六本木 東京
二〇一九年一〇月二九日
最後のエンターキーを叩く、ほぼ同時に18時の時報が鳴った。
定時だ。僕はいそいそと同僚に挨拶をし、ロッカーに仕事用の上着を放り込んでジャケットを羽織ると、一目散に会社を飛び出した。
練馬にある会社から六本木までは約1時間かかる。移動時間や乗り換えの手間を考えると、約束の19時半まではギリギリだった。
上りの西武新宿線は比較的空いていた。それでも座席は一杯だったので、つり革につかまっていた。
夏のコミケの打ち上げから──あの時、一緒に月を見上げてから、僕らは何度か会った。行き先はなんてことのないレストランや映画館、もしくは喫茶店でアニメ話に花を咲かせるといった具合だった。
今日は改まったお店に行く予定だ。色々仕込みもある。
僕は心の中で決意を固めていた。
〝今日こそ、ちゃんと言うぞ〟
中井駅で都営大江戸線に乗り換えた。こちらの方が幾分混んでいたので、僕は大事な荷物がつぶれないように気をつけながら、六本木まで向かった。
六本木駅で降りて待ち合わせ場所まで行くと、既に彼女が待っていた。
「遅~い」
「ゴメン」
ふくれっ面をしていた彼女だけど、すぐに笑顔になった。
「大丈夫、わたしも少し前に来たばかりだから。それに」
彼女は少し頬を赤く染めた。
「今日は平日なのに、わたしの誕生日のために来てくれてありがとう」
そうなのだ。今日は彼女の誕生日なのだ。
「僕こそそんな大事な日に、お出かけの誘いに乗ってくれて嬉しいよ。お祝いの席を用意したから、ふたりで食べよ」
待ち合わせ場所から歩いて5分ほどの場所に、今夜のディナーを楽しむお店があった。
・・・
今日はちょっと高級なお店を予約していた。正直こういったお店のマナーについては疎いので、僕は事前に勉強してきた。
クロークで上着を預ける際、ぎこちなくだけど、僕は彼女の上着を脱がせてあげた。彼女は自然な感じで僕に預けてくれた。
コートを脱いだ彼女の今夜のコーディネートは、太もも丈の長袖縦セーターにニーストッキングという組み合わせだった。
下品になりがちなファッションだけど、彼女が着こなすとエレガントに見えるから不思議だ。
彼女の椅子を引いて座らせると、僕も椅子に着いた。僕らが落ち着いた頃を見計らってソムリエが食前酒を尋ねてきた。僕は記憶を探りながら「シャンパーニュで」と注文した。彼女は「わたしはミモザを」と注文した。
その後、食事が出てくるまでのやりとりは、あまり覚えていない。覚えているのは、僕がマナー違反を犯しそうになった時、彼女がさりげなくフォローしてくれたことだ。
ふたりで乾杯をして、ようやく少し落ち着いた。
思わず僕は尋ねてしまった。
「こういうところ、慣れてるの?」
「そうねぇ、父に厳しく躾けられてきたからかなぁ」
そうなんだ……僕は己の無学を恥じてしまった。そういう表情が顔に出たのだろう、彼女は笑顔で応えた。
「でもね、わたし嬉しいよ。──さんがこうして祝ってくれるの」
そう言ってもらえると助かる。
「まぁ、あんまり気にせず楽しみましょ」
そう言うと、彼女は料理に手をつけた。僕もそれに習うことにした。
ワインが入り、少しリラックスした僕は、彼女に近況を尋ねた。
「職場の方、少しは落ち着いた?」
「うん、少し落ち着いた……」
彼女は今年の4月に新卒で入社した。大手建設会社だ。夏のコミケの時点だとまだ研修中で余裕があったが、半年の研修期間が終わって10月から本配置となった。慣れるまではなにかと忙しく、今月は中々会えず仕舞だった。
ようやく今夜、ゆっくり時間が取れたという訳。
