正史の先生とは異なります。
学園都市キヴォトス。私がこの奇妙な世界にやってきてからしばらくが経った。
現在は連邦捜査部S.C.H.A.L.Eの顧問として、生徒のために奔走する日々を送っている。
幸運なことに、私はキヴォトスに存在するある程度の学園の生徒から慕われている。
人間、過剰な見返りを求める精神は褒められたものではない。しかし、悩める誰かに伸ばした手が握り返されると、やはり嬉しくなるもの。
人の笑顔や感謝の言葉が活力になる人の心理に共感できない時期もあったが、このような立場で他のために尽くす生活を続けていると、思想のひとつやふたつはあっという間に覆る。今の私は、生徒たちの善性と笑顔に支えられていた。
「…今日は長引いちゃったな」
午前4時。もうしばらくすれば、キヴォトス一帯を優しい陽の光が包み込んでいく。
立場上、私に降りかかる仕事の量は多かった。日が変わるまでブルーライトとにらめっこなんて生活は今に始まったことではないが、この日は特に多忙を極めていた。
オフィスチェアの背もたれに体を預け、額と目元を手で覆ってみる。小さく息を吐くと、私の体に波のような疲労が押し寄せた。
…いかん。動きたくない。
オフィスチェアに座ったまま、しかもこんな姿勢で寝てしまえば間違いなく体にガタがくる。私は生徒たちのように若くもなければタフでもない。体は資本だ、こんなところで寝落ちして当番の生徒や連邦生徒会の面々に迷惑をかけようものなら―考えただけで体中の毛が逆立つ。
鉛のように重たい体を強引に起こした私は、制服である白衣を手に携え、気合を入れて椅子から立ち上がる。仕事に際してアルコール類は飲んでいないが、疲労のせいで非常に足がもつれる。千鳥足で向かったのは併設の仮眠室、扉を開け放った私は、当番生徒が訪れるよりは早く起きねばと念を込めてベッドへ倒れ込んだ。
相変わらず私はここでの仕事に翻弄される日々だが、生徒たちからの尊敬と慈愛に心が救われている。
しかし、人間の善性ではどうしようもない極端な疲労に襲われたとき。私は嗜好品の類に頼ることを決めていた。いわば、特別な日や頑張った自分へのご褒美である。
仕事に忙殺され、泥のようにベッドへ吸い込まれた翌朝。午前7時。
睡眠というよりも仮眠に近いそれから覚醒した私は、シャワーを浴びてからシャーレ居住区へと足を運んだ。
食生活に気を遣うよう、かつては両親から釘を刺されていた。そのため、私には日常的に自炊をする習慣が身に付いている。こちらに来てからもその習慣は変わっていないが、最近は激務を終えるとその気力すら残っていない。加えて、職業柄家へ帰ることが叶わない日もある。
そういうときは、思い切って『大人の力』を使う。
大人の財力がなせる業であると同時に、独り身を痛いほど突きつけられる瞬間でもあった。
「いらっしゃいま…って先生!?お、おはようございます…目の下がすごいことに…!」
出迎えてくれたのは、レジから夜勤明けの私を見つめぎょっとしている小柄な女の子『ソラ』。シャーレ居住区に併設されているコンビニのようなもの『エンジェル24』のアルバイトである。
「ああ、おはようソラ…仕事がなかなか終わらなくてね」
「そ、そうなんですね…お疲れ様です!」
「ソラこそ、朝からご苦労様」
カスクートに野菜サラダ、眠気覚ましの缶コーヒー1本を購入し、決済を終える。退店を知らせる電子ベルの音に重なるソラの声を背に、私は執務室への道を進んだ。
上階へ向かうエレベーターに乗り込み、数を増やしていくフロアの数値を眺める。
『今日はどの生徒が当番だったか』なんて物思いに耽っていれば、この鋼鉄の箱はすぐに目的のフロアへたどり着いた。
やがて執務室へ到着する。
レジ袋をデスクの上へ置いてから、備品のポットでインスタントの味噌汁を作ってみた。パンに味噌汁とは我ながら斬新な組み合わせだが、この物珍しい朝食でもエネルギー切れの体によく染み渡る。あっという間に平らげた私は、少しだけ思案してから独り言のように呟いた
「…さて、一服のお時間ですか」
意気揚々と窓を開け放ち、スラックスのポケットから小さな紙箱を取り出す。
慣れた手つきでパッケージからたばこを引き抜いた私は、淀みない動作でその先端に火をつけた。赤く光る面から、久しく目にしていなかった紫煙がのびる。ライターのオイルの香りに、以前はもっと雑に吹かしていたことを思い出していた。
「………。」
甘い香りが、私の体の中で爆ぜていく。
肺へ落ちるこの感覚に、何度救われたか数えきれない。灰皿へ灰を落とし、ただ疲れた自分を労う一服に身を任せる。遠くまで続く碧空に、この紫煙がどこまで続いていくのか…と、意味不明な問答を繰り返していると、煩雑だった脳内が少しずつ穏やかさを取り戻してくれるのだ。
尊敬や感謝とは、根本的に異なる慰労。
好きなものに寄り掛かっている瞬間は、人間を取り巻く苦しみを少しずつ取り払ってくれる。
それが私の場合は、たばこだっただけだ。
任された仕事はきっちり仕上げた。
おかげでろくに眠れなかったが、相手方に迷惑をかけずに済むならこの寝不足も安いもの。そのうえ、疲れ切った自分に捧げるたばこも悪いものではない。今回の夜勤はトータルで考えればメリットの方が―
