体調はすっかり元通りなのだが、気分が何処かしら鬱々としてすっきりしない日々が続いていた。
隅田は頻りに暫く休養する様に奨めてくれるのだが、体調が優れない訳でもないのに休むのは気が引けたし、何より折角彼との距離が縮まっているこのタイミングでそのポジションを他の誰かに明け渡す気にもなれない。
取り敢えず向こうひと月程は演習への出撃や屋内訓練などへの参加は見送り、副長業に専念するという事で彼も納得してくれたので、今日も朝から彼と共に執務室に立つ。
「それでは行って来るよ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
午後になって会議に出向いた隅田を見送った後で、彼が戻って来る迄に書類を整理しておこうと手を付け掛けたところ、思いもよらずノックの音がする。
(誰かしら?)
随分か細い音だったので一瞬間違いかと思い掛けたのだが、その時もう一度コンコンと小さな音がするので声を掛けて見る。
「はい、何方でしょう?」
「あ、あの、夕暮です――執務中に申し訳ありません」
正直に言って何とか理由を付けて断りたいと思ってしまうものの、そう言う訳にも行かないだろう。
「どうぞ入室ください」
努めてビジネスライクな声で応じてロックを解除すると、やけに遠慮がちに扉が開き、何時になく不安げな様子の彼女が顔を出す。
「今司令は会議中です、どう言ったご用件?」
「はい、存じておりますわ――司令が退室なさったので、参りましたの」
(えっ……)
随分ストレートに来たものだと思い掛けたのだが、見たところどうもそう言う雰囲気でも無いらしい。
第一、幾ら彼女でも勤務中にそこ迄不埒な事をわざわざ訪ねて来て迄するとも思えなかったので、少し容を改める事にする。
「司令がおられたら不味い事なのかしら?」
「はい、ヒューストン副長にだけお話ししたいと思いましたの。ご多忙のところお手数なのですが、少しだけお時間を頂けませんでしょうか」
「――判ったわ、そちらで聞きます」
そう言って簡素なテーブルとソファを指すと、彼女も素直に従う。
ところが何気無く腰を下ろそうとすると彼女はつとテーブルを回り込み、ヒューストンの隣に座って来る。
(ちょっと!)
何時もの癖で身構えたのだが、案に相違して姿勢を崩さず目の前のテーブルを見詰めている。
さすがにこれは普通ではないと思い直し、話を促して見る。
「どうしたの? 何か悩み事?」
「――いえ――そうではありませんわ……」
「でも、何だかとても言い難そうだわ」
「はい、そうです――正直に申しますがまだ迷っております」
「どうしてそんなに迷うのかしら?」
「もしも誤りでありましたら、私の軽忽な言葉で艦隊の仲間を中傷する事になるからですの……」
「余り穏やかな話じゃ無さそうね――でも、言わずに抱え込んでおく事は出来そうに無いって言うこと?」
「お察しの通りですわ――私、不安で仕方がありませんの、とても良くない事が起きそうな予感がして……」
「じゃあこうしましょう、貴方から聞いたことは誰にも言わないと約束するわ――でも、もし貴方が心配している様に重大な事になりそうな時は司令にだけはお話しするけど――それでも良ければ話してくれるかしら?」
これを聞いた夕暮は、やっと顔を上げると少し愁眉を開いて此方を見詰める。
「ご配慮頂き有難うございます――それでは、私のよしなしごとで大変恐縮ですが、お聞き頂けますか?」
「心配しないで、何事も無かったらそれはそれでとても良い事なんだから」
「はい――これは、先日の副長やパースさんが負傷してご帰還になった折の事なのですが――その折には留守居の艦娘は全員受け入れ建屋に来ておりましたの」
「そうだった見たいね……あの日はそれを確かめる余裕が全く無かったんだけど」
「あの状態では、自力で立っておられたのも不思議な程でしたでしょうから致し方無い事かと。ただその節は、代行副長でいらしたグラーフさんを除いて全員が一緒に移動して来て皆さんのご帰還をお待ちしていた積もりでしたのですが、そうでは無い事に途中で気付いたのです」
「そうなの?」
「ええ、私達は私語を交わしながら一緒にいた積もりだったのですが、よく見るとポーラさんだけはその輪に加わっておらず、一人離れて立っておられましたの」
