たづな理論、あるいはタキオンに至るまで   作:灯眼

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※多少キャラクターが苦しむシーンが含まれます


13.バイツァ・ダスト

 学園は冬休み期間中もグラウンドや体育館などは解放されている。バーベルなどの器具が置いてあるトレーニングルームやプール、カフェテリアといった管理者が必要な場所は使用できないため、積極的に利用する者はごくわずかである。わざわざ訪れる者は、自主練というよりもストレス発散目的で利用している節がある。ほとんどの職員やウマ娘は実家に帰ってしまうからだ。それでも大みそかから元旦にかけての夜は学園で過ごす者もそれなりにいた。昔、年越しを仲の良い友人と過ごしたいという要望があったのだ。そのため一日だけはカフェテリアが解放されており、テレビで紅白が流れていたりする。帰省しなかったり、なんとなく賑やかな場所を求めたり、そう言うウマ娘たちの集いとなっていた。イベントというほどでもないが、グラウンドに集まった者たちでカウントダウンを行い、理事長がマイクを持ち「あけましておめでとう」と新年を祝うのはもはや恒例行事となっていた。

 そうなると普段よりも警備を厳重にしなければならない。ましてや深夜である。生徒たちに事故が起きないよう取り計らうのは学園の役目である。というわけでこの期間は職員たちからアルバイトを募集している。夜の見回りやウマ娘たちの安否確認などが主な仕事だ。守衛さんももちろんいるが、ひとりでは賄えない。警備会社を雇うべきだと毎回議題に上がるが、学園は財政難である。白羽の矢はいつもトレーナーたちに突き刺さり、それでも何とかしてしまえる有能さがあるから、やりがい搾取は終わらない。とはいえあくまで任意であり、それこそ帰省やのんびり休日を過ごしたいというトレーナーの要望は優先してくれる。そのくらいの温情はあるのだ。規定人数に達しなかった場合、たづなさんと理事長が隈をこしらえるだけである。

 タキオンはこのことを知っていたので、自身は外出届を提出し、トレーナーにはアルバイトに応募させた。学園の鍵を手に入れ、当日の流れを把握しスムーズに倉庫に侵入するためである。年越しはほかのウマ娘たちもいるため丁度良かった。

 グラウンドにはさらりと足で掃けば土が露出するほど薄く雪が積もっている。吐く息は白く、呼吸の度に肺が冷えた。悴んだ手に息を吐きかけ、白衣のポケットに無造作に突っ込む。用意していた小型のドライバーや針金、聴診器、飴玉などを指先で弄びながら辺りを見回した。集まったウマ娘たちはがやがやとそれぞれのグループでおしゃべりに興じていた。なんだかんだで100はいるだろうか、カフェテリアにも残っているはずだから参加者はもう少し多いだろう。時計の針が11時59分を指した。やがてカウントダウンがはじまる。声は次第に重なり、輪唱のように大きくなる。

 10、9、8,7,6,5,4,3,2,1、0。

「新春! あけましておめでとう! 諸君、今年も良きレースを!」

 理事長の快活な声が響き渡る。何とも縁起が良いと感じた。

 新年を迎えたのを皮切りにぞろぞろと帰っていく。一部は残って初日の出を拝むつもりらしい。正門付近では理事長が直々に寮に戻るウマ娘たちを見送っていた。この大移動に乗じて群衆に紛れていたタキオンはこっそりと校舎の方へ向かった。裏口にてトレーナーと待ち合わせをしてある。彼は予定通り鍵束を持っていた。

「タキオンの言う通りだった……ここに倉庫の鍵はない」

 鍵束をちゃらちゃらと鳴らしてみせた。計画を話した際、タキオンはそのことを予想していた。確認のため一応倉庫にも向かったのだが、案の定入れなかった。

「なんで知っていたんだ?」

「さあてね、虫の知らせというやつだよ。行こうか、まずは理事長室だ」

 前述したとおり、計画を思いついた際のタキオンは異常な冴えを見せていた。廊下を歩きながら再度計画を頭の中で見直した。理事長室に着いたら引き出しを調べる。そこには倉庫の鍵があるはずだ。理事長やたづなさんは今は正門で見送りをしているから戻ってはこない。そして倉庫へ行って時計を調べる。入ったことはないが保管場所はおそらくすぐにわかるだろう。希望的観測ではなく、妙な確信があった。

