべきだ。
(シロコ先輩は
不意に水を飲み込んでしまって苦しいだろうに、アヤネはものの数秒でその結論に辿り着いた。実際には辿り着いたというよりかは、あくまでも
ともかく、そうと決まればアヤネがやるべきことはかなり絞られる。この場合であれば「ずっと続くのではないか」と考えないことと、怪奇現象が第一段階であるうちに脱出することだろう。
続けざまにアヤネは、この無限に続いている(ように見せかけられている)水中空間から脱出する方法を考え始めた。
(仮定通りにこの怪奇現象自体が成長していたとすると、シロコ先輩が言っていたように上に逃げるのも、ノノミ先輩みたいに後ろを向いても
と、ここでアヤネは、先輩二人が巻き込まれた
だが奇跡というものは、押し並べてそれまでの積み重ねがあるからこそ生まれるものだ。この場合は、アヤネ以前に怪奇現象に巻き込まれた二人──シロコとノノミがいたからこそ、シロコとノノミが命懸けで情報を持ち帰って来てくれたからこそ、奇跡のような結論に到達することができたのだろう。
(……そういえば、シロコ先輩の時もノノミ先輩の時も、怪奇現象に巻き込まれる前後で
ということは。
今現在、自分は本当なら
そして水に顔を突っ込んだ瞬間に水中へと引き摺り込まれたという事実、恐らくこの怪奇現象の第一段階は幻覚を主体としているという推測も合わせて考えれば、この空間からの脱出方法も自ずと導き出すことができそうだ。
そしてアヤネは
(……シロコ先輩は、
そう考えた次の瞬間。
アヤネは全力で息を吐き出し始めた。
一応説明だけはしておくが、別にアヤネは、突然気が狂って肺の中の酸素を吐き出し始めたとか、怪奇現象によって洗脳されて自殺しようとしているとか、そういうわけではない。100%正気の上で、到底正気の沙汰とは思えない行動に打って出ているだけだ。
アヤネはただただ、生き延びるために──生き延びて対策委員会のみんなに会いに行くために、一世一代の大博打に打って出ただけなのだ。
(今やるべきなのは、
つまりアヤネは、現在自分が置かれている状況を「手に溜めた水に溺れていると
先輩たちの前例から考えるに、この怪奇現象で最も重視されているのは
裏を返せば。
しかしそうは思っていても、吐き出した息だけで手のひらに溜まった水を全て吹き飛ばすというのは、中々に至難の技である。認識がどうこうではなく、シンプルな事実として、これは自明である。
それとは別に、もしこの仮説が間違っていた場合、アヤネはこの場で貴重な肺の中の空気を全て使い切り、溺死する危険性すらあった──まあ、そんなことはアヤネだって分かっている。ただ、そう認識すると本当にそうなってしまう可能性があったので、アヤネは意識的にその思考を脳の奥へと封じ込めて擬似的に封印した。
というかぶっちゃけた話をするならば、そんなことを考えている暇はない。手一杯に溜まった水からどうやって生還するかを考えるだけで手一杯なのだから。
(いつまで続──違う! 息! 吐け! もっと!! 色々なことを考えて気を逸らすしかない……! 私がするべきは生きて帰ること! そして恐らく次に巻き込まれるであろうセリカちゃんかホシノ先輩のために、何としても情報を持ち帰ること!!)
この後残りの二人──つまりはセリカとホシノが、この臨時休校期間中に怪奇現象へと巻き込まれるであろうというのが、アヤネの推測だった。
実際のところどうなるのかは、正直まだ分からない。だがしかし、
少々悲観的かもしれないが、ここはあの魔境アビドスである。今まで数多くの不幸と苦境に直面してきたという事実は、アヤネの意識を疑心へと傾けるには、十分どころか十二分だろう。
(ぅっ……そろそろ! 明らかに水の量は減っている気が──減っている!!)
一瞬頬の辺りから水が離れた──ように感じた。錯覚かもしれないし、幻覚かもしれないが、問題は
ゴールが見えた。光明が差した。そう確信した瞬間にアヤネは、後先考えずに全力で肺の中の空気を押し出した。
(早く……もっと、もっと、早く……っ!)
