川湯町 北海道
二〇二二年五月三日 早朝
〝昨日は何時に寝ただろう。旅館に着いて、晩ごはんもそこそこに、まず家族風呂で、それから部屋に戻って楽しんで。その後は……〟
目を開けた僕が見たのは浴衣からまろびでた彼女のおっぱいだった。どうしようか、と思ったが、まずは挨拶することにした。
「おはよう」
そう言いながら顔を彼女の豊かな谷間に埋めた。
「ううん?」
彼女はまだ寝ぼけているようだが、間もなく気づいた。
「ちょ、なにして……」
最初、呆れた声でうめいたものの、大体の事は肯定してくれる彼女である。すぐに僕の頭を抱きしめた。
「おはよ」
「朝から絶景だよ」
彼女は鼻で笑った。
「ふっ、なにを言ってるんだか」
その後は……まぁいいじゃない。
・・・
ようやく身支度を済ませ、部屋で朝食をとった。
食べながら、ふたりでぼんやりとテレビの朝ドラを観ていた。僕としては、今作はイマイチだなぁと思っていたものの、彼女は食い入るように眺めていた。
どこがおもしろいのだろう? そんなことは絶対に聞けなかった。楽しんでいる彼女に水を差すのはどうも気が引ける。
結局今日も、そのまま8時15分となり、コメディアンのトークが始まった。
そんな僕の感情を知ってか知らずか、彼女は生真面目そうな表情で尋ねてきた。
「で、隊長殿。本日の作戦はどのようになっているのでしょうか?」
と、表情を崩す。
「あ、もしかして『提督』の方がよかったかしら?」
僕は思わずにやけてしまった。
「どっちでもいいよ。君と一緒なら」
「あら、まぁ」
彼女が顔を赤らめる。僕は照れ隠しにコホンと一息。
「あぁ、……んじゃ本日の予定なんだけど、野付半島を回って納沙布岬を回ります。そして、のんびりドライブをして再び妹宅で一泊します」
「あら」
彼女は意外そうな、どこか残念そうに応えた。
「知床半島には行かないの。手付かずの自然が残ってるって話だけど」
「行きたいのは山々なんだけどね」
「じゃぁどうして?」
「まだあの辺結構雪が残っているんだ。夏タイヤのレンタカーじゃちょっときつい。……それに」
「それに?」
「うん、それにあの辺はまだ〈向こう側〉の残党がゲリラ化して潜伏しているんだ。滅多に半島の付け根側には現れないんだけど、万が一君になにかあっても困るし」
「そっか、じゃぁ仕方がないわね。今回はあなたのプランで行きましょう」
納得してくれたか、ん?
「でも」
「うん」
「いつか、そのゲリラさんたちも、現状に納得して降りてくれればいいね」
「まぁ中々頑固な人たちだからねぇ……でも、そうだね」
・・・
仲居さんたちに見送られて僕らは出発した。実のところあの仲居さんたちも若い頃は〈向こう側〉の「人民」だった人たちだ。価値観の変化には戸惑いまくったのだろうけど、あれから三〇年近く経った今、統一日本という現実に揉まれてきたのだろう。
野付半島に辿りつくまで中々の難行苦行だった。〈向こう側〉でもモータリゼーションが始まっていたのだけど、やっぱり僕らの日本よりは道路建設が遅れていた。統一後意気揚々と乗り込んできた北海道開発庁が呆れるほどだった。その後現在に至るまで大車輪で改良工事が行われているんだけど、まだまだ水準までは遠いようだ。
途中で踏切に遭遇した。丁度列車が来るらしく、古めかしい警告音が鳴り響いていた。
間もなく列車が来た。ドラフト音? なんと、蒸気機関車ではないか。さすがに旅客用ではないが、貨物用ではまだ現役なのか。
鉄オタでもある僕が目を白黒させているのとは対照的に、彼女がドラフト音に負けじと叫んだ。
「なんかさ」
彼女は何故か楽し気だった。
「古き良き日本がそのまま残ってる感じがしない?」
都会育ちの彼女ならではの感想だな。僕はそう思った。田舎育ちの僕には日常の全てが不便なのは実に腹立たしい。
統一前ならともかく、情報化社会にどっぷり浸かった今の元「人民」なら、不満もたまりそうだよなぁ。
そんなことを考えていたものの、彼女にはこう応えた。
「本当だねぇ。ジブリ映画にも出てきそうなロケーションだよねぇ」
いつか、彼女もわかるときがくるだろう。遮断機が上がる。僕はそんなことを考えながら、アクセルを踏んだ。
・・・
予定時間を過ぎて、ようやく野付半島に着いた。観光名所に至るまで道路の両側が海、というのは中々にスリルな体験だった。あの震災を経験した人ならわかるだろう。〝もし今、地震が起きて津波が来たら……〟内心ヒヤヒヤしながらレンタカーを進めた。彼女も同じ気分になったようだ。
「今地震が起こると、わたしたち逃げ場がないんだね」
ふたりで戦々恐々としている内に観光センターまでたどり着いた。ちょっと奥まで見渡すと、丈高い、立体駐車場みたいのが見える。もしかしてあれは……。
「津波避難用のタワーだね」
彼女の方が先にわかったみたいだ。インフラ整備が遅れている中で、これは優先的に整備したんだろうな。
あまり時間がなかったので、駆け足で観光を楽しんだ。馬車に乗って水没しつつあるトドワラの怪奇さに驚いたり騒いだり。ゴメンね御者さん。
最後に印象に残ったのは対岸に見える国後島だ。この後もそうなんだけど、ここが東西冷戦の最前線だったんだよなぁ。そんなことを想っていると、隣で彼女が手を合わせていた。