(私はもともと勘がいい方じゃないが、デジャブとでも言うのか。すべてを知っているような気がする。予知について研究しているうちに無意識のレベルで第六感が鍛えられたのだろうか)

 理事長室に到着したのでトレーナーは扉に鍵を差し込み、ひねった。かちゃりと軽い音がする。引き戸をがらりと開けて忍び込む。部屋は整理されており、小綺麗なのだが机の上だけは書類が山積みになっていた。棚には学園への感謝状やトロフィー、その年の優秀バの写真が飾られていた。壁には歴代の理事長の肖像画がある。それらには目もくれず、タキオンは机の三段目の引き出しを開けた。そこには一本の鍵と一冊の手帳が入っていた。

「なんだろう、これは」

 鍵は間違いなく倉庫のものだ。では一緒になっている手帳は。好奇心に押されほとんど反射的にページを開いていた。そこには簡易的な日記のような形式で、つらつらと出来事が記載されていた。

 

12月31日 雪 夕方ごろ、理事長室に侵入者あり、指導。

1月1日 晴れ 早朝、倉庫を開けたところ生徒がやってくる。帰宅を促す。

1月3日 晴れ 夜間、理事長室に侵入者あり、指導。

1月5日 雪 正午、倉庫へ侵入者あり、問い詰めたところ理事長室より鍵を盗んだと告白、指導。

2月3日 曇り 発狂

1月1日 雨 朝方、倉庫前でうろうろしている生徒を発見。

12月28日 雪 搬入物にカメラが仕込まれていたと報告。撮影者不明。

1月5日 曇り 夜、職員室にて鍵の保管ロッカーを漁っている生徒を発見、指導。

1月21日 雪 倉庫を見せてほしいと交渉あり、却下。

2月15日 晴れ 昼休み、説明を試みるも納得せず。――

 

 この日記は二十ページ以上にわたり記載されていた。読み終えた時、タキオンは心臓を氷につけられたような心地がした。度々指導されている生徒は、名前は伏せられていたが間違いなく自分のことだとわかった。不思議なのは日記という形式であるにも関わらず、日付が順不同であるということだ。

「これは――」

「ばれている、というわけかい。俄然興味がわいてきたよ。これはおそらく未来日記だ。どうやっているかはわからないがこの不可思議さこそ、究明する価値があることの証明だよ。くくく」

 怯えたような声を出すトレーナーに対して不敵に笑い返した。不気味さはあったが、その感情に内包されている好奇心がもたらした蛮勇によって打ち消される。ゆえにタキオンは恐れ知らずの厚顔無恥な不道徳さを崩さずにいられるのである。ぱらぱらともう一度捲ってみる。当然ながら気になったのは「発狂」の二文字である。不明瞭な、けれども簡潔に意味が込められた文面は確かに不安をあおった。だがタキオンはこの不安さえも黙殺した。最後のページにはポケットがついており磁気カードが入っていた。

「くく、しかしながら不用心だ。鍵を隠す場所にも鍵をかけておかないと。まあ、私の部屋も同じようなものだが」

 鍵と手帳とカードをポケットにしまいこんだ。胸の奥がちくりと痛む。その感情に蓋をして理事長室を後にした。

 倉庫への侵入はあっさりと成功した。月明かりさえ差し込まない地下は薄暗く、わずかな足音ですらよく響く。それほどに静かだった。トレーナーが懐中電灯の光であたりを照らした。壁はなく、先端の見えない高い柱ばかりが林立しており、その間に今にも崩れ落ちそうなほどに段ボール箱が積み上がっていた。わずかなあかりを得て、空間はより暗さを増したように思えた。本能がここから去りたいと告げていた。

 声を殺して「さあ行こうか」と先導する。広い倉庫内をしらみつぶしに探すほどの余裕はないだろう。だが行くべき方向を感じ取っていた。幽鬼が人を死の淵へと導くように、得体の知れない直感とやらが形を変えて、ぼんやりと灯っているように思えた。

