000
引きこもることは悪くない。
引きこまれることも悪くはない。
ただし、絶対に引きずりこまれるな。
001
砂粒が窓を叩く音で目が覚めた。枕元に置いてある目覚まし時計を確認すると、現在時刻は朝8時59分らしい。目覚まし時計をセットした時間は一分後の9時ちょうどなので、部屋の主である
早起きは三文の徳とかいう言葉があるが、しかしセリカはたかだか三文ごときのために、大切な休日に早起きなんぞはしたくなかった。
いやまあ、稼げるのならば稼げるだけ稼ぎたいのだけれど、まさか臨時休校期間中にアルバイト以外で稼ぐこととか考えたくないのだ。休みなのだから休ませろ。
なんて、セリカは寝起きの不明瞭な頭でそんなことを考えていたわけだが。どうやら考えている間に1分が経過してしまったらしく、目覚まし時計からけたたましい騒音が鳴り響いた。
寝起きで頭がぼーっとしている時に、ここまで騒音を鳴らされてしまうと、流石にストレスが溜まる。それならば目覚まし時計などかけなければ良いだけなのだが、しかしセリカはここ最近、意識して生活習慣を正すようにしていた。
夜11時(23時)までには就寝し、朝9時に起きる。この臨時休校の期間は、必ず10時間睡眠を取るようにしていた。理由は単純に最近寝不足だったということと、体力を十分に蓄えるためである。猫耳だから猫と同じくらい寝なければいけないとか、そういうわけではない。
「……それにしても、砂嵐かあ。よくあることだから慣れてるけど、せっかく外に出ようと思ってたタイミングで来られると、流石に参っちゃうな……」
カーテンを開けて外を見ると、そこには砂の色が広がっていた。砂嵐である。それも、結構大規模な。こんな状況で外出を無理矢理敢行すれば、たちまち遭難してしまうであろうことは目に見えていた。
窓に反射している自分の顔は、ひどく退屈そうだ。こんな顔を対策委員会のみんなの前で晒してしまえば、勝手に写真を撮られて、それをダシにしばらく揶揄われそうな感じがする。そんなつもりはないのに、いつの間にこんなポジションに落ち着いてしまったのだろうか。嫌な気はしないので、まあいいのだが。
というのはさておき、ただでさえ運の悪い自分がこんな状況で遭難なんてしてしまえば、まさか生き残れるはずもあるまい。様々な苦難の数々を乗り換えてきたセリカはそう自己分析し、カーテンを閉めた。
「ふあぁ……とりあえず、顔洗おう……」
寝ぼけた目をこすりながら、セリカは洗面所へと移動した。冷たい水を顔に当てて、半ば無理矢理に目を覚ますことにしたらしく、ぱっと手に溜めた水を顔にかけると、きりっと冷えた水が肌を刺した。
洗顔フォームを使って顔を泡で包む。乾燥によってややカサついていた表皮が、潤いを取り戻しているのだろうということが、はっきりと手に取るように分かった。
再び水で顔の泡を洗い流してから鏡を確認すると、そこにはおおよそ普段通りのセリカがいた。今日も今日とて黒い猫耳は完璧な三角形である。そこから生えているふさふさの白い毛はいつも通りに、右と比べると左の方がやや長かった。
そのあと歯磨きを済ませたセリカは、リビングの机に小さい鏡を置いて座り込み、その鏡を覗き込んだ。鏡面に歪みはない。
特に出かける予定があるわけでもないが、しかしスキンケアくらいは毎日欠かさずにやっておかなければ、アビドスの過酷な環境によって肌がやられてしまう。
アビドスで美肌を維持するためには、血の滲むような──というわけではないが、それにしたって結構な努力が必要なのだ。そしてセリカは、その一切を惜しむつもりはなかった。
それはなぜか? そんなの、一つしかないに決まっているだろう。
「……アヤネちゃん本当に、一生恨むからね──いやまあ、私も
そう。セリカがやけに体力を維持して健康的な生活を心掛けている理由も、出かける予定もないのにそこそこガチのスキンケアをしている理由も実のところは単純で、アヤネとアイドルをやることになってしまったからである。
先日アヤネは学校のプールであわや溺死か、という状況に陥っていたらしく、ホシノが救命処置をしていなければ、いとも簡単に今生の別れを迎えるところだったらしい。それを聞いた時は気が気でなかったし、病室で気まずそうに頭を掻きながら笑うアヤネを見た瞬間、セリカは泣いたりした。
泣いたは泣いたし、怖い目に遭ったであろうアヤネのためにも、セリカはどんなお願いでも聞いてあげるくらいの心づもりではいたのだ。
が、しかし。アヤネから出会い頭に「ホシノ先輩に押し切られてセリカちゃんと一緒にアイドルやることになっちゃって……」などと言われてしまえば、意識はそちらに向けざるを得なかった。
この愛すべき対策委員会書記職は、何を勝手に人のことを売ってくれちゃっているのか。いや、元を正せば、セリカがホシノ相手にアイドルをやるなどと口走ったのが悪いのだが──しかもまだやると決まっただけだし全体的に曖昧だ──とも考えたが、しかし
「あー、思い出したらちょっと憂鬱になってきた……というか、普通に恥ずかしいし……」
今までアビドスに通ってきて、こういう経験は全くと言っていいほどなかった。借金返済の策を立てる定例会議の時、ノノミが戯れに「スクールアイドルにしましょう♧」と言っていたのは覚えていたが、しかしまさか、いの一番に自分がやる羽目になるとは。
アイドルが着るような衣装をきた自分とアヤネを想像してみる──が、しかし。アヤネには似合うだろうが、自分にはどうしてもその手の衣装が似合うとは思えなかった。
アイドルと言うくらいなのだから、どうせピンクやら水色やらのふりふりした衣装を着させられるのだろう。なんというか、少しの気恥ずかしさがあった。
どうせ着るなら、黒っぽい方が合っているだろうに。アヤネと自分の髪色から考えても、黒を基調とした方が統一感が生まれるだろうし、アイドルとしてはそっちの方が良いのではないだろうか──こんなことを考えているあたり、なんだかんだと言いながらも、セリカは結構乗り気なのかもしれなかった。
「……はぁ。朝ごはん食べよ……」
一通りスキンケアを終え、髪も気にならない程度に整えたセリカは、最後に猫耳の毛を小さめの櫛で梳かし、毛の流れを整えてから立ち上がった。
向かった先は台所の冷蔵庫前。しつこく出そうになるあくびを噛み殺しながら、セリカは冷蔵庫の扉を開け、朝食のシリアルにかけるための牛乳を取り出した。
牛乳のパックを持ち上げると、一切の重みを感じなかった。どうやらとっくの昔に底を尽きてしまっていたらしい。ゴミは確かに捨てたはずなのだが……まあたまには、捨て忘れの一つや二つくらいもあるだろう。早いところ買い出しに行かなければなと、セリカはそんなことを考えた。
ところまでは、よかったものの。
「……ちょっと待って。食べる物無くない?」
セリカは急いで冷蔵庫の全ての部屋を確認したものの、しかしそこにあるのは調味料とか、あとは氷くらいのものだった。シリアルもほんの少ししかなかったので、本格的に食べるものがない。
ついでに言えば、食べるものどころか
「じゃあ今日一日何も食べられないじゃん!? 砂嵐で外にも出られないから買い出しにもいけないし、電波弱くなってるからデリバリーとかも頼めないし──っていうか砂嵐なんだからデリバリーも来れないし!」
今日が普通の休日であれば、こんなことに悩むはずもなかったのだが、しかしたらればを語っても仕方ないだろう。
セリカはソファに深く腰掛け、とても深いため息をついた。せっかくの休日なのに、やることもなければできることもない。部屋の掃除はこの前してしまったし、本棚の整頓も済ませてしまった。食器なんかはそんなに多くないから昨日のうちに洗い終わっているし、ついでに電波が悪いからインターネットで暇を潰すことすらできない始末。
ただでさえ砂嵐のせいで八方塞がりなのだから、少しくらい暇つぶしがしたいのだが……セリカはそんなことを考えながら、一度ソファを立ち、残り少ないシリアルをお皿に入れてリビングに持ってきた。
セリカはお皿からシリアルをひとかけ取って、口の中に放り込んだ。
「……なんかこの食べ方
なんというか、こう、お酒のお供のおつまみを食べている気分になる。これがマカダミアナッツとかチョコレートとかだった場合、こんな気分にはならなかったのだろうか。結局のところセリカの認識次第ではあるため、その時になってみなければ分からないが。
ちなみにここでいう
「あっ、そうだ。この前ノノミ先輩からおすすめしてもらった本、まだ読んでなかったじゃん。せっかくだし、今日読んじゃおっかな」
セリカは突然そんなことを思い出したので、持っているお皿をテーブルの上に置き、本棚の中からミスター・ニコライの「善悪の彼方」を引き抜いて手に持ち、テーブルの前に座り込んだ。
ちなみにこの本は、別にノノミから借りたとかそういうわけではない。ちゃんと書店に出向いて、お金を出して自分で買っている。
多分ノノミは言えば貸してくれるだろうが、しかし仮にそれで本を汚しでもしてしまったら、申し訳が立たない。恐らくそれでもノノミは許してくれるのだろうが、セリカ自身がそれを許容できなかった。