「統一戦争で亡くなった方々に」
そうだな。特にあの島とオホーツク海は……僕も手を合わせた。
・・・
観光センターでお土産を買い、僕らは次なる目的地に向かった。
ガタピシ国道をゆるゆると走り、15時頃に根室に差し掛かった。かつての根室運河要塞は普通の運河として使われており、時折漁船が行き来していた。ここまでくるとインフラ整備も幾分進んでおり、市街地はこちら側とあまり変わりはなかった。
納沙布岬に着くころには既に陽が傾きかけていた。ここがかつて、〈向こう側〉の最東端だったところか……。僕が感慨に耽っていると彼女は珍しそうにモニュメントを指さしていた。
「なんか、すごい造形だね」
たしかに、あれは何のモニュメントだろう。形としては、いかにも共産主義的な芸術性に満ち溢れていて、常人には(多分元人民にも)理解できなさそうな奇天烈さだった。
「うまく言えないけど、メッセージ性は抜群かもしれないね」
とは彼女の評である。
で、これはなんのモニュメントだろうか。答は手前にあった説明板に書いてあった。彼女がかすれた文字を読む。
「還せ、我等の北方領土……?」
あぁ、そういうことか。
「北方領土、というのは〈向こう側〉の言い方で、要は千島列島のことだよ」
「そうなの?」
「うん。第二次大戦末期に、合衆国軍が千島列島を攻略したんだ。本当ならソ連軍が落とすつもりだったらしいのだけど、石狩湾の作戦が失敗して、おまけに旭川には日ソ両軍を巻き込んで反応弾が落とされたんだ。それで攻撃力を失った彼らは、北海道の半分を占領するだけで満足しなくちゃいけなくなった」
「ふーん」
「まぁ、そのおかげで僕はこちら側の日本人として生まれることができたんだけどね」
「あぁ、そうか、あなた函館出身ですもんね」
「まぁね。親父の親は大変だったけどね」
「そっか……」
僕が言わなかったことを理解してくれたらしい。
ふたりでしばらく黙り込んでしまった。
ややあって、彼女が再び声をあげた。
「ほら、あっちにお土産屋さんがあるよ」
僕も気分を変えて彼女の指した方に歩くことにした。
お土産屋さんはどこか、かつての日本労働党を思わせる雰囲気だった。もっとも、そんな雰囲気、テレビでしか味わっていないけど。まぁ例えるなら、いまだ軒高な隣の半島の付け根の側、と言ったらいいのかな?
今では珍しい、あまり商売っ気のないお土産屋さんでいくつかの買い物をした。そうしていると彼女が三度声をあげた。
「なんか、一杯記念碑があるよ」
「へぇ」
行ってみると記念碑どころの騒ぎではなかった。それぞれ「要求・北方領土返還」とか「祈念・北方領土恢復」などなど、中には「目指せ・北方領土奪還」という勇ましいものもあった。どうやらこちらでいう左翼団体が思い思いに建立したらしい、何本もそういった碑が立てられていた。
「なんか、すごいねぇ」
彼女もあっけにとられていた。
「うん、底知れない執念を感じるよ」
今ではこちら側に「併合」されて、こっちも千島列島も同じ国になったけど、これを立てた人たちは今頃どうしているのかなぁ?
そんなことを考えていると彼女はぼそりとつぶやいた。
「きっと、逞しくやってるよ。だって、なんだかんだいっても同じ日本人だもん。どうにかこうにか暮らしているよ」
「向こう側の人たちには、結構な割合でロシア人もいたけれどね」
「その人たちも、うん、……きっとなんとかしてると、いいなぁ」
今の戦乱を思い出したらしい。彼女は少し悲し気な口調になった。
「きっと、ここに住んでる元ロシアの人たちも、日本人と仲良くできたのだから……あそこの人たちもきっと……きっと……」
僕は黙って彼女を抱きしめた。
・・・
半ば物見遊山の感覚で来たけど、なんか考えさせられたなぁ。彼女がいてくれて、本当に良かった。
陽もとっぷり暮れてようやく妹宅についた。妹夫婦も夕方の搾乳を終えたところらしく、4人で晩ごはんを囲んだ。
「お兄ちゃん、観光は楽しかった?」
少し考える。
「あぁ、楽しかった。そして勉強になったよ」
「そっか」
静かな夜だった。
・・・
あくる日妹宅を出た。向かうは釧路国際空港。レンタカーを走らせながら、僕は感慨に耽っていた。
彼女もなにか考えているみたいだ。
ふいに話しかけてきた。
「和美さん、幸せそうだったね」
「兄としてはそうでなくては困る」
「そう、ふふ、そうね」
「義兄さんも今の農場を安定させるまで苦労したみたいだから。ふたりで頑張って欲しいよ」
「そうね」
そういって彼女は再び黙り込んだ。しばらくして口を開いた。
「ねぇ」
「なに?」
「ふたりで住まない?」
驚きのあまり、ハンドルをあらぬ方向へ切ってしまう。反対車線に飛び出しかけ、対向車からは盛大にクラクションを鳴らされてしまった。
「ふふ、わたしから言うの変かな?」
僕は彼女の積極性に驚くとともに、自分から言えなかったことを後悔した。
「顔に出てるよ~。僕から言えばよかったって」
この小悪魔め。
「うん、後悔してる」
「で、返答は? イエスかハイで応えなさい」
思わず笑ってしまった。
「僕に選択権はないのね」
「わかってるじゃない。よろしい、兵隊、フォローミー」
「イエス、マム」
こうして、僕らは同棲することになった。