冷たい女   作:Y.E.H

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第1章
第1章・第1節


 執務室の小さな鏡の前で、ヒューストンは入念な最終チェックをしていた。

 

(アイライン――ヨシ、チーク――ヨシ、襟足――ヨシ――)

 

云う迄も無い事だが、居室を出る前にそんな事は済ませている筈なのだ。

しかし、彼女なりにどうしても外せないポイントがある。

 

(朝はともかく、午後は逆光になるわよね……そうなったら、ひょっとしてテカっちゃうかしら?)

 

そう、彼女にとって最も重要なのは此処執務室において彼女を横から見ることになる、とある人物から最も美しく見える事だ。

 

(まだもう少し時間あるかしら? 戻って手直しすべき?)

 

有り体に言って、こんな心配など傍目に見れば無意味――人によっては只の厭味――にしか映らないかも知れない。

つい数ヶ月前迄在籍していた米海軍における彼女のニックネームは、『BB(Breathtaking Beauty(息を吞む程の美人))』だったのだから。

とは言うものの、当のヒューストンはそんな他人の評価に胡坐をかく様な性格では無かった。

 

(決めたわ! 急げば5分で出来るわよね♪)

 

そうと決断したからには、ぼやぼやしてはいられない。

扉の前迄数mの距離を大股に移動した彼女は躊躇う事無くレバーに手を伸ばすが、その刹那レバーは彼女の手を逃れるかの如く下に動く。

 

(やだ、なに⁉)

 

次の瞬間ガチャリと扉が引き開けられ、そこに立っていた精悍な顔つきをした中年の士官と鉢合わせしてしまう。

 

「し、司令! お、お早うございます!」

「ああ、お早うヒューストン君(Miss Houston)、今朝も早いな」

「い、いえ、早く目が覚めてしまうだけですから」

「そうか、今日も一日よろしく頼む」

「はい(aye aye sir)!」

 

(はぁ、失敗したわ……決断が遅かったわね)

 

仕方がない――今日のところは一先ず諦めるか、或いは昼食休憩の合間を縫って自室に戻るか――いやいや、その時間は彼にコーヒーを淹れて、リラックスした状態で二人で語り合えるかも知れない貴重な時間だ。

そんな考えがぐるぐると頭を廻り続けるのを無理やり抑え込んで、何時もの様に彼の横の定位置に立つ。

 

(でも――このまま何の戦果も無しで済ませる訳にはいかないわね――それなら……)

 

「司令、執務の前に一つだけ宜しいですか?」

「うむ、何だろうかヒューストン君(Miss Houston)」

「――それを止めて頂きたいのですが」

「な、何? ――それを――とは何だ?」

「ヒューストン『君』(Miss)を止めて頂きたいんです!」

「いや、しかし君は――」

「司令、私が麾下に入ってからどれ位経ちましたか?」

「――概ね、3ヶ月半だと思うが……」

「それがお分かりなのに、まだ『君』とお呼びになるんですか? それでは、一体何時になれば『ヒューストン』と呼んで頂けるのでしょうか?」

「――君の言わんとするところは、その――分かった積もりだが、自分と君は上官と部下だ。それでは幾ら何でも馴れ馴れしすぎるのじゃないか?」

「つまりこう仰るんですか? 『ヒューストンは3ヶ月半程度では信頼関係を築ける相手ではない』と?」

「そんな訳は無い! 君はただ有能なだけではなく、心から信頼のおける大切な副長だ」

「もし本当にそうお考えでしたら、何時迄も他人行儀な敬称はお止めくださいませんか?」

そう言ったヒューストンにグッと顔を近付けられた司令――彼の名は隅田光彦(すみだみつひこ)といい、階級は大佐である――はやや体を引きながらもそのプレッシャーを何とか受け止める。

しかし数秒間の睨み合いの後に、溜め息を吐いた彼は結局白旗を上げる。

 

「分かった、では君の希望通り敬称をつけるのは止める事にしよう……」

 