本を開き、左手だけで器用にページを進めていく。少し口が寂しくなったら、右手でお皿からシリアルを取って食べる──ちょっと待て。せっかく静かに本を読もうとしているのに、口の中でばりばりと大きな音が鳴って、思いの外鬱陶しいぞ。
セリカはシリアルを一旦放っておいて再び台所に出向き、コップに水を入れてリビングに戻ってきた。食べるものはシリアル以外にないし飲むものも水以外にないので、もう水で我慢することにしたようだ。
水の入ったコップを持ち上げ、少し傾けて口の中に含む。コップの中の水は、反射のせいかやけに輝いて見えた。
「──……ふぅん……」
なるほど、ノノミが激推しするだけあって中々面白い。面白いとは言っても、爆笑必至だとか抱腹絶倒だとかそういう類ではない。だから
どうせキャラクター系の本だからと侮っていたが、しかしセリカはなかなかどうしてこの本にのめり込まずにはいられなかった。少し負けたような気分になって複雑なのだが、しかし面白いと感じたものに面白いという評価を下さないというのも、なんだか逆張りをしているような気分になってしまう。
好意だとか物の好みだとかは、あまり包み隠さない方がいい。円滑に人間関係を構築していくのならば、秘匿しすぎるのは逆に悪手だ。手と手を取り合い握手をしたいのならば、やはりこれは避けねばなるまい。
そうして何度か休憩を取りながら活字に目を走らせること、およそ3時間。現在時刻は正午──つまりは12時を回っていた。そんなつもりではなかったのだが、思いの外「善悪の彼方」が面白かったせいで、たったの3時間で読了してしまったというのは、セリカの脳内に結構な衝撃をもたらした。
いやしかし、それにしたって面白かった。今度ノノミにはお礼を言わねばなるまい──あとは、そうだな。一応ちょくちょくシャーレのカフェで顔を合わせたりするし、今度会ったら
ちなみにだが。仮にヒフミにモモフレンズ関連の話題を振ったとしても、あり得ない長さのマシンガントークが飛んできたりはしない。ヒフミは意外とお話上手なのだ。というか彼女はモモフレンズを布教する際、万が一にもモモフレンズの印象が下がるような行動は取らない。
「それじゃあ──どうしよう? たったの3時間でできること終わっちゃったんだけど」
外を見ても、やはり砂嵐はまだそこにあった。携帯を取り出して電波を確認してみても、とてもじゃないがネットサーフィンができるとは言い難い状況だった。
セリカはまだコップの中に残っていた水を飲み干し、一度ふうっと息を吐いてから天井を見上げる。この前掃除したばかりなので、見上げた先は存外、清潔に保たれていた。
「……うん、やっぱそうだよね」
ソファに身を投げてから、セリカはそんなことを言った。ソファのスプリングがぎし、とそれなりの音を立てたが、しかし今のセリカにとってそんなことはどうでもよかった。
そんなことよりも。今はもっと、
「絶対そうだ。認めたくなかったけど、私──」
苦虫を噛み潰したかのように、セリカはうんざりとした表情を隠そうともしない。いやまあ、だいぶ前から想像は付いていた。ただ、二年生の先輩二人──シロコとノノミや、同級生で親友のアヤネから散々釘を刺されていたから、今の今まで意識から追いやっていた。
が、しかし。そろそろそうも言っていられなくなってきた。部屋の掃除や娯楽での時間潰しも、もはや底を尽きた。なのでセリカはここでようやく現実逃避をやめ、大人しく現実を
「──どう考えても
そう。セリカは現在、
何を隠そう、セリカはこの砂嵐によって8日間ほど閉じ込められている。どうせすぐに過ぎ去るだろうと考えていたのだが、しかし待てど暮らせど砂嵐は弱まらない。結果として部屋中綺麗になってしまったし、本なんかは全部読み終わってしまった。
当然食料なんかは買い出しに行けるはずもないし、外部に助けを求めようにも外は砂嵐である。遭難するのは目に見えている──というか、多分外に出るとろくでもないことになる。故にセリカは、自分の家から出るという選択肢を早々に放棄していた。
「はあ……なんで私、こんな目にばっかり遭うんだろ? 今度お祓いとかしてもらおうかな……」
臨時休校、四+八日目。
002
大人しく怪奇現象に閉じ込められているということを認めたセリカは、まず初めに
思い返すは臨時休校、四日目。アヤネが入院することになった日の、ちょうど翌日。あの日セリカは、砂嵐のせいで部屋から出られなかったのだ。
当然セリカも怪奇現象の基本的なルールくらいは覚えている。迂闊な行動に出て何かと騙されがちなセリカだが、流石にここまでの大事をうっかり忘れるなんてはずもなかった。
まあ。
つまり。
原因はと問われると。
「うっかり『
ただただシンプルに、これに尽きる。
「はあぁぁぁ……眠たくてうとうとしてたとはいえ、こんなミスしちゃうだなんて……」
正直なところ、セリカは今すぐにでも頭を抱えて布団にくるまり、それなりの声で叫んでこの恥ずかしさを発散したかった。
が、しかし。そんなことをしている場合ではないという事も分かっていたため、羞恥に悶えつつも机に向き直り、あらかじめ用意しておいた紙に鉛筆を走らせた。
以下は現在判明している怪奇現象の特徴である。
一つ目。
二つ目。考えた時点で怪奇現象は第一段階に進む。
その状態で
第二段階へと移行してしまう。
三つ目。脱出方法が必ず一つは存在する。
そしてそれは大抵、
四つ目。脱出できなかった場合は
第二段階に移行さえしなければ、
生還の可能性はかなり高い。
五つ目。怪奇現象の内部では
恐れるから恐ろしくなるのだ。
六つ目。怪奇現象は
前と同じ対処法は通用しない。
常に怪奇現象の裏をかけ。
七つ目。もうどうしようもなくなったら、
その時は
きっと力になってくれるはずだから。
「……ざっとこんな感じ。アヤネちゃんたちが教えてくれたから、ここまではまず間違いないはずよね?」
セリカは簡単に現在分かっている情報をまとめ上げた。こうして情報を整理した上で怪奇現象に立ち向かうことができるのは、命懸けで情報を持ち帰ってきてくれた三人のおかげである。
シロコとノノミ、そしてアヤネに内心で感謝を伝えながら、続いてセリカはこの砂嵐──自らの家から脱出するためにも、自分が置かれている現状をまとめ始めた。
「まず気にするべきは、いま私が置かれている状況についてよね。まあ砂嵐に閉じ込められてるだけなんだけど、問題なのは
こうして並べ立ててみると、ノノミの
つまり
「私が部屋に閉じ込められた時間は、えーっと、八日間だから……大体192時間くらい。だから現時点では私が
そう。現時点で既に、セリカは対策委員会の中で
が、しかし。こんな状況に陥っていても、セリカはこの怪奇現象──台風の目ならぬ
「……怪奇現象のルール、その五。〈恐れるから恐ろしくなる〉。別に部屋から出られないってだけだし、砂嵐なんてしょっちゅう来るから、この程度なら怖くはないわね。
セリカは思いの外、冷静な精神状態を保っていた。というか今更
実際にセリカは、現在机の前であぐらをかいてどっしりと構えている。ちなみにこの場合の「どっしり」は、別に体重が重いとかそういう意味ではない。
「
先に挙げた三人の前例から推測するに、この空間から脱出するにあたって、
あくまでも
あまり余計なことをして、これ以上怪奇現象を強化するようなことになってしまっては、目も当てられない。セリカはその辺り、しっかりと
「さて、それじゃあ次は──訪れる可能性のある命の危機について把握しないと。まあこれも、正直予想はついてるんだけど」
セリカは足が痺れてきたのか、あぐらの姿勢で組んでいた足を崩し、一度立ち上がって伸びをしてから、今度は足を伸ばした姿勢で再び座り直した。
さて、ここで考えたのは命の危機の可能性──つまりは、
「まあ、まず思い付くのは衰弱死。食べるものはこの八日間で食べ切っちゃったし、水が飲めるとはいえ、それでも多分三十日とかで限界が来るはず」
セリカは部屋の中で衰弱死する自分を想像しようとして、やはり気分のいいものではないのでやめることにしたようだ。それに万が一にも、その
まあシロコやアヤネが死んでしまっていない以上、恐らくそれは
「次に思い付くのは、まあ外に出て遭難するとか? これはまあ、私が外に出なきゃ大丈夫よね。わざと出たりでもしない限り、外は気にしなくていいでしょ」
窓から外を見てみると、やはりそこには砂の嵐が渦巻いている。この感じからすると、やはり砂嵐が過ぎ去るのを待つのは悪手だろう。セリカはまたもやうんざりしているかのような表情を浮かべた。
水を口に含んで、ほとんど間を置かずにそれを体内に流し込む。しっかりと冷えているそれであれば、通過した部位を順々に冷やしてくれたのだろうが……しかし氷を入れているわけでもないその水は、セリカの身体を冷やすことはしなかった。
「ぬるっ……まあいいや。とにかく、ぱっと考え付くのはこの二つ。もしかしたら他に何かあるかもしれないけど……現状ノノミ先輩の時みたいな
とりあえずセリカが出した結論としては、今すぐに命の危機が訪れるようなことはないというものだった。三つの前例である怪奇現象のパターンを踏まえて考えると、どちらかと言えばこの怪奇現象は。
