1月1日。タキオンは何もせず寝て過ごした。怠惰な眠りの中で悪夢を見た。
寝正月を過ごしたせいか、急に研究に対するやる気が失せていた。トレーナーの部屋で不思議な時計を見た気がしたが、当のトレーナーは覚えてないという。何かを隠しているようだったが、問い詰めてみても頑なに沈黙を保ち、しかも悲しそうな顔をするばかりで、言及する気力がそがれてしまう。きっと彼も悪夢を見たのだ。タキオンはそう納得した。
研究が進まないまま、時間はあっという間に過ぎ、2月ももう半ばになった。悪夢はタキオンの心に傷を残した。内容はほとんど忘却へと置き去りにしてきたが、ぼんやりとした輪郭だけを覚えていた。不確かな象形、あいまいさは抽象へと置き換わり、根源的な恐れとなった。向き合わなかった事実、そして冬の寒さで歯車が軋むように疼く足が、タキオンを無気力へと至らせた。漠とした畏怖は次第に変質し、空虚となって胸に住み着いた。平熱の日々、けれどもタキオンはこの抑うつ的な感覚にさえ自覚的であった。
(私は今、落ち込んでいる)
「そうだ、俗にいう軽い抑うつ状態というやつだ。まあ一過性のものだろう」
(縁がないと思っていたが)
「しょうがないさ。時計のことを聞いた時、だいぶ昂っただろう。脳が異常に冴えた。その反動で疲れているのさ。恒常性というやつだよ」
(ならばすぐに戻るだろうか)
「戻るも何も、別にたいして悪いわけじゃない。ちょっと休憩が必要なだけさ。それとも何かい。病気を気取るつもりかい、トラウマから立ち直れないPTSD患者のような、そんなの、本当に苦しんでいる人に対して失礼だと思わないか」
(そんなつもりはないさ。少しもどかしいだけで)
「本だって読めてるし、リハビリも続けている。誰かと会話もしているし。研究だけ、ちょっと休んでいるだけさ」
(そうさ、それだけだ。わかっているとも。ちょっとネガティブになっているだけさ。ただ慣れていないんだ。こういう感情は)
「まあ私は基本的にポジティブだからねぇ。何とかなるが信条みたいなところがある」
(違いない)
自問自答を終え、気持ちに整理がついたのかタキオンは本を読むことにした。研究から離れようと思い、別の角度からの視点を取り入れるために図書室に入り浸っていたのだ。読むジャンルは多岐にわたる。エンターテイメント性のある物語や哲学書、宗教本、歴史の資料と、目についたものを乱読していた。
図書室ではネオユニヴァースとゼンノロブロイがいた。二人は押し黙ってページを捲っているだけにもかかわらず、奇妙な一体感があった。この空間に入るのは容易である。郷に入ってはなんとやら、己に沈黙を課し、本を読むという行為に没頭すれば良い。常連になっていたタキオンはごく自然にこの空気になじんだ。ぱらぱらとページを捲る音だけが聞こえる。
しかしながら読書家というものは押しなべて孤独を感じやすい生き物である。誰よりもひとりきりの時間を愛し存分に謳歌しながら、その一方で極度に寂しさを募らせている。一冊読み終えたロブロイは次の本を選ぶ前にタキオンに話しかけた。
「何を読んでいるんですか」
「ああ、これさ」
タキオンはページの間に指を挟み、表紙を見せた。『ツァラトゥストラはかく語りき』の翻訳である。自身の持つ科学知識と関連付けられるのが楽しいのか、最近はもっぱらSF小説に凝っていたが、それ以外にも実は哲学の類が科学と親和性が高いことに気づいた。
「かなり特殊な用語が多いが、科学の原点はこういう哲学だからねぇ。まあ有名どころを読んでみようと思ったわけだよ」
「あーなるほど、そういうわけなんですね。だとやっぱり原点はアリストテレスですか」
「おお、話がわかるねぇロブロイ君。そうなんだよ。事象を観測し、法則を推察する。その原点はどうやらこのジャンルらしい」
「難解な用語も多いですが面白いですよね。昔は神話も科学も全部一緒でしたし、でもひとつの物語として読み解いていくと今に結び付いているというか、私の好きな物語もやっぱり原点は神話だったりしますし……あ、あのすみません、えとお邪魔しちゃって」
普段は話せないような話題であるがゆえにロブロイは饒舌になっていたが、そのことを自覚した途端、急に恥ずかしくなった。めったに共感を得られるものではないから照れてしまったというのもある。ネオユニヴァースもいつの間にか近くに来ていた。興味深そうに二人の会話を聞いている。
「あ、ユニヴァースさん、ユニヴァースさんは何を読んでいるんですか」
「これ……とてもINTI」
「あ、『ウマネスト物語』! ゲームのノベライズですね。面白いですよね。王道の踏襲がありつつウマ娘らしさで困難を切り開いていく様は唯一無二ですし」
「そう。“アナザーバース“との”交信”。しかも開かれたディメンションは誰でも“見る”ができるよ。ふふふ」
「ほう、じゃあ私も今度読んでみるとしよう」
「いいですね。あ、私は三章が好きです。オグリさんの話で、再起を有馬になぞらえているんですけど、やっぱりその流れが美しくて、王道過ぎるとか言われちゃうかもしれないですけどほんとにすてきで――」
その後も話題は様々な本に向かった。三人の会話は終わらない。図書室はいつになく賑やかだった。特にヒートアップしたロブロイが部屋で枕に顔をうずめたのはまた別のお話。