風が冷気を帯びていた。ようやく冬の訪れを肌で感じるようになったある日、シャカールは研究室にやってきて、ほとんど無造作にUSBを渡した。
「これが最終Verだ。アンタに任せる」
それは研究終了の宣言だった。二度と新しいパッチを作ることはない。三女神AIによる未来視は玩具の域を出ないままに完成してしまった。シャカールもさんざん悩んだ末の結論である。AIの開拓はそそられるけれども、やはりAIとはいえ具現化された他者の体、しかも三女神様に手を加えるという感覚が気持ち悪さをぬぐえず、どうにも憚られる。0から組み上げた自作のプログラムをいじっていたほうが倫理を気にすることもないし、性に合っている。それがシャカールの選択だった。
未来視は現状学園内で遊びの延長として浸透していた。三女神たちも乗り気なようで、ダーレーアラビアンなど古いローブを着込み、胡散臭い占い師の風体を装っている。だがそれも一過性のものに過ぎない。流行りが終われば、緩やかに忘れられていくだろう。アップデートされないゲームがそうであるように。このころはタキオンも未来視に対する興味が薄らいでいたので、受け取るだけ受け取ってすぐに机の引き出しにしまった。
「じゃあな」
「ああ」
交わす言葉は少なかったけれども、ふたりは同じ方向へ進み、そしてその旅路は終わったのだ。
シャカールが研究室を後にする。タキオンが今考えているのは過去のことだ。いまだにあの夜のことを後悔していた。疲労は回復し、またリハビリに戻ったというのに、なぜこれほどまでに引きずっているのか、考えてみてもわからなかった。反省はするが、悔恨を抱えたことはない。その選択肢は無意識のうちに封じてきた。ベクトルが未来を向いていないからだ。悔やむよりも成すべきことを、そのほうが効率が良い。科学の本質がそうであるように、どんな事象であれ知ることができたのなら、それは成果であり失敗ではない。そのはずなのに、あの大人の目がいまだに恐ろしいのはなぜか。
今日に限って幻覚は現れなかった。どうすればよいのか、簡単だ。謝ればいい。二度としないとトレーナーの前で誓うのだ。プライドが邪魔をしているだけだ。
「そうだ、プライドだ。この私が、ちっぽけなプライドを掲げているんだ。余計なものを背負い込んでいたわけだ。はっはっはっは!」理由に気づくと笑えてきた。
「何笑っているんですか。ひとりで。とうとう気がふれたみたいですね」
「カフェ~いいところに来てくれた」
カフェは扉を開けたまま、入り口付近に立ちすくんだ。ひとりで笑っていた狂人が目が合うや否や猫なで声で話しかけてきたので、踵を返すべきか迷ったのだ。
「……失礼しました」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。実験とかじゃない、その、聞いてみたいことがあるんだ。人間関係で」
帰ろうとしたら神妙な面持ちに変わったのでカフェは研究室に入って話を聞くことにした。
「悩みというほどでもないんだが、なんというかこの前トレーナー君に怒られてしまってね、どうしたらいいものか」
「……次からは怒られないようにしたらいいのでは? 心あたりはあるんでしょう」
あえて内容は聞くまいとカフェは思った。
「まあ、ある。反省はしたよ。もうしないさ。それはいいとして、だ、ちゃんと一度謝らないといけないような気がするんだが」
「……謝ったらいいじゃないですか。今日の練習中にでも」
「いやそうなんだが、ねぇ」
こんなにも歯切れが悪いタキオンを見たのははじめてだった。
しばし沈黙が場を支配する。カフェは半ば無意識の動作でコーヒーを淹れ、流れるようにソファーに座った。カフェとてそういう心の機微がわからないわけではない。タキオンが困っているという状況を咀嚼しきれずにいたのだ。何せ唯我独尊を地で行くウマ娘である。繊細な乙女心というよりは子供の感性など持ち合わせていないと思っていたのだ。カフェはコーヒー一杯分の時間をかけて目の前の悩める友人を理解しようと努めた。
考えてみれば、タキオンはあれでいてなかなかに真面目である。興味の矛先が広く能力が高い分、優先するべきことがほかのウマ娘に比べてあまりに多いので一部がおざなりになっているだけで、好意のベクトルや物事への向き合い方は至極まっとうで誠実である。奇行もするが彼女なりにモラルと節度は持っているようだし(それが一般的かは疑問だが)、他者の喜びを素直に讃えることもできる(嫌味っぽくなりがちだが、それでも心からの称賛らしいのだ)。欠落も多いが、その欠けた部分を周りが埋めてくれる。恵まれた関係を築けているのは、タキオンがウマ娘という存在に向ける誠実さが周囲にも伝わっているからだ。
マグカップをテーブルに置く。カフェは少しばかり微笑んで言った。
「……じゃあ、こんなのはどうでしょうか。贈り物を準備する……とか。なかなか謝罪だけ問うのも気が重いでしょうし、お互いが暗い気持ちでいると悪いものが寄ってきますから」
「ふむ、なるほど。いいかもしれない」
「それで感謝を示しつつ、謝るんです。その二つは表裏一体ですから」
「何を準備したらいいだろう。薬はほとんどモルモット君に渡しているし、そう気づいたんだが、私はどうやら人に与えるものをなにひとつ持っていないらしい。徒手空拳というわけだ」
「いいんですよ、なんでも。大事なのはシチュエーションです。場所と物、それらを自分で選んだ事実が大事なんです」
むふーと鼻息が聞こえてきそうなくらいカフェは熱弁した。若干タキオンがたじたじになるほどに。
「じゃ、じゃあカフェはどうしているんだい。その、君もクリスマスとかに贈ったりするだろう」
「そうですね……去年は忙しかったのでここで過ごしました。タキオンさんが有馬を見に行ってたので。今年は……行きつけの喫茶店に行こうと思ってます。それで帰りに手作りのわらび餅を贈ろうかなと。ユキノさんに手ほどきしてもらうつもりです」
「ありがとう。参考にしてみるよ」
なぜかタキオンは容易に想像がついた。二人でコーヒーを飲んで、べったりとくっついて……カフェは気を許した者に対して妙に距離感が近いのだ。タキオンも人のことは言えないが。