転生腐の王様は悩みが多い   作:バラフバフ

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SsC13:27"『Igor』"

寒空の下、白い息が零れる。

 

新雪を踏み締める齢二桁に満たない私の頼りない足音が静かな冬の街に響く。

 

通い慣れた家路は既に大きく傾いている日の光に照らされ、淡く橙に霞んでいた。

 

いつものありふれた帰り道。

 

だからこそ、街を這い回るその物体を、見飽きた光景に混ざり込んだ異物を、私は見逃すことができなかったのだろう。

 

それは道路を挟んだ反対側の歩道にいた。

 

何も特別なことはない、ただ何の気なしに歩きながら周りの景色を眺めていた時だった。

 

不意に白で埋めつくされていた視界に"灰"が混じる。

 

地面の程近く、足首ほどの高さを何かが滑るように移動していくのが目に入った。

 

色は白に近いが周囲の雪と比べるとややくすんだ印象を受ける。

 

最初は猫かネズミの類かと思ったが、それにしては動きに生物らしさが薄く、違和感を覚えた。

 

それは自分の進行方向からこちら側に向かって移動してきており、次第にその輪郭が明らかになってきた。

 

猫にしては歩幅が短く、しかし、ネズミやリスにしては足が長すぎる。

 

さらにその足の全てがせわしなく蠢いており、四足動物というよりかはクモに近い印象を受けた。

 

やがて、はっきりとその姿が露になる。

 

端的に言ってしまえば、それは”手”だった。

 

外見は人間のものではあるがしかし、それ自体は人間でないことは明らかだった。

 

その"手"には手首より先がなかったのだ。

 

足のように見えたの細長い指であり、蠢くような動きは五指で懸命に地面を駆け回っているためであった。

 

しばし呆然と眺めているとやがてその"手"は私から見てすぐ手前にある曲がり角に消えていった。

 

恐怖は確かにあった。

 

しかし、それ以上に幼い私はこれまで経験したことのない奇妙な出来事に対する抑えようのない好奇心に襲われていた。

 

確かに"手"としてみれば中々の移動速度だろう、しかし、とはいってもそもそもが歩行に適さない構造だ、人間とは比べるべくもない。

 

恐らく、まだ運動能力が未熟な自分でも追い付けるはずだ。

 

迷いは一瞬だった。

 

素早く車道に視線を向ける。

 

視界の端から端まで車の影が見えないことを確認し、持てる力の全てを足に込め、走って車道を横断した。

 

"手"の曲がった先に真っ直ぐ向かえば、やはり予想通り数秒と待たず"手"を視界に捉えることができた。

 

しかし、またすぐに"手"は別の曲がり角に消えてしまう。

 

すぐに自分も角を曲がるも、その先でまたもや角を曲がる"手"の姿が見えた。

 

追い掛け、曲がる、追い掛け、曲がる。

 

何度も繰り返し何度も撒かれそうになったが、如何せん速力に差があるため、大きく引き離されることもなく、しかしながら角を曲がる度に距離が開いてしまうため、追い付くこともまた敵わなかった。

 

だがやがてその追跡劇も終わりを迎える。

 

ある角を曲がる際、"手"の移動速度が明らかに落ちたように感じた。

 

心なしかその足取りは軽やかで弾むように見える。

 

勿論身体の部位でしかない”手”の表情など読み取れるはずもないのだが、私にはその時の”手”がようやく待ち人に会えたような心躍っている様子に見えたのだ。

 

自然と私にもこの角を曲がった先に何かあると思われてきて、足運びも慎重になった。

 

やがて角に近づくと奥から人の声が聞こえることに気づいた。

 

『………ィ上の……こんな………しかし、……』

 

聞こえるのは専ら一人の女性の声であり、会話する相手の声などは聞こえてこない。

 

私は丁度角を曲がる少し手前で立ち止まり、そっと少しだけ頭を覗かせて角の向こうの様子を探ってみた。

 

すぐ近くを、おそらく先ほどの"手"だろうものが歩いていくのが見えた。

 

確信が持てなかったのは、角の先にいた”手”が一つではなかったからだ。

 

正確な数こそわからないが、恐らく百はくだらないだろう。

 

それほど多くの”手”がひとところに集まり、まるで傅くように蹲っていた。

 

自然とその”手”が集まる中心へと視線が向かう。

 

そこにいたのは一人の女性だった。

 

身長は170㎝半ば程だろうか。女性としてはやや高いが、そのわりに肉付きが悪く、何処か枯れ木の枝を思わせた。

 

長い髪は薄紫色に染まり、所々にシミのような斑点模様が浮かんでいる。片側だけ耳に掛けているため、その目元や耳に幾つものピアスがついていることが分かった。

 

服装は丈の長いドレスにカザカンジャケットのようなものを羽織っており、薄着というほどではないが冬の北国で過ごすには些か肌寒い格好と言える。

 

だがしかし、確かに体格や奇抜な頭髪、それに服装も特徴的ではあったが何より目を引いたのは頭部に存在する"角"だった。

 

ヤギのようにネジくれ曲がった角はどこか仮装じみていたが、周囲に坐する"手"がその様にある種の説得力を持たせ、あれはきっと本物なのだと、確信に近い感情を私に抱かせた。

 

「うーん、五番街は所謂貧民街のようですね。潰してしまえば都合がいい……しかし猶予が幾何か…」

 

どうやら先ほどの声はやはりこの女性のものだったらしい。

 

その彼女は頻りに足元の”手”に話しかけており、その様は一方的な独り言というよりかは、信じがたくはあるが、明らかに"手"と会話しているようであった。

 

ふいに一つの"手"が彼女の肩に乗った。

 

「おや、どうしました?……」

 

その"手"は彼女に頻りに何かを訴えているようで、指が忙しくなくこちらを指差し初めて…

 

急ぎ頭を引っ込めたがもう遅かった。

 

彼女は既にこちらを視認した。

 

先ほどまで沸き立つほどに溢れていた好奇心は既に冷め切り、燻っていた恐怖心が全身を飲み込んでいった。

 

すぐに元来た道を戻ろうと、身を翻す。

 

しかし

 

「残念ですが、帰り道はありませんよ」

 

瞳に映るのは壁ばかりで道などどこにもありはしなかった。

 

背後から声とともに降り積もった雪を踏みしめる鈍い足音が響く。

 

どうして?どうして?どうして?

 

あり得ないはずの光景に脳は疑問で埋め尽くされ、状況を打開する手立てへと思考を割く余裕などなかった。

 

今すぐこの場から逃げなければならないと、とにかく足を動かせと荒くなる呼吸が告げるが、逃げ道はなく、何より先ほどから足が震えて一歩動かすことができない。

 

「…いつの時代も子どもの視点というものは馬鹿にならない。彼らを視認したところで大抵の人間は小動物の類と勝手に誤認してくれるのに…やはり純粋な思考故でしょうかね。あー嫌だ嫌だ」

 

次第に音量を増す声が自分と背後の存在の距離を残酷に告げる。

 

心臓が早鐘を打ち、発汗は収まることがない。

 

「さて……」

 

声がすぐ横に近づき、そして耳元にまで移動した。

 

「まずお名前を伺ってもよろしいでしょうか、小さな紳士君?」

 

恐怖に見開かれた目を懸命に横に向かせれば、こちらを覗き込む彼女の顔があった。

 

美人の類ではあるだろう。

 

しかし、その血の気の無い肌が、口元から覗く鋭い牙が、奇妙に尖った異形の耳が、そして何より深い隈に縁どられ、こちらを捉えて逃がすまいと見開かれた瞳が、私には恐ろしくて堪らなかった。

 

恐怖で舌はまともに回らなかった、だがじっとこちらの答えを待つ彼女を待たせる方がよほど恐ろしく、私はたどたどしく、しかし懸命に、絞り出すように言葉を紡いだ。

 

「……ぃっ…イゴール、ネイ…ガウス」

 

その瞬間、彼女のすでにテニスボールほどに見開かれていた瞳が一層大きく肥大化したように見えたのは、果たして気のせいだったのだろうか。

 

しかし、私はあの時、生き残る上で最適な行動をとっていたと、今を以て確信してやまない。

 

もし、余計な知恵を回して本名以外を答えていたならばきっと私の命はあの時終わっていだろう。

 

彼女は数瞬動きを止めていたが、やがてふいに身を起こすと私のすぐ目の前に移動した。

 

そして

 

「なる…ほど………よろしい。ではボクも名乗りましょう。貴方にだけ名乗らせるというのも無作法ですから。ボクは虚無界(ゲヘナ)の第6権力者、八候王(バール)が一角、”腐の王”アスタロト、貴殿方人間が言うところの悪魔です」

 

そう、名乗った。

 

