タキオンは毛布にくるまりながらシャカールに言われたことを思い出していた。
(そうだ、たづな理論には続きがある。いや続きなんてもんじゃない。まったく別のもっと突拍子もないものだ)
たづな理論を打ち立てたきっかけはネオユニヴァースとの邂逅であった。彼女はタキオンに実験にすら協力的なある種特異なウマ娘であり、クラスメイトとしての交友はあったものの、詳しく話を聞く機会には恵まれなかった。正確に言うならば、会話となるとタキオンの好奇心の赴くままにどうしても実験における有効性の部分だけを聞こうとしてしまうのだ。一度、まったくのネオユニヴァースの主観でしっかりと話を聞いてみたいと思っていた。タキオンはある晩、彼女の元を尋ねた。その日は星の降る夜で、ネオユニヴァースは校舎の屋上にいた。ぼんやりと星を眺める彼女にタキオンは極めて穏やかな口調で話しかけた。
「やあユニヴァース君。いい夜だね」
「……アファーマティブ。明滅は“交信“だよ」
「君は星空と話をしているんだね」
「……うん。光の“観測“は……”断崖を埋める”ために」
「するとどうなる?」
「『愛』が……可視化される」
「なるほど」
このような具合にタキオンはゆったりと会話をした。話は同時性について移った。時間は本来連続するものだが、ネオユニヴァースの認識はもしかすると不可逆の時間に捕らわれていないのではないかと踏んだのだ。
「君は過去や未来に偏在しているのかい?」
「ネガティブ。“エントロピー”の増大……『わたし』の揺らぎが、ネオユニヴァースを今に留める」
「ふむ」
「“観測“はアナザーバース……そこではいつも”断絶”がある。“つながり“を失う。ネオユニヴァースはまだ、見えない」
アナザーバースと聞いて、タキオンは弥生賞のことを思い出した。ベストコンディションのアスリートがゾーンと呼ばれる異常なまでの集中力を以て望む景色は、「今」から解き放たれたまさしく別次元の世界である。そこで見たものは色濃く、けれども不確かな形としてタキオンの脳裏に刻み込まれていた。不可解な一対の生物。二足歩行の方は人やウマ娘と似ていて、もう一体の四足歩行の生物にまたがっている。その一対は一心同体で、どちらかが欠けてはならず、そして間違いなく、ウマ娘と関係があると直感した。
「その“つながり“は一体何だろう」
「“REEN“あるいは……“たづな“」
「たづなさん?」
「ネガティブ。”REEN”は見えない。でもいつも“FELT“できる。トレーナーと一緒に居れば。もしくは今も」
「例えばだ、それを見ようとするのは馬鹿げていると思うかい」
「……それは――わからない。でも、とてもINTIだね」
タキオンは何かを見ようとしていた。言葉による定義ができない何か。それをネオユニヴァースは感じた。
「……その足が、“ACTI”なら……導いてくれる」
「そうだ、その通りだ。私の足が、きっとたどり着くだろう」
「スフィーラ。ネオユニヴァースは“応援をする“をしようと思うよ」
少なくとも情熱は伝わった。お互いに、それだけで十分だった。それから二人は一晩中、星を眺めながら話をした。
このやり取りがきっかけとなり、タキオンはたづな理論を打ち立てることとなる。この理論はトレセン学園内や一部の学者の耳には届いていたものの、あくまで物理の解釈を面白おかしく、かつわかりやすいように語っただけであり、たとえ理事長やたづなさんが意を唱えなかったとしても、科学の発展に貢献するような理論ではなかった。公表されている部分に限ればだが。
本質はまったく別である。タキオンは頭の中でたづな理論を盤石にしようと試みていた。この世界において「たづな」とは人名であり、なんら固有の意味を持たない。だがタキオンは弥生賞の走りにてかの世界に踏み入った時、確かに見たのだ。それはアナザーバースのアグネスタキオンだった。ふたつの個体が重なったひとつの姿、見た目は違えども、今では確信を抱いていた。一対の生命体、そのつなぎ目の部分、ネオユニヴァースがたづなと称したそれは、言語による意思疎通を図れぬ存在同士をつなぎとめ、さらには高度なコミュニケーションさえ可能にしてしまえる鎖である。このたづなはウマ娘の体にはない。いや見えないのだ。ウマ娘が通常の人体工学では発揮しえないはずのポテンシャルが引き出せるのは、おそらくこのつながりの部分に秘密がある。タキオンはそう考えた。ゆえにたづなとは、ウマ娘の可能性の果てを知るうえでもっとも重要なファクターである。
だがそれは観測することができず、解明不可能な与太話、ゆえにミステリアスなたづなさんの帽子とかけて、タキオンはこのように命名したのである。
眠る前の日課になってしまったストレッチをベッドの上でしながら、この理論の原点を思い返していた。
「確実な観測、そして証明が必要だ。彼女はこう言ったな。“断崖を埋める“と。私にとっての断崖は、おそらく肉体の限界のことだろう」
いまだ完全ではない足をさする。痛みはないが、少々硬い。明確な負荷へ拒絶がある。少しばかり、険しい道だと思った。だが一方で、諦念など微塵も抱いてはいなかった。
タキオンがたづな理論を現在の形で公開したのは、その発想の突飛さや荒唐無稽さを揶揄し、そして観測こそが重要だと自分を戒めたうえで次のステップに進むためである。帽子のなかを暴く、それが禁忌であったとしても、可能性の果てを見るというのはそういうことなのだ。未知に対する宣戦布告であった。