たづな理論、あるいはタキオンに至るまで   作:灯眼

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2.日常とヒント

 タキオンの入院生活も一ヶ月が過ぎた。ギブスもとれ、退院も間近である。らくがきだらけのギブスを真っ二つにした時に現れた細くなった足とひどいにおいは今でも記憶に残っている。

 タキオンはリハビリ室にて歩行練習をしていた。松葉杖を使ってえっちらおっちら壁側に寄ると、そこから手すりにつかまって、両足を床につけた状態での歩行を行う。傷の痛みもまだ残ってはいるが、それ以上に入院生活による筋力低下を感じていた。少しでも力を抜けば膝から崩れ落ちてしまいそうだ。

「ぐっ、うう」

「大丈夫ですか、ゆっくりでいいですよ」

 リハビリの先生が肩を支えてくれた。それから歯を食いしばりながらしばらく歩いてみた。限界がきたのを察したのか、先生はタキオンを椅子に座らせて「少し休憩しましょうか」と言って何かを取りに行ってしまった。

 タキオンは貧乏ゆすりをしながら辺りをきょろきょろと見回していた。それにしても疲れた。歩くだけだというのに。そんな風に思っているとふと幻覚が目の前に現れた。

「何をイライラしているんだか。ウマ娘のけがが容易く完治しないのは当たり前だろう」

(また君か。いや、確かにそうだ。なぜこんなにも焦りのようなものが芽生えているのだろう)

「まあ仕方がないさ。走りたいという欲求は時に三大欲求を越える。叶わなければその分渇望も強くなるのは当然だ」

 幻覚がなだめるように言う。タキオンはけがをしたレースのことを思い出さずにはいられなかった。その日は残暑が厳しく、ターフは渇ききっていた。全身も雨の日と比べれば、ばねのようにしなやかに動く。コンディションは良好。そんな中で、ジャングルポケットの堂々とした宣戦布告は、ぎらぎら光る太陽を想起させた。彼女はゲート入りの前にタキオンに啖呵を切った。

「今日こそぜってー勝つ! 覚悟しやがれ!」

「ああ、くく。楽しみにしているよ」

 そんないつものやり取り。事実タキオンは模擬レースも含め勝ち越していた。だが慢心はなく、晴れやかな気持ちで臨むことができるのは、きっと互いに実力を認め合っているからだ。ゲートイン、そしてレース開始。何の問題もなく、足は動いた。絶叫調と言っても良い。前目につけ、逃げをけん制しつつタイミングをはかり、コーナーを越えたらスパートをかける常勝の策。だが、この日は不発だった。コーナーを曲がったところでタキオンは足に違和感を覚えた。背後からは力強い足音。負けられないと意地になって大地を蹴るも、思うように伸びない。そして――

(気がついたら病院だ。いや意識がなくなったわけじゃない。結果も、痛みも全部覚えている。ただいまだに脳が敗北を認めたがらないのだ)

「そう言うこともあるさ。割り切りが肝心だとは思わないかい」

(そうだ。さっさと割り切って次に生かすべきだ。私ならそう言うだろう。トレーナーにはそう伝えた。なのにこんなにも悶々とするのは、やはり私もウマ娘ということか)

 ぼんやりと思考を繰り返していると、先生が戻って来た。なにやらゴーグルと見たことのある機器を持っている。

「次はこれやってみましょう。VRウマレーター、学園から寄付されたんです。メガドリームサポーターほどじゃないですが結構好評なんですよ」

「おや、懐かしいね。最近は使うこともなかったよ」

 タキオンはゴーグルをつけ、疑似世界を走った。トレセン学園の高性能なソフトとは違い、あくまで肉体に反映されない疑似体験ではあるものの、久方ぶりのランニングは爽快だった。これはリハビリというよりも、精神的なストレスの緩和に用いられるのだろうとタキオンは推測した。そしてふと、VRウマレーターに関するアイディアを思いついた。これは今後の研究に活かせるかもしれない、と。

 かくしてリハビリは順調に進み、まだ筋力低下の影響は甚だしいものの、ある程度は歩けるまでに回復したので、タキオンはとうとう退院した。春の名残を感じさせる初夏の候、不自由さは残るものの、足取りは軽かった。すぐにトレセン学園の実験室に赴いた。久方ぶりなので埃をかぶっていると思われたが、予想に反してずいぶんとこぎれいであった。トレーナーが定期的に掃除をしていたのである。むしろタキオンが散らかさない分、以前よりも整理されていた。一見散らばっているように見えてもタキオンは配置を覚えていたから、もし器材の位置が変わっていたりしたら「使いにくい」と文句のひとつでも言おうと思った。しかし、そこはさすがタキオンのトレーナーである。器具や薬品棚には決して手を付けず、的確にごみや日用品だけを片づけていた。

(これじゃ私がずぼらみたいじゃないか)

「実際そうだろうに」

(それはそうなんだが、ねえ)

