その子はベッドに横たわっていた。
「ああ、すまぬな…先生。来てくれたか」
小さく身じろぎして、かすれた声で呟く。まるで風邪でも引いているような弱々しい響きに、先生は病人の見舞いに訪れたかのような錯覚を覚えた。
「楽にしていていいからね」
先生は穏やかな口調でそう言うと、来客用の椅子をそっと運び、ベッドのそばに座った。
「出迎えもできず、礼を失してしまったのう…」
その子――キサキは上半身をゆっくり起こし、ベッドが小さく軋んだ。布団を軽くつまみながら、ベッドに座ったまま微笑みを向ける。その微笑みはひどく成熟していて、小柄で華奢な身体には不釣り合いなほどだった。
「日頃世話になっている先生には、せめて失礼のないよう振る舞いたかったのじゃが」
「そんなこと気にしなくていいよ。私の前くらい、気を張らなくていいんだから」
「そうじゃったな…しかし、なんとも落ち着かないのう」
小さな手がぎゅっと布団の端を握りしめる。その手つきには微かな戸惑いが滲んでいた。
「先生のことは信用しておるが…裸を見られているような気分じゃな」
「え、えっと…」
困惑する先生の顔を見て、キサキはくすくすと笑った。
「冗談じゃよ。それより先生、今日呼んだ理由じゃが――」
途中まで言いかけて、キサキはふと口を閉じた。そして、じっと先生の瞳を見つめると、静かに自分の隣をぽんぽんと手で叩く。
先生は一瞬躊躇したが、やがて椅子から立ち上がり、ベッドの端に腰掛けた。するとキサキが、その僅かな距離を埋めるように、そっとにじり寄ってきた。
「うむ」
先生の腕に手を添えて、耳元へ近づく。
「それで、本題じゃが…」
「近くない?」
「内密の話じゃからの」
「キサキの部屋なら誰にも聞かれることはないんじゃ…」
「誰が聞き耳を立てておるかわからぬからのう…日々の用心を欠かすようであれば門主は務まらぬよ」
「そ、そうなんだね…」
「うむ…ふーっ…」
「うわぁっ!!キサキ!なにを…」
「…すまぬ。出来心じゃ…先生ならゆるしてくれるかと思っての。後生じゃから戻ってきてくりゃれ」
「はぁ…心臓が保たないからやめてね…」
「謝罪を、ここに」
先生がまたベッドの端に腰掛けると、キサキがそっと腕に触れてきた。
「先生には嫌われとうない」
「こんなことで嫌ったりはしないよ…」
「ほう?そうさな、確かに先生が生徒を嫌うなど想像もできんが…」
「先生だからね」
「だが、逆に特別好かれるというのも想像がつかん。先生は皆に平等じゃからの」
「みんな好きだよ、って言ったら嘘っぽいかな」
「そうじゃのう」
「あの…キサキ?」
いつの間にかキサキは先生に寄り添い、その体重を静かに預けていた。肩に柔らかな指が触れ、上半身がぴたりと寄り添って、先生の腕に温もりを伝えていた。
キサキの唇が先生の耳元で動く。
「ああ、あれは気に入ってくれたかの?前に、他校の制服姿で撮って、送ってあげたじゃろ?」
「大事に保存してるけど…」
「くれぐれも他の者にはみられぬように。先生にだけ、じゃからな」
「可愛かったよ」
「…ふむ。不思議じゃな」
「何が?」
「さして服装に関心はなかった。じゃがこうも先生に褒められると…他の服も着てみたくなる」
「着てくれるの?」
「また、妾のために選んでくれるかえ?」
「私でいいなら」
「ふふ…あのとき、買ってくれた制服は言われた通り、先生のことを考えながら着ておるよ」
「…ちょくちょく着てはいるの?」
「誰に見せるでもないがの。ほれ、先生に褒められて、妾も調子にのってしまって…一人で着て、姿見の前で立って…くふふ。妾らしくないのう?」
「実際、めちゃくちゃ可愛いからね」
「…また送ったら、喜んでくれるかえ?」
「それはもう、めちゃくちゃ嬉しいけど」
