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それは遠い記憶、旧灼熱地獄が数多の罪人を飲み込んでいた頃。
旧血の池地獄へつながる巨大な縦穴には無数の細孔が空けられ、何百羽もの地獄鴉が業火に吸い込まれる死者たちを今か今かと待ち構えていた。
こうした縦穴は灼熱地獄を構成する一つの領域であり、全体としては蟻の巣状に――それこそ獄卒が管理しきれない程に――拡がっていた。
罪人は業火に焼かれ、坂道を転げ落ち、大地に叩きつけられると、立ち上がる間もなく地獄鴉どもに屍肉を啄まれるのだ。
この野蛮な群れには怨霊も単独では近づこうとはしないし、そこかしこから炎が噴き上げる場所には誰も好き好んで近づこうとはしない。
私がいたそんな場所の、断崖に穿たれた孔の一つから赤い光が漏れ出ていた。
遠目で見れば灼熱地獄の良くある風景の一つに過ぎないが、その赤は罪人のなけなしの血飛沫ではなく、噴き出す業火でもない。
神の光。
威光の途絶えた地獄に似つかわしくない、煌煌たる赤の耀き。
その光の源を、不遜にも一羽の地獄鴉が。
太陽の力を秘めた赤い瞳の石を、屍肉を漁る嘴に咥えている。
その輝きが増すたび、記憶の中の視点は遠のいていき……。
*
『私』は目覚めた。
目じりを拭うと指先が濡れている。
「しょっぱい」
地獄で水は貴重だ。特に灼熱地獄においては。
縦穴を上へ上へと飛んでいけば、閻魔や鬼といった地獄の住人たちが行き交う繁華街に出るが、水を盗むのは酒を盗むのと同じくらい至難だ。尤も、人間じゃあるまいしそんなものは必要ないが。
それはさておき、寝床で身を起こすと、バサバサという羽音がした。
「カー!」
群れの地獄鴉だ。私を呼びに来たのだろう。
なんだか夢を見ていたような気がするが、どうせ大したことじゃない。
今日も、私の群れの代わり映えのない一日が始まる。
私が群れの長をやっているのは、単にできる鴉がいなかったからだ。元は名もない、地獄の闇から産まれたただの鴉であったが、他の個体に先んじて妖に転じたのを契機に、群れのヒエラルキーを上へ上へと流れるように昇っていっただけだ。
鬼のようなヒトガタへと化けられる頃には、知能も力も群を抜いており、求める声に応じて群れの頂点へと昇り詰めていた。
それでも、やることは変わっていない。
たまに来る獄卒どもの目を盗んで罪人の魂や怨霊を狩り、獲物の分配は気まぐれに行って、群れで喧嘩が起これば仲裁し、力で支配する。
あまり関係ない話だが、私の地位を狙う地獄鴉は多々おり、反感を表に出す地獄鴉も居ないわけではない。群れの秩序を乱して獲物の確保効率に悪影響を及ぼす行為は咎めるべきだが、鬼のように際限なく暴力を振るうのは賢い行動ではないので、余り目くじらを立てず放っておいてガス抜きさせている。
「何があった?」
迎えの地獄鴉曰く、新たな罪人が放り込まれたそうだ。数は7人、食いでがあって分配にも困らない。
「急ぐよ、数が多いと余計なのがやってくる」
アーーー! と縦穴じゅうに響く声で合図を出させれば、巣穴から飛び出した沢山の地獄鴉たちが私に追随する。群れの地獄鴉は300を越してなお増え続けており、他の獣の群れを数で圧倒しているが、個々が弱いので狩りは総出で行っている。
そのまま上昇して縦穴を抜け、燃え盛る洞窟を淀みなく抜けると、漏斗状になっている地形の底に到着した。