 

 

―――――現在、ポーランド人民共和国某所

 

 

「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」

 

「っ!?酷い有り様だな!」

 

男が思わず耳を押さえつつ零した言葉は、ありふれたものでありながら、それでいて目の前の惨状を表すにはこれ以上ないものだった。

 

先程から辺りには断続的に轟音が響いており、音が止んだ直後は耳鳴りがするほどだった。

男は煙草を燻らせながら周囲を俯瞰する。

 

「急げ!63番地から86番地を封鎖しろ!」

 

「火属性悪魔と契約している手騎士(テイマー)をかき集めるんだ!何としても瘴気の範囲拡大だけでもここで食い止めるんだ!」

 

医工騎士(ドクター)の数が足りない!応援はまだか!救助者のケアにもっと人員を回せ!」

 

件の轟音を抜きにしても、場には狂騒が充ちていた。

平静を保っているものは誰一人としておらず、皆が皆目の前の現状に必死に足掻くのみで、事態の解決へといたる道は以前として不透明なままだった。

 

「いやはや壮観ですな」

 

男の背後から楽しげな声が響く。

 

響きはするが不思議なことに男の周囲に発言者らしき人影はない。

 

男は眉を潜めつつ、煙草を地面に投げ捨て、その火を足で踏みにじって消した。

 

するとほぼ同時に一人の青年が彼へと駆け寄ってきた。

 

「フェレス卿の使いの方ですね?お待ちしていま……お一人ですか?」

 

「ああ悪ぃな。生憎とこっちも人手不足なんだよ。上一級祓魔師(エクソシスト)の藤本獅郎だ、よろしく頼む」

 

そう言いつつ、男、藤本獅郎は頭を軽く掻いた。

 

青年はそのふてぶてしい態度と明らかな非常事態に一人しか応援を寄越さない日本支部の狭量さに一瞬眉を潜めたが、すぐに気を取り直し、軽く頭を下げながら続けて問いかけた。

 

「失礼しました。フェレス卿は何と?」

 

「お宅の指示に従えとのことだ。好きに使ってくれ」

 

その言葉を耳にして青年の顔に微かな喜色が浮かんだ。

 

現状においては例え人格に多少問題があろうと、たった一人であろうと上一級の人員が加わることは得難い幸運であったのだ。

 

そんな青年の反応を尻目に獅郎は狂乱の原因へと視線を向ける。

 

「しっかしまあ……大変だな」

 

他人事のような言いっぷり。

 

しかし青年にはそれも何となく納得できるような気がした。

 

自分もこの国に配属された身としての責任感がなければ、この事態の重さから現実感と当事者意識を失っていたかもしれない。

 

青年も辟易した様子で獅郎と同じものへと視線を向けた。

 

「ええ…一時間前までは公園まで見通せたのですが……成長速度があまりに異常で…」

 

彼らの視線の先には"肉塊"が広がっていた。

風船のように肥大化した"それ"は確認されてから数時間と経たず町を一つ飲み込み、依然としてその体積を増やし続けていた。所々から血を滴らせ、そこから死体に憑依する悪魔である"腐"の悪魔特有の悍ましいほど濃厚な瘴気を噴出し続けているが、しかし場所によっては血管の脈動が散見され、確かな生命も内包していることが見てとれた。

 

ふいに肉塊が鳴動し始める。

 

「ああ、またか……これが何より辛い」

 

よく聞けば、それは複数の人間の叫びが合わさったものだと分かる。

次第に高まりを見せるそれは肉塊全体が新たに一つの通りを自身の身体で踏み潰した瞬間最高潮に達し、大地を震わす轟音となった。

 

「体積の肥大化に取り込まれた町の住民が潰されているんでしょうねえ……いやはや壮観だ」

 

再び獅郎の背後から声が響くが彼の目の前の青年はそれに反応することは無かった。

 

そう、肉塊の正体は原型が分からなくなるほど肥大化した人間の肉体の集合体であった。

部分的には絶命しているものの、しかしまだ息のある者も多数取り込まれており、先ほどから響いている轟音はその者たちが肉塊の成長にともなう肉の圧力に捩じられ潰され絶命していく断末魔の叫びだった。

また既にこと切れた箇所も生命活動こそしていないが、しかし動作自体は確認されており、肉塊の肥大化を助けつつ、瘴気を放って周辺に被害を与えている。

既に肉塊の大きさは直径10㎞に及んでいるが未だその肥大化が収まる気配はなく、予断を許さない状況が続いていた。

 

「……急ぎましょう、これ以上被害を増やさないためにも。こちらです」

 

青年が先導し、獅郎を対策本部へと案内し始める。

 

それを尻目に獅郎は悪態をつかずにはいられなかった。

 

「クソピエロめ、面倒ごとにも限度があるぞ……」

 

実際、この件は彼の生涯で3番目程度には面倒な任務となることになる。

 

 

 

―――――6年前

 

 

「待てよ!おい!」

 

冬の街に嗜虐心とほんの少しの焦りを滲ませた叫びが響く。

声の主である大柄な少年は背後に複数人の子分格を引き連れ、一人の少年を追っていた。

 

「おい、”悪魔憑き”!なーに逃げてんだよ、この腰抜け野郎!」

 

追われている少年が不意に立ち止まり、声の主へと振り返る。

ベージュの髪に青い瞳、整ってはいるが目を引くほどでもない貌、利発そうな印象こそあれど容姿自体に何も特別なところはない。

しかし、纏う雰囲気にはどこか異質なほどの暗さを感じる、そんな少年だった。

彼はつまらなそうな表情で背後の存在を一瞥するとため息を一つ溢し、再び歩き出した。

その行動は背後の人物の神経を著しく逆撫でるものだった。

大柄な少年は顔を赤くし、苛立ちのままに叫ぶように言葉発した。

 

「おい、待てって!!クソッ、馬鹿にしやがって根暗野郎が!」

 

「な、なあ…そんなにムキにならなくても…」

 

「うるっせえ!追いかけるぞ!」

 

周囲の少年達が宥めるも怒りを露にした大柄な少年には効果がなかった。

大柄な少年は苛立ちのままに件の少年を追って走り出した。

件の少年は決して大柄な少年よりも体格的に優れているとは言えず、追いつかれるのも時間の問題であるように思われた。

しかし、予想に反して件の少年はなかなか捕まらない。

その理由は彼の立ち回りにあった。

彼は追われていることに慣れているのか、はたまた()()()()()()()()()()()()、彼は追う側の思考を読んでいるかのように、丁度見失いやすい路地を選択し、丁度予想のつかないタイミングで曲がり、丁度注目されづらい遮蔽物を駆使し、決して距離を詰めさせないのだ。

 

「ハア……ハア………何なんだよ、アイツ」

 

追う側も次第に意気を削がれ、やがて大柄な少年は息をつきつつ立ち止まってしまった。ふいに頭に上っていた血が引いていき、怒りよりも疲労感が強まる。

今日はもう追うのはやめにしようと彼は後ろに語り掛けつつ振り返る。

 

「もう……いいや…お前ら、帰っ…あれ?」

 

が、そこには誰もいなかった。

いや、いないのみならばまだよかっただろう。

 

「え?あれ?え?道が、あれ?え?だってこっちから、え?」

 

彼の眼前には巨大な壁があった。

先ほど通ってきた道は確かに背後に存在していたはずなのだ。

しかし、目の前に広がるは壁壁壁。

異常事態に少年が狼狽えていると、ふいに背後から声が聞こえてきた。

 

「ォぉおや??ど、どちらさま、ですか?」

 

声音は女性のものだ。

しかし妙にたどたどしく、発話に苦労している印象を受ける声だった。

少年は恐る恐る振り返る。

10mほど先、身長170㎝半ば程の人影があった。

服は全体的に古めかしい上に所々綻びが見え、糸くずらしきものが何本も地面に垂れている。

顔は長く毛羽だっているせいかやけに風に揺れている髪に隠されて見えず、それが余計に不気味さを強めていた。

そして何よりも目を引くのは、相手の頭部から二本突き出た山羊のような禍々しい角だ。

普段の彼ならば悪趣味な仮装だと小馬鹿にして笑うところであるが、しかし、この異常事態の中にあっては相手の滑稽にもとれる姿も心底恐ろしいものに感じられてならなかった。

背後に逃げ道はなく、少年は眼前の人影に向き合うほかなかった。

恐る恐る、そして出来れば目の前の存在がただの人間であると期待して、少年は声を掛けた。

 

「あ、あの…道に迷って………しまって……」

 

しかし、少年は問いかけを発しきる前に気付いてしまった。

 

地面に垂れている糸くずは滴る濁った血液だと。

 

髪は大量に湧いている蛆が蠢くその振動によって揺れていたのだと。

 