この言葉を聞いた彼女の表情は、それ迄の真顔を崩してパッと日が射した様な明るい笑顔へと変わった。

 

「お聞き届け頂いて、有難うございます、よろしくお願いしますね♪」

「あ、――ああ、分かった、此方こそよろしく頼む」

 

(うふふ、本当に物堅い(ひと)♪ でも――これでまた半歩前進ね)

 

これは全くヒューストンの言う通りで、米国で過ごしていた折りであれば、普通の人間関係に於いてはあり得ない事とも言えた。

だが、其れをわざわざ交渉しなければならない程隅田は堅い男であり、しかもそうしたいと思わせる程に気になる存在だった。

 

(そうね――まだ時間ありそうだし、今なら乗ってきてくれるわよね♪)

 

「ところで司令?」

「何かな?」

「昨夜の――」

コンコン!

 

(もうっ! 誰よ⁉)

 

「おはようございます、入っても良いかしら?」

やや神経質そうな声と何故か敬語を省いた言葉遣いでもう誰か判ってしまったが、一応横目でチラリと隅田の顔を見る。

彼が小さく頷くのを確認しておいてから、改めてビジネスライクな声を出す。

「どうぞ、入室下さい」

その言葉が終わるのとほぼ同時にガチャリと扉が開き、間髪を入れず一人の女性がツカツカと踏み込んで来る。

長く美しい黒髪を一瞬ふわりと棚引かせたその女性は、まるで人形の様な端正な顔立ちがとても印象的だ。

身長はヒューストンとほぼ同じ位だろうか、やや太めの腰をしているものの見事なスタイルで、街を歩いたならば男達の視線を釘付けにするのは間違いない。

デスクの正面迄悠々と歩を進めた彼女は、ごく儀礼的な敬礼をして見せると、隅田の答礼すら確認せず喋り始める。

「おはよう大佐、今日は予定通り東側海域の哨戒演習に出るわ。何か聞いておく事があるかしら?」

凡そ上官――しかも隅田は当隊の司令なのにだ――に対する口の利き方とは思えない口調だが、だからと言って彼女は反抗的な訳では無く高慢でもない。

「いや、特段の指示事項は無い。敵性艦との遭遇が予想されるので、旗艦として細心の注意を払って任務に精励してくれ――飛鷹」

無意識に奥歯を食い縛ってしまう。

 

(待ちなさい、もうそんな事しなくて良いのよヒューストン!)

 

本能的に反応してしまう自分に対して、そう言い聞かせる。

隊に所属の艦娘達の中で、飛鷹は唯一隅田に敬語を使わず、そして唯一隅田が敬称を付けること無く呼び掛ける存在だったのだ。

しかしそれも今朝迄の事であり、今は既にヒューストンもまた敬称抜きで呼び掛けられる存在になった(筈である)。

 

(そうよ、これでやっと並んだんだわ――でもまだ並んだだけね)

 

「そう、判ったわ。念のために言っておくけど、個人的に言いたい事でも有るなら聞いてあげても良いのよ?」

「いや、特に無い。例え有ったとしても軍務の場で言うべき事では無い」

彼の言葉についホッとしてしまう自分が少々情けなく感じられるが、同じ言葉に飛鷹がほんの少しだけ表情を翳らせるのを見て安心する。

この二人の過去に一体何が有ったのか、そして今はどういう関係なのか本当の処は知る由もない。

とは言え、少なくとも飛鷹が隅田に対してしばしば含みのある意味深な発言をするのは事実であり、ヒューストンが挑戦者の立場である事は間違いない。

 

「ええそうよね、貴方の言う通りだわ、大佐。――では、帰投したらまた報告するわ」

「どうかお気を付けて!」

そうきびきびと言って敬礼して見せると、コーヒーが冷めてしまったのに気付いた様な顔をした彼女が、そつの無い答礼をしてすたすたと退出して行く。

 

(はあ……何時もの事だけど緊張するわね)

 

もっとも、飛鷹の方がどう思っているのかは分からない。

ヒューストンは彼女をライバルだと考えているが、彼女はヒューストンの事を歯牙にも掛けていないかも知れない。

 

(だとしても、何も変わりはしないわよね♪)

 

飛鷹が何と思っていようが自身の気持ちには関わり無いし、何より注意すべきは彼女ばかりではなかった。

 

「コンコン、お早うございますぅ~」

 

(来た!)

