たづな理論、あるいはタキオンに至るまで   作:灯眼

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16.バードメン

 春一番が吹き、雪も解けはじめる。もうすぐ卒業式だった。引退して企業に就職する者、何らかの形でレースに関わる者、フリーでレースに挑む者、空白を抱える者、それぞれが未来を夢想し、そこへ至る道程が目の前にある現実であることを知る区切りの日だった。タキオンは在校生代表として送辞を述べる大役を仰せつかった。今日は区切りの日だ。原稿を起こすため机に向かって、ペンを掌で弄びながらタキオンは思考する。人は誰かに贈る言葉を記す時、どうしても自らを省みてしまうものである。真の言葉は内側に潜み、腹を割らなければ引きずり出せはしない。

 タキオンは去年に決着をつけなければ気が済まなかった。期待に応え、さらなる飛躍を。そのためにやらねばならないことがある。これからのこと、過去のこと、悪夢のこと、悩みを抱えている今のこと、あらゆる物事を並列に、泡のように浮かんでは消えていく情景を、偉大なる叙事詩として書き留める詩人の如く言葉で表そうとしていた。けれどもペンは一向に進まず、シナプスがつながっては離れる明滅の感覚だけが、残像として残っていた。何もない、ある意味では充足した時間である。

「――悩んでるんだって?」

「また幻覚かい?」

「え、なんだよそれ」

「あ、ポッケ君、どうしたんだい」

 極度に集中していたせいで開いた扉の音にさえ気がついていなかった。目の前にいたのは幻覚ではなくジャングルポケットだった。彼女は目線を少し逸らし、前髪をいじりながら続けた。

「あー、なんつーか、悩んでるって聞いてな。また引退云々かよ」

「ああ、そのことかい。口には出してなかったつもりだが」

「顔に出てんだよ。前みたいに」

「ふむ、私は『何を考えているかわからない』と評されたことさえあるんだがね」

「違いねえ、でもわかんだよ。俺には」

 ポケットは笑った。強がりの仮面の笑みだった。内心ではタキオンの次の言葉を少し恐れていたのだ。タキオンは正直に答えた。

「まあ、思うところがないわけではないが、私は残るよ。やり残したことがたくさんある」

「ほんとか、ならいいんだ……」

 はにかんだ笑みはそのままに、それでも少しだけポケットの表情が柔らかくなった。歯の奥にものが挟まったような台詞に多少引っ掛かりはしたが、嘘ではないことがわかったからだ。今度はタキオンがからからと笑った。

「私が悩むなんて、らしくないって思っているかい? 確かに合理性に欠いているのは認めるよ」

「あ、なんでだよ。悩むのは悪いことじゃねえだろ。あんたは頭がいいからその分考えるんだろう、それこそあまり顔に出ないっつーか、自分でも気づいてないだけで」

「あははは! よくわかっているじゃないか、最近気づいたんだ。私はどうやら悩み多き思春期の乙女だったらしい!」

「乙女って、それこそらしくねーよ。まあいい、じゃあな。早く、無理せず、治れよ。最強の頂で待ってるぜ。それだけだ」

 その不敵な挑発は効果てきめんだった。もともと発破をかけるつもりで来たのだ。タキオンの闘争心に火が付いたのを感じる。闘争心! そんな汎用な感情が自らの中にあったとは。タキオンは歪んだ微笑を浮かべる。意図して作った狂気の笑みだった。

「なあに、すぐに追いついてみせるさ」

 ポケットが帰ってから、タキオンは静かになった部屋でようやく理解する。きっと誰かに背中を押してもらいたかったのだ。けがや研究の行き詰まりを隠れ蓑にして、いじらしく待っていたのだ。激励を受け取ったのなら、あとは飛ぶだけだ。行こう。

 ペンがのびやかに走る。――たづな理論が完成する。




そろそろ大詰め、次は少し長いです。
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