 しばらく歩くと、奥まったところに鍵のかかった扉を見つけた。手帳に挟まっていた磁気カードを端末に差し込む。耳障りな甲高い電子音が鳴った。それは警告のようであった。

「これの出番はなかったか」ピッキング用にと持ってきていた針金をポケットから取り出して見せた。トレーナーは引きつったような顔でそれを見つめていた。もちろんタキオンにピッキングの心得などなかった。

 扉の先に広がっていた部屋は懐中電灯の光が端に届く程度の狭さで、スチールラックが並んでおり、その棚にいくつかのダイヤル式の金庫が置いてあった。そのうちのひとつに目覚まし時計と書かれた張り紙が張ってある。

「ついに見つけた」

 タキオンは開錠を試みた。ダイヤルは四段階のピラミッド型になっており、四桁の数字を正しい順番で合わせることで開くようだ。聴診器を当てダイヤルを回しながら探っていく。研ぎ澄まされたウマ娘の聴覚はこの素人のやり方ですら正解を導き出せるほどに優れている。一番下のダイヤルを3に合わせた時、わずかな異音を感じ取った。

「次だ」

 かちかちと小さな音だけが聞こえる。押し黙って見守っているトレーナーは冷汗をかいていた。

 カツーン、カツーン。と音が聞こえてくる。タキオンは焦った。誰かが近づいてくる音、集中が乱される。けれども隠れるつもりもその場を離れる気もない。異音を聞き逃さないようにダイヤルを回す。かち、かち、カツーン、カツーン、かち、かち

そして――

 カチャリと四段目までを合わせたところで鍵の開く音を聞いた。同時に足音も消えた。振り向いてみると小柄な影が部屋の入り口に立っている。秋川やよい、その人だった。

 凍り付いたように二人の動きが止まる。理事長の表情は薄暗さに隠れて読み取れない。彼女が近づいてくる。ほかの職員や護衛らしき者はいない。それでも立ちすくんで動けなかった。

「落胆。やはり、来てしまったのか……いやそういう性なのかもしれないな」

 理事長の言葉に真っ先に反応したのはトレーナーである。

「私の責任です。私がそそのかしたのです。申し訳ございませんでした。処罰を受ける覚悟はできております。ですからタキオンにはどうか恩赦を」

 頭を下げると、淀みなく言葉が出てきた。トレーナーは内心、この展開を望んでいたのかもしれなかった。タキオンの悪行を見て、罪を被る。その役を買うため同行したに違いないと。

「制裁、と言いたいところだが、責任の追及は後にしよう。まずはアグネスタキオンに問う、どうしても知りたいか、それが君たちから平穏を奪うことになるとしても」

 有無を言わさぬ圧力があった。理事長の行動規範はすべてのウマ娘の健康と繁栄である。彼女はたとえどんな生徒だろうと平等に優しさを持って接する。ゆえにウマ娘たちを信じすぎるきらいがあった。鍵とは単なる物理的なプロテクトではない。不可侵への境界線を可視化し、心理的な抑制、すなわち良識を思い起こさせる道具でもある。機密を本当に隠しておきたいのならば、アナログな鍵ではなく最新のセキュリティを備えた設備を整えるべきだ。金庫もダイヤルではなくコンピュータ制御のほうが良いし警報機と連動させるべきである。だが理事長はそれをしない。ひとえに彼女は教育者だからだ。

 タキオンは今宵、幾たびも窃盗を働いた。呵責の念も当然あるが、そのすべてを好奇心によって上書きしてきたのだ。理事長の問いかけにより、今更になって罪悪感が膨れ上がってきた。だがもう後戻りはできない。この悪意に身を委ねるしかないのだ。タキオンはただ頷いた。