一言だけ口にした後、彼女はあまり詳しく説明を始めなかったのは、きっとこの場に相応しくない会話だからなのだろう。僕も深くは聞かず、料理に集中することにした。
順繰りに出される料理に、僕は悪戦苦闘した。それを見ていた彼女は、ここでもさりげなくフォローしてくれた。なんとも恥ずかしいかぎりだ。
なんとか決定的なマナー違反をすることなく、デザートを済ませ、コーヒーまで進んだ。彼女が「ちょっとゴメンね」とお手洗いに立っている間に会計を済ませた。このくらいは自力でやらなきゃね。
店を出て、大きく息をつく。〝とりあえず、これで良かったのかな?〟
腕時計を見ると22時を指していた。僕は躊躇いがちに言った。
「まだちょっとつき合えるかな?」
彼女は笑顔で応えた。
「えぇ、どこか近くのお店に行きましょう」
・・・
向かった先は、それなりの体裁は整えているものの、あまり堅苦しくないカクテルバーだった。
スツールに腰かけると、バーテンダーがうやうやしく飲み物を尋ねてきた。僕はジントニック、彼女はマティーニを頼んだ。
僕らの前にそれぞれカクテルが置かれた。それを掲げると、改めて乾杯をした。
「さっきのお話なんだけどね」
「うん」
「なんて言っていいのかしら、とにかくビッグプロジェクトの一員に選ばれたみたいなの」
「すごいじゃん」
感嘆する僕に対し、彼女は少し難しい顔になっていた。
「う~ん」
「どうしたの?」
「なんか大きすぎてわたしの手に余る」
「君なら大丈夫だよ。それに上司や先輩も居るんでしょ」
彼女はまだ少し不安な面持ちだった。
「まぁ、そうなんだけど」
「大丈夫、君なら大丈夫。まぁ、これからだよ。もしよかったら愚痴も聞くよ」
少しだけ彼女の顔が明るくなった。
「そうね、ありがと」
彼女の気分が落ち着いたのを見計らって、僕は改めて尋ねた。
「で、どんなプロジェクトなの?」
「うん、なんかね、……湾岸エリアってあるでしょ」
湾岸エリア。ざっくり言うと、新橋駅の南東、勝鬨やお台場のある範囲のことだ。あの刑事ドラマで一躍有名になったエリア、といったらわかりやすいだろうか。
「うん」
「そこの再開発計画なんだって、ほら築地市場とか豊洲に移転したでしょ。そこの跡地とか、……とにかくあの辺一体の再開発なんですって」
「ネットニュースで見かけたかな。もしかして『バビロン・プロジェクト』のこと?」
「そう、それ」
「へぇ──」
湾岸エリア再開発計画「バビロン・プロジェクト」
それは21世紀の日本が掲げた一大プロジェクトのひとつだ。
統一によって元〈向こう側〉地域に大規模な資本を投下した結果、あの地域の近代化と経済の活性化をもたらしたんだ。そのおかげでバブル経済が崩壊して傾きかけた日本経済全体が息を吹き返したのはご存じの通り。
この立て直しがなければ、僕辺りなんか、リーマンショックの影響をもろに受けて就職難に
で、まぁ経済が息を吹き返し、公共事業が再び脚光を浴びることになった。なんせこの首都東京には、金と人が集中したからね。元〈向こう側〉の住民は勿論、海外からの移民も増えてきた。
そうするとただでさえ過密なこの街はさらに過密になった。それを一挙に解決するのが「バビロン・プロジェクト」てな訳だった。
「──で、君はそれに関わることになったんだ」
「うん。なんでも最終的に、2000メートル級のビルを建てるんですって。で、わたしはそれの工程管理」
「すごいじゃん」
「実際の稼働はまだ何年も先なんだけどね。それまであちこちの現場で場数を踏んで修行ね」
「それにしても」
「うん」