「……」
「とは申しましても誰しもその様な気分の時はあるものですし、それ程は気にしておりませんでした。ですが……」
「――ですが――どうしたの?」
「副長が医療棟に退出なさった後に飛鷹さんが不愉快そうに退出なさり、それを見た司令や私共も退出し掛けたのです。ところがその際に、一瞬だったのですがやはり退出し様とされたポーラさんと視線が交差したのです……」
そう言った彼女は再び下を向いて口を噤んでしまう。
よく見るとその顔は少し蒼褪めており、膝の上で両手がキュッと握り締められていた。
「大丈夫? 一体何を見たの?」
そう言って握り締められたその手にそっと片手を被せると、どうにか絞り出すように口を開いてくれる。
「はい……身の毛もよだつと申しますのは、正にあの様な事を言うのだと思いました――ポーラさんの眼差しは、ゾッとする位冷たいものでしたの――まるで、氷の刃で斬り付けられた見たいに感じましたわ……」
言いながら肩を竦めた彼女はその時の感覚を思い出しているのだろうか、凍えているかの様な素振りを見せる。
話を聞いているヒューストンの脳裏にも、あの嵐の日に見た氷の様な眼差しが浮かんでいた。
(つまり、あの時と同じ事を考えていたと言う事よね……)
思い返すとつい全身の筋肉に力が入ってしまう。
「副長は――司令をお慕いなさっておられるのですよね――ポーラさんや飛鷹さんと同じ様に……」
「――ええ、そうよ」
「あの時のポーラさんの眼差しは、到底お仲間やお味方に向けられるものではありませんでした――あれは、宿怨の仇敵に向けられたものですわ――ですから私、ポーラさんが副長に害意を抱いておられるのではと心配になりましたの」
「そうだったのね……」
「はい――ですから、何か良からぬことが起きる前にお話ししたいと思いましたのですが、もし私の勘違いであったならあらぬ中傷をする事になってしまいますし……それでも、どうにも不安でおられませんでしたので、こうしてお邪魔をしてしまいましたの――どうかお許し下さいませ」
「許すも何も無いわ、思い切って話しに来てくれて本当に有難う。約束通り誰にも言わないから心配しないでね」
「そう仰って頂いて少しホッと致しました――でも、副長の御身が心配ですわ、何事も起きなければ宜しいのですが」
「――そうね、当分は独り切りにならない様に注意する位はするけど――でも、何が起きるのか見当も付かないのは困るわね」
「はい……」
実際、何かをする積もりなのかどうなのかすら定かではない。
人間であればいきなり背後から襲われて刺されたり頭部を強打されでもすれば命取りだが、艦娘はその程度では死なないし、例え首を刎ねられたとしても応急処置さえ間に合えば蘇生してしまう位だ。
それに彼女達は少量の水さえ携帯していれば、余程の不意打ちを受けない限りはこの水を体に掛ける事で能力の一部を発現して反撃することが出来るため、例え艦娘同士であっても相手を確実に殺すのは至難の業である。
そう考えると彼女が自分を闇討ちする事に意味があるとも思えないし、第一犯人が直ぐに判ってしまう時点で十分に破滅的な行為だとも言える。
とは言え、ポーラの抱いている得体の知れない闇はそんな道理など通用し無いかも知れず、全く予測が付かない。
そう思っていると、夕暮が小さく溜息を吐く。
「誰かを一途に想えば想う程、その分だけ大切なものが見えなくなるのは私共も人間と何も変わりませんわ――それでも、だからと言って共に戦う仲間同士で傷付け合う様な事迄して良いと言うものでは無いでしょうに……」
彼女の発した言葉には曰く言い難い悲しみや切なさが籠っており、つい声を掛けずにはいられなくなる。
「貴方の言う通りだわ、あたし達は人間の事をとても儚い存在だと思ってしまうけど、あたし達だって所詮は抗い難い運命に弄ばれるだけの無力な代物なのにね。しばしばそれを忘れてしまうなんて」
「本当に仰る通りですわ――只でさえ私達は終わりの無い無為な戦いに心身を削るばかりですのに、罷り間違って傷付け合った末に仲間を喪う様な沙汰にでも及びましたら見るに堪えませんわ……」
突然悪寒の様な何かが身体を駆け抜ける。
夕暮の吐露した言葉の中に、強い痛みを感じ取ったのだ。
(もしかして、この娘もまた同じ様な記憶を抱いているの?)