「──
そう、この砂嵐に関しては、現状あまり明確な殺意が見受けられないのだ。もしかしたら見落としているだけなのかもしれないが、しかしそれにしたって、八日間も見過ごされていて、命の危機の一つも無いというのは最早意味不明である。
だからこそセリカは、閉じ込められているというのにここまで冷静を保つことができていた。もしも日毎に砂嵐の威力が強まって、家の外壁とかを削り始めていた場合、ここまで冷静を保つことはできなかっただろう。
ただまあ、
「これでよし、っと。うん、結構事態は単純で、あとやるべきは脱出方法を見つけ出すだけ……なんだけど、問題はむしろここからよね」
脱出方法を考える、とだけ言われるとなんだか簡単そうに思えるが、しかしそれを考えるためには
つまりまだまとめていない情報が存在している。セリカは先にそちらの方を考え、万全の状態を整えてから脱出方法を探ることにしたようだ。
そしてその、
「この怪奇現象は、一体どういう仕組みなのか」
シロコの時は直線が終わらなかったように。
ノノミの時は階段が無限に増え続けたように。
アヤネの時は果てしない水中が続いたように。
今回もまた、何かの
「シロコ先輩の時は、
直線方向に対する、垂直。確かそれこそが脱出のカギだと考えたシロコは、普段から持ち歩いている撮影用のドローン(撮影用にしてはいささか物騒が過ぎるが)を用いて、怪奇現象から逃げ出したのだったか。お見舞いに行った時、やけに自慢げに語っていたのは記憶に新しい。
「ノノミ先輩の時は、
進むのではなく、戻る。上に進もうと下に進もうと階段の段数が増えるのならば、こちらとしては戻ることしかできない。ノノミは空色の髪の人──アヤネの話によると、どうやら亡くなったはずの梔子ユメ先輩らしい──から脱出方法のヒントを貰い、土壇場で脱出方法に気が付いたと語っていた。
「アヤネちゃんの時は、
姿勢を正すのではなく、崩す。しかしまさか溺れている最中にそんな考えに至れるはずもなく、危うくアヤネは命を落とすところだった。ホシノによって心肺蘇生を行なわれたから何とか助かったものの、本当にこれは気が気でなかった。
アヤネから聞いた話によれば、ユメと思われる人物が助けに来てくれなかった場合、空中を水中であると
「……三人の例を並べてみたけど、こうやって見るとやっぱり、少なくとも無限ではなくない? 一番それが分かりやすいのは、多分ノノミ先輩の例よね」
ノノミの例、つまりは
いやいや、それなら無限階段じゃないじゃないか。そう思う者もいるかもしれないが、しかしあながち、このセリカの指摘は間違いというわけでもないのだ。
「本当に無限なら、
セリカは思い返す、ノノミの一件を。そうしてみると違和感──というか、
その分謎のカウントダウンがあったわけだが、しかしそれにしたって意味が分からない。具体的にどうなるのかも不明だし、そもそもあのカウントダウンには
「……ノノミ先輩、病院に担ぎ込まれてからもしばらくは
つまりセリカは、ノノミの無限階段をきっかけとして、怪奇現象の正確な構造を掴もうとしているということらしい。そしてその構造を基に、自分が現在巻き込まれている怪奇現象──砂嵐の目の中から脱出する術を見出そうとしているのだ。
そしてそれは恐らく、もうすぐそこまで迫っている。セリカの運命を決めるまで──ひいてはこの怪奇現象に対して、取り返しのつかない決定打を入れられるかどうかが決まるまで、もう少しの時間もない。
覆い隠された分岐点は、すぐそこまで来ている。
「普通に考えたら、さっきまでの通りに
そう、そこなのだ。先ほどからうっすらと理解はしていたが、そこが
セリカはひとまず、ここに注視して考察を進めていくことにしたようだ。
「……変な言い方になるけど、ノノミ先輩の例で一番おかしいのは、病院に搬送されてる間も
カウントダウンや増え続ける階段、そして環境からの危害がないこと、単純な移動では脱出できない空間──少し考えただけでも、ここまでの量の違いがあるというのに、まだ別の例との相違点はある。
例えば同じ時間をループしていたこと。もっともこの事実には、ノノミ自身もはっきりとした確信を得ているわけではない。が、しかし。ほとんど
だからセリカは、このことを知っている。
「……いや、ちょっと待って。あの時ってノノミ先輩は
と、そこまで独り言を口にしたところで、何となくセリカはノノミと自分の例の共通点を見出し始めていた。と言っても、はっきりとした確証があるわけではないが……しかし、この怪奇現象内において、整合性だとか理屈だとかそういうのを気にしてしまっては、おそらく脱出できないだろう。
三つの前例から、まともに考えるだけ無駄だということなど分かりきっているのだ。セリカはその辺り、想像以上にしっかりしていた。
「私とノノミ先輩の例が似ていることから、現状考えられる可能性は二つね。一つは私も先輩と同じように気絶しているってこと。そしてもう一つは──
自分で口にしたその言葉が、なぜか部屋の中に響き渡るような感覚がして、セリカは少しだけ不思議な、なんとも形容し難い気持ちになった。
まるでそれは、未だに誰も正解者のいない問題を解いたかのような、あるいは未だに負け知らずの何者かを打倒した時のような、はたまた登頂者のいない霊峰を登り切った時のような。
とにかくそれは間違いなく、何らかの
「……ありえそう。なんか私って運悪いし……っていうか寝る前に『砂嵐長すぎ!』って考えちゃったし。ともかくそれなら、一体ノノミ先輩の例では何が拡大されてるのか、何となく見えてくるかも」
見えてくるかもと言ってはいるが、実のところセリカはほとんどその正体に気付いていた。ここまではあくまでもこの結論に至るまでの道筋を、順序立てて解明しているだけであり、実のところは
あくまでも目的は
セリカはここに来てようやく、ノノミの怪奇現象が一体
「意識を失わなかったシロコ先輩は
砂嵐が一瞬あからさまに強まったような気がしたが、セリカはそれを全くもって気に留めず、自らがここまでの推理で導き出した答えを口に出し続けた。
砂嵐がそれ以上強くなることはなかった。
「……怪奇現象のルール、その6。〈前と同じ対処法は通用しない〉──これ、てっきり『同じ脱出方法が使えない』ってことだと思ってたんだけど、そうじゃなくてもっとシンプルに『
セリカはこれも紙に書いてまとめることにした。鉛筆の芯が少しすり減っているので、始めの頃の文字と比べるとやや丸みが目立つ。
しかし当のセリカ本人は、そんなことはつゆほども気にしていないようだった。
「ノノミ先輩の例だと、拡大されていたのは気絶していたノノミ先輩の意識だったと考えれば、場所を移しても抜け出せなかったこととか、周囲の環境からの害がなかったこととかについては、なんとなく繋がってるって分かるし。変なカウントダウンと一段ずつ増える階段については、
念のため記しておくが、この怪奇現象内で重要なのは、考えに考え抜いて出した事象に対する結論の正誤
「……うん。ノノミ先輩の例で拡大されていたのは、手放した意識。多分怪奇現象はこれを魂みたいなものだと解釈したんでしょ。もしかしたら神秘なのかもしれないけど……まあなんにせよ、これでようやく分かりそうね。一体今回の怪奇現象は何を拡大していて、どうやって私を閉じ込めているのかが!」
この場合重要なのは、むしろ
「そうね、実は私は今眠っているんだって仮定すると、拡大されるのは多分、眠る直前に考えていたもの」
怪奇現象はどこまでも、思う通りに形を変える。
「シロコ先輩が走りやすい道を考えていたせいで囚われたように。ノノミ先輩が気絶していたせいで直前の意識を拡大されちゃったように。アヤネちゃんがみんなで泳ぐことと、雨雲号で空を飛ぶことを考えていたせいで、両方に閉じ込められたように。私も眠る前に、
それはまるで、
「──
かくして、怪奇現象の構造は決定された。
セリカの認識が、この空間の要件を設定した。
そしてその
セリカはこうして、覆い隠された真実を発見した。
003
脱出方法を探るための前準備も終わり、さあこれからようやく取り掛かるぞといったところで、セリカはひとまず水分を補給することにしたらしい。
シンクのある台所へと移動し、コップに水を汲んでいると、そこでセリカは今更ながら、当たり前の疑問を口にした。
「……なんで
自分よりも先に巻き込まれた三人の時は、こういう救済措置──というか命を繋ぐことができるものなんて設置されていなかった。しかしここに来て、自分の番が回ってきて、いきなり怪奇現象が
どうしていきなりそうなったのかは分からないが、きっとこの水にだって、何らかの意味があるのだろう。案外空色の髪の人──今は亡き梔子ユメが、どうにかこうにか手を回してくれたりしている可能性もある。
色々な可能性を考えながらも、ひとまずセリカは、その水分を口に含んだ。この水を飲むこと自体が罠である可能性もあるが、流石にそこまではできないだろう。そんなことを考えながら、喉の奥へと水を流し込んだ。