全力で息を吐きすぎて、頭がくらくらする。目の奥がちかちかと明滅している。この調子では、おそらくあと十数秒で失神するだろう。
結局、何秒その状態を維持したかは分からない。三秒程度なのかもしれないし、案外三十秒程度なのかもしれない。具体的な秒数をこの状況で正確にカウントなどできるはずもなく、アヤネ以外にこの状況を観測している者が存在しない以上、その答えは誰にも分からない。
しかしこの状況でも──視界に光が広がり始めた今でもただ一つ、たった一つだけ、明確に
生還に必要なのは、ほんの少しの勇気だった。
005
視界一面の水色。
どこまでも澄み渡る、青い世界。
気付けばアヤネは、空の中にいた。
「…………え?」
まず初めにアヤネの口から出たのは、腑抜けた吐息のような音だった。
周囲を見渡すと、どうやら自分はヘリ──雨雲号のコックピットに座っているらしいということが把握できた。そして雨雲号が、なぜか雲の上を飛行していて、少しずつ上昇しているということも。
未だに頭はぼんやりとしていて、まるで水の中に囚われているかのように、ふわふわとした浮遊感が脳を占めている。果たしてこの感覚が錯覚なのか、それとも飛行していることが原因なのか、アヤネは図りあぐねていた。
「いや……どうして……!?
考えなかったはず? いいや、
考えていた。考えてしまっていた。これ以上ないくらいに、はっきりと。たがしかし、アヤネがそれに気付けなかったのも、実のところ無理はないのだ。
なぜなら、アヤネは「続けばいいのに」とは
修理したヘリが
その時点で、組み込まれることは確定していた。
「……まさか、
シロコの例でも、ノノミの例でも、怪奇現象の第二段階は積極的に命を刈り取りに来ていた。灼熱しかり、カウントダウンしかり。そして今回の怪奇現象(のテーマ)は、おそらく酸素だろう。
第一段階では、シンプルに水中での溺死、あるいはパニックによる窒息を狙っていたのだろう。そして第二段階ではどうなるのかなんて、もはや分かりきったことだった。
「このまま雨雲号が上昇し続けた場合、
早く降りなければ、多分死ぬ。だから急がなければ。アヤネはそう考えて、操縦レバーに手をかけようとし、そこで気付いた。
未だに頭はぼんやりとしていて、まるで水の中に囚われているかのように。
水の中に、囚われているかのように。
水の中に、囚われている。
空の色は、水色だった。
「──まさがっ、ごぼぉっ!?」
そう認識しなければ、苦しまずに済んだのだが。
(これはっ……水!? いや、だって、どう見ても空中にいるのに、なんで!?)
シロコが実際にはその場から移動していないにも関わらず、無限に続いている道を走っていると錯覚していたように。ノノミが実際には階段から落下して意識を手放していたにも関わらず、無限に階段の昇降を繰り返していたと錯覚していたように。
アヤネもまた、実際には水中にいたにも関わらず、空中にいると錯覚していたに過ぎないのだ。
しかしその錯覚も、認識のせいで彼方へと消え去ってしまった。ふわふわとした浮遊感の正体は、水中でぷかぷかと浮かんでいるせい──つまりは、浮力のせいだったらしい。
目に映る景色は空のものなのに、実際は水中にいる。そのギャップから生まれる混乱が、更にアヤネを焦らせた。
「んっ、が、あ゙────っっ!!」
完全に不意打ちを喰らったせいで、アヤネは既に大量の水を飲み込んでしまっていた。そして先ほどまではなんとか保てていた冷静さも、これによって失われていた。
いわゆるパニック状態──溺れているのだから当たり前といえば当たり前なのだが──アヤネらしくもなく、冷静さは完全に失われていた。
あまりの苦しさに、アヤネは必死にもがく。肺の中に酸素を取り入れるため、全力で生存に必要なそれを探し求める。目の前にあるはずのそれは、しかし錯覚だった。
取り込まれるのは、新たな水。運ばれる先は本来酸素があるべき部位、つまりは肺。絶対に侵入を許してはならないはずのそこに、我が物顔でそれは侵入していった。
直後にアヤネはむせて咳き込む──なんてことが、まさかできるはずもない。なぜならアヤネは、既に放出できる酸素などほとんど有してはいない。生存に必要な酸素も先ほど全力で吐き出してしまったため、既に残っていなかった。