眼の前で口を真一文字に結んで愁いを漂わせているその横顔を見ていると、思わず言わずもがなの事を口にしてしまう。
「何か――辛い思い出があるのね?」
その言葉にピクッと小さく反応した彼女は暫く黙ったままだったが、やがてつと顔を上げると深い呼吸を一度した後で訥々と話し始める。
「私には――有明と言う姉妹がおりますの――私のすぐ上の姉で、私は差し詰め六人姉妹の末っ子という処ですわ」
「知識だけでは知ってるわ、初春型と言うのよね」
「はい――もっとも姉達は艦としての生まれが異なる所為なのか本当に似ておりませんの――優しい姉達ですので何の不満もございませんが、それでもやはり私は唯一自分に良く似ている有明に心惹かれておりましたの」
「そうなのね」
「有明はサバサバとしておりますがその故なのか大雑把で雑なところがあって、何かと世話の焼ける事ばかりでございました――それでも私は、そんな有明がとても好きでしたわ……」
「……」
「私は優しい姉達や仲間に囲まれながら、有明と過ごす日々がとても幸福でした。程なく起こったこの戦いに直面しましても、有明と仲間達と共にある限り何も恐れなど感じませんでしたの」
そう言った彼女の表情は心做しか輝いており、嘗て過ごした日々の光が甦っている様だった。
「そんな風にして三年余りが経ちました、その間に長姉の初春を天上へと送る事となりましたが、それは決して辛いものではありませんでしたわ――金色に光り輝く姿に化身した姉に慈愛に満ちた眼差しを向けられた時は、感動で胸が震えた位でした」
しかしその瞳からふっと光が消え、眼差しが虚ろになる。
「そんな日々がずっと続くものだと、あの頃の私は思い込んでおりました……その愚かさを思うと息苦しくなります――」
「――そんなの貴方だけじゃないわ、誰も―」
言い掛けて思わず口を噤む。
彼女の耳にその言葉が届いた気配は全く無かった。
「その日も何一つ変わらぬ一日の筈でした。有明は朗らかに笑って出撃して行きましたの――
ですが――
その夕刻、有明は戻っては参りませんでした」
誰かに胸を押さえ付けられている様な苦しさを感じるが、何故か夕暮は淡々としていた。
僅かな間をおいて再び喋り始める。
「私は何が起こったのか理解出来ませんでした――
仲間や姉達が代わる代わる声を掛けて寄り添ってくれるのですが、私はただ茫然とするばかりでした――
涙の一滴すら出ませんでしたの……」
残念な事に、ヒューストンはその感覚を理解することが出来た。
悲しみとは、その事実を己のものとして受け止める事が出来て初めて湧いて来ることをあの時知ったのだ。
「それから一ヶ月の後に、有明は私の許に戻って参りました。何もかも変わり無い――姿形も――サバサバとした処も――大雑把で雑な処も――屈託の無い朗らかな笑顔も――本当に、私が好きだったそのままの有明が……」
ほんの僅かな沈黙が言い様も無く恐ろしかったが、次の瞬間淡々としていた夕暮の瞳が大きく見開かれ、堰を切った様に涙が溢れ出す。
「でも――その――有明は――
私と過ごした――三年間を――
何も覚えて――――いなかったのです…………」
何かしなければと思った訳でもなく、更に言えばこうしようと思ったのでもない。
恐らくは、悲劇的な記憶に責め苛まれるその姿を見ていることが出来なかったのだろう。
肩を震わせて嗚咽を漏らす彼女をしっかりと抱き締めていた。
ただ、そうしている内に気付いた事がある。
夕暮の震えは嗚咽によるのでは無く本当に震えていた事だ。
(そう――そう言う事なのね……)
彼女は遠い日の記憶を呼び覚まし、その時感じた恐怖に戦慄し打ち震えていた。
何一つ変わり無い筈の愛する者が、自分の事だけを覚えていないと言うその事実は、夕暮にとって悲しみと共に底知れぬ恐怖だったのだろう。
(なんて残酷なのかしら――自分は憶えているのに相手は全く憶えていないだなんて……)
ひょっとすると、それは愛する者を永遠に喪ってしまうよりも辛い事かも知れない。
米国に於いても過去に艦娘を喪失する事例はあったのだが、夕暮の様に愛し合うパートナーが存在した例は聞いたことは無かった。
誰であれ、喪失してしまった艦娘は概ね30日程度(29.5日前後と言われる)の後に復活するので、どの国に於いてもその少し前から船体が海没している海域で待機して確実に迎え入れる様にするのが普通である。
しかし、その折に迎えに行くのは実艦時代に行動を共にした事がある艦娘であり、艦娘としてこの世に甦って以降に知り合った者では無い。
彼女はその様な怖ろしくも悲しい体験をした数少ない一人だったのだ。
やがて少しずつ嗚咽がおさまると共に体の震えも和らぎ始めたのでそっと腕の力を抜くと、夕暮もまた僅かに身を起こして体を離す。
