タキオンにレースや研究に対する熱が多少戻ってきていた。春一番が情熱とアイディアを運んできたらしかった。同時に悩みの種も芽吹いていた。卒業式も間近に迫っている今、学園に残るか迷っていたのだ。正確には今年は残留の意思を示してはいるから、今更卒業というのは学園側にも迷惑な決断である。トレセン学園の入卒事情は少々特殊であり、私立大学のように年齢を問わないケースが多々ある。基本的には高等部で三年間過ごし、順当に卒業という流れがほとんどだが、本人の希望によっては在学期間を引き延ばすことも、短縮することもできるのだ。両ケースともたいていはレースに関連することが多い。怪我で療養機関が長引いた場合やすぐに引退を決めた時などだ。現にタキオンは皐月賞を終えた後、残って学園の施設を使うか卒業して海外へ行くかを天秤にかけた。その時と同じような悩みを今も抱いていた。
グラウンドを少し走って、足の状態を確認する。好調である。レントゲンでも骨は完治していたようだし、痛みもない。リハビリを根気強く頑張ったおかげで筋力もある程度は戻ってきていた。少し調整すればレースにも復帰できるだろう。だがあと一年、レースに出場したとてどうなるというのか。勝てるかもしれない。だがかつてのライバルたちは(怪我をするまでライバルだという意識もしていなかった同期たちは)もうはるか高みへ行ってしまった。追いつくことができるのだろうか。いや、そもそもかつてのキレを取り戻し、タキオンの目指す可能性へ近づけるのか、そんな漠然とした不安感と、きっぱり引退をして研究に精を出した方が効率良いのではないかという逃げ道が、タキオンに付きまとっていた。
「ははは、私はこんなにもうじうじしていたか。信じられないな」
どのみち贅沢な悩みなのだ。未練がましく、過去の自分の影を恐れているだけなのだ。けれどもこう言った内向的な悩みというものは無から生まれ、いつの間にか消えているものだ。まとわりつく粘度の高い気体を、合理性や正論ではがすことは不可能である。
「だいぶ動きも良くなったみたいだ。そろそろ終わりにしよう」とトレーナー。もう少し走りたい気分だったが、タキオンは従った。ストレッチをしながらつぶやいた。
「ジレンマは仕方がない。私はとにかく走りたいんだ」
言葉にしてしまうといくらか落ち着いた。決して無理はしない。努力を水の泡にする愚行はもうしないと決めたのだから。だがそのボヤキが聞こえたトレーナーは練習量に不満があるのだと勘違いし、なだめるように言った。
「わかった。もう少しトレーニングメニューを見直してみる」
「ああ、いやそういう意味じゃないよ。ただレースに復帰できそうなことが、うれしいんだ。君のおかげだよ、トレーナー君」
「頑張ったのはタキオンだ。よくここまで回復してくれた。ありがとう。本当に」
正月以来、若干ぎくしゃくしてしまう場面もあったが、お互いになるべくそのことを口に出さないでいると、次第に意識から消えていき、時の流れがすべてを解決してくれた。彼の献身によってタキオンは穏やかに、着実に回復を遂げた。秘密を共有し、かつ互いにそのことを忘れようとする。今まで通りあけすけに、されど言葉は選ぶ、そんな関係に進展していた。これほどまでに強い絆の芽生えもないだろう。相対性の感情が二人の間に柔らかく流れていた。
入念なストレッチを終えると汗で濡れたジャージを着替え、グラウンドを後にした。このところタキオンは寮のベッドで毎日22時には眠りについていた。研究にリハビリに読書にと、過密なスケジュールのはずなのに、不思議なことに睡眠時間も増えていた。一日が引き延ばされたような感覚さえある。タキオンは一般相対性理論に照らし合わせて現状を分析しようとしたが、しっくりとした解釈はできずにいた。寮の部屋に戻るとアグネスデジタルがベッドの上で正座をして待っていた。その光景がなんだか奇妙で、タキオンは目を丸くした。だしぬけにデジタルはタブレットを取り出した。
「タキオンさん、折り入ってお願いがあります。あたし、その、これを読んでください」
言葉はつっかえていたが、はっきりと言った。普段自己主張をあまりしないデジタルからのはじめての「お願い」だった。タキオンは努めてラフに受け取って、椅子に腰かけたのち画面をのぞき込んだ。以前描いていたタキオンをモデルにした漫画の完成版らしかった。より鮮明な線で苦悶の表情や痛々しい動作が表現されている。松葉杖の劣化まで描かれており苦痛の真に迫っていた。最後の方は大幅に加筆されており、怪我から復帰してレースに出場し、大団円で締めくくられていた。
一通り目を通したあたりで、デジタルはぽつりぽつりと話し出した。それはもはや懺悔であった。
「あたし、ずっと考えてました。どうしてこんなの、しかもタキオンさんをモデルにして描いちゃったんだろうって。苦しんでるウマ娘ちゃんなんて、あたし見たくないはずなのに。考えても全然わからなくて、でも本当はそうじゃなくて、わかってたんです。みんな、それぞれが苦しみながらもがきながら走っているんだって、あたしはもう見て見ぬふりをしちゃいけないんだって、つらいのはみんなが真剣だからで、すみません、あたしの自己満足なんです。でもタキオンさんには隠しちゃいけないって思って――」
デジタルにも自分の感情が正しく言葉にはできておらず、当然ながらタキオンにもその気持ちは伝わらない。けれども確かに感じたのは、デジタルが孤独に戦っていたのだという事実である。普通であれば自分がモデルになった話など、できが良ければ気恥ずかしさが、あるいは気に入らなければ憤怒が湧いてくるものだが、タキオンは絵の中で自分がどれほど痛めつけられようとも気にも留めなかった。自我は当然自分のものでありプライベートな領域だが、アグネスタキオンという事象そのものはすでに共有されていると考えていた。デジタルもそんなタキオンの考え方を知っていたから、描いてしまった以上、隠すのは不義理だと思った。だから読んでもらったのだ。
最後のページをもう一度見る。とびきりの笑顔だった。はたしてタキオンはこのように屈託なく笑うのだろうか。それはデジタルの願いであった。すべてのウマ娘に祝福を、それが虚構であっても、非現実的な祈りであっても、願わずにはいられないのだ。またほかのページを見る。絵の中のタキオンは実に多彩な表情をしていた。
「私はこんなに苦しそうな顔をしていたかい?」
「……ええ、はい」
きっと映像や練習中の姿を見ていたのだ。決して目を逸らさず。この物語にはデジタルの苦痛と喜びが詰まっている。タキオンの姿に間借りした彼女の苦悩そのものだった。
「ありがとう、君も孤独に耐えてきたんだねぇ。少し勇気をもらえたよ」
それは偽りのない本心であった。人の情熱が自らのなかへとするりと落ちて、呼応する。
「ぜひ出版してくれ。夏にイベントがあるのだろう。なんなら私の名前を出しても構わない」
「いえ、あ、その、考えさせてください……」
デジタルは濁したが、タキオンは必ず本になるであろうことを確信していた。もしこの物語が誰かを救うなら、誰かを感動させるなら、傷つくことを恐れずに知らしめるべきなのだ。科学がそうであるように、素晴らしいものは共有するべきである。