タキオンは晴れやかな気持ちで卒業式を迎えた。理論の片手間に送辞も完成させていた。原稿のほとんどはネットで探してきたありきたりな文字列の寄せ集めである。ただ最後だけ、自分の言葉を混ぜた。それは送辞というよりも演説に近かった。
「あなた方の駆け抜けた場所を私たちは通らないかもしれない。だがたとえ一人でも踏みしめた足跡は轍となり、細い道ができる。その小さな道はいくつもの川が海へと合流するように、大路へと収束する。あらゆる可能性を切り開くには、その扉を叩くには、あらゆる道が必要だ。だからあなた方は夢に向かって邁進してほしい。私たちは勝手にやる。あなた方も望むままに。いずれ道はつながるのだ。だからすべての夢が叶うように、私は祈っている。夢の果てでまた会おう」
おおらかで力強い言葉だった。傲慢ともいえよう。本来であれば理事長の激励に含まれるような内容であるが、今のアグネスタキオンには不思議な説得力があった。拍手が響き渡る。
式は一抹の寂しさを包括した熱狂にて締めくくられた。それぞれがそれぞれの道を行く。足早に帰る者、教室で思い出に浸る者、後輩たちとずっとおしゃべりに興じている者、タキオンは群衆を抜けて研究室へ向かった。構想はできた。あとは観測だ。論理だけでは意味がない。この目で見るのだ。
研究室の扉を開ける。部屋の中にはすでにトレーナーがいて、件の時計を持ってきていた。オリジナルの目覚まし時計である。理事長に考証して正式に借り受けたものだ。三月の初めころに直談判しており、ようやく許可が下りたのだ。小細工はせず、ただ嘆願しただけである。正月の悪夢はすでにぼやけて形を失っていたが、正気を失った夢、それが改変された真実であるという予測、そして諦めきれない執着を洗いざらい伝え、無理を承知で頼み込んだ。当然理事長は悩んだが、内部構造を調べないこと、使用時はトレーナーの立ち合いの元に限ることを条件に、許可を出してくれたのだ。
「ありがとう、本当に。これで次へ進める」
「警告! くれぐれも無茶だけはしないでくれ」
表情は旅立ちを見守る親のように不安げである。理事長の心は常にウマ娘たちの安全と挑戦のはざまで揺れていた。タキオンの願いがたとえ危険の伴ういばらの道にあったとしても、叶える手助けをしてやりたいと思ってしまうのは深い愛情故だった。
時計を受け取る。必要な器具はこれとメガドリームサポーターだけである。ソフトを起動する。
「タキオン……」
「モルモット君、待っていてくれ。私は見てくる。すべてを。だから、待っていてくれ」
トレーナーの目は澄んでいた。何があろうとも彼女の選択を見届ける、その覚悟を宿した瞳は鏡のように狂気的だった。
「狂っているのは私だ。君と同じくらい」タキオンは笑った。
仮想世界に潜る瞬間、眠りに落ちる間際のような心地よい酩酊が訪れた。鏡面世界を通り抜ける。そこには瓜二つの自分がいた。
「考え直す気はないか」
「やあ久しぶりだね、幻覚君。ふん、愚問だよ、それは」
「見ただろう、トレーナー君の心配そうな顔、カフェやポッケ君も同じ顔をするだろうさ。理解できない、とね」
「くくく、そうだろうね。科学者の探究は孤独なものだ。天蓋に近づくほどに。だが、私一人ではたどり着けなかっただろう。いろんな要素がかみ合って、不思議な縁があったから私はこの先へ進める。もちろん君もだ。私は自分の幻覚と話せて本当に良かったと思っている。感謝しているよ」
「私かい?」
「ああそうさ。どうやら私は君を、超常現象を知覚してもなお自我を崩さないでいられるらしい。それがわかった。君が見ていてくれるから、安心して狂気の一端を覗き込める」
「不安定だ。つり橋を渡るよりも炬燵の中でごろごろしていたほうが性に合っている。それは薄々感じているだろう」
「まあね、でも道があるのだから行くしかない。私はウマ娘だ。走りたくて仕方がない。それも本心だ」
「虚勢だ。薄情だ。感謝しているなんて、口ではいくらでも言える」