「あ、ああ……」

 

言葉が出てこない。

 

今すぐこの場から逃げ出したい。

 

しかし、逃げるには………

 

足に力が入らない。

 

全身の震えが止まらない。

 

ふいに太ももに温かさを感じる。

 

視線を下に落とすと、自分のズボンがぐっしょりと失禁で濡れているのが分かった。

 

そして、同時に

 

しまった

 

と感じた。

 

奴から、目を、離してしまった

 

急ぎ顔を上げる。

 

 

 

「どちらさま、ですか」

 

 

 

声の主は、皮が削げ落ち、無数の蛆に縁どられた空の眼窩で、じっと少年を見下ろしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「気絶したか、根性なしめ………」

 

大柄の少年が恐怖のあまり気を失ってから数秒後、私は彼の背後の壁から抜け出て彼の様子を窺った。

 

無数の菌類で構成されたその壁は、特定の手順で踏むことで通過できるようになっている。

 

慣れてしまえばどうということはないが、パニックに陥った人間、ましてや子どもがそれに気づき、調べられるかといえば難しいだろう。

 

「うわっ、漏らしたのか…汚ないな……」

 

少年の股座から香る刺激臭に彼は思わず鼻を抑えつつ、少し大柄な少年から距離をとる。

 

つい先日彼と同じような恐怖体験を味わった身としては例え普段自分を虐げてきた人間であろうとも多少は同情してしまう。

 

しかしそれと同時に自分の策略が上手く機能した達成感も確かに感じていた。

 

私が頬に手を当てこみ上げてくるほの暗い喜びを押さえつけていると、不意に私の肩に何か柔らかいものが当たるのを感じた。

 

期待を込めて後ろに目を向ければ、予想通りの人物が引き攣った笑顔を浮かべながら私の肩に手を置いていた。

 

「イゴール、いい加減にして貰えますか?」

 

「ああ、先生」

 

当てつけのようにとぼけた声でそう口にすれば、悪魔、アスタロトは口の端をひくつかせる。

 

しかし彼女は私に危害を加える素振りは一切見せない。

 

そう、ないのだ。

 

彼女と初めて出会ってから既に数週間が経過していた。

 

歩く手首を追って路地に居る彼女と出会ったとき、私は死を覚悟した。

 

いや、私が名乗るその瞬間までは確かに彼女は私を殺すつもりだっただろう。

 

今思い出しても震えが止まらない。

 

………

 

……

 

 

『……ネイガウス……ネイガウス……イゴール・ネイガウス……』

 

名乗った後、悪魔は何度も私の名前を呟きながらその場でうろうろと左右に歩き回っている。

 

それを目で追いながら私は額に汗を浮かべる。

 

この悪魔の気分次第で自分の命運はここで尽きてしまう。

 

さながら審判を待つ罪人の心持ちだった。

 

そんな余裕のない精神状態だったからだろうか、私は肩を這い上りつつある”それ”に気付いていなかった。

 

『……おや?肩に…』

 

悪魔がそう声を発し、私の肩へと手を伸ばした。

 

私は思わず目を瞑り、身を固くしてしまう。

 

しかしいつまで経っても恐れている事態は私を襲わない。

 

恐る恐る目を開ける、すると

 

『……ヒヒッ、あーなるほど……』

 

そこには私の肩に乗った"手"と戯れる悪魔の姿があった。

 

そこでようやく気付く。

 

自身の肩に奇妙な重さを感じていたことに。

 

肩にゆっくりと手を伸ばす。

 

『うわぁッ!』

 

思わず声をあげてしまったが仕方のないことだろう。

 

そこには5、6体ほどの”手”がへばりついていたのだから。

 

『……ゲヒヒ!貴方はよく懐かれるタイプのようだ!誇っていいですよ、本当にそういった人間は希少なんですから!』

 

私が肩に乗ったそれらを振り落とそうと四苦八苦している最中、悪魔はそんなことを口にする。

 

珍しかろうが何だろうがこんな気色の悪いものに好かれたところでうれしくも何ともない。

 

しかしその事実は悪魔の琴線に触れたようで彼女は満足げに頷きながら何事か喚き散らしている。

 

『名前に出身、そして手騎士(テイマー)としての気質!殆ど間違いないでしょう!ええ!』

 

やがて満足したのか再びこちらに視線を合わせ、少し落ち着いた声音でこちらに語りかけてきた。

 

『決めました、貴方は今日からボクの弟子です』

 

 

……

 

………

 

その日から私は彼女から悪魔を操る手ほどきを受けるようになった。

 

彼女の教え方はお世辞にも上手いといえなかったが、それだけだ。

 

何か危害を加えられたりすることは一度もなく、とにかく”普通”の授業を行っていた。

 

頻度も差ほどではなく一週間に三日程度で一回ごとの長さは2,3時間。

 

別段厳しくもなく寧ろ手緩いほどだった。

 

どこをどう取っても普通。

 

いや、普通でないことは勿論あった。

 

それは授業の内容であり、そして

 

「……ここに人を不用意に招くなと…あー、もう、漏らしてるし。まだ子どもだったからいいものを、大人なら後処理が面倒なんですから……」

 

この悪魔の自分への態度だ。

 

繰り返しになるがこの悪魔が私に危害を加えたことは一度としてない。

 

だが数週間共に過ごしてきて分かったが、彼女は別に何かを傷つけることを躊躇するような、温和な性格はしていない。

 

基本的に気に入らなければ殺すし、それを気に留めることもない。

 

またそれを平然と為せるほどの力も持ち合わせていた。

 

故に分からない。

 

彼女がなぜ私を始末せずにそばにいることを許しているのか。

 

単なる気まぐれなのか、それとも……。

 

「…ま、ガキの言うことなんざ誰も取り合わないでしょう。記憶処理も死体処理も面倒ですし。お前,これを通りに放り出しておきなさい。さて…」

 

眷属に命令を下し、悪魔がこちらに向き直る。

今回は始末しないことに決めたらしい。

 

やはり気まぐれなのかもしれない。

 

「気を付けてくださいね?じゃあ、始めますか」

 

そう言って手を鳴らせば通り一帯が一瞬で教卓や机と椅子などを伴った室内へと変わる。

 

彼女の眷属の力だそうだがいつ見ても圧巻だ。

 

「しかし貴方も飽きずによく来ますね。ボクが言うのものなんですが」

 

「来なければ殺しに来るんじゃないですか?」

 

「そうなんですが…そろそろ油断してもいい頃かなと」

 

「ははは、考えもしませんよ」

 

半分嘘だ。実のところ、行かないということを考えたこともあった。しかし、その理由は油断などではなく別のものだが。

 

正直なところ、私は悪魔と過ごすこの状況をそれなりに楽しんでいた。

 

教えられる内容もそうだが、何より気に入っていたのはこの悪魔の私への向き合い方だった。

 

悪魔は確かに恐ろしくはあったが、それでも

 

この悪魔は”私”を見てくれている。

 

それが私にはどうしようもなく私には嬉しかったのだ。

 

”彼女”ならばもしかしたら……。

 

「まあ、勤勉なのはいいことです。ああ、そうだ。貴方さえよければボクの蔵書を貸ししましょうか?」

 

「え?」

 

悪魔からの申し出に一瞬思考が止まる。

 

「ここにきている間しか学べないというのは非効率ですし、貴方もやる気があるようなので……」

 

借りる借りる借りる

 

額を汗が伝うのが分かる。

 

考えたくない思い出したくない言葉が実態をもって脳裏に浮かぼうとしている。

 

…………

 

……

 

 

『貴方に期待した私が…

 

…………

 

「イゴール?」

 

悪魔の言葉で我に返る。

 

その瞳は平時と変わらず冷たい光を放っていたが、どことなくこちらを思い遣っているようにも見えた。

 

「どうしました?顔色が悪いようですが…」

 

その瞳から逃れるように顔を逸らしつつ何とか震える舌を動かす。

 

「いえ、その、大丈夫です」

 

「そう、ですか……ええっと、では貸すことについてはどうします?今持ち帰るのが嫌なら眷属に運ばせますが…」

 

「それも!大丈夫です」

 

「は、はあ……まあ、それならそれで構いませんが」

 

思わず大きな声を出してしまったが悪魔はあまり気に留めていないようだった。

 

その話はそれっきりでこの日その話が再び持ち出されることはなかった。

 

私は深く追求されなかったことに安堵した。

 

しかし同時にそれを寂しく思ってしまっている自分も確かに感じていた。

 

 

 

―――――30分前、正十字騎士團日本支部

 

 

 

世界最大の祓魔組織である正十字騎士團、そのうちでも現在最も世界の存亡に関わっているといえる日本支部の一室にて、二人の人物が向かい合っていた。

そのうちの一人が不機嫌そうにもう一人へと問いかける。

 