罪人は坂に放り出されると、痛みに喘いで坂を転げ落ち、踏ん張って足の裏を焼き、叫んで肺まで焦がす。底まで落ちれば蟻の巣の入り口に招待されたも同然で、燃え盛る洞窟に迷い込んだが最後、逃げ出すことはできない。
その上、我々のような獣や妖怪といった地獄の住人に目を付けられれば、棲家に引きずり込まれてその身を貪られる。
いくつもの洞窟に繋がるこの漏斗状の広場を上へ上へと飛んでいけば、手っ取り早く罪人どもを灼熱地獄に引きずり込めるのだが、そうはいかない。
灼熱地獄より上層には鬼どもが棲み、罪人たちが係留される街があるのだ。
当然ながら、そこは地獄鴉の領域ではない。下賤な鳥と鬼に蔑まれているというのに、わざわざ出向けばいい的だ。
「待て、待てよ。奴らがこの広場に落ちるまで待つんだ。鬼どもに石を投げられるぞ」
苦悶の声を上げ、徐々に徐々に近づいてくる餌を待つ。
それがいつものやり方であったが、今日は違った。
「さっさと行けぇーーっ!!」
遅々として「入り口の底」へ落ちない罪人を、鬼が金棒で滅多打ちにした。
燃え盛る大地に鬼が足を踏み入れるとは露ほども考えていなかった罪人どもは、打たれる勢いのまま坂を何度も跳ねながらあっという間に我々の前に――底の広場に落ちてきた。
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鬼が鼻白みながら帰るのを見送ってから、号令を出す。
「急いで回収しろ!」
わっ、と何十羽もの同胞が群がると、身体中を血まみれにして抵抗することもできなくなった罪人たちは、空中で段々とパーツに分けられていく。
罪人の何体かは別の群れの獣が持ち去っていき、取り合いになったものは私が力づくで奪う。
そうして取り合った罪人を一つ抱えて飛び上がると、帰還を先導する先頭集団が騒がしくなる。
耳をつんざくような鳴き声。そして犬の遠吠え。
翼を閉じて狭い灼熱の道を急降下すると、上下に入り組んだ分かれ道の途中で、炎の歯を生やした真黒い犬たちが同胞を蹴散らして獲物の腕を持ち去ろうかという所だった。
犬どもは地獄鴉より体は大きいが身軽であり、この狭い道に目を付けられたら、我々は今後、獲物を奪い取られ続けてしまうだろう。舐められたが最後、こいつらは毎日飽きもせず我々の成果を狙い続ける。
当然、見逃すわけにはいかない。私は地獄犬の一匹を着地の勢いそのままに蹴り潰し、それに反応して飛び掛かってきた犬には魔力を固めた弾をぶち込む。
他数匹の犬が怯んだところで、私は合図を出した。
「撃て! 撃てーっ!」
ひとたび号令が下れば、怖気づいていた鴉どもも各々弾を放ち、その見た目の圧からして地獄犬どもは奪った獲物を一部だけ置いて逃げ去っていった。
同胞は既に数羽やられていたが、奪われた獲物は少ないし、食べる口が減れば入る量が増える。それに、この程度ならどうせすぐに増える。
「さっさと持っていきなさい」
死んだ地獄犬をばらして同胞に持たせ、瀕死の鴉は首はへし折ってから渡す。
こうした時、治療をせず、死体を持ち帰って貪るのが地獄鴉だ。そういう種族の群れでそう望まれたからそうしているが、こんなことをしているから鬼にさえ蔑まれるのだ、とは思わないでもない。
感傷も何もなく棲家の縦穴へ戻れば、分配の時間だ。
私の指示にどれだけ素早く従ったか、上手く獲物をかっさらえたか、危険を素早く知らせたか、地獄犬を撃退した弾幕のうち、有効的な弾を撃った鴉がどれか、どれだけ重い獲物を運んだか。