「──……ふう。まあ飲ませてもらえるならありがたくいただくけど。というかここ私の家だから、わざわざそんなこと気にする必要もないわね」
結局のところ導き出した結論としては、あまり気にしないことにしたらしい。今はそれよりも脱出方法の確立が先だ。
セリカはひとまずリビングの机の前に戻り、そこに座り込もうとしたところで、ようやく鉛筆の芯が丸くなってきていることに気付いたらしい。いちいち削るのもなんだか面倒くさいので、セリカは鉛筆からシャーペンへと持ち替えた。
「さて、それじゃあ次はここから脱出する方法ね」
そうは言ったものの、しかし現状具体的な脱出方法などは一つも思いついていない。しょうがないのでセリカは、思いついた端から順番に書き留めていくことにした。
鉛筆からシャーペンに持ち替えたからか、それともただ単純に慣れているからなのか、やけにすらすらと文字が書ける。そんなことを考えながら、セリカは一つ目の脱出プランを立てた。
「まあまず一つ目は、シンプルに玄関から出るってことでしょ。ルールその6でも言われてる通りに
と、そこまで語ったところで、しかしどうにもこれが正しいとは思えなかったセリカは、首を大きく横にぶんぶんと振った。
「いや、いやいやいや! いくらなんでもそれはあり得ないでしょ。もしかしたら万が一……いや、億が一そうだったとして、それって
窓から外を見てみても、やはりそこには砂の嵐が広がっているだけである。なにかあからさまに不審な点があるのならば、まあ外に繰り出すのも悪くはない。
だがしかし、特におかしな場所などは見当たらず、結局のところはただの砂嵐が少し長引いているだけでしかないように見える。
まあつまり、セリカが何を言いたいのかというと。
「……そうだとしたら、なんかダサいな……」
そう。とにかくダサい。そしてなんと言っても粗雑である。加えて言えば、それはあまりにも単調だ。
セリカは今までに対策委員会の面々を三度も苦しめたこの怪奇現象が、今更そんな安い手に出るとも思えなかった。
「窓から出るって手もあるけど、それにしたって結局玄関から出るのと変わらない気がするのよね。だからこの案は却下」
セリカはため息を吐きながら、たった今書いた案に取り消し線を引いた。そしてすぐさま、次の案を考え始める。
が、しかし。もっとパパッと案が出るものだと思っていたのだが、思いの外出てこないもので、うんうんと頭を唸らせるだけで20分も浪費してしまった。
現在のセリカは、机に力なく突っ伏して手と足をバタバタさせているという有様を晒している。
「うーん、うぅーん……ああーっもう!!
ここにきてセリカは、シロコとノノミの思い切りの良さ、そしてアヤネの思考の速さがどれだけとんでもないものなのかを思い知った。
いやまあ、それにしたって今回の怪奇現象は難しすぎると思うが。なんだ停滞した時間って。じゃああれか、それに抗って時間遡行でもすればいいのか。
無理難題を無理矢理押し付けやがって、この怪奇現象は大切なみんなを殺しかけたから元々嫌いだったが、今回の一件で更に嫌いになりそうだ。怪奇現象に実体があるならぶん殴ってやりたい。
「イラつく……あーもうイラつく!! 裏をかくって何!? 時間ってなんなの!?」
セリカは怒りに任せて机を殴打しようとして、やはりやめた。ここで怒り狂っても意味などないし、生存に必要なエネルギーを無駄に消費するだけである。
別にその程度のエネルギーを消費したところで、セリカの限界が早まるようなことはない。がしかし、それはそれとして無駄に疲れるようなことはしたくなかった。
それをしっかりと理解していたセリカは、頭上に振り上げた拳に思いっきり力を込めて、たっぷり六秒ほどぷるぷると身体を震わせたあと、その拳をゆっくりと元の位置に戻した──いわゆるアンガーマネジメントというやつ──ついでに、無駄に力んだせいで耳の毛が逆立ってしまったため、それを直しておく。
「……落ち着かないと。焦っても何にもいいこととかないし、今までそれで散々失敗してるんだから……こういう時は、やっぱり深呼吸よね。うんうん、深呼吸、深呼吸」
セリカはそう言いながら上体を起こして、限界まで息を吸い込む。腕は両側に大きく開いて、かなり深めに息を吸った。
「すううぅーーーーっ」
そうしてそこで息を止めること、およそ三秒。ほんの少しだけだが頭が冴えた感覚がしたので、そこからセリカは一気に息を吐き出す──
と、いうところで。
「ぶっふううぅぅぅっ!?!?!?」
息を吐き出すというか、もはや吹き出していたセリカだったが、しかし今のセリカにそんなことを気にしている余裕など微塵もなかった。
だって、インターホンが鳴ったということは、
「……えっ? いや、えっと……え? この怪奇現象、
だって、この怪奇現象は、ただ何かを拡大するだけのはずで。今回はそれが、時間に適用されているはずで。というかそもそも、こんな砂嵐の中でインターホンが鳴るわけがなくて。
「……もしかして、幽霊?」
何となく──というか何も考えずに、セリカはそう口にしてしまった。途端になんだか肌寒くなったように感じて、ぶるりと一つ身震いをした。
何故だろう、さっきまで大量に飲んでいた水がようやく効いてきたのだろうか。いやしかし、それにしては遅効性すぎるし、そもそもあの水道水は冷たいと言うよりも、むしろぬるかったはずだ。
「……そ、そんなわけないじゃん! 何をバカなこと言ってんのよ、私は! ていうかそもそも幽霊が何だってんの! 怒ったホシノ先輩の方がよっぽど──」
その言葉を最後まで言い切る前に、再びインターホンが鳴った。そしてそのインターホンの音が鳴り止む前に、再びインターホンが鳴った。
「──ッ、大丈夫よ、セリカ……幽霊とか怖くない、ってか幽霊とかいない、生きてる人間の方がよっぽど──」
その言葉を最後まで言い切る前に、再びインターホンが鳴った。そしてそのインターホンの音が鳴り止む前に、再びインターホンが鳴った。そしてそのインターホンの音が鳴り止む前に、再びインターホンが鳴った。そしてそのインターホンの音が鳴り止む前に、再びインターホンが鳴った。
「──……ッ、な、何よ!? 何なのよ、いきなり何なのこれ!? どうしてっ、どうしていきなりこんな……どうしていきなりこんなことにっ──」
その言葉を最後まで言い切る前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴った。そしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴ったそしてそのインターホンの音が鳴り止む前に再びインターホンが鳴った。
突如。
ぱたりと。
「…………もう、行った……?」
その場で身体を抱えるかのように縮こまらせ、耳を塞いで蹲っていたセリカは、どうやらインターホンの連打が終わったらしいということを察知し、内心びくびくと怯えながらも顔を上げた。
途中ラップ現象が発生したり、突然外で突風が吹いたりする度に全身の筋肉が硬直して、心臓が早鐘を打ち、冷や汗をかきながらきょろきょろと周囲を見回したりしていたが、そんな状況でもセリカは気丈に振る舞いながら、インターホンの映像を確認するために室内モニターの前まで移動した。
「──インターホンには、誰も映ってないわね……」
インターホンのボタンを連打してきていたはずの存在が、存在していない。それが意味するところを理解していないはずもないのだが、しかしいわゆる正常性バイアスという奴だろうか。セリカは身体の緊張を解き、今までで一番大きなため息を吐いた。
「っはあぁぁぁ……いや、本当に何なの!? どうして私ばっかりこんな目に──」
セリカはそこまで語った途端、いきなり話すのをやめたかと思うと、もの凄い勢いで口を両手で塞いだ。
しまった。失策だ──失態だ、というか失敗した。目に見える脅威が去ったからといって、安易に警戒を解くべきではなかった。セリカは内心後悔混じりにそんなことを考えた。
一度は静まったはずの拍動が、再びその息を吹き返す。息も気配も殺しているのに、より強く、段々強く、力強く。
これは完全に余談なのだが。
居留守を使うなら、五分は大きな音を出すな。
セリカが息を潜め始めてから、およそ五秒後。
どんっと、強く扉を叩く音が響き渡った。
「っひぅ」
先ほどまでのインターホンの連打が、まるで児戯であったかのような音が響き渡る。セリカの大きな耳にも、その轟音は当然届いていた。
一切の間髪を入れないノックが──殴打が、家のドアへと叩き込まれている。セリカは腰を抜かすことすらできずに、耳と目を塞いで、体を縮こまらせて、ふるふると子猫のように震えながら、ただひたすらに音が止むのを待った。
が、しかし、いつまで経っても音が止む気配はない。恐らくこの家にセリカが閉じこもっているということも、怪奇現象の方にはバレているのだろう。
多分、ドアを開けるまでこの音は止まない。そしてドアを開ければ、当然それは
「……どうして、私ばっかりこんな目に遭うのぉ……?」
泣いたところで事態が好転するわけでもなく、変わらず轟音は響いている。インターホンのモニターを覗いてみるも、そこにはやはり何も映っていない。画角的には何かが映っていなければおかしいのに、しかしそこにあるのは砂色の嵐だけだった。
