ソルベ   作:ショコラよりメダルリボン派

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第3話:「酸っぱい記憶」

 望月りんは、何かに追われるようにピアノの鍵盤を叩いていた。リビングの大きな窓から入り込む柔らかな陽射しとは対照的に、彼女の心は曇っていた。軽やかに聞こえるはずの旋律が、今日はやけに重く響く。

 

 母親の声が耳に届く。

 

「りん、もう少し強弱をつけて弾いてみなさい。音が単調になっているわ」

 

 母親はピアノの先生でもあり、音楽に対する指導は厳しい。りんは幼い頃からこの母親の下で、音楽の道を歩んできた。だが、今日はピアノに集中できない。心の奥底で、ある苦い記憶がよみがえっていた。

 

 彼女は深くため息をつき、手を止める。

 

「ちょっと外に出てくる…」

 

 りんは母親の反応を待たずに、ピアノの前から立ち上がった。冷たいソルベでも食べて、気持ちを整理しよう。そんな考えが頭をよぎった。

 

 

 若葉商店街を歩くと、いつものように「ル・ソルベ」が見えてくる。店内に入ると、爽やかなフルーツの香りが広がっていた。りんは無言でカウンターに腰掛け、佐伯さんにいつものフレーバーを注文した。

 

「今日の気分は、レモンソルベかな?」

 

 佐伯さんがにっこりと微笑む。

 

「うん、さっぱりしたのがいい…」

 

 りんは静かに頷きながら、レモンソルベを待っていた。レモンの酸味はいつも彼女に、過去の出来事を思い出させる。

 

 数年前のこと。りんはピアノのコンクールで挫折を味わった。何かを成し遂げるという大きなプレッシャーの中、思うように演奏できず、結果は惨憺たるものだった。その時、心のどこかで母親に対する期待が重くのしかかり、音楽を楽しむことさえできなくなっていた。

 

「お待たせ。レモンソルベだよ」

 

 佐伯さんがソルベを手渡すと、りんは小さなスプーンで一口すくい、口に運んだ。口の中に広がる強烈な酸味が、彼女の曇った心を一瞬だけ引き締める。

 

 

 ソルベを食べながら、りんは無意識に思い出の断片をたどっていた。ピアノコンクールの舞台上で震えていた自分、母親の期待に応えられなかった苦しさ…。レモンの酸っぱさが、それらの記憶をさらに刺激する。

 

「ねえ、りん」

 

 突然の声に、りんは顔を上げる。そこには、陽菜とみさきが立っていた。

 

「ちょうどいいところに来たね。りん、少し元気ないみたいだからさ」

 

 陽菜がにっこりと笑いながら言った。

 

「そっか…そう見える?」

 

 りんは少し戸惑いながらも、笑顔を返そうとしたが、うまく笑えなかった。

 

「元気なさそうな時は、甘いものを食べて元気出すに限るよ!」

 

 陽菜が自信たっぷりに言い、結衣も「今日は私もブルーベリーソルベを頼もうかな」とつぶやいた。

 

 彼女たちと一緒にいると、自然と心がほぐれていく。りんは、少しずつ緊張を解いていった。

 

 

「ピアノ、最近どう?」

 

 陽菜が何気なく問いかけた。

 

 りんは少しの間、言葉を探してから答えた。

 

「まあ、練習してるけど…あんまりうまくいかない。昔のことが頭に残ってて、前みたいに楽しく弾けなくなってるんだよね。」

 

「そっか…。でも、それって音楽を本当に好きだからじゃない?」

 

 みさきが静かに口を開いた。

 

「私も、読書が時々辛くなる時があるんだけど、それでもやめられないんだよね。だから、きっとりんも、音楽が好きで、そこに戻りたいんじゃないかなって思う」

 

 その言葉に、りんは少し驚いた。普段あまり感情を表に出さないみさきが、真剣な眼差しで自分を見つめているのを感じたからだ。

 

「そうかもね…。ありがとう」

 

 りんは小さく微笑み、スプーンで最後の一口をすくってソルベを口に運んだ。

 

 レモンの酸味が口の中で弾ける。過去の挫折を思い出す味だったが、今はそれが少し違って感じられた。

 

 

「私、もう少しピアノと向き合ってみるよ」

 

