たづな理論、あるいはタキオンに至るまで   作:灯眼

9 / 18
9.フォール

 AI研究はそれ以上の進展を見せず、一旦打ち止めとしたが、未来視はトレセン学園でそこそこ流行した。予測やデータ収集を利用しトレーニングに活かすという方向ではなく、享楽的な側面が強かった。

 秋めく風が吹くころ、タキオンの興味は別のところに移っていた。

 ひとりでストレッチをしながら考える。未来の次は過去についてだ。ぶつぶつとつぶやきながら足をもみほぐしていると幻覚が顔を見せた。

「やあ、元気そうでなによりだ。柔軟は大切だよ、格闘家なんかは試合前に一時間以上ストレッチをするという、しっかりとやりたまえ」

(なんだい、ずいぶんと久しぶりじゃないか)

「このところ充実していたからねぇ、私は必要ないだろう」

(手伝ってくれたらいいだろうに。脳や手が倍になったらといつも思うよ)

「はっはっは、私が手伝ったところで効率が良くなるとは思えないね。船頭多くしてというやつさ」

 全身をある程度ほぐしたタキオンは、むくりと起き上がると、グラウンドの外周を走った。ほとんど人のランニングと同じようなペース、走るという感覚を体に思い起こさせるためのものだった。少し流して、歩いて、また流す。外周をぐるりと回る。それだけでもひどく疲れてしまった。

「はあ、はあ、はあ、まあこんなもんか」

 骨がつながったとはいえ体力の低下は著しい。一朝一夕では治らないことも承知していたが、今までは才能で走ってきたようなものだったから多少の落胆はあった。水を一口飲み、また歩くように走りはじめる。グラウンドを見ると、名も知らないこれからの可能性の塊が、懸命に駆けていた。表情は崩れ余裕はなく、ほとばしる熱が汗を噴き出させ、木枯らしを蹴散らすかのような大きなうねりを想起させる。ダッシュの速度はお世辞にも速いとは言えない。

(私の方が圧倒的に速い。あんなフォームでは……)

「今嫉妬をしたね。珍しい」

(嫉妬じゃない、事実さ)

 幻覚が並走していた。余裕な表情でついてくる。タキオンはこのシュールな状況が自分にしか見えていないことを悟ると辟易した。

「他人のフォームなんて気にしたこともなかったじゃないか。ましてや名前も知らない子なんて」

(ウマ娘は皆一様に可能性の塊だ)

「その通りだよ。だから記録は常に塗り変えられる。刻一刻と新しい時代の扉が開く」

(でもまだ私より遅い。それは本当のことだ)

「誰かと比べたことなんてなかったじゃないか。皐月賞の時なんか、ポッケ君すごい目で見てたよ。私は全然気にも留めてなかったけどねぇ。前しか見てなかったから」

(私はそれほど愚鈍じゃない。知ってるさ、私の走りに羨望や嫉妬が向いていたことなど)

「自覚したのはいつだったか、ポッケ君のダービーか、それともカフェの菊花賞か。自分がその場にいないことが、負けたと思ってしまったことが悔しくてたまらなかった」

(嫉妬してたわけじゃない。ただ気づいただけだ。私自身はどうやら走りたがっている、その本能が止められないことに)

「だからこそだ。自分でやらないと気が済まない。なのに私よりも遅い子が全力で走ってる。私は上手く走れないのに」

(……うるさい、私がこんなに性格が悪くて嫌味な奴だとは知らなかった)

「ごめんごめん、気に障ったなら謝るよ。でも私は私なんだから、ちゃんとわかっているだろう。自分の変化にさ」

(わかっているさ……早く、一刻も早く復帰したいものだよ)

 気がつくとグラウンドを一周し終わっていた。トレーナーがそろそろ切り上げようと言う。慎重になりすぎているきらいがあるが、無理をしても仕方がない。タキオンは指示に従ってトレーニングを終えた。落ち葉がひらりと肩に舞い降りた。

 ――その日の夜、タキオンは学園を抜け出した。半ば無意識の行動だった。ジャージ姿で夜の街に繰り出す。まだ秋だが寒さは骨身に染みる。夜空は暗いが良く晴れていた。星たちと同じくらい、街のあかりは煌々と輝いている。夜に生きる者たちの往来にあって、軽く屈伸をしてからタキオンは走った。鬱憤を晴らすように。痛みはない。心地よい風が吹いていた。

 街のぎらぎらした色彩はむしろ孤独感を煽った。眠れない街、エネルギーが有り余り、光を放つ。誰か、光に吸い寄せられる者を求めて。けれどもタキオンが求めるものはどこにもなく、どこまでも静かだった。だからこそ走る。