不可視で不可解。つまりは
正体不明で、認識不可で、理解不能。
セリカはもう、正直いっぱいいっぱいだった。
「……分かったわよ、開ければいいんでしょ、開ければ。そこまで開けてほしいって言うなら、開けてやるわよ。怖くない、怖くないんだから」
どう考えても、今のセリカは冷静さを失っている。先ほどまで──つまりは怪奇現象に囚われていると発覚した時点でも、かなりの精神的負荷がかかっていたのだ。直前までセリカが冷静さを保てていたのは三つの前例、つまりシロコ・ノノミ・アヤネは
それが、ここに来てどうだ。今までにないパターンの怪奇現象、長く続いた緊張状態からの緩和、そして直後に再びそれを超える緊張──恐怖。色々な修羅場を乗り換えてきているとはいえ、それは
孤独は、寂しい。ひとりぼっちなのは、つらい。
頼れる先輩は助けに来れない。昔からの親友は入院中。怖い。情報の少ない未知の領域。連続するイレギュラー。響く轟音。怖い。終わらない砂嵐。醒めない明晰夢。あやふやな時間感覚。じっとりと肌を覆う熱。怖い。耳鳴り。窓を打ち付ける砂の粒。からっぽの冷蔵庫。流れっぱなしの水。からっからの喉と眼球。怖い。家の軋む音。ノックの度に跳ねるドアロックチェーン。逆立つ耳の毛。きらきらと鬱陶しい反射を続けるガラス製のコップ。内側から響く拍動。吐き気をもたらす焦燥。怖い。シンクに水滴がぽつりと落ちる音。震えの止まらない両足。小脇に抱えた
「……やってやる。やってやる、絶対に先手を取って、家に入られる前に、できれば玄関で、絶対にやってやる。大丈夫、大丈夫、大丈夫、怒ったホシノ先輩の方が、絶対に怖いんだから──」
セリカはいわゆる
安全だと思っていた場所が、一瞬にして恐怖で満たされた時。人というのは、あまりにも呆気なく崩壊するものである。
あるいはそれこそ、剥き出しになった生存本能の姿そのものなのかもしれないが。
「開けて、殴り倒して、撃つ。開けて、殴り倒して、撃つ──うん、いける。私ならいける。ホシノ先輩のこともパンチできたんだから、今更おばけなんて怖くない……!」
いつの間にか、ドアから響く轟音は止んでいた。つまりそれは、ノックが止まったことを意味している。しかしセリカはそんなこと気にも留めず、ドアを開けて外敵を排除することしか考えていないようだった。
ドアの窓越しに影が見える。おそらくそれが、今回の元凶なんだ。現在セリカはそう思い込んでしまっている。
「行くわよ、セリカ……倒して、ここから出て、みんなの所に帰らないと心配されちゃうんだから……!」
視野が狭まる。呼吸が荒くなる。視界がぐらぐらする。耳鳴りがする。全身が爆発して暴れ出してしまいそうな感覚に支配されている。焦る。寂しい。焦る。怖い。怖い。怖い。
吐き気を伴うほどの恐怖に呑まれかけながらも、セリカはその場で倒れ伏したり、踵を返して逃げ帰ったりすることはなかった。
それはセリカの勝ち気さ故か。はたまた狂乱に呑まれかけているが故か。結局のところ、どちらでも結末は変わらないのだろうが。
だって、そうだろう。
どちらにせよ、セリカは扉を開けるのだから。
「絶対、みんなの所に帰るんだからっ!!」
セリカは鍵を思い切りよく開けたあと、そのままの勢いでドアを押し開けた。途端に家の中に嵐で舞い上がった砂が流れ込んでしまうが、こんなものは
扉に押しのけられたのであろう件の怪異は、どうやらバランスを崩している。倒すのであれば、今が絶好のチャンスだ。というかむしろ、ここを逃せば次はないだろう。
「喰らええぇぇぇっっっ!!」
セリカはすかさず怪異に駆け寄り、シンシアリティを頭上へと振り上げ、そして大きな叫び声を上げながら、怪異の脳天に向かって自らの愛銃のストック部分を、一切の躊躇なく振り下ろした。
「ひぃん!?!?」
──……
「えっ? あれ、一発で倒せちゃった……」
いや、なんだその可愛らしい悲鳴は。というかドアの前にいた怪異は、声の高さ的に
違う。セリカが今気にするべきなのはそんなことではなくて、たった今自分が殴り倒した相手の正体──つまりは、
一瞬視界に映ったのは、確か淡めの水色っぽい髪色だった気がする。結構な長さの髪で、全体的にゆるめな印象だった。あと、胸が大きかった気がする。
なんだろう、どこかでそんな特徴の人を聞いたことがある気がするなあ。何となくその辺りが気になったセリカは、殴り倒した怪異の顔を確認した。
「……いや、ちょっと待ってよ。そんなことある?」
ここに来てセリカは、ようやく正気を取り戻し始めていた。それが殴り倒した衝撃によるものなのか、それとも殴り倒した相手が相手だったからなのかは、定かではない。ともかく、セリカは今度こそ、全身から血の気が引いていくのを感じた。
だって、そうだろう。たった今セリカが愛銃のストックで、思いっきり全力で殴り倒して気絶させた相手は──
「この人、ユメ先輩じゃん……」
──亡くなったはずのアビドス高校の先輩であり、いわゆる
004
「んぐっ、んぐっ……ぷはぁーっ! いやぁ、お水ありがとねぇ、セリカちゃん! あのままずっと締め出されてたらどうなっちゃうかと思ったよ!」
「ああ、うん……別に水くらいなら無限に出せるからいいんだけど──というか、今この家にあるの水だけなんだけどね? あとそれと、締め出されてたのは自己責任だと思うわよ……」
結局あの後、セリカはユメであろう人物を家の中へと担ぎ込み──というか半ば引きずり込み──簡易的な介抱を行なった。
そこそこ強めの衝撃を頭部にいい感じで喰らっていたため、復活するまでにはもう少し時間がかかると思っていたのだが……しかしセリカの予想に反して、ユメはたったの五分程度で復活した。
どうやら砂嵐の中に放り込まれ、水を探し求めていたら命からがらセリカの家へと辿り着き、向こうは向こうで命懸けだったので、全力でドアを連打する暴挙に出たらしい。
セリカはこの話を聞いた時、目の前のぽわぽわした女をもう一発ぶん殴ってやろうかと思ったが、水を求めてこの砂嵐の中を彷徨っていたというのも、まあかなり可哀想な話だったので、素直に水を提供することにしていた。
「いや、あのインターホン連打と全力のノック、本当に怖かったんだからね!? というかあんなのされたら普通は誰も扉開けないから!!」
「あ、あはは……本当にごめんね? こっちも必死だったとはいえ、後輩相手にこんな……あっ、必死すぎて気付いてなかったけど、ドアとか壊しちゃってないよね……?」
「気にするのそこなの……? じゃなくて、あのくらいの衝撃ならドア本体もドアフレームもびくともしないわよ。多分ミサイルくらいまでなら全然余裕だから、その辺は気にしないで」
「ああそっか、そうだよね! それならよかった……の、かなあ……?」
「いや、気を遣って気にしないでって言ってるだけで全然よくはないんだけど!?」
「そ、そうだよね……! あ、あはは……」
とまあ、ユメはこんな感じで。
聞いていた話とは真逆もいいところ、何なら出会ってこのかた頼りない姿しか晒していないのである。
正直なところ、セリカは目の前で涙ながらに水道水を流し込んでいる奴が、対策委員会のみんなを助けてくれた
だったら、直接聞いてみようじゃないか。
セリカはさりげなくいつでも愛銃を取れる姿勢を取り、そして目の前の女子に問いを投げかけた。
「……あのさ、一応念のため聞いておきたいんだけど──
もしかしたら、
実のところこの質問は、あえて強い言葉を使うのならば悪手もいいところである。当然ながらセリカもそんなことは分かっているが、それでは
(この怪奇現象を相手にする時は、
つまるところが、単純な
何故ならこの瞬間のセリカは、目の前のユメらしき人物が突如として豹変し、自身に襲いかかってくる可能性も考慮していたからである。
考えすぎかもしれないが、備えあれば憂いなしとも言うし、これくらいがむしろちょうどいいだろう。そんなことを考えつつもセリカは、表面上では平静を装っていた──が、しかし。それと同時に、セリカはこうも考えていた。
(……私が
この怪奇現象では、基本的に
考えなしなのが駄目なのは当然のこととして、この異常領域の内部では
備えあれば憂いなしどころか、反対に備えこそが自らの首を締める展開すらあり得る。本当にこの怪奇現象は、面倒臭いところを上げたらキリがないのだ。
もうこの際暴露してしまうが、セリカの頭は半分くらいオーバーヒートしている。そろそろ糖分が欲しくなってくる頃合いだ。
だがしかし、突然襲われるかもしれないという状況でも、やはりセリカは極めて冷静を保っている。普段の彼女であれば慌てふためき、破茶滅茶に滅茶苦茶なことをやっていてもおかしくないというのに。
ではその理由は何故か。三つの前例のおかげで比較的情報があるから? 食料がないとはいえど、直接身体に害を加えるような要素がないから? いやいや、まさかそんな。これもまた、それ以上でもそれ以下でもない、極めて単純な思考によって導き出された答えだった。
(──まあホシノ先輩殴れたんだしいけるでしょ!)