「ありがとう、君が否定してくれるから、私は思う存分自分に酔うことができる。世界は今、私を中心に回っている。傲慢にもそう思ってしまうよ」
反転した鏡面世界のタキオンは徐々に消えていった。同時に具体的な世界が構築されていく。太陽が、水が、草木が、建築物が、次々と形を成していた。シャカールが最後に渡したパッチには仮想世界の条件を事細かに設定できる疑似管理者アクセス権限が含まれていた。できるだけこちらの世界に近く、かつタキオンに都合が良いように構築する。観客はおらず、管理者もいない自由な世界。タキオンを咎めるものは文字通り存在しない。
「さあ実験開始と行こうか」
仮想世界へ降り立ったタキオンは中山レース場にやって来た。タキオンの原点、弥生賞の条件を模していた。入念な準備体操を済ませると、合図もなしに走り出した。
タキオンがこれから行うのは「見立て」である。自身を粒子に見立て、レーンを加速器に見立てる。仮想世界で行うのはフィードバックとセーフティ機構を利用するためだ。タキオンに危害が及ぶ何らかの影響が出た場合、三女神AIの原則に則って速やかに修復される。正月の失態を繰り返さない。狂気と正気のはざまを命綱をつけて往復するのだ。
三次元的に観測不可能な現象をこの目で見るのだ。
タキオンが打ち立てたたづな理論とはいわゆる肉体と魂の研究である。霊魂やウマソウルなど一般的にオカルトと称される現象を仮に「魂」とする。構成粒子は不明だが、物体ではなく波長のようなものと称する者が多いため、クォークではなくフォトンなどのボース粒子の性質が強く出ているのだろう。魂は観測可能なひとつの現象なのだ。観測者によって形態が異なる記述がなされるのは、肉体が三次元に存在するのに対し、魂はその限りではないからだ。いわゆる大きさや質量はなく、その境界線はあいまいである。ゆえに一般的に浸透しているであろう単純な物理法則に捕らわれず、しかもあらゆる分岐世界や多次元に共鳴することができる。ネオユニヴァースが別世界を見ているのはおそらく魂の共鳴によって成り立つ特殊な現象だ。タキオンは彼女のような別世界を覗く能力など持たないが、もしもその現象が再現可能な法則に基づいたものであれば、誰しもが観測できるはずなのだ。現に弥生賞の時に垣間見た幻覚はネオユニヴァースの見る景色に近しいではないか。
さて、ここでタキオンの生涯の研究テーマに立ち返る。なぜウマ娘の脚力は人間よりも優れているのか、筋肉量や骨格だけでは説明のつかない力を持つのはどういうわけか。なぜ共鳴ができるのか。その秘密はこの魂と肉体の相互関係にあるのではないかと睨んだのだ。タキオンの提唱するたづなとは肉体と魂をつなぐものだ。これは未知の力だ。タキオンはその正体は重力子ではないかと推測した。素粒子の世界ではクォークや電子を引き寄せたりする電磁気力、強い力、弱い力、重力という四つの相対作用があるが、この中でも重力子はいまだに観測されていないのだ。
未知を覗くにはどうするか。仮想の万物理論である超ひも理論を活用する。超ひも理論、M理論などでは世界は十以上の次元によってできており、我々の住む三次元よりさらに高次のブレーンが存在するとされている。四次元とは三次元+時間一次元のミンコフスキー時空とも言われているが、それ以上の余剰次元は通常では観測できないほどコンパクト化された状態で存在するとされる。超ひも理論によると、すべての最小の単位はひもであり、その振動によって形を成している。ひもは二種類あり、開いたひもは先ほども供述したクォークやフォトンなどの素粒子の標準模型を表している。そして反対に閉じたひもが重力子を表しているのだ。相対作用のなかでも重力だけは次元を跨ぎ存在することができる。一般相対性理論ではこの重力は時空のゆがみとして表現され、時空間そのものに影響を及ぼすことができる力である。それ以外の物体や現象、肉体や機械のみならず、光でさえ、次元の壁を越えることはない。重力だけがあらゆる次元を超えて力を及ぼせるのだ。