思い切り咳き込むことができないため、肺と胃の中には水が溜まりっぱなしだ。この世のものとは思えない苦しみがアヤネを侵す。苦しい。早いところなんとかしなければ、空中で溺死してしまう。苦しい。目をひん剥いて、喉に手を当てて、打開策を探す。体が脊髄反射で勝手に喘いだ。酸素があるように見えるのに、そこにあるのは水。苦しい。早く酸素がほしい。肺と胃に水が入り込む。苦しい。血中の酸素濃度が下がっていくのは、もはや明らかだった。わずかな酸素が、苦しい。苦しい。気泡となって消えてゆくのが見える。必死で手を伸ばしたが、触れた瞬間弾けてしまった。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しいあーあ、こんなことになるくらいなら、死ぬ気でこらえて死にながら死んで死んで死んで気泡にキホウに触れなきゃよかった。
眠い。アヤネはそんなことを考えた。眠ってもいいかな。眠ったらどうにでもなるだろう。なるのだろうか? 分からない。何も分からない。上下も左右も前後も、そもそも自分がどこにいるのかさえ、うまく把握できていない。立っているのか。座っているのか。起きているのか。眠っているのか。受動的なのか。能動的なのか。自分なのか。他人なのか。肉体なのか。魂なのか。個体なのか。群体なのか。固体なのか。液体なのか。生命なのか。死骸なのか。全部どうでもよくて、一つ確かで、楽になる方法は、呼吸を諦めること。未来を手放すこと。ばたばたと羽虫のように手足を動かし続けるのにも、存在すらしていない酸素やらなにやらを求め続けるのにも、みっともなく中空を白々しい目付きで睨み付けるのにも、そろそろ疲れてきた頃合いだ。肺も胃も満たされているのだから、もういいだろう。求めていたものとは少し違うが、しかし完璧を求めるのもお門違いというか、不可能だろうという話で。そもそも可能と不可能の境はどこだろうという話になってしまいかねないだろうが、そもそもやろうと思えばやれるしやろうと思わなければやれないというのはこの世の摂理である。摂理やら真理やらは理とその名に恥じぬ役割を持っていてそれぞれの言葉がそれぞれの意味を有しているからこその言語活動であり、互いがそれを理解しているからこそ意味が発生し得るのであって、独りよがりに語り続けるだけならばそこに意味は発生しない。ひとりでだらだらと文字を垂れ流しているだけなのだからそこに意味など発生しなくとも構わないというのは、まあその通りである。あくまでも来たるべき苦痛から少しでも意識を遠ざけるために文字の羅列を適当に並べ立てているだけであり、そこに意味とかそういう類のものは一切必要ないのだ。アヤネが今求めているのは苦痛から逃れる方法で、目を開いていると空と雨雲号と気泡が目に入って辛いから目を閉じてこうして考え込んでいるというだけであり、苦しいものは苦しいのだがしかし少しでもそれ以外のことを考えられるのならばある程度その耐え難い苦痛にも耐えることができるのではないかというかわいらしい推察による行動の結果が現在である。具体的にどの程度効果が出ているのかとか、実際にこんなことをして苦痛から目を逸らすことができるのかとか、そういったことは今は問題にしていない。考えるべきは考えないことについてで、考えないのだからそこに意味はない。あるいは意義すらないのかもしれないが、もうここまできたらそういうのはどうでもよかった。死にたくはないが早く死にたい。苦しみたくはない。辛いのは嫌だ。だからそういうのは考えたくない。感情の発露というか、脳内の全てを使って考えないということを考えている。一種の、というか完全に矛盾を抱えている状態ではあるのだが、そもそも空中にいるのに水中にいるという状況自体が矛盾の塊なのだから、そこに組み込まれているアヤネが矛盾していても何らおかしなことはないだろう。おかしいのは世界の方で、自分で、他人で、全て。世界は矛盾。矛と盾。いいバランスじゃないか、とか思ったりする。案外世界ってそういうものなのかもしれない。釣り合いが取れていないといけなくて、幸せな分不幸になって、不幸な分幸せにならないといけないのかも。そういうのを人生万事塞翁が馬とか言ったりするらしいが、だったらアビドスに通っているみんなはそろそろありえないくらい幸福にならなければいけないのではないだろうか。どうして私たちばかりこんな目に遭い続けなければならないのか。