おれは山が好きだ。というか、高いところが。上る途中、一歩一歩地面を踏みしめるのは高度と比例して頂上の景色への期待が高まっていく。身体にのしかかる荷物の重みでかろうじて弾む心を押さえつけているようなものだ。高い所から景色を見下ろすのも、山の木々の色合いを楽しむのももちろんいいが、高いところからさらに高いところを眺めるのもいいものだ。開けた場所で満点の星空を眺めているときなど、まるで巨大な宇宙のゆりかごに包まれているような覚がある。また、部活の仲間たちとペースを揃えて登るのもいいし、週末に一人キャンプをしに行って、テントを張って季節ごとに移ろう景色を眺めながら飲むスープは極上だ。
そうだ。おれは週末を利用して地元近くの山にソロキャン──毎回家族(ほとんどは妹だ)を誘ってみるのだが、あいにくと家族はおれほど山登りに興味があるわけではない。それでも十回に一回くらいは付き合ってくれるし十分に恵まれた環境だとは思うのだが、今回はあいにくと。普段からプレイしているオンラインゲームの大型アップデートがあったばかりらしく、ストーリーを進めたりガチャを引いたり何かと忙しいらしく断られてしまった──をしに来たのだった。ここは地元の山というだけあり、これまでにも何十回と通ったことのある山で、もやは庭と言ってもいいぐらいの勝手知ったる山である。
つまり道も、景色も、空も。すべてが見慣れたものであるはずなのに。
「……はて。ここは、どこだろう……?」
植生も山の形もテントを立てた方角も何もかもが一変していた。場所だって、普段ならもう少しペグが刺さりやすい場所に立てるのに、ここはかなり硬い地質をしている。
おれは首をかしげて、まずGPSを確認する。──圏外。方位磁石──は、太陽の位置と現在時刻とを比較しておそらく正しく動いているけれど。園外? おかしい。山の中とはいえいつもは電波が立っていたのに。
圏外となれば、当然のごとく携帯端末も使い物にならない。オフライン状態でも使える地図はDLしてきたが、今いる場所が分からないのだからどうにもならない。おれは困ってしまって、とりあえず。
「……ふむ。朝食を用意するか」
低血糖の空腹状態ではいい案も浮かばない。おれは荷物の中から調理器具と食料を取り出した。
調理とはいっても難しいものではない。食パンにベーコンとチーズを挟んだだけのものだ。付け合わせは水筒に入れてきて、まだ熱々の温度を保ったままの出汁スープ。
ほかほかと湯気だったそれらをしげしげ眺めて。「いただきます」と、かみしめるように両手を合わせた。
さくっ、さくさく……。絶妙な焼き加減のパンと油の滴るベーコンをチーズが包み込んでいる。本当はこれに半熟卵と黒胡椒をプラスするとさらに美味しいのだけれど、それは家でのお楽しみだ。
口の中の油分を流してくれる、すっきりした後味の出汁スープを啜りながら、初めての景色を眺める。起き抜けでは見慣れない景色に戸惑ってばかりいたが、しかしながら絶景と言って差し支えない……いやむしろ、近場では早々お目にかかれないほどのいい眺めだ。おれがいま立っている山がどうなっているかはよくわからないが、見える山脈は上りごたえのある切り立った崖が多いように見える。週末に楽しくする山登りというよりは、装備やパーティーを整えたクライミングに適した山のような。そこに見慣れた広葉樹林はなく、むしろ縁そのものが控えめな山のようだ。かといってはげ山というわけでもない。植物が育たないほど高地という印象もないが……む。あの動物は見慣れない。なんという鳥なのだろう。
「……ふう。そろそろ出発するか」
腹ごなしも済ませたし、見慣れない山鳥や……興味を引く植物もたくさんあったけれど、持ち帰ってもいいものかわからないので採集はよしておいた。とにかく、人に会って現在地を確認しなければ。
考え事をしながら片付けていたから気が付かなかったが、やけに身体が軽い。寝袋を新調したのがよかったのだろうか。それともやはり朝食は大事ということだろうか。
道具をすべて一つにまとめてよいしょと背負う。背負った時の重みは、やはりいつもよりもずっと軽く感じる。スキップしながらでも山道を昇降できてしまいそうだ。ひとまず、獣道ではない人の通っていそうな道を探しながら歩いてしばらく。どこからか人の悲鳴が聞こえてきた。
「ひぃっ! こ、こっちに来るんじゃねえ!」