 秋の空は気まぐれでうつろいやすい。いつの間にか空は陰り、ぽつりぽつりと雨が降り出した。視界は悪くなり、滑って転ばないよう余計な力も必要になる。だが足は止まらない。雨粒はうっとうしいけれど、火照った身体には丁度良かった。汗とぬるい雨が混じり、どろどろとした泥濘の快感がまとわりついてくる。無茶を咎めるような叱責の雨、それが今のタキオンにはありがたかった。

 後日、タキオンはひどい疲弊感に襲われた。違和感は徐々に鈍痛へと変わった。熱が身体から逃げていかない。すぐに病院に相談するのが望ましいのだが、身から出た錆ということもあり、さしものタキオンもばつが悪かったのか、平静を装い何食わぬ顔で過ごしていた。だがトレーナーは一目見ただけで看破した。歩行の重心が安定しておらず、軽快さがなかったのだ。些細な変化、それだけで不調を見抜いたトレーナーは有無を言わさず、タキオンをお姫様抱っこで保健室へと担ぎ込んだ。当然衆目の元である。

 保健医が席を外していたのでベッドに寝せるとトレーナーは吟味するように彼女の足を見た。関節可動域や音などに注意を払う。専門的な医療知識こそ持たないが、トレーナーたちは皆、応急処置くらいならできるように訓練されている。

「そんなにじろじろ見なくても大丈夫さ。たぶん急激な負荷による一時的な筋疲労だろう。肌感覚だが、骨や靭帯の炎症はないと思うね。あのいやな寒気や異様なアドレナリンの分泌もないし、くく、あんな大胆に抱きかかえて動く必要もなかったくらいさ……そんな怖い目をしないでおくれよ」

 タキオンが茶化そうとすると、トレーナーは静かな怒りの籠った目で黙殺した。今までトレーナーがウマ娘たちに向ける視線は、無邪気なあるいは狂気さえ孕んだ濁りのないものだった。希望、喜び、興奮、そんな純粋な感情。それ以外の目を知らなかったタキオンはこの時、はじめて大人の目というものを知った。誠意と責任、声を荒げることなくそれらを問う大人のまなざしは彼女に恐れさえ抱かせた。もしも説教をしたのならタキオンはいくらでも詭弁を弄しただろう。駄々をこねたかもしれない。これまでタキオンはあらゆる束縛を脚力で、頭脳で、才能で、すべてをねじ伏せ、奔放に探究を続けてきた。自身が優れていることを十二分に理解していたからだ。だからこそ突き刺さった。痛みさえ伴うほどに。夜の愚行は魔が差したとしか言えない。この痛みは好奇心と本能が突き動かした結果であり、そこに悪意が含まれていないかと問われれば首を横に振るしかないのだ。子供が最も息苦しくなるのは自らの悪意を自覚したうえで、それを大人に黙殺されることである。反発さえ許されない凄みが、彼の瞳に宿っていた。

 タキオンはしょんぼりとうなだれた。この苦しい時間が過ぎるのを待つしかなかった。

 少しすると保健医がやってきて簡易的な診察をした。結果としては「おそらく骨に異常はないが、万が一を考えて精密検査をした方が良い」とのこと。トレーナーは受診の準備を済ませた。電話で予約をして車を用意し、今日の仕事を誰かに代わってもらうか、明日に持ち越すか段取りして申し送る。それだけだがてきぱきとこなす彼を見てタキオンはいたたまれなくなった。

 そしてあれよあれよという間に時間は過ぎ、気がつくとタキオンは病室のベッドで横になっていた。精密検査目的で一泊だけ入院することになったのだ。経緯はなんとなく覚えてはいるけれど、タキオンにしては珍しく頭が回っていなかった。

 ふと幻覚が現れる。

「トレーナー君怒っていたね」

(ああ。悪いことをした)

「結局謝れなかった」

(うん)

「検査、異常がないといいけど」

(ないさ、ないよ。わかってるだろう)

「まあね。少しリハビリ期間が延びるだけだ」

(何も悲観することじゃない。私らしくもない)

「ああ」

 まるでここは牢獄のようだ。思考は常に檻の中、干渉を拒み、この身を蝕むあらゆるものから守られている。苦しめるのは自罰的な感傷。クリーム色の壁と白いシーツはそれを誘発させる。ただ落ちていく。紅く染まった落葉のように。自問自答にすらならない対話で退屈な夜を埋めた。

 学園に帰ったのは次の日の夕方だった。丸一日検査をしたが想定通り、何も異常は見つからず、安静にしましょうと言う結論だった。医者の語り口には怒りも呆れも含まれてはいなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。