「要件はなんだよ」

 

一人は30分後ポーランドで惨状を目の当たりにすることとなる藤本獅郎。

そしてもう一人はこの部屋の主である。

彼は手元の資料を藤本へと渡しつつ、要件を口にした。

 

「ちょっとしたおつかいです。ポーランドまで行ってこの少年を回収してきてください」

 

メフィスト・フェレス、正十字騎士團においてはこの日本支部の長であり、かつ名誉騎士(キャンサー)の位をいただく存在である。

獅郎は手渡された資料に載った陰気な顔の少年を見ながら、メフィストへと問いかけた。

 

「……このガキは?」

 

「イゴール・ネイガウス、13歳。現在は田舎町の孤児院で生活していますが、来月から大学に進学する関係でクラクフに移ることが決まっていました。とはいえ、今回の件でそれもどうなるか分かりませんが…」

 

「んなこた訊いてねえんだよ。()()()()()()()()このガキは何なんだ」

 

苛立ちを込めた再度の問いかけにメフィストは肩をすくめつつ答えた。

 

「単なる保険…のはずだったんですがねえ。私の愚妹のせいでいよいよもって欠かせない駒となってしまいました。よって、ここに連れてきてください。移送の際は私の名前を出していただいても構いません」

 

「肝心なことはダンマリか」

 

はぐらかすような、どこか捉えどころのない言葉に獅郎はため息をついた。

 

いつもこれだ。

 

メフィスト・フェレス、人間の男性の姿こそしているが、その正体は到底人間の理解に収まるものではない。

その言動もまた人間の理解が及ばないものとなることもさもありなんとも思えるが、しかし、実はそんなこともなく、彼は自身が知りえる様々なことを人間側にあえて伝えていないということも獅郎は分かっていた。

この少年にこの先一体どのような試練が課せられるのか…目の前の存在はすべてを知りながら、自身の目的のために喜んで見逃し、それどころか進んで地獄に落とすのだろう。

 

忌々しい。

 

獅郎のそうした少年に対する憐憫の情を感じ取ったのか、メフィストの口が嘲笑に歪んだ。

 

「おや?貴方らしくもありませんね?貴方は他人に興味がないものと思っていましたが……何かきっかけでもあったんですかねえ?」

 

一瞬小煩いある女の顔が浮かんだが、獅郎はすぐにその思考を振りほどき、メフィストの言を語気を強めて否定した。

 

「何もありゃしねえよ、クソ悪魔。このガキに関してだってどうでもいい。俺はただコイツをここに引っ張ってくる、それだけでいいんだろ?」

 

「ええ、ククク、お願いしますよ。何かほかに訊きたいことは?」

 

笑みと共に放たれた問いかけに、獅郎は一瞬目を丸くした。

 

「いやに親切だな」

 

「……()()は少しばかり面白くなってきたのでね。出来れば長く見ていたいんですよ。それで?」

 

再びの要領を得ない言葉に眉を顰めるも、せっかく珍しい気づかいを受けたのだからみすみす無碍にすることもないと、獅郎は少し考えてからメフィストへと問いかけた。

 

「………さっきポーランドで町一つが悪魔に飲まれて対応に追われてるって話が俺のところに入ってきた……関係は?」

 

「おや耳が早い。貴方も思いのほか人望があるんですね」

 

「うるせえ…で?どうなんだよ」

 

「ええ、ご明察の通り、その町の1件と大いに関わっていますよ。起点とすら言える。彼をどうにかしない限りは今回の件を解決するのは難しいでしょう」

 

起点、というのは分からないが、いずれにせよどうやら自分に課せられたこの任務は単に少年を攫ってくればいいというものではないらしいと、獅郎は辟易した表情になる。

そして、次にもう一つ、向かう先ががポーランドと聞いた時から訊きたかったことを問いかけた。

 

「もう一つ、何で俺でなきゃいけない?」

 

「………私の忌々しい愚妹は好き嫌いが激しいんです」

 

「何の話だ」

 

流石に脈絡が無さすぎる言葉にいよいよもって真面目に答える気がないのだと腹立たしく感じてきた獅郎は相手の言葉を遮ろうとしたが、メフィストはそれを手で制し、その先を続けた。

 

「お気に入りの人間にはこれ以上ないほど面倒見が良いが他方それ以外の人間はどうでもいいと捉えている…いや、個として認識していないと言うべきか、どうせ殺してもすぐ増えるぐらいに考えている節があるんです。故にいくらアレにただの人間を送り付けても会話すら成り立たないので意味がない。だが…」

 

「……」

 

依然として話の意図は不明瞭だ。しかし、獅郎は今のような真剣な目をした時の目の前の相手が、”時の王”が意味のないことを口にするはずがないと知っていた。

 

「彼も、そして貴方も原作キャラ(お気に入り)です。ですから、貴方以外にはできないんですよ」

 

だからこそ、彼は先ほどからずっと嫌な予感がして堪らなかった。

 

その妹というのが誰なのか、そして自分の任務にどう関わるのか、何となく予想がついてしまっていたからだ。

 

「では改めて命じましょう!”腐の王”アスタロトを調伏し、彼女に魅入られた哀れな少年を救ってきてください」

 

果たして、その予感は現実のものとなってしまった。

 

「…クソが」

 

 

―――――6年前

 

 

「そうですか」

 

二人しかいない教室にその声はいやに響いた。

 

そこには何の感情も込められておらず、平時とまるで変わらなかった。

 

俺はその人を良く知っていたし、信頼もしていた。

 

だから、何の恐れもなく期待を込めて顔を上げてしまったんだろう。

 

そこには

 

「ハアー……」

 

これまで一度も見たことが無いほど冷たい視線で俺を見つめるその人(先生)の姿があった。

 

「もう結構です」

 

やめろ

 

「貴方に期待した私が馬鹿でした」

 

やめてくれ

 

「さようなら」

 

 

「ハァ……ハァ……」

 

飛び起きた私を迎えたのは二段ベッドの天井だった。

 

未だ背丈が低かったがために頭をぶつけることこそ無かったが、目覚めてすぐに勢い良く眼前に迫ってきた木目には驚かざるを得なかった。

 

荒い呼吸とベットリと汗で塗れた服。

 

徐々に意識が現実へと戻ってくる。

 

胸に手を当て、呼吸を正常に戻すよう努める。

 

意外にも声は出ていなかったようで、周囲の子どもは誰一人起きておらず、部屋は深い寝息で満ちていた。

 

恐らく物心ついた頃から孤児院の環境に慣れていたからだろう。下手に大声を挙げない癖が当時の私にはあった。

 

私には親がいなかった。

 

とはいっても彼らがどうなったかまでは分からない。

 

当時からその詳細は知らなかったし、今となっては知りようもないが、どうやら両親に共に他界したらしいということは孤児院の職員から噂話程度に聞いていた。

 

別段自分の出自や両親の人となりに興味がなかったわけではないのだが、それでも全くと言っていい程何も情報がなかったのは恐らく噂に聞いた両親の職業が関係していたのだろう。

 

両親は共に祓魔師だったらしい。

 

現在においても祓魔師という職業は詐欺集団の類い等といった謗りを受けることもあるが、当時のポーランドにおいてはその比でなかった。

 

政治的イデオロギーそのものは直に信仰や迷信を攻撃するものではないにしろ、公的機関に属さない権力を認めないという確固たる原則は祓魔師組織に対して不利に働いていた。

 

加えて革命以前より親しみを以て民衆に長らく受け入れられてきた教会ならまだしも、拝み屋の類いという根強い罵詈讒謗に晒されてきたのが祓魔師である。

 

政府による風当たりの強さは人民に公然と祓魔師を攻撃する大義名分を与えていた。

 

祓魔師はポーランド社会におけるアウトサイダー、故に両親の消息を辿ることは困難であり、当時の私の身では噂話を得るのが精々だった。

 

ただ、それでも噂話以外にも私には両親、いや正確には母に関しての定かではないが、確かに拠り所としていた"情報"があった。

 

それは朧気な一つの()()だ。

 

まだ私がずっとずっと幼かった頃。

 

私は柵で囲われたベッドに身を横たえている。

 

辺りは妙に明るく昼間のようであったが、それでも何故かはっきりと夜の出来事であったと記憶している。

 

ある女性が私に近づいてくる。

 

その足取りはどこか不規則で身体のバランスをとるのに苦労している様子だった。

 

彼女が手を伸ばし、微笑みながら私を抱きかかえる。

 

その容貌だ。

 

仔細までは思い出せない。

 

しかし

 

あの裂けた口を

 

見開かれた瞳を

 

何より

 