そんなことを考えていたらまた死ぬよりも辛い苦しみが押し寄せてきた。胃が重い。空色の髪の人とやらは、見ているのなら助けてほしい。まあこんな水中にまで助けに来てくれるとは思えないのだが。まさか助ける義理があるわけでもなかろう。胃液を吐き出したいが、吐き出すことすらできなさそうだ。焦点が合わない。どこを見ているのかもいまいち不明瞭だ。ふわふわしていた頭がびりびりしてきた。脳の内側からぱちぱちと何かが弾けるような音がして、もしかするとこれは弾けてはいけないもので、そろそろ取り返しがつかなくなったりするのだろうか。すると肺の中で暴れ回る激流が鳴りを潜め、静かになり、訪れたのは静寂と、安寧と、そしてぱちぱち。視界で白く飛ぶ何かがきれいで、とっても静か。手足がぶるぶると痙攣すると同時に、訪れる虚脱。あるいは恍惚だろうか、ともかく離れた。気絶しかかっている時は星が飛ぶと、よくそう表現されるが、実際のところはぱちぱちと、ぶるぶるした感覚が来るらしい。少しだけ落胆しそうになったが、しかし得難い経験をした。どこを見ているのか分からない。上が下。ゆらりと揺れる身体、指先は勝手に動いて、別の生き物みたいだ。手足を合わせて四匹の蛇が、体を乗っ取って動かしている。アヤネは妙な感覚と共にそれを受け入れ、楽しそうにゆらゆらと揺れている。四匹の蛇に絡みつかれて、這いまわられて、海底に括り付けられて、沈む岩のような肢体がまるで死体かのようで、脳の裏側で、また一つ何かがぱちっと音を立てた。やりたいこともまだたくさんある。ここで眠るわけにはいかないのだけど、しかし一生分のエネルギーを使い果たしてしまったかのようにアヤネの体はぴくりともしない。白く光り続けている視界の端っこの方が黒い。体がぶるぶると震えて、また何かが抜け出して行ったかのような感覚。それが来るたびに、アヤネはなんだか良い気分になってしまって、動く気力なんかはすっかり奪い去られてしまう。さっきからそれが、ずっと来ている。ずっといい気分で、気味がよくて、気持ちがいい。口角が自然と少し持ち上がっている気がする。頭の裏側から、ぱちぱちとそれは送られてきている。どうやら白い光の正体はその心地よさらしく、もう死ぬまでこのまんまでいいや、みたいな、そんな、まるで今から死んじゃうみたいなことを──
「みんな、悲しむんじゃないかな?」
アヤネの目の前に現れたその空色の──水色の物体は、突然そう話した。途端にアヤネの体に襲いかかっていた正体不明の虚脱感の一切は、すっかり消えてしまった……というか、意識の外に追いやられてしまった。
今だって、浸ろうと思えば浸れる。だがしかし、アヤネはどうしてか、その物体の話が気になってしょうがなかった。
「……? えっと、あなたは……」
「このまま諦めちゃったらさ、きっと残されたみんなが悲しむよ。それでいいの?」
「いえ、それは、よくないんですけど……うん?」
アヤネはここで、とあることに気が付いた。なぜだか知らないが、
いやいや、それはおかしくないか? だってここは水中のはずで、声なんかは出せるはずもない。物理的にも概念的にも、これは間違いではないはずだ。
そんなことを考えているうちに、なんだか苦しくなってきた。アヤネは先ほどまでごぼごぼと篭った音を出すだけだった喉に手を当て、一度咳を──
「ダメ。触っちゃダメだよ、そのままその場で深呼吸して。はい、吸って?」
「──……でも、
「怖いのは分かるよ。だけど、必要なことだもん。大丈夫、安心して。だってここは水底なんかじゃなくて、
「…………すうっ」
「うん、上手。そのまましばらく止めてー……はい、一気に吐いて」
「ふ、ゔっ──!?」
指示通りに息を吸い込み、そして吐き出した瞬間。
アヤネは大量の水を吐き出した。おそらくは、胃の中にあるものも──そしてどうやら、肺の中のものも。大量に侵入していたと思っていたのだが、しかし肺の中のそれは、思いのほか微量だったようだ。
どうして肺の中の水が出てきたのか、理屈は分からないが、一つ確かなのは、今のアヤネはとても他人に見せられるような姿ではないということだ。
激しく咳き込むたびに、自分の中に入っていたとは思えない量の水が飛び出していくのが見えて、胃袋がひっくり返るような感じがして、控えめに言えばもう最悪だった。
「げほっ、げほ……もう、なんなんですかここ……! 溺れたかと思ったら空にいて、空かと思えばまた溺れて……」