「承知、では説明する。」

 大きく息を吸ってからとうとうと話し始めた。

「まずはその金庫の中身だが、目覚まし時計の原器が入っている。取り出してみると良い」

 タキオンは言われるがままに金庫を開け中の時計を取り出した。トレーナーの部屋で見かけたものよりも一回り大きいが、見た目はまったく同じだ。

「君たちが想像している通り、時間の逆行、すなわちやり直しができる夢の機械だ。聞こえはいいが世界の根本を揺るがすほどの力がある。安易な使用は破滅を招くだろう。あるいは永遠の停滞がはじまるかもしれない。正直、人の力や思惑で制御できるかもわからぬ代物だ。だからめったに使用しない。ちなみに発動条件のひとつと思われるのが『願い』だ。強くやり直したい、今を変えたいと願いを込めた時に逆行が起こる。ちなみにトレーナーの部屋に配っているのはレプリカだ。担当を思う強い気持ちが発動のトリガーになる。だがレプリカは一度使うと壊れてしまうし、原器以上に融通が利かない。都合よく改変できるとは限らないし、悪化することだってある。まあそれは原器のほうも変わらないが。正直に言うが仕組みはまったくわかっていない。昔から脈々と受け継がれてきたオーパーツなのだ」

「な、なぜそんなものが学園に、誰が作ったんだ」

「それはわからない。様々な者たちの願いの疑集だと言われている。ウマ娘たちが幸せでいられるようにと。不思議なことに、これまでの歴史の中で一度も悪用はされていない。結果的に事態が悪い方に進んだことはあるらしいが、争いの火種になったりはしていないのだ。秘匿されているのは万が一に備えてだ」

「わ、私は、ただ知りたいんだ。仕組みを、システムを、頂を……それだけなんだ……」

「わかっている。これまで何度も君は、アグネスタキオンは、時計の秘密を暴こうとしてきたらしい。そのポケットに入っている手帳がその証明だ」

「う……」

「その手帳は私がつけた記録だ。君は何度も探ろうとして失敗している。私に見つかったり、鍵を探せなかったり、それでもあきらめなかった。不都合な真実を見つけられる前に、私は何度か逆行を試みた。巻き戻しが発生するとそれまでのことは夢のように思えてくる。そして次第に忘れてしまう。だが直後はぼんやりと覚えているから記録を残したわけだ。その手帳も特殊なものだ。巻き戻しの影響を受けない。私の使用記録だ。……私が今回説明したのは、君が決してあきらめないということを知ったからだ。その上で言う。これ以上は踏み入らないでほしい。君の要望をすべて叶えることはできないが、ここで引いてほしい。望むなら質問にも応じよう、私なりの誠意のつもりだ」

 理事長はタキオンの身を案じているのだ。過ちを犯したとて生徒の願いを無下にはできない。だから説明によって誠意を示すためにひとりで来た。大事にせず、タキオンが元の生活に戻れるように。それがわかったタキオンは俯いていた。理事長の言葉はどうしようもなく正しいと思えてしまう。だが納得などしていない。知りたいのは時計の仕組みなのだ。この世界の常識を覆してしまうほどのタブーに触れてみたい。自分の目で観測しなければ気が済まないのだ。

 なぜ、理事長はここに導くような真似をした。侵入させる必要はないはずだ。説明するつもりならば倉庫に来る前にもできた。いやそれではあきらめるどころか火が付いただろう。自分の足でたどり着かなくては意味がない。ゴール目前までたどり着いて、罪悪感で心が張り裂けそうな今が、引き返せる唯一の機会なのかもしれない。

「わ、わか――」

 瞬間、悪魔的な発想がタキオンを支配した。もしかしたら理事長もわずかな可能性を、タキオンの中に垣間見たのではないか。解き明かされない不可思議な機械、それを彼女なら理解できるのではないかと。だからここまで来ることを許したのだ!