慈愛に満ちた手つきを

 

私は忘れることができない。

 

あれはきっと母なのだ。

 

私はそう信じながら生きてきた。

 

私はベッドの上で震える自らの身体を両腕できつく抱き締める。

 

不安に駆られてどうしようもない時、当時の私はいつも母の記憶を思い出しながら自らを抱擁していた。

 

今思えば擬似的に母の温もりを得ようとする稚拙な代替行為だったのだろうが、この行為は私の精神の安定に大きく貢献していた。

 

次第に呼吸が落ち着きを見せ始め、思考も鮮明になっていく。

 

冷静に現状を認識する余裕が出来た為に夢を夢として再認識すると共に久しく見なかった"あの出来事"にまつわる悪夢を見た理由まで思考が巡る。

 

答えは明確で昼間にしたかの悪魔との会話だ。

 

彼女を少し憎々しく思いながら、ふいに会話の内容まで思い起こされた。

 

「………眷属に運ばせる…とか…」

 

嫌な予感に枕元を漁れば予想通り、そこには固い感触があった。

 

『悪魔生態学入門』著者レフ・アショラヴィチ・ヴァラファール。

 

分厚く確かな重みを感じるその本は昼間に自分がかの悪魔から借りて読んでいたものに相違なかった。

 

「………ハァー」

 

要らないと言ったのに。

 

余計なお世話ではあるが、想像していたよりも親切なあの化け物のことだ、きっと私が遠慮しているとでも思って善意からこの本を寄こしたのだろう。

 

それはそれとして困るものは困る。

 

孤児院の子どもが明らかに院内所蔵のものでない本を持ち歩いているところを見られたならば要らぬ誤解を与えかねない。

 

私は手に取ったそれをシーツに押し込み再びベッドに横になった。

 

 

………

 

………………

 

眠れない。

 

全く寝付ける気がしない。

 

そもそもシーツを被せた程度でこの本を隠せるはずがない。

 

洗濯の日はまだ遠いが、それでも不測の事態が無いとも言い切れない。

 

掃除の最中にでもベッドから転げ出たらどうしようもない。

 

考えれば考えるほど不安が頭に満ちていく。

 

「……あー、もう」

 

私は仕方なくベッドから身を起こすと鈍器に使えそうなほど重いその本を引っ張り出した。

 

とにかく、この本を何処かに隠さなければ眠れるものも眠れない。

 

出来るだけ音をたてないようにそっと足を床につけた。

 

もし職員に見つかったときに誤魔化せるようにと、シャツを捲って本を肌着との間に忍ばせる。

 

服自体、ぴっちり私にあったサイズではなくて些かダボついていていたこともあり、それなりに重量のある本は服の中で手前に大きく倒れこみ、まるで腐敗の進んだ死体のように私の腹を膨らませた。

 

かなり不格好ではあるが遠目にはすぐに何かを持っているとバレることもないだろう。

 

私は一歩一歩慎重に他の子どもに気付かれないよう部屋を出た。

 

廊下に首を伸ばして端から端まで確認するが、どうやら見回りもないらしい。

 

足音が響かない程度に早足で進む。

 

目指すのは孤児院の裏庭だ。

 

そこには大きな洞がある古木が一本生えていた。

 

既にかなり腐食が進んでおり、洞などは虫で満ちている。

 

景観や危険性の観点から撤去してしまおうという意見も度々職員の間で出ていたが、結局費用の問題でいつまでも庭の一角を占拠し続けていた。

 

孤児院にとって幸いだったのは、触れることを躊躇する外観もあって子どもが近づくようなこともなかったため、そのままにしておいても特に何の事故も起きなかったことだろう。

 

だからこそ好都合だ。

 

子どもは近寄らず、そうであれば子どもの行動範囲から外れたその木にわざわざ近づく大人もいないだろう。

 

虫まみれの洞に入れてしまえば誰も気づきはしないはずだ。

 

極度の緊張状態にあったからかもしれない。

 

思索に耽っているうちに孤児院の裏口まで辿り着けた。

 

あまりに順調過ぎて逆に不気味なほどだが、僥倖には違いない。

 

裏口の戸に手を掛ける。

 

ふと、外から何か声が聞こえることに気が付いた。

 

少し耳を澄ますと明らかに複数人で会話している。

 

今の正確な時間は分からないが、少なくとも孤児院の誰かが外を彷徨くような時間帯ではないだろう。

 

孤児院は名目上国の預かりにはなっているが、実際に運営しているのは町出身の元聖職者たちだ。

 

きちんとした警備員を雇う余裕などないためその類は全て職員が自身で賄っており、夜の見回りに至っては基本的に職員が一人で行っている。

 

となれば当然この声の主は孤児院の外部の人間ということになる。

 

つい数週間前の自分であれば迷わず踵を返し、職員を呼びに行ったことだろう。

 

しかしその時の私は直近でこれまでにないほど恐ろしい体験をしたことにより、妙な度胸と自信がついてしまっていた。

 

私はノブに手をかけ、ゆっくりと裏口のドアを開けた。

 

次第に声もはっきりと聞こえるようになってくる。

 

その声は想像以上に高く、なんなら聞き覚えがあった。

 

「なあ…やめようぜ?流石に不味いって……」

 

「うるっせえんだよ!この手見ろよ!」

 

ドアの隙間から声の主を伺えば、昼間に自分を追いかけてきた体格のいい少年とその取り巻き達だった。

 

こんな時間に何故?孤児院とは特に関わりはなかったと記憶しているが?

 

そうした疑問は彼の手に目を向けた瞬間に吹き飛んだ。

 

彼が腕を巻くって自身の取り巻きに見せた"それ"はまるで吐瀉物のようだった。

 

皮膚は半ば液状化し、肉は骨から剥がれ落ち、傷口からは絶え間なく膿が溢れ出ていた。

 

原型など殆ど留めていないあまりの惨状に思わず息を飲む。

 

ふいにその音が向こうにバレやしないかと慌てて口に手を当てたが、当の少年の方では自身の怒りを取り巻きにぶつけることに夢中でこちらにはまるで気付いていないようだった。

 

「アイツを追いかけてあの化け物に出会してからだ!俺の…俺の手が…」

 

「で、でもさ、流石に此処まで燃やすのは…」

 

「……てめぇら、分かってんのか?アイツは"悪魔憑き"だぞ?今殺さなきゃてめぇらだってどうなるか分かったもんじゃねえんだ!」

 

「………」

 

なるほど話が読めてきた。

 

あの手の有り様を見るに彼は(グール)の魔障に罹ったらしい。

 

屍の体液や吐息は人間の肉体を壊死、腐敗させる。

 

彼はあの悪魔が生み出した屍番犬(ナベリウス)と出会っている。

 

直に触れたわけではないがあの悪魔が生み出したものだ、通常の屍番犬よりも高い能力を有していても不思議ではない。

 

恐らくその影響で彼の手はあのような悲惨な有り様になってしまったのだろう。

 

放っておけば全身に巡るだろうがそこまで彼に私が気を回す義理があるとは少なくとも当時の私には思えなかった。

 

とにかく彼はその事実と私を結びつけてこうして私の住む孤児院にお礼参りに来たというわけだ。

 

取り巻きの少年たちの様子を見るにあまり乗り気ではないようだし、今から職員を呼びに行っても放火する前に止められるだろう。

 

私は溜め息を一つ吐いてからゆっくりドアを閉めようとした。

 

しかしその時

 

「アイツは悪魔だ!悪魔なんだよ!悪魔悪魔『アグマ!』

 

「っ!あれは!?」

 

突如として彼の声が重なって聞こえ出した。

 

ドアの隙間から彼の姿を伺えば、彼の側頭部から二本の角が伸びているのが見えた。そのまま視線を臀部に移せばくすんだ灰色の尾が垂れているのも確認できた。

 

この顕著な身体的変化は間違いない。

 

「憑かれたのか…!」

 

憑依。

 

本来別世界の存在である悪魔が物質界に干渉するには物質界に存在するものに憑りつく以外にない。

 

その対象には当然人間も含まれる。

 

『悪魔、悪魔は殺さなきゃダメなんだよ!分かってんのか、お前ら!?』

 

「お、おい……」

 

「落ち着けって…」

 

悪魔は本来人目を避けるものだ。

 

その理由の一つには理性的に本質を分析されることによってその力が貶められる場合があることが挙げられる。

 

かの”腐の王”はかつて死そのものであったが、病や細菌に関する知識が深まったがためにその力を大きく減退させることとなった。

 

謎であること、その恐怖こそが悪魔の力となる。

 

故に概念的存在である以上、衆目にさらされるような場に悪魔は不用意に姿を見せない。

 