「これで帰れるよ、よかったね」
「えっ? いや、えっと……その、帰れるのはとても嬉しいんですが……結局のところ、帰るための条件って何だったんですか?」
「帰るための条件かあ。まあいっか、話しちゃおう。本当はね、このヘリコプター……雨雲号、だっけ? この中では
「……そんなの、気付けるわけなくないですか?」
「というか普通はね、上に飛んで逃げるのも、後ろ向きに階段を降りて逃げるのも気付けるわけないんだよ」
空色の髪の人がそんなことを言った直後、アヤネは自分の体が水浸しになっていることに気付いた。もしやまた水没か? とも考えたが、しかし普通に呼吸できているため、そういうわけでもないようだった。
なぜか胸の辺りを強く圧迫されている感覚がする。はるか彼方から、誰かが必死に呼びかけてきている。雨雲号が降下を始めると同時に、アヤネの意識が急速に浮上する。
「そろそろだね。それじゃあ──」
「ちょっ、ちょっと待ってください! せめて最後に、どうして私が帰れるのかだけ教えてもらえませんか!? 私、条件満たしてないと思うんですけど……!」
「えっ? うーん、教えてあげてもいいんだけど……もう
「……それはまあ、はい。なんとなくは分かってますけど……」
「それなら、ほら。細かいことは気にせずに、あとは目を覚ますだけだよ」
「……その、何から何までお世話になりました。それから、助けていただいてありがとうございました!」
「いえいえ、どういたしまして。それじゃあ──」
雨雲号が雲を突き破り、急速に高度を落としていく。そんな中で、アヤネの言葉を聞いた空色の人は優しく微笑み、そして最後にこんな言葉を口にしたのを、アヤネは確かに耳にした。
「アヤネちゃんっ!! 聞こえる!?」
分厚い雲を抜けると、そこはプールサイドだった。
横を見ると、水がしっかりと張られたプールが見える。どうやらアヤネは、プールの水底に沈んでいたらしい。なるほど、それで水浸しになっていたのかと、色々と腑に落ちたような感覚になった。
こちらに語りかけてきている
「私のこと、分かる!? 私の名前!!」
「──ホ、シノ……せんぱ……」
「〰〰ッ! アヤネちゃんっ!!」
その名前を──愛すべき先輩の名前を呼んだ瞬間、ホシノはアヤネの体を抱きしめた。水底に沈んでいたせいで冷えたアヤネの体が、ホシノの体温で少しだけ温められる。しかし今のアヤネにとってそれは、心地よい陽光に等しかった。
しかしそんなに密着されると、アヤネだけではなくホシノの制服までもがびしょびしょの水浸しになってしまう。ゆえにアヤネは離れようとしたのだが、しかしホシノが離れるはずもなかった。
アヤネはホシノに抱きしめられて、名前を呼ばれ、更には頭を撫でられている。冷え切った身体がぽかぽかと温まっていくのを感じている。そして怪奇現象の空間──空中の水底から命からがら生還したことから、緊張の糸は完全に切れてしまっていた。
「……アヤネちゃん。病院にはおじさんが連れてってあげるから、眠たいならおじさんの背中で眠る?」
「……いいん、ですか……?」
「いーのいーの。かわいい後輩のアヤネちゃんを助けに来るのが遅れちゃったからさ……せめてそのくらいはさせてほしいんだ」
「そういう、ことなら……お願い……します……」
ホシノにおぶられて、背中越しにホシノの鼓動を感じたアヤネは、すっかり安心しきって眠りについた。
006
後日談というか、今回のオチ。
あのあとホシノによって病院に担ぎ込まれたアヤネは、すぐさま精密検査を行なわれた。溺れてしまったのだから、当然の措置ではある。
肺の中に入ってしまっていた水はしっかりと取り除かれ、水の中に含まれる病原菌などへの感染を防ぐために、洗浄やら何やらもしっかりと行なわれた。結果として、アヤネは五体満足で生還した。
だがしかし、やはりというか何というか、シロコとノノミの例に漏れず、アヤネも入院することになってしまった。ちなみにシロコ・ノノミと同じ病院である。医者からは怪訝な目を向けられたが、そんな顔をされても困る。
「本ッ当に、ご迷惑をおかけしました……!」
「いやいや、気にしなくていいよ〜。買い出しについてはおじさんとセリカちゃんで一通り済ませちゃったし、悪いのは怪奇現象だから気にしないで〜」