そうしたものを見て総合的に順位を決め、数羽に優先的に配分した後は、自由だ。
肢体を運搬していた鴉は自分の獲物を啄み、手ぶらのものがそこへ殺到する。さながら奪い合いだが、このような方法でも「良い」分配方法なのだ。
単純に獲物へ群がり、追い散らされていた頃と比べたらずっと多くの食糧にありつける。
罪人は死んだ人間だが、ヒトの形を持つ幽霊でもある。肉体への未練を持ちながら貪られ、死ぬほどの傷を受けても再生し、霊魂をすり減らしながら灼熱地獄の炎に焼かれる。
そうして死を繰り返した果てにヒトの形を失って、罰が十分であれば鬼が連れて帰るが、大抵はそのまま怨霊に成り果てるのだ。
怨霊には鬼も手を焼くが、妖獣となった地獄鴉や地獄の犬猫にとっては御馳走だ。喰えば力が付き、力が付けば更に喰える。
地獄という世界は、基本的には弱肉強食であるが、相性はある。相性はあるが、決して鬼には逆らえない。
地獄を支配しているのは最も強い鬼なのだから。
***
既に兆候はあった。
獄卒が罪人の全てを監視しきれないことは、灼熱地獄に放り込んでそのままにしていることから判断できる。
「信じられない……何なの、この罪人の量は?」
「さ、さぁ? 姐さん、それがさっぱりでして……」
灼熱地獄への「入り口の底」には山と罪人が積まれていた。群れの地獄鴉もあまりの量に面食らい、群がる事さえ躊躇っている。
十や二十ではない、百か、二百か、それとも千はあるだろうか。単調な動きで次々と罪人を放り込む鬼たちの手は止まらず、終わりが見えない。
私の背丈の倍の倍はあるだろう罪人の山には、まだ他の住人は手出ししていないようだ。
「そ、それで、姐さんが来たってぇことは、手を出してもいいんですかい?」
「…………」
つい最近になって人化を覚えた部下が、待ちきれないといった風に目を向けてくる。言うまでもないが、食欲に心を支配されているようだ。
「駄目だね」
「そんなぁ!」
「よく見な、鬼どもは罪人があんまりにも多いんで頭にきてる」
罪人には終わりがあるだろうが、獄卒の怒りには際限がない。罪人はもはや叩きつけられるような勢いで山に突き刺さっている。
苦悶の大合唱はさぞ食欲を刺激するのだろうが、怒りを発散できない獄卒に目を付けられたら目も当てられない。
「それじゃあ、この馬鹿みたいな数の餌を前に、どうしろってんです!?」
「……まぁ、見てな」
私は罪人の山に隠れるようにして広場を通り、別の横穴から同じように様子を伺っていた地獄の犬たちの所へ行った。
獄卒は私の姿を見たようだが、罪人を持っていったわけではないので、とりあえず見過ごされたようだ。
「お前たち、旨い話を持ってきてやったぞ」
当然だが、最近までウチと抗争していた地獄犬どもは私を見て吠えるばかりだ。とはいえ、所詮は人化もできない程度の力しかない奴らだ。私は怖くもなんともない。
「お互いに潰し合うのも馬鹿らしいでしょう? そこでだ、今日だけ罪人を譲ってやるから、明日はこっちに譲りなさい」
交渉ではない、脅しだ。
私は毒見をしろと言っている。
『ヴヴヴ……』
「やりたくないのね? やりなさい」
魔力弾で牽制しながら先頭の地獄犬に接近。首根っこを掴んで反転し、広場に飛び出す。犬もやられまいと炎の牙を突き立ててくるが、この程度の熱で私を焼くことはできない。
急旋回しながら犬を掴む手を離し、罪人の山に地獄犬を放り捨てると、洞窟から犬どもがわらわらと出てくるのが見える。
(しめた!)