しかし、少人数、それも理性を欠いた人間のみで構成されている集団ならば話は別だ。

 

冷静に現状を受け止める余地が無ければ悪魔に対する恐怖は加速する。

 

そして精神の不均衡が更なる悪魔を呼び、悪魔は力を増し続ける。

 

実際に傷を負った魔障者などは格好の憑依対象だ。

 

対象者自身が悪魔の力を増幅させるのみならず、その媒質となり得る。

 

『殺す!焼き殺す!!』

 

「熱っ!?」

 

「え、急に何だよ」

 

「まだ火、つけてねえぞ……」

 

少年が口から文字通り火を吐きながら叫ぶ。

 

このままでは取り巻きの少年たちも魔障を受け、更なる悪魔の呼び水となる可能性がある。

 

加えて職員が来ても寧ろ状況を悪化させるかもしれない。

 

どうする、どうすれば……。

 

悩んだ私がとった行動は

 

「な、何してる、んだ?お、お前ら」

 

彼らの前に姿を見せることだった。

 

大柄の少年の狙いは私だ。

 

私が姿を見せればまず孤児院に直接彼の怒りの矛先が向く可能性は低くなるはずだと、その時はそう考えてしまったのだ。

 

『……”悪魔憑き”のお出ましだ』

 

誰が言ってんだと皮肉を笑おうとしたが、上手くいかない。

 

その時の私は恐怖に震える心を誤魔化すのに必死で、笑う余裕など持ち合わせていなかった。

 

「こ、こんな夜中に、な、何しに来たんだよ、非、常識だぞ」

 

それでも無理やり口角を上げ、心を奮い立たせるように強気な口調を意識してみる。

 

あちらは自分に怯えている、なら少し脅かせば帰ってくれるはずだ、そんな希望的観測も少しあった。

 

馬鹿なことをしたと気づいた時にはもう遅かった。

 

『あ?なに余裕こいてんだよ』

 

「っ!?」

 

いつの間にか背後に回っていた取り巻きの子どもに地面に叩きつけられる。

 

そしてそのまま背中を押さえつけられ、動きを制限されてしまった。

 

あの場では彼を刺激しないように努め、彼に憑依した悪魔との結合を揺るがすことが最適解だった。

 

それをわざわざ煽るような真似をしては状況を悪化せるだけだ。

 

そも彼には私を虐げてきた積み重ねがある。それを今までにない恐ろしい経験をしたからと言って直接私が害したわけでもない以上、私自身を恐れるはずがない。

 

また仮に私に対する恐怖があったとしても、悪魔の憑依によってそれも緩和されてしまっていたことだろう。

 

今考えても愚策も愚策、そして当時の私も選択を誤った後悔で思考が満ちていた。

 

『離すなよー?コイツは”悪魔憑き”だからなあー、何しでかすか分からな…あ?何だこりゃ、本?』

 

少年の言葉に視線だけ彼の足元へと向ける。

 

するとそこには私が服に忍ばせていたはずのかの悪魔から借り受けた本が転がっていた。

 

先ほど地面に突き飛ばされた際に服から飛び出てしまったのだろう。

 

彼は嗜虐心に満ちた笑みを浮かべながら本を手に取った。

 

『ははは!まーた盗んだのかよ、お前!流石詐欺師の息子だよなあ、犯罪はお手の物か?』

 

 

私には忘れられない記憶が二つあった。

 

一つは母と思しき人物の記憶、そしてもう一つ。

 

私は同年代の子どもやその親達から度々”悪魔憑き”という名で呼ばれていた。

 

しかし、初めのうちはもう少し長く、悪魔憑きの息子、という呼称が用いられていた。

 

由来は単純なもので、私の両親の末路に関する一つの噂にある。

 

私の両親が祓魔師であったらしいことは私を知る者の多くが知ることだが、その行方まで確かに知る者、或いは()()()()()()()()()()()()は少ない。

 

故にその噂もあくまで噂でしかないのだが、いつしかまことしやかに囁かれるようになった。

 

端的に言えば、両親は悪魔に憑かれて発狂した末に心中を試みて死んだというものだ。

 

これにもいくつかバリエーションが存在し、父親だけが気がふれて妻に手を掛けただとか、逆に母親が家に火をつけただとか、定かではないが、悪魔に憑かれたという部分は共通していた。

 

恐らくこれには両親が祓魔師であったという情報が関係しているのだろう。

 

単純に気が違うよりも悪魔に憑かれたという方が皮肉が効いていて話として面白い。

 

その面白さが仇となったのかもしれない。

 

噂と両親の素性は広く町の住民に知られてしまい、故に私は彼らの多くから詐欺師の息子、狂人の息子と認識されることとなった。

 

しかし、それでも偏見なく私を見ようとしてくれる人間もいるもので、去年の学校の担任がまさにそうだった。

 

その人は別段教師として情熱がある方ではなかった。規則に厳しく誰のことも贔屓しない人間で、生徒からもあまり好かれてはいなかった。

 

しかし私にとってはそうした厳格な判断基準が寧ろありがたかった。

 

噂や陰口など関係なく、単純に成績や普段の素行で評価してくれる。当時の私にとって色眼鏡なしに自分を見てくれる得難い存在だったのだ。

 

加えて私には彼女との細い繋がりがあった。

 

それは彼女から本を借りることだった。

 

基本的に生徒と交流することが少ない人だったので、私物を貸し与える時点で私はそれなりに気に入られていたのだろう。

 

ただ私が借りてその感想を語るだけだったがその際には彼女も何処となく楽しげだったように思う。

 

しかし、そうした日々もあっけなく終わってしまった。

 

その理由も、経緯も、全て馬鹿馬鹿しく、ありふれていて、しかし取り返しのつかないものだった。

 

そう単純なことだ。

 

放課後に私が公園で一人、本を読んでいた時のこと、ある同級生が俺に絡んできた。

 

それ自体はいつものことで、大抵は無視していれば勝手に飽きてどこかに立ち去ってくれる。

 

しかし、その時は()()()()()()、私はあの人から借りた本を持っていた。

 

それがいけなかった。

 

そいつは私の持っていた本に目をつけると力づくでそれを奪い取ったのだ。

 

私も必死に抵抗し、そいつから奪い返そうと試みてはみたものの、体格差からそれは叶わなかった。

 

本を掲げて走り去るそいつを必死に追いかけたが終ぞ捕まることはなく、私は結局、本を奪われたままその日を終えることとなってしまった。

 

その日は眠るまで、翌日にあの人に会うのが憂鬱でならなかった。

 

だが、それでも、きっと彼女ならばわかってくれるだろうという期待があった。

 

しかし

 

「そうですか」

 

一言目は普段の彼女からは想像できないほどに冷ややかで戸惑いと共に身が竦む。

 

借りた本を失くしたことを告げ頭を下げてから数十秒後の言葉だった。

 

急いで顔を上げて追い縋ろうとした一言は

 

「もう結構です」

 

口から出る前に潰えた。

 

「貴方に期待していた私が馬鹿でした」

 

震える私に向けられる瞳には軽蔑と失望がありありと表れていた。

 

「さようなら」

 

その日はそれ以降何も言われなかったが、彼女が他の職員に話したのか翌日には私が彼女から借りた本を盗んだという話が学校中に広まっていた。

 

結局その人は学期の終わりと共に別の学校へと移っていったが、それ以降私と個人的に言葉を交わすことは無かった。

 

今思えば彼女もまた私を詐欺師や盗人の息子という目で見ていたが為に即座に私に非があると断定したのだろう。

 

しかし、当時の私にとって彼女は偏見なしに自分を評価してくれる存在であり、そんな人の期待に応えられなかったという記憶は私の人格形成において深い影を落とすこととなった。

 

 

別に貸し借り自体が怖い訳じゃない。

 

その類いの話をされたことは確かにきっかけではあったが、恐怖自体は前々からあった。

 

私が本当に恐れていたのは失望だった。

 

私がかの悪魔の元へ足繁く通ってきたのは、好奇心も勿論あるが何より人間でない存在というところが大きい。

 

悪魔に対して信頼も何もあったものではない。

 

初めから無いなら失う怖さもない。

 

だから私はかの悪魔に救いを見たのだ。

 

失望されるなどということとは無縁だったから。

 

そう思っていた。

 

『そうだ!折角だからこの本を火種にしちまうか!』

 

角を生やした少年がヒラヒラと本を振りながら語る。

 

「え、マジでやんの?」

 

「流石にそりゃ…」

 

取り巻きの子どもたちは有耶無耶になりかけていた放火の件が再び蒸し返されたことで焦りと共に口々にぼやく。

 

普段の彼であればそれに気圧されてやめていたかもしれない。

 

しかし

 

『は?』

 