夢か真か、なんにせよ確かめなければ気が済まない。そのための見立てだ。タキオンは重力子を観測するために走るのである。
全力でトラックを駆け抜けた。一周回っても景色は変わらない。速度が足りないのだろうか。タキオンは目覚まし時計を使った。走り出す前まで遡り、そして間髪入れず足を動かす。はじめの方は意識がぼんやりとしてうまくいかなかったが、何度か繰り返しているうちに身体が覚えた。走って、時間を戻して、また走る。延々と何度も。次第に記憶が連続するようになる。回数を数えはじめた。
「これで千……もっとだ」
時折躓いたり、足をくじいたりすることもあった。痛みは幻肢痛のように残るが、巻き戻した段階で肉体は復活する。風邪を切る爽快感と痛みの残滓がひたすらに刻み込まれていく。それらをすべて同時に脳で処理する。許容量を遥かに超えた情報を得てもタキオンは平気でいられた。それは客観視ができていたからだ。今、脳が焼き切れるほどの情報を処理している。狂気に陥りそうになっている。そのことを自覚したうえで受け入れている。ゆえに完全に狂ってしまうことはない。幻覚を見続けてきたことによって得たタキオンの狂気への対抗策だった。
「もっと早く、もっと速くだ」
さらに加速する。
とうとう時間の感覚があいまいになる。何度も巻き戻しを起こしたことによって体感時間は静的時間論に基づいた、すなわちあらゆる瞬間が実在するような感覚に陥る。空間のベクトルがすべて視界内に収まり、面は線へ、線は点へ、点描のような要素の集合体、今も過去も未来もすべてが一緒くたの世界。それを受け入れようとする。
「常識なんて捨ててしまえ、論理だけがある。時間は絶対的に流れる一本の線じゃない。たとえ空想の理論だろうと受け入れろ」
自身を粒子に見立てたタキオンの過去と未来がぶつかり合い、さらに加速していく。だがまだ足りない。通常の加速器では亜光速までは行けても光を越えることはない。時空のゆがみを認知し、足で捉えるのだ。たづなを見るためには次元的により高い視点から眺めなくてはならない。すなわち三次元のブレーンから解き放たれた余剰次元、そこに踏み入るのだ。タキオンの行為は瞑想に似ていた。あらゆる自我や煩悩から解き放たれて悟りに至る修練者の心持で、ひたすらに今を受け入れている。
「走っているのは私だ。過去も未来もすべて私だ。私は加速し続ける粒子だ。アグネスタキオンだ。過去よりも未来よりも速く走れ」
肉体は水の如く沸騰し、流動した。巻き戻される時間に逆らうイメージが湧き上がる。もう少しで時間の観念を掴めそうだ。「質量はない。私の体は虚数だ。ターディオンではない。だから失うほどに早くなる。エネルギーはいらない、速く走るためには肉体なんて不要だ。タキオンに、タキオンになる!」
折れた足から肉がこそげ落ちていく。そのイメージは仮想世界において現実となり得る。骨は砕け、次元の隙間へと飛んでいく。それでもタキオンは走っている。流動する意思、加速する素粒子、それが今のタキオンだ。
あらゆる束縛から解き放たれたタキオンはついに次元の壁を突破する。光さえとらえきれない速度、ついに彼女の足はタキオン粒子にたどり着いた。仮想世界の壁を越えて、あらゆる次元へと足をのばせる。景色は万華鏡、あらゆるものが移り変わり、同時に存在する。世界は膜だ。ブレーンを多重的に眺めていた。まだ脳が処理しきれていない。少しずつ見たいものだけをピンポイントで見れるようにピントを合わせていく。目を凝らせばひもが見えるはずだ。
(見える、見えるぞ。そうだ、たづなとは重力子だ。間違いない。ウマ娘たちの魂と肉体が見える。それを結ぶ閉じたひもが見える。たづなだ。これこそがたづなだ!)
やった! ついに見えた! 真理を手に入れたのだ! はははは! やったぞ!