「……それもそうですね。気にしすぎるのもアレなので、あまり気にしないことにします……」
「人工呼吸までしちゃったから、アヤネちゃんには責任とってもらわないとな〜!」
「……その、セリカちゃんと一緒にアイドルやるのでそれで勘弁してください……」
「ほんと!? 二言はなしだからね!!」
「はい……うう……」
アヤネが涙目になりながらベッド脇のテーブルに目を向けると、山積みになったフルーツが見えた。一体アビドス廃校対策委員会はここ三日間でどれほどのフルーツを買ったのだろうか。
しかもなぜかメロンが多い。まあシロコもノノミも、セリカもホシノもそれぞれメロンを買ってきたせいで、病室は目にいい色で溢れかえっていた。正直言って置き場所に困るし、多分食べきれない。
ちなみに既に頑張って一つ食べたのだが、既に検査を終えて退院したノノミが、食べるたび新しいメロンを買ってくるせいでいつまで経ってもメロンが無くならない。流石にアヤネも断ろうとしたのだが、しかしノノミが本気で心配そうにしていて、しかも涙ぐんでいる姿まで見せられると、アヤネには受け取る以外の手段はなかった。
ちなみにアヤネはホシノやシロコ、そしてセリカと一緒に頑張って食べきるつもりらしい。アヤネは好意を無下にできるタイプの人間ではない。
「ところでホシノ先輩。みんなから聞いた話なんですけど、
「あ〜……それねえ。うんうん、本当だよ、本当本当。セリカちゃんもたくましくなったよね〜」
「えっと、ちなみに……どうしてですか?」
「いやさ、アヤネちゃんにそっくりの砂の人形が、アヤネちゃんに成りすましておじさんとセリカちゃんの買い出しに着いてきてた……って話はしたよね?」
「はい。本当なら私が行く予定だったんですけど……どうしてか学校に向かっていたみたいで……」
空中の水底に沈められたあの日、本当ならアヤネはホシノ・セリカの二人と買い出しに行く予定だったのだ。がしかし、気付けば高校にいたらしい。恐らくは怪奇現象に呼び寄せられたのだろう──というのは、事情を聞いた先生の言葉だった。
「まあともかくさ、怪奇現象がアヤネちゃんのフリをしてたって気付いて、おじさんちょっとカチンときちゃってさ〜? 怪奇現象を消しに行こうとしたんだけど」
「えっ、消しに行こうと……?」
「まあまあ、そこは置いておいて。とにかくさ……ほら、
「……でも、それは私のせいなんじゃ──」
「いいや、怪奇現象のせいだよ。アヤネちゃんは悪くない──だから、その辺は間違えないでね」
「……はい、分かりました」
アヤネがそう言うと、ホシノは真剣な表情から、普段通りのうへっとしたゆるい表情に早変わりした。それに合わせて、アヤネも深刻な表情はやめることにした。
「まあともかく、私がまた怒って暴走しそうになったのを見て、セリカちゃんが私の頭をぐーで殴って止めてくれたんだよ〜」
「ちょっと待ってくださいセリカちゃんがグーで行ったんですか?」
「ぐーで来たねえ」
「グーで行ったんですか!?」
「ぐーで来たねえ」
「グーで行ったんですか!!??」
「そこそんなに気になるかなあ!?」
中学からの付き合いであるアヤネからすれば、
「……まあ、とにかくそういうこと。おじさんは後輩がとってもたくましく成長してくれて、本当に涙が出そうだよお」
「いや、そんな──」
「ありがとうね、アヤネちゃん。生きててくれて」
「──……当たり前じゃないですか。まだまだ私、みんなと──ホシノ先輩とやりたいことがいっぱいあるんですから」
「…………うへ。雨漏りしてるねぇ」
「……そうですね」
その後もしばらく、雨漏りは続いた。
「そういえば、ホシノ先輩。私も空色の人に助けてもらったんですよ」
「そうなの? うへ〜、そろそろ恩を返しきれなくなっちゃうよ〜! もし私も怪奇現象に巻き込まれたら、その時は直接お礼を言わないと──」
「ホシノ先輩。少しだけ、真剣なお話をしたいんですけど……いいですか?」
「──何かな、アヤネちゃん?」
「私、空色の人の顔……はっきりと見えました。シロコ先輩とノノミ先輩は見えなかったらしいですけど……私は見ました」
「……誰だったか、聞いても良いかな?」
「はい。私が見た限りだと、あの人は──」
脳裏に、
アヤネが見た、空色の髪の人は、どう見ても。
既に亡くなっている、小鳥遊ホシノの先輩。
梔子ユメその人であった。
次回。「第延話 せりかプロロング」。