カーニバルというものがある。
それはヨーロッパのキリスト教のお祭りで日本語で言うところの「謝肉祭」である。
ラテン語の「カルネ・ヴァレ(お肉よ、さようなら(泣))」が語源になっているのだとか
キリスト教の断食祭りの前に行われるお祭りで、いろいろと着飾って大騒ぎができる。
中世ヨーロッパ都市においては下層市民たちがこの日だけはビロードなどの豪華な服で着飾って羽目をはずすことができたのであるが、場合によってはうっぷんがすぎてキレた市民が暴れだしてそれが暴動につながり、都市そのものを揺るがす大騒動になったという事例もじつは結構あったりする・・・
橋瑞が向姉妹に癒されていたり、李厳といつもどおりに馬鹿やっているそんな感じのある日
ある旅芸人の姉妹が幽州のあたりで有名になっていた。
張三姉妹とかいうらしく、なんか歌を歌ってたりする。
この時代には娯楽が少ない。
首都たる洛陽ならばいくらでもあるだろうが、田舎にいけばいくほどそういうのは必然的に少なくなる。現代の日本だって田舎にいったら遊べるのはイオンかパチンコか城っぽい特殊宿泊施設くらいしかない。
ましてや2000年前の中国である。・・・娯楽なんてほとんどない。
とりあえず、彼女たちは歌や踊りでその日の銭を稼いでいた。
それだけならば、まだ彼女たちは有名な旅芸人の姉妹で終わったのかもしれない。
だが、彼女たちのもとに流民が集まり始めたところから状況は変化し始める。
このころ、桓帝の頃と現皇帝たる劉宏の就任当初に行われた党個の禁や、それに伴う清流派と濁流派の争い、壇石恢とかいうオバンの率いる異民族連合軍との戦い、さらにそれの大本の要因のひとつとなった「異民族は皆殺しがデフォ」といった感じのカルト的儒教思想に染まったいわゆる愚儒政治とよばれる当時の中心的政策、そして長年の中央の搾取や賄賂、豪族たちによる長年の銭の箪笥預金によるデフレなどによって光武帝劉秀によって立てられた後漢帝国はなんかすげえやばい状況になっていた。
そこに地球規模で考えるべき寒冷化が追い討ちをかけたのだ。
大体西暦2世紀の辺りは世界的な寒冷化が進行していた。
おかげで、ローマ帝国もその勢いを低下させてしまい、ゲルマン人の流入を招くなどし、衰亡していくのだが、それは何も西洋だけではなかく、ここ東洋でも寒冷化は飢饉や不作を続発させることになってしまっていた。鮮卑や匈奴といった異民族が漢帝国に侵入し始めたのもそれが原因のひとつであるが、この慣例化の不作などによって小規模農民などが没落し始めたのだ・・・いわゆる、中世の始まりである。
没落した以上、土地にしがみついていると死んでしまうかもしれないというか生きていけない。
ということで、土地を捨ててさまようものも出るようになったし、口減らしに追い出された者たちもいた・・・うん、もう夢を語るしかないね(諦観)。
まぁ、そんな流民が彼女たちの元に集まり始めたのである。
とはいえ、ただの旅芸人の姉妹である。
何とかしたいとは思ってもそうなかなか何とかできるわけではない。
彼女たちは自分たちの得意とする芸能を持って彼らに希望を持たせようとしたし、取り巻きのファンたちの協力による医療行為などを行っていた。
だが、姉妹の取り巻きの中には真剣に彼女たちを守りたいと思う人間もいれば野心にあふれる者だっている。また、十人十色という風に結論が同じでもそこにいたる過程が違うというものもまた多い。
ついでに言うと、中央政府は流民を集めてしまった彼女たちを危険視していた。
まぁ、さすがに彼らはその集団の長がまさか旅芸人の姉妹だなんて思ってもいないようだが
彼女たちが政府からよく見られていないということは
彼女たちはともかく取り巻き立ちはよく理解していた。
いずれ彼女たちは危険視した政府によって殺されるかも・・・?