悪魔憑きである今の彼にとってそれは神経を著しく逆撫でするのみであった。

 

『誰に口ごたえしてんだ?ああ!?』

 

「うぐっ!?」

 

言葉と共に彼は取り巻きの一人を力一杯蹴りあげた。

 

悪魔に憑依された人間の膂力により、蹴りあげられた子どもは数メートル浮き上がると共に血を吐きながら地面へと叩きつけられる。

 

『てめえ!はぁ!?分かって!ねえのか!?ああ!?悪魔は根元から潰さなきゃならねえんだよ!?二度と俺に!逆らわねえように!なあ!?』

 

「うっ。あっ。っ。っ。…。…。…。。。」

 

少年は倒れ伏したその子どもを何度も蹴りあげる。

 

その度に血を吐き、何度もうめき声をあげていたが、次第にそれも弱くなり、終いには完全に反応しなくなってしまった。

 

「あっ…あっ……」

 

「ひっ…」

 

「あっ、うくっ…嫌だ!もう嫌だ!」

 

「お、おい!」

 

「ずりぃぞ!」

 

その他の取り巻きの子どもたちは恐怖に身体をすくませていたが、そのうちの一人が駆け出したことで堰を切ったように全員その場から走って逃げ出してしまった。

 

私を押さえつけていた子どもも逃げてしまった為に私は自由を得た身体をゆっくりと起こした。

 

『はあーあ……意気地のない奴らだ…』

 

私は何とか状況打開しようと必死に頭を回した。

 

今の騒ぎで何で誰も来ない!?憑依した悪魔の力か!?火を吹いているのだから彼に憑依したのは恐らく"火の王"イブリースの眷属か?加えて彼は悪魔に対する強い恐怖を抱いていた。つまり悪魔や不浄の類いに対抗し得る由来を持つ悪魔である可能性が高い、のか?短時間で人に憑依(今はまだ彼の精神が確かに存在している以上厳密には寄生)できるのだからそれなりに高位の悪魔であると考えられる?……条件が全て漠然としている!候補が多すぎてまるで絞り込めない!角や尾の形状から判別できれば…数日学んだ程度の自分にそんなことができるはず無いだろ!

 

八方塞がりの思考はただただ自身の無力を自覚させるだけだった。

 

そして私が無為な思考に注力する間にも状況は変化し続ける。

 

『まあ、いいや。さっさとやっちまおう。ああ、悪魔憑き。見てても良いぜ?お前はちゃんと最後に殺してやるからよ』

 

彼はそう言うと懐からマッチを取り出し、手早く擦った。

 

彼の手に生まれた小さな火種などより彼が口を開くたびにそこから漏れ出ている炎を含んだ吐息の方がよほど使い勝手が良さそうだが、彼はそもそも自身の肉体の変化に気付いていないらしい。

 

彼の手がもう片方に持つ本へと向かう。

 

向かった。

 

『……何してんだ、てめえ?』

 

私自身何故そんなことをしたのかは今考えてみても分からない。

 

気付けば私は彼の本を持つ腕に飛び掛かっていた。

 

勿論悪魔に憑依された彼に勝てるはずもなく、というか憑依せずとも腕力で彼に勝てたことなど一度として無かったのだから考えるまでもなく意味のない行為だった訳だが、しかし私は何故か懸命に彼の腕から本を奪い返そうとしていた。

 

無意味で不可能で無謀な行為。

 

それでもその時私は必死だった。

 

『触んじゃねえよ!?気色悪ぃんだよ、悪魔憑き!』

 

だから即座に地面に叩きつけられてからも懸命に追い縋ろうとした。

 

何故か……

 

いや、嘘だ。

 

理由ははっきりわかっていた。

 

私は怖かったのだ。

 

失望が怖かった。

 

誰かに失望されるのが。

 

いや、それも言葉が足りない。

 

ただの誰かじゃない。

 

信頼を寄せた誰かにだ。

 

認めよう。

 

私はかの悪魔、”腐の王”アスタロトに紛れもなく信頼を抱いていたのだ。

 

だから私は必死になった。

 

私が寄せる独りよがりの信頼が途切れるのが怖かったから。

 

何よりそれを許してしまう不甲斐ない自分を

 

また失望されてしまう自分を

 

何も得られず何も守れない自分を

 

そんな自分であることを認めるのが怖かったのだ。

 

「っゴフッ…ヒュー…ヒュー……」

 

口から何か生暖かい液体が漏れるのを感じる。

 

胸が軋み、喉が萎む。

 

痛みが思考を支配し、神経全てが危険信号を発している。

 

それでも這いずる。

 

逃げるという選択肢は無かった。

 

私は少年を止めるべく必死に体をよじる。

 

『……たくっ、あー嫌な気分になった。さっさと燃やしちまおう』

 

しかし瀕死のちっぽけなガキに出来ることなど何もなかった。

 

少年はマッチを本へと近づけた。

 

いよいよ火が付く。

 

私は自分の無力を呪った。

 

己の惨めさを呪った。

 

しかし、次の瞬間

 

『よし、着っ「控えなさい、痴れ者」え?』

 

少年の腕は枯れ木のように細い腕に掴まれていた。

 

その腕は本の表紙から伸びており、少年も、また私もその異様な光景にしばし呆然としてしまう。

 

その短い時間に異常事態はさらに進行する。

 

腕の出現から間髪入れず、本全体から様々な種類の菌類が泡立つように溢れ出してきた。

 

我に返った少年が慌てて本を投げ捨てると、地面に落ちた本はすぐに菌類に包まれてしまった。

 

それどころか繁茂の勢いはまるで収まる気配がなく、菌類は人ひとり包めるほどの大きさへと一気に成長してみせた。

 

やがてその内部から痩せた人影が姿を現す。

 

その姿は悪魔に憑かれた彼にとっては恐怖の対象であっただろうが、私にとっては疑いようもなく救いであった。

 

”腐の王”アスタロトは周囲を数瞬見回した後、件の少年へと足早に近づいて行った。

 

「お前か?」

 

『…え……あ…』

 

少年はこれまでの強気な態度が嘘かのように狼狽えていた。

 

恐らく憑依している悪魔が彼女に怯えていたためにその動揺が少年の精神にも影響を与えたのだろう。

 

「このアスタロトが訊いているのです。答えなさい。お前が知識の保護者たるこのボクの蔵書にその薄汚い手で触れ、のみならずを火気を近づけ、瑕疵をつけようとしたのかと問うています」

 

『あ……え…ちっ違、』

 

「無視とは随分な態度ですね。加えて尾をボクに晒すなど…それがこの”腐の王”に対する礼儀ですか?」

 

『…え……え?…』

 

全く話が噛み合わない。

 

少年はあまりの事態に覚束ないながらも何とか絞り出した言葉すら通じない現状にいよいよ混乱し始めていた。

 

察するに彼女は彼に憑依した悪魔に問いかけているのだと思われるが、そんなことは知らない少年からしてみればただ単に会話の通じない異常者でしかないだろう。

 

「フ………フフッ……ゴフッ」

 

「おや?」

 

私は自身が瀕死の状態にあるにも関わらず、状況の馬鹿馬鹿しさに思わず笑ってしまった。

 

その声に気づいたアスタロトが大股で私へと歩み寄ってくる。

 

彼女は腰を曲げてまじまじと私を観察した後、思いっきり顔をしかめた。

 

「あーあー、これは酷い。部分的に寄生させて再生させましょう。イゴール、多少痛むでしょうが我慢してください」

 

言葉ともに彼女が指を鳴らすと同時に身体に異物感が表れた。

 

それに疑問を抱く前に全身に激痛が走った。

 

まるで肉体を内側から組み替えられているような痛みに悶えるしかない私を、アスタロトはじっと見つめている。

 

要は彼女は私に視線を固定し、その場にいるもう一人には意識を向けていない状態にあったのだ。

 

そしてその隙を件の少年は見逃さなかった。

 

突如何かを無理やり掘り起こすような鈍い音が響いた。

 

「あ?」

 

アスタロトが異音の元へと振り返ると

 

『うぉああああああ!!!』

 

裏庭にあった朽ちかけの木を引き抜き、両手で振りかぶった少年の姿があった。

 

「あ…危ッ…」

 

苦しみの最中で私が呟いた警告の言葉は意味をなさなかった。

 

何故なら

 

「……呆れた。お前、自分の身体も満足に操れないのですか?」

 

振り下ろされた木はアスタロトに容易く受け止められてしまったからだ。

 

彼女はそのまま少年の腕を掴むと、彼の顔を自分の口元まで引き付ける。

 

そして

 

「フッ」

 

『え?あっ』

 

彼の顔へと息を吐きかけた。

 

すると即座に彼の全身が菌類に包まれ、数秒後には全身がバラバラに崩れ去ってしまった。

 