ある程度の数が釣れたらいいのだ。その様子を見送りながら、同胞が待つ通路に飛び込んで叫ぶ。
「奥に入りな! 来るよ!」
羽を広げて鴉を何体か押し込むと、バァン、と凄まじい音を立てて何かが通路に叩き込まれた。それは2度3度とバウンドしながら岩肌を削ると、いくつかのパーツに分解されて勢いを失う。
飛んできたのは罪人だった。
広場の方でも大きな音が何回か鳴り響いているので、犬どもも狙い撃たれているようだ。
鬼の膂力で投擲されたものに当たって、無事で済むような奴はこの灼熱地獄には棲まない。
「駄目だね、今日はこれだけだ。さ、撤収するよ」
鬼がいるうちは罪人に手出しできない。先ほどやってみせたように、大人しくしている分にはいいが、何者であれ広場に複数の捕食者か現れると攻撃される。そして、鬼に敵う者はいない。
山ほどの罪人を諦めきれない同胞もいたが、それは放っておいて棲家へ戻った。どうせ、馬鹿なやつは自然と淘汰される。
私は毛づくろいもそこそこに、棲家の縦穴を抜け出した。
罪人がどれだけいるのか、この投下はどのくらい続くのか、それを知らなければ群れの統制は上手くいかないだろう。
上へ上と灼熱地獄の迷路を抜け、人化を解いて地獄鴉の姿へ戻る。
「うにゅ? この穴小さくなって……ないか」
通っているのは灼熱地獄より上の階層へ繋がる秘密の抜け道。人型では通れないので変化を解いたが、この抜け道を発見した時より食糧事情が充実したせいか、少し狭い。
やっとの思いで出口に辿り着くと、眼下に広がるのは鬼たちの都だった。
炎が燃え盛っているわけでもないのに、洞窟の暗闇から浮き上がるように都市全体が薄ぼんやりと輝いている。
血の池地獄にも生えている「木」というものを燃やして灯りにしているようだが、都はいつ来ても明るい。
木は燃え尽きないのか、燃え尽きないものを木と呼ぶのかは知らない。無くならないものがあれば、どれだけ便利なことだろう。
中心部分と灼熱地獄へ続く道には整然と建物が並んでいるが、そこから外れると実に様々なものが雑に立ち並んでいる。
数十年前に一度来たきりだが、その時は私を見るなり殺して喰ってしまおうと石を投げてくる奴がいたので、目立たないよう岩壁に沿い、闇に紛れるように降下して都へ近づく。
すると、群れに属していない地獄鴉が建物の低空を飛んでいるのが遠目に見えた。
それらに話を聞いてもいいが、戯れ程度で鬼に殺される地獄鴉ごときが、乱暴な地獄の住人と鬼の巣窟で重要な情報を拾えるだろうか。
私の群れは考えるのも苦手だし、仕事の内容を忘れてしまうような鳥頭もいる。手懸かりがなければ尋ねてもいいだろうが、大した情報は得られないだろう。
地面を歩く住人からは見にくい屋根の一つに止まり、話ができそうな鬼を探す。鬼といえども、見つけ次第攻撃してくるのとそうでないのに分類できる。理性的なやつを探せばいいのだ。
そうして上から見下ろしていると、罪人の果てしない列に気付いた。大きな建物から山ほどの罪人が列をなして灼熱地獄の方へ誘導されているし、その根元を辿っていくと、別の階層から列をなして罪人が建物にやって来ている。数千はいるだろうか、初めて見るような数の罪人だ。
なるほど、今日明日で終わる話ではなさそうだ。さしもの鬼でさえ、この数は手間取ると思う。
よく見れば、鬼どもはどれも走り回って忙しそうにしているし、私の話を聞くような暇があるとは思えない。
しかし、私は群れの長だ。群れの長ということは、群れの一番上ということで、存続の責は私にある。
隅々まで探し出すか、足りない頭を使って知恵を絞り出すしかない。
となると、まずは理性的な鬼を探すしかないのだが、大通りで暇しているような鬼はいない。私の話を聞いてくれるのは、地獄の組織で働いていないようなやくざ者か、仕事を意図的に行っていないか、組織に属しているが使い物にならない無能だろう。
つまり、探すのは家屋か脇道か都市の外。家屋には危険なやくざがいるかもしれないので却下、都市の外は土地勘がないので却下、必然的に、探すのは脇道だ。
危ないが少しだけ高度をとり、鬼の都を見下ろす。
一周、二周と都を見て回り、三周目でようやく見つけた。