彼らの懸念はまさにそれであった。
ならば害が及ぶ前に逆に叩き潰す・・・!
そういう考えのもと、彼らは各地に散って流民を集めて戦力を整え、都に攻め上る準備を始める。
もちろん、彼女たちには内緒で。
そんな中、ひとつの事件が起こる。
彼女たちの活動拠点であった冀州鉅鹿の太守が流民集団に危機感を抱いてリーダーであった彼女たちを連行しようとしたのだ
ここで彼女たちのファンが激怒。
ついでに、集まっていた流民たちが激発、暴動となってしまう。
で、彼らはここに至っては予定より早いが仕方がないと腹をくくり、困惑する張三姉妹にこう告げる。
「いままで抑えてきましたけれども、もう限界です。挙兵するしかありません」
どの口がいうのだ。と突っ込みたくもなるものだが、彼らは自分たちが正しいことをしているのだと考えていた。まぁ、分かることは分かるが、質が悪いとも言える。
というわけで、張三姉妹もここに至っては仕方がなく・・・というか他に事態を打開できる方法もなかったので漢王朝に対して宣戦布告を行ってしまう。なお、それに先立ち、混乱をより増大化させるために、黄巾上層部は洛陽制圧をも計画したが、それはさすがに密告などによって失敗してしまった。
しかし、当時の中央政府は事態をそれほど深刻視していなかった。まぁ、確かに当初はちょっと前に起こった西涼軍閥の反乱や自分が皇帝になりたいからと逝って反乱起こした区星の乱とかいうものの方が厄介だったとも言われているし、ただの流民の暴動だと考えていた節がある。
ただ疑いないことはここで「蒼天すでに死す 黄天まさに立つべし」というスローガンの下、流民たちが蜂起し、大規模な農民反乱へとつながったことであろう。
そして、後世においてこれは黄巾の乱と呼ばれるようになる。そんな訳で、冀州鉅鹿での反乱を合図に、豫州でも反乱が発生。
それらに伴う混乱と暴力の波は、初期消火に遅れたこともあって、野火のごとく後漢帝国全土へと広がっていくこととなる。
side橋瑞
はい、皆さん今日は今晩はおはようございます橋瑞です。
・・・危うく舌をかみそうになりましたよ。
うん、なんか始まっちゃいましたね黄巾の乱。
うわさだとなんか旅芸人を下種な役人が『禁則事項です』をしようと捕まえようとしたらファンが激怒して大暴走したっていうことらしいです。こうなんというか・・・いろんな意味でヤバイっすね。
まぁ、所詮噂でしょうが・・・。
でも上司の尉曹さんはなんか比較的楽観視しているらしいです。
まぁ、当然といえば当然か。
ついでに言うと、朝廷の方もまだただの農民反乱ってことで軽視しているらしいです。
黄巾が出ているのは主に北の方か隣の豫州頴川郡ですし、ここ荊州は平和なものです。
それでも州をまたいでやってくることもある可能性もあり、予断は許せないと思うのですが・・・命令は命令です。命令以外で軍隊動かしたら反乱扱いで処刑されます。そんなことは、野心あふれる人か、死んでもかまわないと思う奇特な人間がやることなのです。私はそんな面倒くさいことはしません。
まぁ、雲の上の人々の考えることなんて私にはわかりませんので、今日も今日とで書類仕事にいそしむといたしましょう。
皆様お久しぶりです
転勤やら何やらで投稿が遅れに遅れてしまいました。
今回はいきなりですが黄巾の乱です。
この時期後漢王朝は異民族の侵入や寒冷化によって大きな打撃を受けていたりします。
反乱自体は数年で収束するのですが、、その後も後に曹操軍の中核となる青州黄巾軍や黒山賊などの反乱が相次ぎます。