「それなら、また今度に」
「やったー!」
「先生と遊んでまわった日のことを思い出して、ちょくちょく着ておるのじゃ」
「…また遊びに行こうね」
「うむ」
「…それで、今日私を呼んだ本題なんだけど」
「そうじゃったな。内密の話じゃ…」
キサキはさらに先生の耳にくっつくほどに近づいて、小さな声で言った。
「さみしくなっての…」
「…えっ?」
先生は聞き返すようにキサキの顔を見つめたが、キサキの表情はいたって真剣だった。
「門主という立場は難儀なものじゃのう。先生にはもう、事情がわかると思うが」
「ああ、うん…まあ」
「先生なら、今までの話で妾の真意を察してくれていたやもしれぬな?」
「うん?」
「言葉にすることは簡単じゃが、細心の注意を払わねばならん。人の口を経るごとに、その重みは増していく。ましてや、妾ほどの立場ともなると、一挙手一投足を注目されておる」
「ああ…」
「なれば、うかうかと弱音一つこぼすこともできぬ。かといって、誰もおらぬ私室で独り言をこぼしたとて、かえって気が滅入るばかりじゃ」
「そうだね」
「大事なことじゃ。そうは思わぬか?忙しくて返信が滞りがちな先生よ」
「えっ…あっ、ごめん…」
「冗談じゃ…が、さて、妾の真意を聞いた其方は、何をしてくれるかのう?」
喋るたびに熱を帯びた吐息が耳元に触れた。
部屋にはキサキがいつも使っている香薬の甘い香りが漂っており、その芳香は体の奥深くにまで染み込んでいくようだった。
キサキは先生の腕を優しく抱きしめ、その華奢で柔らかな身体から伝わる温もりがじわりと感じられた。
「先生はいつも妾を大事にしてくれるからのう…」
「うん…そうだね」
「楽しみじゃ」
小さくベッドが軋んだ。キサキが体を少し起こし、手をついて先生に近づいてくる。
「…気が乗らぬか?どれ」
からかうように微笑みながら、キサキはベッドの上に膝をついた。
「キサキ…」
「初めてでもあるまい?」
そう言うとキサキは、先生の膝にそっと手をかけて笑みを深め、そのまま顔をゆっくりとうずめた。
先生の膝枕で横になったキサキは、控えめにまぶたをしばたたかせながら、静かに目を細めていた。
「近頃、よく眠れてなくてのう…すまぬが、先生、また頼めるか?」
「いつもお疲れ様、キサキ」
「こんな甘えた姿、皆には見せられぬな…」
可愛らしくあくびを漏らすと、キサキは先生に頭を撫でられながら、うとうととまどろみ始めた。スリットからのぞく脚が、落ち着かないようにもぞもぞと動く。
「やはり、先生は手元に置いておきたいのう…それが山海経のためにもなる」
「私はみんなの先生だからね」
「妾がおねだりしても駄目かえ?何でもしてあげられるのじゃが」
キサキは意味ありげな視線を上目遣いで先生に向け、甘く誘うような声でささやいた。
「今なら、何をされても許してしまうぞ?」
甘ったるい香りがふわりと鼻をくすぐる。
「…前にも同じようなことを言ってなかった?」
「うむ、そうかもしれぬ」
「それなら前と同じ返事をするよ」
「そうか」
キサキはごろりと寝返りを打ち、視線を外した。
「…また先生におんぶしてもらいたいのう」
「話がころころ変わるねぇ。誰もいない場所だったら、いいよ」
「ふふ…ほんに先生は優しいのう。ますます側にいてほしくなる」
「いつでも呼んでね」
「…」
間もなく、キサキは静かな寝息を立て始めた。
先生は完全に眠りについたことを確認すると、そっと彼女を抱き上げてベッドに横たえ、頭を優しく枕に乗せた。
「軽いな…」
そう小声でつぶやきながら布団をかけ、あどけない寝顔を静かに見つめ、頭を撫でてからゆっくりと部屋を後にした。
「…またの、先生」
キサキはそう小さく呟くと、再び寝返りを打ち、穏やかな寝息を続けた。