見知らぬ土地でようやく人に出会えたという喜びと、どうやらトラブルに巻き込まれているらしい心配とがないまぜになる。イノシシかシカか、はたまたクマか。おれは重い荷物を背負って声のした方へ駆け出した。
走っていくとやがて川辺で何者かから逃げる人物が目に入る。と、向こう側からは襲い掛かるのは丸くて大きい……な、なんだ? 鞠のような、水まんじゅうのような弾力性のある球体が、男性ににじり寄っていた。
「──伏せて!」
彼と球体の間に身体を滑り込ませて、ポケットから取り出した〝それ〟を球体の眼前──おそらく目のようなものがあるからここが顔のはずだ──へと突きつけ、踊うことなく噴射した。
すると球体は、甲高い鳴き声を上げてはじけ飛んだ。キラキラと舞う飛沫に見とれると同時にあっけにとられる。骨も肉もなにもなく、それは消えた。
かすかに残ったゼリー状のものがなければ白昼夢だと納得してしまいそうな光景をみたが、呆然とする間もなく肩を揺さぶられる。
「兄ちゃん! 助かったよ、ありがとう!」
振り返ると、どことなく中華風な雰囲気を感じさせる服を身に着けた山登りをするには軽装の男性が、しきりに礼を述べている。
「まさか一瞬でスライムを倒しちまうなんてよ。強いんだな、アンタ!」
「……ええと……」
「随分と小せえが、それがアンタの武器か?」
「武器……といえば武器だけど、これはただのクマよけスプレーで……」
「あんた、このあたりじゃ見ない格好だな。旅人かい? 俺の倉庫がこの近くにあるんだ。ぜひ礼でもさせてくれ」
「……ここ、人里の近くだったんですか?」
道で軽装なはずだ。絶えることなく続く言葉にかろうじて問い返せば、男性は「里ってほど大したもんじゃねえよ」とくしゃり笑った。
なにはともあれ土地勘のある現地民に出会えたのはよかった。さっきの球体から逃げるときに放り出してしまったという大荷物の積み直しを手伝って、歩き出した彼についていこうとすると、彼は急にしゃがみ込んだ。どこか怪我でもしていたのだろうか、と鞄の中の救急セットを思い出していたが、差し出されたのは見かけたばかりのゼリー状のなにか。
「おっと、魔物が落としたものはきちんと拾っといた方がいいぜ。いつ何が役に立つかわかんねえからな」
「……ありがとうございます」
スライムの液体を手に入れた!
*
「俺ぁ慶宗ってんだ。兄ちゃんは」
「鳳颯希といいます」
「もしかして稲妻からきたのか?」
「……? いえ……ええと……どうやら迷子になってしまったようで……。このあたりの地図があれば、見せていただきたいのですが」
「なんだ、違うのか。まあ、あそこは鎖国が始まってしばらく経つしな……ええと地図、地図……」
なんだか聞きなれない単語が聞こえてきた。はて、と首をかしげて。慶宗さんが地図を広げたことによりもどった角度は、地形や地名を見て、それ以上の角度に再び傾くことになった。
「ここは碧水の原、軽策荘の近くの山だな」
「へきすいのはら……けいさくそう?」
「聞き覚えがないか? まあ璃月港からは随分はなれてっからな……ここいらは璃月の北部に位置する」
「……りーゆぇ……?」
「うん?」
おれと慶宗さんの目があう。いまいち話がかみ合っていないようだ。
「ええとつまり……ここは、璃月という国の、碧水の原という地方……?」
「そうだな」
「……」
日本という島国に住んでいて、寝ている間にテントごと別の国で迷子になっているなんてこと、あるだろうか。いやない。普通に考れば。しかし現に起こっている。しかも、ざっと見る限りこの地図上に日本という国は存在しない。
「……うーん、困ったなあ……」
「アンタ、そんなに盛大な迷子だったのか?」
「そうみたい……ですねえ……」
家に帰るどころの話じゃなくなってきた。電波が入らないのも、どうやら電波塔や通信機器そのものがないと考える方が正しそうだ。
ふむ、考え込むおれに慶宗さんは妙案を思いついた、とでもいうように手を打った。
「俺は商人をやってんだ。ここは数ある拠点のひとつでな。その様子だと路銀にも困ってるんじゃないか? おまえさん、力が人一倍強いみてぇだし俺の仕事を手伝うってのはどうだ。人の多いところにいけば情報もあるだろう」
「それは、とてもありがたいですけど……力、強いですかね」
「はぁん? なんだ、迷子になっただけじゃない、とぼけたやつだな。そんな重そうな荷物背負って、更に重い荷物積みまで手伝ってくれたじゃねえか」