 

ノックしながら更に言葉でコンコンと言ってしまう、その独特なノリと矢鱈にフワフワした物言いは、此処第五特務艦隊においては唯一無二の存在感だ。

先程と同じ様に隅田の顔を横目で確認しておいてから、これまた同じ様に声を上げる。

「どうぞ、入室下さい」

飛鷹の時とは違って、今度は少々間が空く。

それから徐にガチャリとレバーが動き、ゆっくり開かれたドアの間から室内を覗き込む様にそろりと付き出されたその顔は、何とも言えない柔和な笑みを浮かべている。

 

「えへへぇ~、司令もぉ、ヒューストンさんもぉ、今日のご機嫌は如何ですかぁ♪」

「私の機嫌を気にする必要は無いから遠慮なく入りたまえ、ポーラ君」

さすがに表情には出さなかったものの、心中密かにムッとしてしまう。

 

「ありがとうございますぅ~♪ 司令のご機嫌が良いとぉ、それだけでポーラは元気を貰えますよぉ~」

「それはいささか大袈裟ではないか?」

「そんな事ないですよぉ、司令はポーラの太陽ですからぁ♪」

「いや、やはりそれは大袈裟に過ぎるな、もちろん、そうあらねばならんと心掛けてはいるが」

「普通の方はぁ、何時でも太陽の様でなければならないなんて心掛けたりしませんよぉ♪」

「いや、私は各国政府から君達を信託されている身なのだ。どれ程精進を心掛け様が、その責務に叶うものでは無い」

「えへへぇ、そこ迄ポーラ達に真剣に向き合って下さる方が司令だなんてぇ、もうそれだけで幸せな気分ですよぉ」

 

(もうそれ位で良いでしょ、お願い!)

 

口に出す訳にも行かないので懸命に念を込めたヒューストンの願いが通じたのか、隅田は際限無く続きそうなその会話に区切りをつけてくれる。

「それはさておき、用件を聞こうかポーラ君」

「はぁい、今日はぁ予定通り西側海域の哨戒演習に出撃して参りまぁす」

「今日は君が旗艦なのだな、敵性艦との遭遇には充分注意して対処して欲しい」

「了解しましたぁ、司令が気遣って下さるからぁ、ポーラ一杯やる気出しちゃいますよぉ♪」

「いや、君を特別に気遣っている訳では無いぞ? 君に限らず出撃する者全てに対して同じ様に気遣っているからな?」

「司令は公平ですねぇ~、やっぱり司令は太陽ですよぉ♪」

「いや待ってくれ、幾ら天道に信無しとは言っても、それでいきなり太陽そのものとは、幾ら何でも飛躍し過ぎだ」

「いーえー、まるで沈む夕陽の様に謙虚な司令はぁ、やっぱりポーラの太陽なんですぅ」

 

どれ程隅田が話の軸をずらしても、ポーラはにこやかに合わせて来てしまうので、何時までも会話が途切れない。

 

(もう、いい加減にしてよ!)

 

さすがに業をにやしたヒューストンは、思い切って強引に会話を終わらせる。

 

「どうかお気を付けて出撃下さい!」

 

そう言って敬礼して見せると、隅田もそれに合わせてピリッとした敬礼をしてくれる。

だが、当のポーラは相変わらずゆっくりとしたテンポで答礼すると、再び掴み処の無い柔らかな笑みを浮かべる。

 

「それでは~、帰投したらまたご報告に上がりますねぇ♪ それ迄はご機嫌よう、司令、ヒューストンさぁん」

 

その全く崩れないマイペースな対応に、いささか後ろめたい様な負けた様なもやもやした感情が湧き上がってくる。

明らかに無理矢理会話を打ち切られたというのに、不快そうな様子を欠片も見せずにスルスルと自然に退室していく彼女は、今のヒューストンには如何にも太刀打ち出来ない存在なのだ。

 

(何を卑屈になってるの⁉ 勝負はこれからよ!)