「いいじゃないか、モルモット君に任せておけば。おっと」

 幻覚が消えるとマンハッタンカフェがやって来た。

「やあカフェじゃないか。ずいぶんと久しぶりだねぇ。一度もお見舞いに来てくれなかっただろう。ポッケ君やダンツ君は何回も来てくれたというのに」

「入院してたんですか、知りませんでした」

「えー!? ひどいじゃないか。私が必死に闘病生活を送っていたというのに。君がそんな軽薄な奴だなんて知らなかったよ」

 タキオンは涙を流すふりまでして大袈裟に言ったが、カフェいつも通りな軽口に妙にうれしさを覚えていた。

「冗談です。病院はほら、お友達が喧嘩しちゃいますから。ああいうとこは霊が多くて面倒なことになるんです。退院おめでとうございます。タキオンさん。これお祝いのお菓子です。紅茶と一緒にでも」

 カフェは紙袋を渡した。有名店のバターサンドである。ちなみに八個入り。甘味に飢えていたタキオンにとってはこの上ない僥倖だった。ねっとり「か~ふぇ~」などと言いながら近づいて、にやにや笑いを浮かべるほどには喜んでいた。

 カフェは苦々しい顔を浮かべ「では私はこれで」とそそくさと帰ろうとしたが、タキオンが「ゆっくりしていきたまえよ」と引き留めるものだから、なし崩し的にここでコーヒーを飲んでいくことにした。

 カフェは実験器具に混じっていたサイフォン式コーヒーメーカーを取り出すと、あらかじめ挽いてある豆をロートに入れた。フラスコ部分には水を注ぎ、アルコールランプに火をつけた。その間、タキオンはティーバッグをカップに入れてお湯を注ぎ、できた紅茶に砂糖をたっぷり入れ、それを片手にPCの電源を入れた。椅子に座ってさっそく、バターサンドをかじり、紅茶をすすった。甘味が脳へと染み渡る。

「ところでカフェ、ラプラスの悪魔というのは知っているかな。何、君のお友達とやらがそう言う超常なのかと思ってね」

「さあ」

「虫の知らせとか、そういうのを経験したことは」

「ないわけじゃないですけど、そんなには。危ない時になんとなくお友達が教えてくれるくらいですかね」

「ふうん。霊的存在でもはっきりした予知の実証はないと」

 タキオンが今考えているのは、メガドリームサポーターに搭載された三女神AIについてである。AIによる合理的かつ個別性に即した指導を行うのが、件のソフトの目的だが、それほどに高度なAIであれば、疑似的な未来予知も可能なのではないかと踏んだのだ。例えばこの足、医師は治癒までに半年を要すると述べていたが、タキオンの肌感覚的にはそれほど長引かないと思っており、若干の相違がある。そこでAIの出番である。タキオンの性格や普段の生活様式、さらには膨大な医療データをもとに、治療計画を打ち出してもらえば、その認識の相違が埋まるのではないだろうか。タキオンはAIによる未来予知やかつて実現不可能と断じられたラプラスの悪魔についての文献がないかを調べた。

「ふむ、量子論的には揺らぎがあるから予測は不可能と、これは前にも見たな、いやそこまで実用的でなくとも、こういうロマン主義的な研究は……」

 ぶつぶつと誰の耳にも届かない程度の独り言をこぼしながら資料を漁る。バターサンドへと伸ばした手が空を切ったところで作業を中断した。紅茶のおかわりを淹れようと思い振り向くと、カフェがまだコーヒーを淹れている最中だった。

「まだできていないのかい」

「ええ、サイフォンとはそういうものです」

 サイフォン式はランプの炎でガラス容器に入ったお湯を沸かすので、時間がかかるのだ。カフェは無表情でじっと揺らめく炎を眺めている。ごぼごぼとお湯が沸騰し始めたので、コーヒー粉の入ったロートをセットした。お湯がガラス管を上っていく。この現象がサイフォンである。お湯と粉をかき混ぜ、しばらく待ち、火を消すと完成したコーヒーはまた下のフラスコ部分に溜まっていく。褐色の液体をカップに注いで、ようやくできたコーヒーをカフェはうれしそうに飲んだ。

「知っているけどね、効率が悪いじゃないか」

「余暇ですよ。待つのもコーヒーの醍醐味です」

「そういうものかね」

「そういうものです」

 話をしながらタキオンはカフェの分のバターサンドを頂戴しようとしたが、見えざる何者かに阻まれてしまった。

「いいじゃないか、私がもらったんだからすでに所有権は私にあるはずだ。カフェ~お友達とやらにそう言ってくれないかい」

「食べ過ぎですよ。今日で全部なくなるとは思ってませんでした」

「むう、いいじゃないか。脳が糖を求めるんだ」

 喚くタキオンを無視して、カフェはコーヒーをすすった。久しぶりに淹れたはずのサイフォン式コーヒーのえぐみのある苦み、それにタキオンの声が重なると、なんとなく日常に戻ってきたような気がするのであった。




2話目です。タキオンの研究室の戸棚には実験器具に混じってしれっとカフェ用のサイフォン式コーヒーメーカーが置いてあると思う。
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