そのときだった。
完全に自分の世界に没頭していた私を、コンビニで受け取ったレジ袋の落下音が現実へと引き戻す。
開け放った窓が風を取り込んでしまえば、物の落下も想定の内。取りに戻ろうと室内へ視線を動かした先で、私は出会ってしまった。
携えた買い物袋を取り落とし、淡雪のように白い頬を一際赤くする生徒に。
「…見た?」
喫煙。
それは、自らの健康を代償に得られる『至福のひととき』。常習的な喫煙でなくとも、それ自体が健康に影響を及ぼすという一般常識はここキヴォトスでも周知の事実。
生徒たちの模範となるべく先生たる人間が、喫煙をしている。
ましてやそれを、導かなければならない生徒本人に見られてしまった。
そう。
私は今、この日の当番生徒に喫煙の一部始終を見られていたのである。
はにかむような苦笑いと共に絞り出した言葉。私はそれ紡ぎながらも、弁解の余地などないこの事実をどう切り抜けるか―夜勤明けの疲れ切った脳で、必死に思考を繰り返しているのである。
「…あー、実は夜勤明けでさ。ついさっきまで眠っていたせいで、頭がよく回ってない。もうちょっと配慮できればよかったんだけど…ごめん。すぐ消して着替えてくるから、座って少し待って―」
弁解は、放棄することにした。
代わりに私は、誠心誠意彼女へ謝罪をする。配慮に加え、導く者としての意識の欠如。見られてしまった事実を今更消してしまうことはできないのだ。せめて、彼女の中にあった私の印象が崩壊しないように。醜く哀れな自意識が私にあった印象を瓦解させぬよう、振り切っていた。
「ま、待って先生!顔を上げて―」
「できれば今の光景は記憶から消してもらえると先生すごく助かるんだけど…」
もはや降伏といっても差し支えないほど頭を下げる私に、この日の当番であるゲヘナ学園風紀委員長『空崎ヒナ』は、赤らめた頬を元の血色に戻してから詰め寄ってきた。
「…その、先生。顔…よく見せてほしい」
ぐぐ、と距離を詰める彼女を、私は手で遮ろうとする。ぱっと手を抑えられ、無駄な抵抗であったことを思い出した。華奢で白く、陶磁器のような肢体の彼女だが、自分の背丈に匹敵しかねない銃器を軽々と操る膂力がある。鉛玉一発で死に至るひ弱な私など、勝負にすらならない。
かつて私は、暖かい日差しのなかで彼女の髪の香りを愉しんでしまったことがある。そのときのように、私の頬には紅葉が咲くことになるだろう。
不快な思いをさせたのだ、どんな懲罰も受け入れようと覚悟を決めた私は、強く目を瞑る。しかし、私の頬へ手を当てたヒナは、小さな唸り声をあげたまま動くことはなかった。
恐る恐る目を開く。その表情は、どこか腹をくくったような様子だった。
「目の下、すごいことになってる。…お仕事の話は、本当のようね」
「あ、あはは…夜勤頑張ったからね…」
頬に触れようとしたヒナだが、私との間にはかなりの身長差がある。普通なら手は届かないが、顔を遮ろうとした私の手をうまく取り、目線の高さまで引き寄せられてしまった。レザーのグローブの質感が少しひんやりしていた。
「…まあ、一応寝たしご飯も食べたから。これは食後のデザートみたいなもので…要するに体調の方は心配いらないってことを言いたいんだけど…」
「ダメ。少し前から働き詰めでしょ、疲れもしっかり取れていないわ」
「疲れ…それはヒナもおたがいさ…いででっ゛!」
言いかけたところで、頬をぐいと引っ張られる。平手打ちが飛んでこなかったからと油断していた。
ただ、あのときとは動機が違う。それは理解できていた。
「全くそんな雰囲気もなかったから意外だったのだけれど……どうせならうまく隠してほしかった」
「ごめん…」
吸殻を片付け、換気を行う。綺麗な空気が絶え間なく流れ込んでくるというのに、私たちの間に流れる空気は少しばかり淀んでいるような気がしてならない。…まずいことをしてしまった。
「…怒ってる?」
コンピュータの電源を入れ、タスクの確認やらなにやらを開始する。間の悪い無言に耐えきれず口を開いたのは私の方だった。
「…怒らないわ。でも、体には悪いからやめてほしい…とは思ってる」
「いやあ…返す言葉もございません」
『私もお酒の方が性に合っていれば良かったんだけどなあ』なんて小言を零しながら、疲れた体に鞭を打つ。頬を軽く叩いてから気合を入れなおすと、今度はヒナの方から言葉が放たれた。
「…先生は、やっぱり吸いたいの?」
書類の整理を任せていたヒナだが、作業の手が止まっていた。気のせいだろうか、本来ならば白いはずの彼女の耳が、不思議と紅く染まっているように見える。
「疲れたときは特にね。立場上、特定の個人に寄りかかりすぎることもできないし」
器用にキーボードを叩き、依頼されていた資料を作っていく。
打鍵の音がしばらくして止んだ代わりに、僅かに震えるヒナの声が響いた。
「…先生、やっぱりたばこは体に悪いと思うから…その……」
次にヒナから放たれた言葉は想像以上に大胆で、私は歓喜のあまり目を見開いていた。
「たばこの代わりに、私を吸う…というのは、どう…?」