 りんは穏やかな笑みを浮かべてそう言った。彼女の目には、ほんの少しだが光が戻っているようだった。過去の挫折はまだ完全に消えたわけではない。けれど、それでも前に進むために、もう一度挑戦しようという気持ちが芽生え始めていた。

 

「そうだよ、りん。無理しなくてもいいけど、楽しむことを忘れちゃだめだよね」

 

 陽菜が軽やかに言った。

 

「あ、じゃあさ、発表会の後にみんなでまたソルベ食べに行こうよ!それが楽しみって思えば、練習も楽しくなるんじゃない?」

 

 陽菜の明るさに、りんも思わず笑ってしまった。

 

「うん、それいいかも。ソルベがご褒美ってね」

 

「決まりだね!」

 

 陽菜が楽しげに声を上げた。

 

「じゃあ、次は私たちが応援する番だね。りんのピアノ、絶対聴きに行くから!」

 

「私も楽しみにしてるよ」

 

 みさきもそっと微笑む。

 

 彼女たちの言葉は、りんの心を少しずつ軽くしていく。ソルベの甘さと酸味のように、心に広がる友達の温かさが彼女を包み込んでいた。過去の失敗に囚われていたけれど、それは今の自分に必要な経験だったのかもしれない。そんな風に、少しずつりんの心は変わり始めていた。

 

 それから数日後、りんは再びピアノの前に座っていた。以前のように焦りや不安を抱くことはなく、ゆっくりと、音楽と向き合う気持ちで鍵盤に触れた。

 

 母親はいつもと変わらず、隣で優しく指導していたが、その目はどこか嬉しそうでもあった。りんが再びピアノに真剣に向き合おうとしている姿を、母親は見逃していなかったのだ。

 

「今日はいい音が出てるわね」

 

 母親の声に、りんは少し照れくさそうに笑った。

 

「うん、少しずつだけど、また楽しく弾けるようになってきた気がする」

 

「それでいいのよ。音楽は技術だけじゃなく、心から楽しむものだから」

 

 その言葉に、りんは少しだけ母親への誤解が解けたような気がした。母親は常に厳しかったけれど、その背後には、音楽を心から愛し、楽しんでほしいという願いがあったのだと気づいた。

 

 そして、いよいよ発表会の日がやってきた。大きな舞台に立つりんは、以前とは違う気持ちで鍵盤に向かっていた。もちろん、緊張はしている。それでも、彼女の心は少しずつ音楽と一体になっていく。

 

 客席には、陽菜、みさき、結衣の姿があった。彼女たちは揃って微笑み、りんを応援している。

 

「大丈夫だよ、りん!」

 

 陽菜が遠くから小さく声をかける。

 

 その声に応えるように、りんは軽く頷き、深呼吸をした。そして、ゆっくりと指を鍵盤に乗せる。

 

 最初の音が鳴り響いた瞬間、りんは心の奥から音楽が流れ出していくのを感じた。楽譜に忠実に弾くのではなく、自分自身が感じるままに、音楽を楽しむように演奏を続けた。

 

 

 演奏が終わった瞬間、客席から拍手が湧き上がった。りんは静かに立ち上がり、深くお辞儀をした。ステージを降りると、友達が駆け寄ってきた。

 

「りん、最高だったよ!本当にすごかった!」

 

 陽菜が飛び跳ねるように興奮していた。

 

「私も感動したよ。りんのピアノ、すごく心に響いた」

 

 みさきも柔らかく微笑んでいる。

 

「ありがとう…みんなのおかげだよ」

 

 りんは、少し恥ずかしそうに言った。

 

 その瞬間、佐伯さんが持ってきたのは、特別なご褒美ソルベ。りんが頑張った日に出される「シトラス&ミント」の爽やかな一品だ。

 

「発表会を成功させたお祝いに、特別なソルベを用意したよ。りん、今日の演奏は本当に素晴らしかった」

 

 佐伯さんはにっこりと微笑んで、ソルベを差し出した。

 

 りんはスプーンを手に取り、一口すくって口に運ぶ。さっぱりとしたシトラスの酸味と、ミントの清涼感が広がり、彼女の心を癒していく。

 

「うん、最高だ…」

 

 りんは静かにそう言った。

 

 過去の苦い記憶は、もう酸味だけではなく、心地よい爽やかさを伴ったものへと変わっていた。

 

 

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