「……もう少しだけ、仮に、仮にだ。私がすべてを知ったのなら、どうなるだろう。例えばこの時計の構成物質や使用時の効果範囲、後遺症のリスクなど、私ならきっと調査できると思う。私もウマ娘のことを第一に考えている。協力、という形で学園のために尽力すると約束する」

 タキオンは時計を金庫に戻して、理事長に背を向けたまま話した。

「承諾しかねる。君が推測し私が答える。それ以上は危険だ」

「なぜ」

「見当はついているだろう。発狂、その手帳に書いてある通りだ」

「具体的には」

「私もわからない……その手帳はあくまで夢を記録したものに過ぎない」

 話をしながらこっそりとドライバーで分解する。音を隠すために、舌はよく回った。手は止まらない。表面上はごく普通の目覚まし時計である。背面のカバーも簡単に取り外せる。ここでようやくレプリカとは違う部分が露出した。歯車だ。複雑に組み合わさった歯車が電源もなしに動いている。はじまりの一番動力に近い部分を探すが、歯車はどこまでも連綿と続いていた。メビウスの輪を想起した。その輪が、かちかちと回っている。

 無限軌道のような力強い回転、タキオンはドライバーの先を歯車の間に噛ませた。キチキチと音を立てて、ばきりと先端が折れる。理事長もそれで気づいたのか「何をしている!」と声を荒げた。

「見るんだ、見るんだよ。全部を。それを望んでいる。私も、理事長、あなたもだ!」

 手帳の存在を知った時点でこの帰結は決まっていた。誰もが果てに向かって突き進む。いくつもの分岐を経て、物質世界の理をはみ出た今、ようやく到達するのだ。歯車をじっと見つめる。どこかにほころびがないか。無限軌道は完ぺきで、切れ間などどこにもない。動力源はまったくなく、歯車自らが恒久的に螺旋を描き、回転のエネルギーは次から次へと伝播され、延々とめぐっている。まさしく第一種永久機関。三次元的かと思えた回転はよく見るとあらゆる方向へと力のベクトルが向いており、力場は球を成していた。その球を紐解いていくと際限なく流転があり、ひとつの点からもうひとつの点までを結ぶ線が震えながら形を変えていた。その距離はゼロだ。力のベクトルは三次元的な認識ではもはやとらえきれない。この空間において時間は連続しているのではなく同時性原理に基づいて存在していた。めまいがする。タキオンの脳は情報を処理しようともがいていた。結果、ねじれる。視界はフラクタルに構築され、線は千変万化、万華鏡のようにめくるめく蠢く龍はメンガーのスポンジを目指して蛇行していた。陰陽は開闢し、陰惨たる泥土から蓮の花が開けば、そこから生まれた天使が喇叭を吹きならしながら悪魔の形相で睨みつけてくる。生と死だ。大地讃頌、追い風参照、メロディーに万雷の拍手を。ストラディバリウスの弦はクジラへと退化した。太陽フレアが不死鳥の尾羽を燃やすとたばこのように一息で灰になり、どす黒く後を濁した。狂ったコンパスが「東へ! 東へ!」と叫んでいる。宝の地図だ! このフラクタルには中心がある! タキオンは探した。鉄のように安定した小宇宙がどこかに隠れている。月を目指して伸びる天橋立を、尺取り虫がよじ登っていた。その黒点こそが私なのだ。

「タキオン! しっかりしろ!」

 トレーナーが彼女の顔を押えて時計から視線を外させる。焦点が定まっておらず、口元からは唾液が垂れており、うわごとのように何かをつぶやいていた。(トレーナーは針金だったんだ。世界はこんなにも単純でわかりやすいのに、なんて、なんて歪んでいるんだ!)声にはなっていない。嗚咽にも似た音をのどから絞り出していた。その姿があまりに痛ましくてトレーナーは声を荒げながら何度も名前を呼んだ。ほとんど錯乱状態にあった。

 タキオンは嘔吐した。平衡感覚が狂っており、まともに立つことさえできなくなった。彼女はすでに地面をひとつの面としてとらえていないのだ。

「ま、まずい!」理事長が駆けてきてタキオンから時計を奪った。

(か、かえせ!)悲鳴をあげながらタキオンはもがいている。

「トレーナー! 私はこれから時間を戻す。その前によく見るんだ、目に焼き付けておくといい。同じ間違いをしないように、君の愛バから片時も目を逸らすな!」

 激しい叱咤にトレーナーは応じた。目を見開いてタキオンを見続けた。

 ――カチリ

 と音がした。

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