大通りから伸びた細い道の先、屋根に囲まれた小さな四角い空間の片隅に、一体の鬼が座っていた。牛の頭に人型の身体を持つ牛頭という鬼だ。
牛頭の足元には大きさの違う丸が二つくっついたような、くびれのある物体が転がっている。穴の開いた先端から液体がこぼれており、酒精が香るので酒でも入っているのだろう。
私は牛頭の向かいの屋根に止まって声を掛けた。
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「暇なら私と話さないかい?」
「……んぉ? なんでぇ、地獄鴉か。シッシ、あっちいけ」
「つれないことを言うね。小さい声で話した方がいいだろう? そっちに行くよ」
牛頭は視線だけを私によこして、身体の力を抜いた。私が何も言わずに近づいたら、きっと身体が弾け飛んでいたのだろう。
地べたに立って人化すると、牛頭は丸めていた背中を起こしたが、目は少し焦点が合っていない。
「鳥頭の割にまともな奴だ。お前はアレか、灼熱地獄の群れか」
「そうよ」
「そうかよ。今のうちに都を見ておくんだな、役に立つ」
「どういう事?」
「ただで話すと思うのかぁ」
ヒックとしゃっくりをあげて牛頭は笑った。
侮られている。それはきっと「良くない」と思ったので、少しだけ語気を強めて言う。
「仕事をしていないこと、喚き散らしてもいいのよ」
「ふん、お前に何かできるとでも?」
「血の匂いがすれば誰かしら来るでしょう? 池を作るくらい好きなんだから」
「チッ……面倒臭ぇな、何の用だ」
働いていない鬼というものは、案外話ができるようだ。仕事だけに集中してロクに会話もできないような奴ばかりだと思っていたが、労働には鬼の頭を悪くする効果があるらしい。
「罪人が山ほど落ちてきてるからね。何か知らない?」
牛頭は入れ物に入った酒精を呷ると、大きく息を吐いてゲップを垂れ流した。掌からまた容器が転がり落ちて、中身が少し漏れる。
「ゲェェォォォオオップ……」
「…………」
「……」
「何も知らない?」
「はぁ?」
駄目だこりゃ、話す気がない。
力で劣る私が鬼の口を割ることはできない。
「どこだぁあああああ! ごずぅうううう!!」
急に大通りの方から聞こえた大きな声は、この牛頭を探しているようだ。
牛頭の顔をまじまじと見つめると、ほんの少しだけ目が泳いだ。
小さな力で動かせないなら、より大きな力を使えばいい。
「叫んでる鬼をどうにかできたら、話してくれる?」
「……嘘ついてどうにかするってのか?」
「嘘?」
嘘を嫌っているような口ぶりだ。心なしか声も低く、剣呑とした雰囲気がする。
まさか、あの強大な鬼が嘘のごときを気にするのだろうか。むしろそういうことを「する側」ではないのだろうか。
「それなら、嘘をつかずにこの場をしのげれば、質問に答えてくれるってこと?」
「できるもんならやってみな」
「約束、してもらえる?」
吐き捨てるように述べた牛頭だったが、私の言葉に唸る。
なるほど、本当に鬼は嘘を嫌うのか。たかが口約束一つに対して、分かりやすいほど躊躇っている。
「……いいだろう、やってみろ。約束してやろうじゃないか。キチガイじみた仕事量にはうんざりだ」
「じゃ、ちょっと待っててよ」
私は大通りの様子を伺った。
様々な鬼が駆け回っており、真っすぐ伸びる道の先を罪人の行列が横切っているのが見えた。そこかしこで怒号が飛び交い、アレが足りないこれを持ってこいと、普段灼熱地獄で見かける獄卒よりも殺気立っていた。
ここは間違いなく一種の危険地帯だが、これも仕事のうちだ。
通りに顔だけを出すと、ひときわ大きな声を上げて練り歩く馬の頭をした鬼がいた。あれをどうにかしてどこかに行かせればいいが、下手に牛頭を話題に出すと疑われかねない。
「おいお前!」
「げ」
様子を伺っていたのだが、すぐに見つかってしまった。馬頭がドスドスとがに股で迫り、視線は上の方へ向かう。背丈は私の倍くらいはあるだろう。
この場で馬頭と会話をしても、牛頭が座っている場所は死角になっているので、バレるようなことはないはずだ。
不用意に刺激して、地面の赤い染みにならないようにしなければ。