「そんなビルを建てるとなれば、現場作業員の人も大変だね」
「そう、だからなのでしょうね。このプロジェクトにはあの北崎重工も参画しているわ」
「北崎かぁ」
「そう、ほら、何年も前に硬式宇宙服のデモンストレーションがあったじゃない。それの現場作業バージョンを開発中なんですって」
動画サイトで見たことがあるな。あの時は100キロ以上の鋼材を軽々と持ち上げる女の子の姿が映っていた。
「いきなりおおきな現場には投入できないから、普通の建築現場でまず実証実験をするみたいなの。で、わたしはそれを見聞して工程を組み直す……みたいなのよね」
そういう彼女の表情に、また不安の影が映った。
「大変そうだね。でも大丈夫だよ」
僕は彼女の手にそっと自分の手を重ねた。彼女はそれを振りほどかなかった。
「僕が言ってもなんの裏付けもないかもしれない。だけど、君ならきっと大丈夫。できるよ」
彼女はふっと微笑んでくれた。
「ありがと」
・・・
いつのまにか時計は23時を指していた。終電を考えるとここらで勝負をかけないと時間がない。
「あの……渡したいものがあるんだ」
「なにかしら?」
「これ……誕生日プレゼント」
僕が出したのは小さな包みだった。彼女は嬉しそうに受け取ってくれた。
「ありがとうございます、とても嬉しい」
「そう言ってくれて、僕も嬉しいよ」
「開けてもいい?」
「うん」
出てきたのは蒼い
「綺麗……ありがとう」
「そんな高いものじゃないけどね」
「ううん、──さんの気遣いが嬉しいの……着けてもいいかな」
「うん」
そういうと彼女は胸に着けた。
「似合う?」
「うんとてもよく似合うよ……でね……」
彼女はものすごく期待した目をしていた。
言うか言うまいか、言うか言うまいか……。
「……あぁ、もう遅いね。店を出ようか」
「……うん」
僕らはバーを出て駅へと急いだ。心なしか、彼女はプレゼントを受け取ったときより不機嫌そうだ。
なんとはなしに無言で駅まで着いた。……着いてしまった。
改札の前で僕らはしばらく向かい合った。次の電車が、僕にとっての最終電車だ。
「電車、出ちゃうよ」
「うん……わかってる……」
もう最後のチャンスだ。ここで言わなきゃ。
僕を留めていたのは、言ってしまうことによる関係の変化だった。成功すればいい。だけど、失敗したら……。
「?」
彼女は怪訝な表情をしていた。
「あの、あのね……」
言いたい、言えない、もっと彼女と一緒に居たい、でも迷惑かもしれない。そんな葛藤の中で涙が溢れてきた。
〝逃げちゃダメだ〟
僕は彼女の手をとった。そして、ありったけの勇気を振り絞って言った。
「ぼ……僕は、君が好きだ。こ、これ、これから、僕と正式に、つ、付き合って欲しい」
最終電車が発車した音が響いてきた。電車によって空気がかき回され、一陣の風が改札に吹く。
沈黙の後、彼女が口を開いた。
「ようやく、素直になってくれたね」
ギュッと目をつぶったまま告白していた僕は、そろそろ、と目を開いた。彼女は満面の笑みを浮かべていた。
「ずっと待ってたんだよ」
「年甲斐もなく勇気がなくて、ゴメン」
「答えはね」
そう言うと彼女は抱きついてきた。まだ周囲にはお客さんが残っている。僕はドギマギした。だけど、僕は彼女をギュッと抱きしめた。
彼女が尋ねてきた。抱きしめたままだったので、甘い吐息も伝わってきた。心なしか瞳が潤んでいる。
「電車、出ちゃったね……これからどうしようか?」
僕は断固として言った。
「今夜は、君を抱っこしたい」
「ふふ、了解」
こうして、僕らは最初の夜を迎えた。