先程まで少年だった残骸を足で蹴りながらアスタロトはブツブツと何かを呟き始める。

 

そんな彼女を他所に私の脳裏に一つの疑問が浮かんだ。

 

「あー雑魚雑魚。あー嫌だ嫌だ。たかだか暖炉(ペチカ)の精霊風情が何を思い上がっていやがったのか。穢氣王(アシュテロス)の魔障ごときも治せないくせにボクに?ハア?ボクに?あーバカバカ。ゴミゴミ。カスの相手をするのは本当に疲れる。何なんだ、何だってんだ、は?たかだかあんな呪詛でバラッバラになる分際で…ハア?ふざけんじゃねえですよ。雑魚がボクの手を煩わすな。てか、自害しろよ。テレビで知名度上がったからって土着でもない癖にわざわざ他国にまでしゃしゃり出てきやがって、あり得ねえですから、マジ。よりにもよって悪魔(ひと)が忙しくしている時に余計な真似をしてくれやがって不愉快極まりね…」

 

「あの…」

 

「はい?」

 

出現の際、彼女は状況を理解してはいなかったように見えた。件の少年が自身の蔵書を気付けようとした下手人とはっきり認識していなかったようだし、私が咳き込むまでは私の存在にも気付いていないようだった。

 

にも関わらず、彼女は私がこの場にいることを疑問に感じる素振りを見せていない。

 

そもそもあの本を私のベッドに送り付けていた時点で察するべきだった。

 

「先生は…ご存知だったんですね。僕がここで暮らしてるって」

 

「ええ、まあ」

 

やはりそうだ。彼女は私の生活に関して知っていた。

 

となれば

 

「…どこまでご存知なんですか、僕のその……ことについて」

 

僕が祓魔師、彼女の敵の子であるということも知っていたのではないか?

 

ほぼ確信を持った、そして僅かな期待を込めた問いかけだった。

 

「質問が漠然とし過ぎていますが、貴方の親が祓魔師であったという事実は認識しています。貴方の期待通りの答えでしたか?」

 

その答えを聞いて私は抑えきれないほどの喜びを覚えた。

 

だって知っていたのに、俺と一緒にいてくれたのなら、それは俺の出自なんか関係なく、俺自身を見てくれていたってことだろう?

 

その時の私は自分の出自からこの悪魔が私を警戒して私を目に付く範囲で監視するためにそばに置いている可能性だとかは一切頭になく、ただ、去年のあの教師の()()()が見つかったことに馬鹿みたいに喜んでいた。

 

本当に馬鹿みたいだ。

 

私はその答えを聞いた瞬間に彼女へと走り寄って抱き着いていた。

 

あの悪魔がどんな表情をしていたかも知らずに。

 

「……ハァー」

 

 

 

ーーーーー6年前???

 

 

 

マジ最悪な気分でした。

 

数週間前から面倒なことにはなっていましたが、今は輪をかけて最悪です。

 

いえ、断っておきますがボクとて原作キャラと会えて嬉しい気持ちはありましたよ?

 

何ならボクが直々に鍛えてイゴール・ネイガウスを原作以上に強くしてやろうなんて考えてたりもしていましたよ。

 

しかしですねえ、いや最近なんですけど、やっと気づいたんですよ。

 

ボクが会いたいのは成長し、あの性格になったイゴール・ネイガウスだと。

 

いや、ね?考えても見てください。魔神(ちちうえ)憎し、悪魔憎しで皮肉にも兄上の下僕となる男がボクの影響で悪魔大好き人間にでもなったりしたら。それは完全に別キャラ、キャラ改変キャラ崩壊でしょう。そうなればですよ、言ってしまえばボクは期せずして彼というキャラを殺してしまったことになるわけですよ。

 

そしてこの数週間で既にそう成りかけてきています。

 

いや、マジ調子こいてました、すみません。

 

これで原作の流れにまで影響あったらどうすりゃいいんでしょう。

 

ボクまだ原作読み切らずにコッチ来ちゃったんで出来れば大筋からあんまりずらしたくないんですよ、オチ気になりますし。

 

イゴール・ネイガウスぐらいならギリ何とかなるかなーと思ってたんですけど、数週間過ごしただけでこんなに懐かれると正直ビビっちまいます。

 

とはいえ、ですねえ、彼は将来悪魔研究の第一人者となるキャラクターでもあるわけですから、悪魔への興味を失わせるわけにもいかないんですよね。

 

ボクに過度な愛着を抱かせないようにしなくてはなりませんが、かといって過度に不快感を与えるわけにもいきませんし。

 

ここ数日マジで悩んでいます。

 

ゲロムズイっす。

 

大体ですね、子守りなんてもう何世紀もしていませんからね?

 

子どもを作ったことは腐るほどありますが、世話なんかは大体眷属や信者に丸投げしていて、自分で育てたことなんて数えるほどしかありませんよ。

 

ボクの言動が彼の成長にどのような影響を与えるのかまるで予想できません。

 

寄り付いてくるのを突き放すのも恐ろしく、かといって不用意に近づけるのは言語道断です。

 

ああ、出会う前に戻れたならどれだけ楽か。

 

というか調子こいてた自分をぶん殴りたい。

 

ああ、そうでした、それだけでも面倒極まりないというのに。

 

ホント、嫌なことって続きますよね。

 

少し話は変わりますが、つい先日クローン技術を用いて新しくボクの憑依体足りうる個体を生み出すことに成功したんですよ。

 

僕自身はそれほど肉体に執着しているわけではありませんが、とはいえ今後のことを考えるならばスペアを幾らか用意しておくに越したことはありませんから、憑依体製作にはそれなりに力を入れていたわけで、先述の個体も生み出すまでにそれはそれは手間と時間をかけた努力作だったわけなんです。

 

それにですね…………はあ、逃げられちゃいましてね。

 

本当にびっくりですよ。

 

マジねえっす。

 

マジあり得ねえっす。

 

いや結構厳重に管理してたんですよ?

 

てか施設も人員も殆ど兄上からご提供いただいたものなんで、ボクのせいじゃないっていうか……まあいいんですけど。

 

真夜中にいきなり連絡が入ってきてですねえ、どうしたのかと思ったらみすみす逃げられたとか抜かしやがるもんで……はあーーーゴミゴミうんこうんこ。

 

そんな状況だというのに間髪入れずに今度はイゴールに貸した本から危険信号が入ったものですから、それはもう腸が煮えくり返りましたよ。

 

ボクとしては憑依体はせいぜい見たいシーンを間近で見るためのツールでしかないので、イゴールを優先したことに後悔はないんですが、とはいえですねえ、タイミング悪すぎるでしょう。

 

急いで向かった甲斐もあり、何とか彼の命は助けられました。

 

内臓破裂してたんでわりとギリでしたけどね。

 

良かった良かった。

 

まあそれはいいんですけどねー。

 

なーんかより一層懐かれてしまったようなんですけど。

 

すぐにでも憑依体候補を探しに行きたいところだというのに全く離れてくれないんですけど。

 

最悪です。

 

裏目裏目です。

 

いったいボクはどうすれば良いのでしょうか?

 

あーあ。

 

どっかにイゴールの好感度を下げられて憑依体も捕まえられて、ついでに原作キャラと関わりたい下心も程よく満たしてくれるような丁度いい手段がねえもんですかねえ。

 

 

 

 

 




オリジナル悪魔図鑑

FILE1:屍蝋手(ハンズ・オブ・グローリー)
下級
"腐の王"アスタロトの眷属。
死体の手、特に切断された罪人のものに憑依する、屍系のうちでは最下級に位置する人造悪魔。
しかし有する魔障は他の屍と遜色なく、その一方で使役は屍番犬よりも容易であるため、使い魔として好まれる傾向にある。
似たもので器械鬼(グレムリン)が存在するが性質や祓魔方法は異なるので注意が必要。

FILE2:家精(ドモヴォイ)
下級~中級
"地の王"アマイモンの眷属。
熊やその死体に憑依し、人家に住み着く悪魔。人家のどこに縄張りを持つかでその性質を変化させる。場合によっては火属性や腐属性を複合的に有することもある。

FILE3:穢氣王(アシュテロス)
上級
"腐の王"アスタロトの眷属。
頭部に洞角を移植した人間の死体に憑依する、屍番犬の亜種。出現と同時に周囲一帯の腐敗を加速させるが、本体を含めて腐敗臭を一切発生させない特徴があり、出現から発見まで長い時間を要することが多い。またいずれの個体も発声器官を必ず有しており、場合によっては明瞭な会話も可能である。一説によれば"腐の王"が自身の威容を喧伝する目的で自身を模して生み出したとされているが定かではない。
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