「その羽は地獄鴉だな? 図々しく飛んでいるくらいだ、牛の頭をした鬼を見ただろう! そうであろう!」
私の脚の倍はある大きさの馬頭の腕が緊張し、膨れる。思い通りにならない返答をすればぶん殴る心づもりだろう。
「牛の頭ですか、その鬼なら見ましたよ」
「役立たずが!! ん?」
馬頭は大きな腕で私を殴ったが、空を切る。
言い掛かりをつけて、憂さ晴らしついでに殴り殺す腹積もりだったようだが、その手の内は読めた。
「ええ、近くを通りました」
「なにっ! どこへ行った!」
「酒精のあるところに行ったかもしれません。酒の匂いがしましたが、容器は手に持っていませんでしたので」
「酒屋か! あいつめぶっ殺してやる!」
礼も言わずに馬頭が立ち去っていく。
苛立っていたせいか、深く考えないまま去ってくれてよかった。
私は背中が見えなくなったのを確認してから大きく息を吐く。
「言う通り、嘘を付かないで追い返したよ」
「何だと? 俺がいつ酒屋へ行った!」
聞こえていたのか。地獄耳だなぁ。
「そんなことは言ってないよ。酒の容器を持っていなかったのは事実だし、私を囮にして他の酒を取りに行った可能性はあるでしょ」
「……ふん、馬頭が勝手に勘違いしただけか。ならいい、答えてやろう、約束だ」
ようやく聞きたいことを聞ける。色々と気になることはあるが、数については約束していなかったので、一番聞きたいことを最初に尋ねなければ。
「……あの罪人の多さは、何が原因でいつまで続くの?」
「あれは地上の戦で死んだ奴らだ。ここ数日で5万人は死んでいるらしくてな、一部がこっちの灼熱地獄に来るそうだ。この調子だと……あと3日は続くだろうよ」
「5万……」
信じられない数だ。
私は100年ほど生きてきたが、ここまで馬鹿げた数の死人は見たことが無い。
もし、万の罪人がやってくれば、そのうち灼熱地獄は怨霊だらけになるだろうし、餌を巡る抗争は資源を確保する方へ激化する。
今の群れでさえ300ちょっとしかいないのだから、万の罪人を巡る争いにおいては弱小勢力にしかならないだろう。
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
「地上は滅んだの……?」
「馬鹿言うな、この程度じゃ滅びもしねえよ。戦が無くたって、毎日千弱は地獄に来てんだからよ」
「ならいっか。それじゃあ、さっきの『今のうちに都を見ておくんだな』っていうのは、どういう意味?」
「ああ? …………いいか、俺が話したことは言うなよ」
牛頭は声を潜めて言う。周囲に神経を巡らせているようで、耳が何度も動いていた。
私も息を殺して、身体を寄せた。
「前から言われていたが、今回の件で灼熱地獄は拷問施設として不適当だと認められた。でだ、わざわざ金鬼鬼神長が大規模な工事をやるらしくてな、ついでに邪魔な不法侵入者は始末するってよ」
「…………一斉駆除ってことね」
「それで死ななきゃ、都の外れに棲んでる宿なしどもの仲間入りだ」
聞けることは聞けたので、これ以上の質問を持たなかったが、去ろうとする私を牛頭は呼び止めた。
「おい、地獄鴉よぉ、俺の仕事を増やすんじゃねえぞ」
牛頭は愉快そうに笑う。
私たちの生き死には、この鬼という上位の種族によって左右されているのは間違いない。でなければ、賭けを楽しむような物言いはしない。
良くも悪くも、地獄では色々な妖怪や獣が「生えて」くる。妖精のような不死性は無いが、地獄の住人には地上の住人のような命が無い。
だから、殺す方は、殺される方の個体としての死を軽く捉えている。私もまた鬼に軽んじられている。
「増やさないよ、不真面目なあんなの仕事はね」
許していい話ではない。
私は私が抱える空洞を永遠に満たせないまま死ぬのは御免だ。
せめて、伸び伸びと羽を広げ、大空を羽ばたける時が来るまで生きてみせる。
人化を解き、都の闇から飛び去る。振り返れば、灼熱地獄よりも湿った風が私を刺してくる。静かに加熱していく負の感情が空に渦巻き、私を再び灼熱地獄へ追いやった。
***
群れに戻った私は、数羽の地獄鴉を呼び出した。直接命令を出す上位の階級の鴉だけが集まる。