ジャングルポケットが叫び、トレーナーが光っている。マンハッタンカフェがお友達と一緒に走っている。ゼンノロブロイが執筆作業をしている傍らで、ネオユニヴァースは別次元のネオユニヴァースと会話をしているらしい。シャカールはどうやら七センチを詰め切れたようだ。おお未来のレースだ。アグネスデジタルがダンツフレームと走っている。
よく見るとたづなはあらゆる関係性に存在していた。同期たち、ウマ娘とトレーナー、同室の者たち、親しい友人同士、その結び目は決して普通の目では見えないけれど、確かに存在していた。たづなは魂と肉体だけではなく、あらゆる方向へと伸びている。万物の事象と複雑に絡まっていた。見えないほどのかすかな糸、けれども捉える者がいて、だからこそ共鳴できるのだ。それが確かに見えた。なのに、なのに――
(カフェ! カフェ! お友達が私にも見えているよ! トレーナー君! ほら、足が折れてしまった。痛いんだ。何とかしておくれよ!)
景色は一瞬で蒸発する。タキオンは逆位相の像を残すばかりでそこにはいない。すべての出来事は点となり、なんら意味を持たず、空だけがある。虚ろにうつろううつつの夢が十重二十重に重なり合っている。
(誰もいない。私を見ていない。私は見ているというのに)
たづなとは奇妙な縁なのだ。愛と呼んでもいいだろう。縁とはすなわち因果である。肉体と魂が結びついているのも、友人たちと出会えたのも、確率的にはゼロに等しい奇跡だが、その因果が生じるようにたづなによって導かれているのだ。誰にも見えない鎖のような縁、それを見るということは自分の縁を、鎖を手放すほかにない。皮肉なものだ。タキオンはあらゆる縁を断ち切って、はじめてそれを観測したのだ。
(愛だけが次元を超える、誰かがそう言っていたな)
はたしてこんなにも孤独に弱かっただろうか。ああひとりだ。すべてがそこにあって、代わりになにもない。”私”はいない。ただの粒子だ。もはやアグネスタキオンではない。見えているというのに。アグネスタキオンは確かにそこにいたのに、過去も未来も今と一体化しているのに、今、そこにいない。泣きたくなった。けれども涙など流れるはずもない。タキオン粒子はただ加速する。光より遅くなることはない。そういう性質だからだ。
「だから言ったんだ。薄情だって」
(ああ、幻覚君、ああ私は見たんだ。なのに、なのに)
「君が見たのはバグのようなものだ。わかっているだろう。あと私は幻覚じゃない。君だ。これもわかっているだろうが。あらゆる可能性のひとつだ。君よりちょっとだけのんびり屋で、大人びていて、無理な変化を望まない君だ。トレーナーと実験をして、同期たちと走って、みんなに世話を焼いてもらって、それで幸せな君だ。私も同じ仮説にたどり着いたが、実験はしなかった。恐怖が勝ったからだ」
(停滞を選ぶなんて私じゃない)
「私だよ。ほかにも色々いる。モルモット君と恋仲になっていたり、故障して再起不能になっていたり、逆にプランAを完璧にこなしていたり、可能性は無数にある。君が見たのが私というだけで、ちなみに私はアナザーバースの研究をしていてね、ほかのタキオンよりもちょっとだけ感受性が豊かなのだよ。まだまだ研究途中だが。ごらん、ウマ娘たちの因果を。願いが、彼女らの力の根源だ」
誰かが願った。あのウマがもしも怪我なんてしなかったら。
誰かが願った。もしも人とウマが一心同体になれたら。
誰かが願った。もう一度、出会えたら。
願いや思いが縁を結ぶ。あらゆる世界を愛でつなぎ、目に見えない力となって強烈に引き寄せ合う。たづなの正体は、誰かの願いによって形作られたアルケーなのだ。
(そうだ。わかったのなら証明が必要だ。持ち帰らなくてはならない。発表して時代を進めなければならない)
「同意したいが、それじゃ都合が悪い。極端だがこんな世界もある。統計学的にはゼロに近い確率だが」
とある可能性世界を共有した。
タキオンが提唱したたづな理論により科学にブレイクスルーが起き、ウマ娘たちは皆、超光速の世界に踏み入ることができるようになった。だがそれは誰もが三次元に留まらず、本来交わるはずのなかったアナザーバースへと侵食できることを意味する。ふたつの世界が交わり、均衡が崩れ、ついには崩壊してしまう――
(いやだ、そんなのは望んでいない!)