 

そう己を叱咤する。

実際、ヒューストンが出遅れたのは間違いない。

元々彼女は、日本も日本人も大嫌いだったのだ。

今から数ヶ月前、太平洋艦隊司令部に出頭して転属の内示を告げられた時は、反射的に拒否した位だ。

司令官から、これは深海棲艦に対抗可能な戦力を向上させる為にどうしても必要不可欠なミッションであり、ヒューストンで無ければ務まらないのだと懇ろに諭されたのでしぶしぶ承諾したものの、内心では不愉快そのものだった。

そんな思いに染まり切って着任した彼女に取って、隊の司令が魅力的な男性かなどと言う事に関心の湧き様がない。

だが、少なくとも飛鷹とポーラに取ってはそうではなかったのだろう。

遅巻きながらそれに気付いたヒューストンが、巻き返しを決意したのは精々ここ1ヶ月程の事なのだ。

 

(大体、最初からそんな下心ありありで着任して来るのがおかしいのよ! あたしは普通だわ)

 

と言っては見たところで、彼女の不利な状況は何も変わる訳では無い。

副長として彼を直接的にサポート出来るこの状況を、精一杯利用して挽回して行く他なさそうだった。

 

「有難う、助かったよ」

「あら、あたし何か司令をお助けしましたか?」

「もちろんだ、タイミングを見計らって会話を打ち切ってくれたじゃないか」

「まあ、あたしはてっきり、楽しい会話に水を差してお叱りを受けるかと思っていましたわ♪」

 

一抹の皮肉を込めて揶揄すると、隅田はあまり見た事のない苦笑いを浮かべて言い難そうに詫びる。

 

「全く君の言う通りだ。軍務中でありながら、だらだらと無関係な雑談をしてしまって申し訳ない」

「いやですわ、司令を責めた積もりはありませんよ」

「君がそんな事を言った訳ではないが、私自身が反省し、自戒せねばならない事だからだよ――正直に言うが、私はどうも彼女が苦手でね」

「あら、そうだったんですか?」

「どう対応していいものか分からないので、ついつい釣られて余計な口数が増えてしまうんだよ」

 

努めて平静を保っていたものの、内心では小躍りしたい程嬉しかった。

彼がこんな個人的な本音を吐露してくれたのは、おそらくこれ迄で初めての事だろう。

しかも、今のヒューストンにとって最も手強いライバルの一人であるポーラを、彼は苦手だと言っているのだ。

思わず口許が緩みそうになるのを懸命に引き締めながら、何とか口を開く。

「正直に仰って頂いてとても嬉しいですわ、ではこれからも話が長引きそうな時はお助け致しますね♪」

「ありがとう、君が副長でいてくれて本当に助かっているよ」

「まぁ♪ そんなに持ち上げて頂いても何も出ませんよ」

「まさか、そんな事を期待しているのではなくて、本当にそう思っているだけだよ――これからもよろしく頼む、ヒューストン君」

 

(ンもうっ! 非道いわ⁉)

 

折角良い雰囲気に浸っていたのに、一気にそこから突き落とされた気分だ。

 

「司令、ひどいですわ? さっきお願いを聞いて頂いたばかりですよ⁉」

「あっ――いや、これは、その――申し訳ない、思わず失念してしまった……」

「本当に――お願いしますね⁉」

「わ、分かった、二度と間違えない様肝に銘じておくよ」

 

(あ~あ、すっかり糠喜びしちゃったわ……)

 

彼女の闘いは、まだまだ始まったばかりだった。

 

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