そう。ついこの間、激昂したホシノを殴って止めることができたセリカだったが、そこで変に上手くいってしまったせいで完全に
この極限状態でのストレスに加えて、以前積んだ悪い成功体験。そしてわざとではないとはいえ、ユメを一撃で気絶させたこと。それらがかけ合わさった結果、現在のセリカは
言い換えるのならばこれは蛮勇──あるいは匹夫の勇だろうか。ともかく、この場合に問題なのはセリカ自信に
一度恐怖に呑まれた脳は、そう簡単には正常な状態に戻れない。セリカは未だ、実態のない半狂乱に浸っていた。
(さあ、どう動く? 別に飛びかかってきても襲いかかってきても、私はしっかり対処できるようにしてある。本性を表すなら、早めに表せば──)
「えっ? ああ、うん。そうだよ! 梔子ユメ!」
「あっ、そうなんだ……」
捉え様によっては失礼とも取れるセリカの質問に対して、ユメは襲いかかってくるどころか、むしろ人好きのする満面の笑みを浮かべ、自らの顔に伸ばした両手の人差し指を当てている始末。その朗らかな笑みとポーズは、まるで大人気アイドルのような風格さえ醸し出していた。
これはまずい。何がまずいって、
セリカはそんなことを考えた結果、恥ずかしさのあまりに顔を朱に染め上げてしまった。その瞬間に彼女ができたことはと言えば、何とか顔を明後日の方向に向け、潤んだ眼を見せないようにすることだけだった。
「……えっと、もしかしてセリカちゃん、私のこと怪奇現象の仲間なんじゃないかって疑ってた?」
「──……まあ、結構……」
「えぇっ!?、なっ、なんで!?」
「いや、だって、はっきり言っちゃうとなんか聞いてた話よりも頼りないし……」
「た、頼りない……ひぃん、ひどい……」
セリカの目の前で笑みを浮かべていたユメは、その言葉を聞くなりショックを受けたような表情に早変わりしてしまった。頭の頂点辺りから飛び出ている特徴的な癖っ毛も、なんだか元気を失っているような気がする。
命の危機だった(とセリカは思い込んでいた)のだからそんなはずはないのだが、これではなんだか悪いことをしてしまったみたいだ。今まで対策委員会のみんなを助けてくれた恩人に、なんてことをしてしまったのだろう──と、セリカはそんなことを考えていた。
目の前の愛すべき先輩から笑顔を奪ってしまったことが、なんだかとんでもない大罪のように思えてきたセリカは、すぐさま謝罪をすることに決めたらしい。
「その……なんかごめん……」
「あ、あはは……でもほら! 私も紛らわしいことしちゃったから、ね? ごめんね……?」
「うん……」
「…………」
お互いに謝罪をしたものの、しかしどうにも形容し難い気まずい空気感になってしまった。何度目かも分からないが、体感温度は一気に下がってしまっている。
というか、この後どうしようか。ただでさえ一人分の食料の備蓄もないと言うのに、ユメを招き入れたことで二人になってしまった。当然食べるものを持って来てくれているわけでもないから、このままでは二人仲良く餓死するだけだ。
いやいや、でも放っておいたらユメはあのまま干からび──大変なことになってしまうだろうというのは想像に難くなかったし、そうなったら寝覚めも悪いし、もしかしたら
「
「えっ何何!? いきなりどうしたの!?」
「ユメ先輩! そうよ
「だっ、だから何が!? セリカちゃん、一回落ち着こ!? ゆらっ、揺らさないでぇ……!!」
そうだそうだ、完全に忘れていた。セリカは今になってようやく
セリカのリミッターは未だ中途半端に外れているため、かなり興奮した様子でユメの肩を掴んで強く揺らしていた。ユメは突然大きく揺さぶられたために、目を回してしまっている。
「
「ひいぃぃん……揺らすのっ、揺らすのやめてぇ……!」
「あっ、ごめんっ!」
「うえぇ……ふらふらするぅ……」
セリカは完全に失念していたが、そもそもユメは
まあ元を正せば、ドアを全力でノックし続けセリカを怖がらせたユメが悪い、ということになるのだろうが、しかしこの状況で誰が悪いだのと言い始めてしまってはキリがないだろう。
加えて言うなら、悪いのはセリカ達を巻き込んだ怪奇現象の方である。だから実際問題、セリカが取るべき責任などというものは発生していないのだ。
セリカが肩を揺さぶるのを止めてからおおよそ一分後。ユメもセリカもようやく落ち着きを取り戻し、ついに真面目な空気感が場に戻ってきたようだった。
ちなみにこれは余談なのだが、ユメを家に招いてから実に一時間半もの時間が経過している。
「それじゃあユメ先輩、他のみんな──シロコ先輩とかノノミ先輩、あとアヤネちゃんの時みたいに、ここから脱出する方法について、知っていることを教えてほしいんだけど……いい?」
「うん、いいよ! それにしても、まさかここに来て後輩からお願い事をされるなんて……えへへ、張り切っちゃうなあ」
「……なんかそう言われると照れくさいわね……」
はっきり「後輩」と明言されたからだろうか、直接の面識はないと言うのに、なんだかセリカは恥ずかしくなってしまって、再び顔を紅くした。
そんなセリカを他所にユメはすっくと立ち上がる。その右手には空になったコップ、つまり先ほどまでユメが水を飲んでいたコップを持っていた。
「よいしょっ。それじゃあセリカちゃん。ちょっと台所の水道、借りてもいいかな?」
「え? ああ、別にいいわよ、水くらいどれだけ飲んでも。そういえばまだ言ってなかったんだけど、何故か水だけは無限に出るから」
「……別に
「……? 意味がよく分かんなかったけど……まあすぐに分かるでしょ」
宣言通り本当に張り切っている様子のユメは、やはり元気いっぱいな印象を受ける動きでキッチンの方へと消えていった。それほどまでに頼られるのが嬉しいのだろうか。
どうにも本当に危害を加えてきたりするつもりはないらしい。セリカはここでようやく、懐に置いていた愛銃であるシンシアリティをガンラックにかけた。
それから数秒もしない内に、ユメは溢れそうなほどいっぱいに水の入ったコップを持って戻ってきた。中身を零さないためか、行きと比べるとその足取りは随分と慎重である。途中何度か躓きそうになっていたのでその間セリカはドキドキしっぱなしであったが、何とか一滴も水を零さず机にコップを置けたのを見て、ようやく大きなため息を吐いた。
「うぉっとっと……ふぅ。これでよし! それじゃあセリカちゃん、
「……ってことは、もしかして
「ああいや、そうじゃなくって、この場合はむしろ逆だよ、セリカちゃん……まあとりあえずさ、コップの中を覗き込んでみて?」
「逆……? まあ、必要なことなんだろうから大人しくやるけど、多分何も見えないだろうし、正直意味わかんないわよ……?」
どうにも要領を得ない説明だったが、他でもないユメがそう言うのだから、きっと何かしらの意味が──それこそ、脱出に関連する何かが明かされるのだろう。
セリカは特に逆らうようなこともなく、大人しくコップの中を覗き込んだ……が、しかし。事前に予想していた通りに、水の先に何かが見えたりするようなことはなかった。
「あの……やっぱり何も見えないんだけど? コップの先に机が透けて見えてるくらいで、他には何も──」
「うん、そうだね──というか、そうだろうね。だけどねセリカちゃん、問題なのは
「もっと手前って、それがどうしたの? ただコップに入った水があるだけじゃん。別に変なところもないし」
「もっと、もーっと手前だよ、セリカちゃん。視線をコップの底の方から、ゆっくりと手前に、いっちばん手前に持って来てみて。そしたら、
ユメに言われた通りに、セリカは少しずつ意識をコップの奥底から、手前の方へと引き上げていく。
するとセリカは、何となくユメがどこを見てほしいのかを、意識が浮上するとともに少しずつ理解してきた。
「……
「そう! 大正解! セリカちゃんさすがだね!!」
「いや、この程度で褒められても恥ずかしいだけなんだけど!? だからやめて!!」
「すごい! 天才!! かわいい!!!」
「やめてってば!!」
セリカがやったことはと言えば、ユメに言われた通りに視線と意識を動かしたくらいのものなので、こんなことで大袈裟に褒められても恥ずかしいだけだ。
本日何度目かも分からない赤面を晒しながらも、しかしセリカは脱出の方法を探ることを中止しなかった。
「はあぁ……それで? 一体この水面がなんだって言うのよ、ユメ先輩? 普通の水じゃない」
「その水面には、
「何が写って、って……えっ、何? まさか幽霊が写ってるとか、そういうこと言うんじゃないでしょうね……?」
「いやいや大丈夫だって! ここには幽霊とかそういう類のはいないから、気にしない気にしない! それよりもほら、セリカちゃん。水面、何が写ってるか言ってみて?」
正直なところ、セリカは先ほどのインターホンやノックのくだりで、幽霊とかポルターガイストが若干トラウマみたいなものになっている。そのため、これ以上怖い思いはしたくないのだが……しかし、ユメがいないと言うのだから、多分本当にいないのだろう。