群れの長である私の下には、当然、群れの全ての地獄鴉がいるのだが、群れ内部は私に反感を抱いているかいないかで二分されてしまっているので、狩りでもない限りは、方針を伝えるだけに留まる。
数は力になるが、烏合の衆は必要ない。
反抗的な半分は、いまだに積まれ続けている罪人の山の監視をさせる。
残り半分は私と共に、さらに下層の血の池地獄で野営だ。一時的に棲家を放棄する形になるが、鬼が声を潜めて話をするような奴が来るのだから、破壊された後の灼熱地獄は邪魔な奴らが消えてさぞ住みやすいに違いない。
群れの先陣を切って真っすぐ下へ飛び、火焔を抜けた先には、岩だらけのゴツゴツとした大地と真っ赤な血だまりが点在する血の池地獄だ。
わざわざ「血の」なんて付けるくらいだから、どこかに水の池と酒の池があるんだろう。
とはいえ、妖怪や死霊から搾りとった血らしいので、地獄鴉も好んで飲みはしない。腐ったような匂いがするし、何よりここは獄風が吹き荒ぶ荒野の中だ。道を見失えば二度と灼熱地獄には戻れない。
私たちは血だまりの畔に生えている3本の木を仮の拠点として決めた。それから群れを10羽ごとに分割し、近場に獲物がいるかを探させる。
ここにいる地獄鴉はまともな私の部下、灼熱地獄の工事が終わるまでは無駄に消耗してほしくはないが……。
「何かと思えば地獄鴉か。ここを私のシマだと知ってのことか?」
ザバリと血だまりの中から現れたのは、後ろ向きに赤い二本角を生やした獣だ。顔など見たこともないが、どこか懐かしい感じがする。
「!? ここは、あんたの『しま』だったのか……悪いね、どこも同じような景色なんで、たまたま降り立ったのさ」
「私は饕餮尤魔だ。……これまた随分と中身の無い奴が来たな」
「地獄鴉の群れの長です。私たち、どこかで会ったことある?」
「いや、無いが……」
「ですよねー。まぁ、数日の間は行く当てがなくてさ、ここに居させてくれない?」
「クックック、いいだろう、わざわざ灼熱地獄から降りてきた理由を話すならな」
血の池地獄にいるような人化を会得した存在のことだ、暗くて好戦的な人格破綻者かと思っていたが、話が通じるようで危機感が増した。
私は牛頭から情報を引き出せたが、逆にその情報で脅しを掛けられた。この先、都に行く機会が存在する限り、直接ぶん殴られて脅されるよりもずっと多くのことをせざるを得なくなっている。穏やかに会話ができる方がより狡猾に相手を縛れるのだ。
この池に取り込まれないような常軌を逸した精神を持つ相手は、きっと同じように手ごわい。
「近々、灼熱地獄で工事がある事を掴んだのさ」
「へぇ……大した諜報力だ、飛ぶ鳥は鬼でも落とせないか」
「あそこはうちの『しま』だけど、工事をする奴がする奴だからね。伝わるもんさ」
あまり話しすぎても良くない。
私はそこらへんで情報を打ち切って、居候するのに必要なことをいくつか聞くに留めた。
「クックック、随分と口が堅いじゃないか。灼熱地獄にこんな奴が居たとはな」
「……鳥は嘴だからね」
「ああ、いや……欲望はあるのか? お前、名前は?」
「名前? 長」
「そうか……つまり空の器ということか。何もないものは喰らえないが、欲望を詰め込める」
「ここに居る許可は貰ったはずだけど……」
「つまらないことを気にするな。お前はここで工事を待ち、灼熱地獄を支配するといい! ではな」
饕餮は訳の分からないことを叫んでから、再び血の池に潜っていった。何を考えているか分からない相手だったので、表面上は敵対せずに済んでよかった。
とはいえ、血の池地獄の食糧事情は厳しい。獄卒も管理を半ば放棄しているような場所で、食糧といえば我々が食べ残した罪人――落下して再生したのだろう――がときおり池から身を起こしたものとか、この場所で生まれた凶暴な怨霊くらいのものだ。
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池の血を啜る有角有尾の住人も居たが、罪人と怨霊に比べれば手間がかかるので、手は出さなかった。血の池地獄にはこちらを遠くから見るだけの陰気な存在ばかりがいたが、そういう意味は饕餮は珍しい住人だったのだろう。最初の接触が彼女でよかったかもしれない。
ああ、早く灼熱地獄に戻りたい。