未来を拒絶しようともすでに結果がわかってしまう。このままでは感情すらもいずれは消え失せ、ただありのままに明滅を受け入れるだろう。
「考えてもみてごらん。たとえばひとつの感動的な物語があったとする。それはフィクションだ。だがその物語に勇気をもらって病気に立ち向かうものがいたりする。世界は現実だろうと妄想だろうと影響を及ぼし合うものだ。ものすごく不健全な例えばウマ娘たちが言葉にもできないような凌辱を受ける本があったとしたら、規制され、ことによっては抹消されてしまうかもしれない。いとも簡単に、だ。次元が重なるというのは、そういうリスクを伴うわけだ。めったにないかもしれないが。すべてがぐちゃぐちゃに混ざった絵の具のような世界など私は望まないだろう。ただ小さな綻びを覗き込みたかっただけで」
(いやだ、そんなのはいやだ。私は見たかっただけなんだ……)
「今なら大丈夫だ。幸いなことにまだ間に合う。三女神はウマ娘の幸福を願う。それだけはどんなバグでも覆せない大原則だ。だからいかなる状況でも確実に抜け穴を用意してくれる。ところで君のポケットには目覚まし時計がある。さあ、全部、夢にしてしまおう」
質量を持たないはずの体は、なぜか形のある時計を持ち続けていた。これを使えばフィードバックは起きず、メガドリームサポーターの見せた夢として処理してしまう。あくまで仮想世界で見た出来事だと切り捨てれば帰ることができるのだ。無論、ここで見たことは次第に忘れてしまうだろう。
(それもいやだぁ……)
タキオンは拒んだ。せっかく見たのに、せっかくたどり着いたのに! 夢を捨てられるわけがないじゃないか。けれども孤独も同じくらい、いやだった。
「まったくわがままだねぇ我ながら」
(うう、うう、耐えられない。私は証明したのに、それが全部消えるなんて……)
「大丈夫さ、これは気休めかもしれないけど、君がこの景色を見るためにいくつもの可能性世界が作られた。その時計だよ。時間のベクトルを無視するのではなく、新たに別次元の時間断層を生み出す装置なんだ。単純な逆行ではなく厳密には別世界を生み出してそこに移る、コピーして修正すると言ったほうがいいか。だから過去は変わらない。過去を修正したという過去がいくつも積み重なっていく。そんな断層の隙間から私は忠告しに来たというわけだ。正確には理事長が時計を使った世界線だけれども。記憶は連続することもあるようだし、根本が近いからねぇ、こんなにも近く接触できたのははじめてだよ。でもずっと居たんだ。君が理論を思いついた時からずっとね。考えることは同じだから。君が骨折した世界ではそのまま折れた足の私が走っているかもしれないし、時計を覗いて狂った世界ではそのままリハビリをしているかもしれない。わからないけどね。おっと世界を作ったことを責めるわけじゃない。それは日常的に行われていることで何ら特別じゃないから。あらゆる場面で生じる選択肢、そこで選ばれなかった可能性の世界も存在する。無限に。だからそのことは問題ない。大事なのは生み出された世界があるということだ。私は私が可能性の果てにたどり着いたことを覚えているし、過去の私が残した足跡はどこかに必ず残っている。見えなくはなるだろうけど。だから大丈夫。君は確かに見たんだ。たづなを。私が保証する」タキオンには自分自身が語る言葉が、少なくとも自身が信じるに値する真実であると理解できてしまう。
(それでも! 私が覚えてないと意味がない! 納得が必要なんだ、どうしても)
「なぁに、心配せずともいずれ別のやり方で、何ひとつ失わずたどり着けるさ。天才の私が言うんだから間違いない」
おどけたように笑う別次元のタキオン。まったく同じ顔で、こんなにも慈悲が籠ったあたたかな笑みができるのか、と粒子は驚いていた。
まだ、こんな笑みは浮かべられないだろう。ようやく、今はその時じゃないと思い至った。
(ううわかったよぉ)
名残惜しさを隠しもせず、駄々をこねる子供の形相で、時計を使った。
――カチリ
次で最後です。