もう一度セリカは水面を真剣に凝視し、そしてそれから数秒後。果たして望んでいる答えはこれでいいのかと考えつつも、ユメに向かって導き出した答えを示してみることにした。
(……あれ? 何だろう、ちょっと
セリカは何となく頭の上の方、つまりは猫耳の部分に、ちょっとした違和感を覚えた。すぐに手で左耳──ではなく右耳を触ってみるものの、しかしいつも通りにふさふさとした毛が生えているだけである。やはりこちらの方が少し長い。
突然呆然とし始めたセリカに対して、果たしてどのような感情を抱いたのかまでは分からない。だがしかし、ユメはそのタイミングでセリカにすかさず声をかけた。
「セリカちゃん、どうかしたの? もしかして耳鳴りとかしちゃった? 大丈夫?」
「ああ、ごめん……多分気のせい。それでちょっとぼーっとしちゃってただけだから気にしないで」
「……へえ」
「えっと、それで……そうだ、水面に写ってるのは──
セリカはそう言って水面から視線を外し、顔を上げてからユメの表情を見て、言葉を聞いた。
その時、セリカは。
「──その
どうやら脱出に一歩近づいたらしいということを、はっきりと理解した。
005
「水っていうのはね、セリカちゃん。基本的に
「あとは、物を切ったりもできるんだったっけ? あれは確か、研磨剤みたいなものを水に混ぜて、それを高圧で発射する、みたいな感じだったけど」
「それもあるね。とにかく挙げればキリがないんだよ、水の使い道って。だから昔の人たちは、水を有効活用して色んな道具を作ってたんだって。水を使って時間を測ったり──」
「……鏡として使ったり?」
「そういうことだね」
ユメは机に頬杖を付き、セリカの目を覗き込みながらそう言った。その表情は先ほどまでの朗らかなものとは違い、どこか神秘的(キヴォトスでの一般的な"神秘"とは別物)な雰囲気を纏っている。
あまりにも突然に纏う空気感が変わったため、セリカはユメと目を合わせたまま固唾を飲み込んだ。こういう神妙な空気感は、あまり得意ではないのだ。
「ん? もしかしてセリカちゃん、喉乾いちゃったの? だったらもうその水飲んじゃっていいよ! 必要なのは水は鏡になるっていう
「……
「まあまあ、細かいことは気にしないで! ささ、セリカちゃん、ぐいっといっちゃって!」
「何なのそのテンションの落差! さっきまでの威厳はどこに行ったのよ!?」
あまりにも早すぎる変わり身のせいで、流石にセリカもツッコミを入れずにはいられなかったようだ。
いやしかし、どうしてくれようかこの状況。折角張り詰めていた空気感が、ユメがふざけたせいでたちまち霧散してしまって──
……まさか、
セリカは未だに若干の緊張を抱いているし、恐怖にも怯えてしまってややぎこちなくなっている節がある。だからユメは、それを解消するために
なんとなくそんなことを考えたセリカは、ハッとしたような表情を浮かべた後、またもやユメと視線を合わせた。
「あっ、やーっとセリカちゃん、普段の感じに戻ってくれたね。どうどう? まだ緊張してる?」
「……もうしてないわよ、おかげさまでね──ふぅ。それじゃあユメ先輩、説明の続きをお願いしてもいい?」
「オッケー! と言っても、私から説明できることって、もうあんまりないんだけどね……」
「何言ってんのよ、それでシロコ先輩とノノミ先輩、そしてアヤネちゃんが助かってるんだから、どれだけ感謝してもし足りないって!」
「そ、そう? なんだか照れるなあ……えへへ」
ユメはそんなことを言いながら、照れくさそうに頬を掻いた。本人はなんとか隠そうとしているようだが、耳が真っ赤になっているので誰の目から見てもバレバレである。
しばらくそうして照れていたユメではあるものの、しかし少しの時間が経ってから、セリカに脱出方法のヒントを教えようとしていたことを思い出したらしい。
ユメは一度わざとらしく大きな咳払いをしてから、再び神妙な顔付きになって語り始めた。
「ともかく、ここで重要なのは
「どういうも何も、
「うん、まあその通りではあるんだけどね。けれどもセリカちゃん、鏡を覗き込んでいる時ってさ、
「視線? いやまあ、そう言われてみれば確かにないこともないんだけど……」
例えば朝起きて顔を洗うために、冷たい水を思い切り打ち付けた後。少し気になり鏡を見ると、まるで何かに覗き込まれているかのような感覚になることが時々ある。
例えば夜寝る前に歯磨きをした後、洗面台に口の内容物を吐き出す時。ふと鏡を見ると、まるで何者かに覗き込まれているかのような感覚に陥ることが時々ある。
「セリカちゃん、こんな言葉があるのを知ってるかな。『Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird.Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.』……どういう意味か、分かる?」
「え? いや、ちょっと待ってよユメ先輩。さっきまであんなに……あんな感じだったのに、いきなり賢そうな話しないでほしいんだけど」
「……えっと、私は最初の方から結構真面目に話してるつもりだったんだけど……?」
真面目に話をしてくれること自体は、まあセリカとしても望むところではある。何ならこれ以上なくありがたいことだし、その点については感謝の念が尽きない。
だがしかし、だからといって急激に真面目な雰囲気に振り切られても、正直なところ反応に困るというか、反応できないという感じだった。
「それで、えっと、ヴぇーあみと……何だっけ? まあいいや、分かんないわよ」
「やたら潔いね……まあいいや。さっきの言葉の意味は『怪物と戦う者はその過程で自らが怪物とならぬよう気を付けよ。
「あっ、なんかそれ聞いたことあるかも! もしかしなくても、結構有名なやつでしょ? ミイラ取りがミイラになるみたいな」
「そうそう。名言というか、この場合は"格言"と言うべきかもね。まあこの言葉が有名だとか無名だとか、語意が正しいかどうかとかそういうのは置いておいて……重要なのは、この言葉が持っている
言葉が持つ意味と言われても、流石にいきなり言われては理解不能である。いや、実際のところ分かってはいるのだけれど、反応には少々時間を要するというのは間違いない。
セリカは確かに慌てると頭の回転がやや遅くなるものの、しかしこの程度のことが分からなくなるほどではない。しっかりとユメの語った言葉の意味は理解した上で、やはりユメの語った「
「つまりはさ、こういうことなんだよセリカちゃん。
「……それってさ、やっぱりさっきの水も関係あったりするわけ?」
「うーん、
ユメの表情は相変わらず曖昧なままで、そこから何かを見出すことは難しそうだ。どうしてそんな表情を浮かべているのか、セリカは正直なところ図りあぐねていたのだが、ここでようやくその理由を高めたような気がした。
つまりは、これもまた
「……ユメ先輩。鏡ってさ、私がその中を見ている時、
「──……続けて?」
「鏡の中に視線が引き込まれている時、
「うん。そういう時もあるね」
ユメはあいも変わらず、何を考えているのか分からない表情を浮かべている。だがしかし、今はむしろその態度こそがセリカの確信を深めていた。
「さっきユメ先輩は、わざわざ私に水面は鏡面であると
「そうなんだね。それじゃあ、何が分かったの?」
「私の猫耳の毛、
「……うん、そうだね。セリカちゃん、結構細かいところまで目が行き届くタイプだもんね」
「普段の私なら多分、荒唐無稽すぎて信じようともしなかったんだろうけど……だけど3人の前例もあるし、実際一週間以上閉じ込められてるし──今ならきっと、
「うん、そっか──それで、セリカちゃんは一体、そこからどんな答えを導き出したのかな?」
両手で頬杖を付いているユメは、どこか楽しそうに、そして何やら面白そうにそう語りかける。見る人が見ればその表情は妖艶に見えないこともないが、しかしこの場合はただ単純にセリカの推理を楽しんでいるだけのように見えた。
ユメが向けている表情にセリカが気付いているかどうかは定かではない。というか現在重要なのは、ユメの表情とかセリカの考えとかではない。
一番重要なのは、それでもセリカは推理を止めず、ヒントがあったとはいえ諦めなかったが故に、ついには最後の最後──この怪奇現象の本質にまで辿り着いたということ。
結果が重要なのではない。経過があったからこそ、その結果に辿り着けたということが重要なのだ。
「うん……あのね、ユメ先輩。私たち──」
だって、そうだろう。
砂狼シロコが見つけたからこそ。
十六夜ノノミが繋いだからこそ。
奥空アヤネが広げたからこそ。
「──大正解だよ、セリカちゃん」
黒見セリカは、停滞から一歩踏み出せたのだから。
006
セリカが停滞から抜け出したのと、全く同時のタイミングで。ユメは突如その場で立ち上がり、玄関に向かって歩き始めた。