おれの扉を叩きながら豪快に笑う慶宗さん。彼は見た目より力を入れていないのかと思ったが、まるで動かざること山のごとし。おれの体幹はびくともしないのはきっと、目覚めたときの身体の軽さと同じように、体調がいいの一言では済まないほどの、謎の原理が働いているようだ。
(よくわからないけどモンスター……魔物? もいるし……仮に、小説や漫画みたいに異世界にトリップしてしまったというのなら……この世界は地球よりも重力が小さいとか、そういう感じなんだろうか)
野生の獣の他にも野生の魔物がいるとなると、登山やキャンプを楽しむどころではなくなってしまう。仮に前よりもパワフルになっているとして、そのおかげで職を手に入れられたようなものなのだ。何かと好都合な気がした。
*
と、そんなこんなで一ヶ月が経った。いやあ、早いものである。というのはきっと、おれが情報社会に生きていたからというのもあるだろう。
ほぼ山と谷で構成されている土地では移動するのも一苦労で加えて荷物もあると特に道を選ぶ。まあ、それもおれにとっては不慣れながらも楽しいことなんだけど。慶宗さんは「颯希がいると速いペースで進める」とうきうきしていたので、本来であればもっと時間のかかるものらしい。
あちこちの村や町に寄りつつ品物の売り買いをして、もう少しで璃月港に着こうかというとき。日差しを遮る影を見上げた。鷲か魔物かと思ったが、それにしては距離に大してサイズが大きいし、服を着ている。
「慶宗さん、あれは……?」
「んん……? ああ、あれは風の翼だな。人が飛んでんだ」
「風の翼?」
オウム返しにするおれにすっかり慣れた慶宗さんは、あれがあると体力の続く限り空を滑空できるのだと教えてくれた。
この一ヶ月でおれは信じられないレベルの世間知らずだということを彼は一番知っている。なぜならおれはこの世界の人間ではないから、この世界のことは何も知らない。
いつだかに慶宗さんのお客との世間話で「神の目」についての話題が出たとき、あとでこっそりときいたら彼は目をむく勢いで驚いていた。ざっくりいうと、神の目に選ばれると炎水草氷雷風岩のうち、いずれかの属性魔法的なものがつかえるようになるらしい。加えてやけに信心深い人が多いな、とは思っていたのだが、実際に神は「居る」ものらしく。慶宗さんから賃金として受け取るモラもこの国、璃月の神──岩王帝君による創造物なんだそう。
そして慶宗さんは商売と、璃月で待つ妻子のもとへ帰るというほかに、その岩王帝君の儀式を見るために時期を合わせて璃月に戻る算段を立てていたと。おれがいる影響ですこし行程が早くなったが、そのぶん家族でゆっくり過ごしてもらえばいいだろう。
うーん、なんだかちょくちょく出てくるワードが、妹がプレイしているというゲームの話に出てきたものと似ているような気がしなくもない。けれど属性魔法というのは大抵どこのファンタジー世界にも採用されているものだし、きっと気のせいなのだろう。
話を戻そう。風の翼の話を聞いて、おれは目を輝かせた。つまりパラグライダー的なものができるということだろう? それは、なんというか、ものすごくそそられる。慶宗さんとの道のりは楽しいものだったことに間違いはないが、やはり山登りそのものを目的としたものとは違う。荷物がありモンスターと出くわす危険性がある分、当然平坦で緩やかな、低い道を選ぶのだ。
おれのしっているものとは違う星空を、この山々の合間を、広い平野を。好きに飛べるとしたらどんなにうれしいことだろうか。
「興味あるか? ちょうど璃月港に、風の翼に詳しい知人がいるんだ。着いたら紹介してやろう」
「いいんですか?」
「ああ。颯希のおかげで用心棒の数も行程の日数も減らせたからな。紹介のひとつくらい上乗せしないと平等な契約にならねえ」
とはいうが、彼は先述したように貨幣価値すらわからないおれに世界の常識から一つひとつ教えてくれたのだ。一番取り回しのいい上着は日本から持ってきたものだけれど、それ以外の璃月の服はほぼ卸値で売ってもらえたし、魔物と戦う武器だって「そんなに上等なものじゃねえが」なんていいつつしっかりとおれの体格にあったものを用意してくれた。ただの短期雇用のバイトにもこんな好待遇なホワイト企業って他にあるんだろうか。
彼は魔物に襲われたところを助けられたから。と主張するが、彼のおかげで生きていると言えばおれだってそうなのだ。待遇に見合う働きを。そう気合を入れて、おれは今日もヒルチャールを吹っ飛ばした。