セリカは何をするでもなくその背中に付いて行き、玄関でお行儀よく靴を履いているユメの背中を眺めていた。
「ユメ先輩。本当はこんなこと、わざわざ聞かなくてもいいことなのかもしれないけど、それでも念のため聞いておくわ。あのさ、本当に行っちゃうわけ? 私と一緒にここから出れば──」
「ごめんね、セリカちゃん。私も本当はそうしたいんだけど、でも無理なんだあ。お誘いは嬉しいんだけど、それでもやっぱり私は
「……そういうものなの?」
「そういうものなんだよ、セリカちゃん」
関わり合いになった時間は、決して長いわけではない。むしろ二時間とちょっとの付き合いなんて、人間関係としては浅すぎると言ってもいいだろう。
「それじゃあね、セリカちゃん。お水ありがとう、すっごく助かったよ!」
「……別に。別に水くらい、いつでも出してあげるわよ。というか普段なら、もっとお茶とかジュースとかいっぱいあったんだから! だから、だから……!」
「……セリカちゃんは、やっぱり優しいね。その優しさはさ、私じゃなくてアビドスのみんなに向けてあげなよ。ねっ?」
「──……うん、うん……分かった……」
ここでセリカが、どのような表情を浮かべていたのか。
今この場で確かなことは、ユメがセリカを抱きしめながら、頭を優しく撫でていたということだけである。
しかしその時間も、長く続いたわけではない。しばらくすると、ユメはセリカから離れてしまった。既にその手は扉にかかっている。
「それじゃあセリカちゃん、ばいばい! 元気でね!」
「……じゃあね、ユメ先輩──その、ありがとう!」
その言葉を聞いたユメは、最後に笑みを浮かべ。
そして再び、砂嵐の中へと旅立って行った。
果たして彼女はどこへ向かうのか。
それを
そうして、ユメと別れてから三分後。
「……よしっ。いつまでもうじうじしてんじゃないわよ、黒見セリカ。せっかくユメ先輩のおかげで糸口が掴めたんだから、これで脱出できなかったなんて言ったら笑われちゃうじゃない!」
セリカは目元を拭いつつ、先ほどまでユメと話していたリビングへと早足で向かった。目的は当然、脱出方法を見つけ出すこと──
「脱出方法なんて、
そう言いながら砂嵐を映しているだけの窓へと近づいて行ったセリカは、おもむろにカーテンを閉めた。窓に反射していたセリカの顔は、写らなくなった。別にいきなり日差しが強まったとか、そういうことがあったわけではないため、彼女の中ではこの行動に明確な意味があるらしいということが分かる。
セリカはそのままの勢いで部屋中を回り、全ての部屋のカーテンを閉めたところで、突然足を止め辺りをうろうろと見渡し始めた。どうやら何かを探しているようだ。
「どこに置いたっけな……
どうやらセリカは、今日の朝に顔を洗った後、身だしなみを軽く整えるために使用したあの小さな鏡を探しているらしい。
ユメを家の中に引き摺り込んだ時、適当にその辺に放って置いたのだが、いざ探すとなると結構小さいので、これが中々難しい。
「あっ、あったあった……よし。こうやって
ソファの上に放り投げてあった鏡を発見したセリカは、それを発見するなり床に伏せ、
言い換えるのならば
「こっちから覗けなければ、向こうからも覗けない。ユメ先輩が言いたかったのはそういうことでしょ」
この怪奇現象の中では
が、しかし。目に見えるものが、
「私が鏡面で反射している私を確認できる状況だと、多分私は
つまりは「我思う、ゆえに我あり。」
あるいは「シュレディンガーの猫」だろうか。
どちらも現状を示す言葉としては、実際のところ不適格であるものの、しかしセリカの
それにしても、シュレディンガーの猫か。確かに自分は猫耳だし、現在閉じ込められているし、そしてこれから誰にも
そんなことを考えながらも、セリカは次々と鏡面になり得る所を封じていった。先ほどユメが出て行ってしまった玄関の窓、洗面台と風呂場の鏡、食器棚のガラス、付けても砂嵐しか映らないテレビの画面、そして──
「──水。どうして水だけは
一番初めにユメがセリカに注目させた
が、しかし。たったの二時間とはいえユメと関わったセリカは、既に彼女の人となりを理解していた。
「……私はもしかしたら、
セリカの眼前には、コップいっぱいに注がれた水があった。やはりその水面には、反射した自分が写っている。
一度ふぅっと息を吐いた後、セリカはコップを持ち上げ、それの中に入っていた水を一気に飲み干した。
「んぐっ、んぐっ……ぷはぁっ。よし、それじゃあこのコップも食器棚にしまっておかなくちゃ……っていうか、あんまり殺しに来てないって言ったけど前言撤回するわ。この怪奇現象──性格悪すぎでしょ!?」
時間と鏡面で二重の停滞。それは
時間が停滞しているから、砂嵐が留まり続けている。そのせいで外に出られず、食料は枯渇する。ただ、人間の生存に必須な水だけは無限に、無制限に出る。
仮にこの罠に気付かなかった場合、セリカは生き残るために水を飲むだろう。しかし水を水道から出した瞬間に、
そうなると、閉じ込められた者は永遠に脱出できない。だって、生き残るためには水を飲まなければいけないのに、水を出している間は絶対に
「……ユメ先輩が来てくれてなかったら、私もそうなってたのよね。ほんと、あのお人よしにはどれだけ感謝してもし足りないわよ」
セリカはその後も、一つずつ鏡面になりかねないところを封じていった。そしてそうこうしている内に、日はすっかり沈んでしまい、現在時刻は夜の真っ只中である。
「……よし、家の中はこんなもんでいいでしょ。これで私を
眠って、意識を手放す。そうすればこの場で何かを
セリカは念のためパジャマに着替えて歯磨きを済ませてから、部屋の電気を消し、ベッドに入って布団をかぶった。
「それじゃあ、おやすみなさい」
こうしてセリカは、意識を手放し──
「あ、いや。一つだけ忘れてた!」
──そうになった所で、突然そんな大声を上げながら起き上がり、そしてとあるもの目掛けて一直線に進んでいった。
進んだ先にあったのは、スマートフォン。
「もしかしたらここからも
セリカはスマートフォンをしっかりと地面に伏せて
007
翌朝。
「──……ようやく、洗濯物が干せそうね」
セリカの視界は、鮮やかに青く澄んでいた。
008
後日談というか、今回のオチ。
無事に砂嵐の目──もとい、認識の鏡面から脱出したセリカは、当日の内にホシノとアビドスの校舎で顔を合わせていた。
そこでの議題は、もちろん怪奇現象内部の情報共有。そしてそれを話している内に、主題は自然と梔子ユメのことへと移り変わっていった。
「──って感じでさ、ユメ先輩が助けに来てくれてなかったら、多分私は今もあの砂嵐と鏡の中にいたわ」
「うへ〜、やっぱり本当に
アヤネからの情報提供によって、
が、しかし。今回のセリカは紛れもなく正常な時期に、意識もはっきりとした状態でユメと出くわしている。
これはもう、確定でいいだろう。ホシノもその認識を確定させた。
「ちなみにさ、セリカちゃん。ユメ先輩はどんなことを言ってたかな? 何か印象に残っている発言があれば、おじさんに教えて欲しいんだけど……」
「……ホシノ先輩、本当にユメ先輩のことが大好きなのね……」
「そりゃあもう。大切な先輩だったからね〜」
ホシノがにへらと笑ったのを見て、セリカもなんだか微笑ましい気分になった。やはり自分はホシノが──対策委員会のみんなが笑っているのが好きらしい。
そんなことを考えながらも、セリカはユメの放った言葉の中で、最も印象が強いものをホシノに語った。
「えっと……ユメ先輩は『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』って
「……えっ?」
「ん? 何よ、どうしたのホシノ先輩?」
「いや、
「あっ、そうそうそれそれ! っていうか、ホシノ先輩も知ってるんだ……」
「うん、まあ……教養としてね〜。それよりもセリカちゃん、
「えっ、時間……ってヤバっ、もうこんな時間!?」
ホシノに促されたセリカがスマートフォンで時間を確認すると、そろそろここを出なければ、アヤネのお見舞いに間に合わなくなってしまう時間になっていた。
セリカの主観としては一週間ぶりに人と話していたので、知らず知らずのうちに楽しくなってしまい、つい話しすぎてしまったらしい。
ともかく、時間を確認したセリカは急いで立ち上がり、出発の支度を済ませた。
「ごめんね、ありがとうホシノ先輩! 今度また詳しくユメ先輩についての話しようね!」
「うん、そうしようね〜。それじゃお見舞い行ってらっしゃ〜い、アヤネちゃんによろしくね〜」
「うん! それじゃあまた明日!」
セリカはそう言って、教室から飛び出していった。
残されたホシノは椅子に深く座り込み、体重をかけながら窓の外に広がる青空を見る。
それから目を瞑り、ぽつりと独り言を呟いた。
「……ユメ先輩が、
少なくとも、ホシノの知る限りでは。
梔子ユメという
脳裏に、
ホシノの瞳は、まるで猛禽類のように輝いていた。
次回。「第夢話 ほしのファントム」。