「ごめんなさいね、こんな辛い事を話させてしまって……」
「いえ――どうかその様な事は仰らないで下さいませ……きっと、私自身が副長にお聞き頂きたかったのですわ」
「そう言ってくれるとホッとするわ――でも、何だか情け無く もなるけど」
「ひょっとして、副長にも何かご事情がおありなのですか?」
「――ええ、でもここに来てから誰にも話せずにいるの。だから、貴方を見てて情け無いと思ってしまうのよ」
「それは違うのではありませんか? 私には、最初にそれを話す方をもう既に決めておられるだけの様に感じられますわ」
「あら、痛いところを衝かれちゃったわね――でもそうよね、何時の間にか自分でそう決め付けていたんだわ……ロイに謝らなきゃ」
「その必要は無いと思いますわ、どう言う経緯かは存じませんが、きっとデ・ロイテルさんはちゃんと理解なさっておられるでしょう」
「貴方、鋭いのねぇ――確かに言う通りね、ロイならその位は察していそうだわ」
「正直に申しますが、私が副長のそのお話を聞く相手になりたいと思っておりましたの……でも、諦める事に致しますわ」
「そんな風に想って貰えるのって嬉しいんだけど、あたしはやっぱり彼が好きなの。まだ彼がウンと言ってくれた訳じゃないけどね♪」
「いいえ、まず間違い無く司令は副長のご好意にお応えになりますわ――と申しますか、飛鷹さんとポーラさんのご好意にお応えになる事は無いでしょう」
「あら、どうして? 貴方は飛鷹を応援してるんじゃ無いの?」
「応援してはおりますが、司令のお気持ちを捻じ曲げる事は出来ませんもの。司令は、一度拒んだ方を時間が経ったとか事情が変わったからと言ってやっぱりお受けになる――と言う様な方では御座いませんわ。ですから、気の毒ですけど飛鷹さんの想いが報われる事はまずないと思いますの」
「それじゃポーラは?」
「ポーラさんは、お酒に頼る事でご自身を保っておられる様な危うさを感じます。そんな方に同情なさる事はあるかも知れませんが、司令は同情と愛情とをはき違える様な未熟な方では無いでしょう」
「――以前、ロイにはあたしの名参謀って言ったことがあるの。でも、貴方にはあたしの軍師になって欲しい位だわ」
「まぁ、米国でも過去に軍師がいた事がありましたの?」
「違うわ、これでもあたしはアジア艦隊の旗艦だったから、多少は歴史を聞き齧った事があるだけよ」
「そうなのですね――私には軍師など務まりませんが、副長のご相談相手になれるのでしたら嬉しいですわ。本当はもっと親しい間柄の方が嬉しいのですけれど……」
「それならもうなってるじゃない、貴方はあたしの大切な友達よ♪」
こう言うと夕暮はまだ涙の跡が残る顔を輝かせて笑みを浮かべる。
「そんな事を仰って頂けるだなんて――今日はそれだけで伺った甲斐が御座いましたわ」
「お礼を言うのはあたしの方だわ、これからも気になる事があったら何時でも教えてね」
「はい、そう致します」
朗らかにそう応じた彼女は、来た時よりもずっと軽やかに立って一礼すると退室して行く。
それを笑顔で見送った後で、彼女が警告してくれた事に改めて思い至ると少々憂鬱になる。
(困ったもんだわ――馬鹿な事しでかさなきゃ良いんだけど……)
取り敢えずは彼女にも言った通り、当分一人にならない様に注意する位だろうか。
ロイとジョンにはそれとなく協力して貰った方が良いかも知れないなどとつらつら考えながら手を付け掛けていた書類の整理をしていると、程無くして隅田が戻って来る。
「お帰りなさいませ司令」
そう言って出迎えた彼が、珍しくヒューストンの胸のあたりに視線を留めると怪訝そうに問い掛ける。
「汚れが付いている様だが、何かあったのかな?」
慌てて確認すると、うっすらとファンデーションか何かの様な汚れが残っている。
自分の顔はチェックしていたのだが、夕暮が薄化粧の様に見えたので余り注意を払っていなかったために見落としたらしい。
「あら嫌だ、恥ずかしいですわ――実は夕暮さんが来室していたんです」
「まさか、彼女はまた君に不躾な事をしたんでは無いだろうな?」
「いいえ、そんな事はされておりませんわ♪ ――実は有明さんの話を伺ったんです」
これを聞いた隅田は幾らか驚きの色を浮かべて問い返す。
「彼女が君にその話をしたのか?」
「そうです、随分辛い事を話させてしまう結果になって、申し訳なかったと思っておりますわ」
「そうだったのか――いや、海軍内に於いては知られた話なので知っている者は多いが、彼女の口から直にその話を聞いた者はとても少ないんだ。だから少々驚いている」
「まぁそうなんですね、何だか益々悪い事をしてしまった気がします」
「そんなことは無いと思う。彼女が君を深く信頼していたからこそ話そうという気になったのであって、例え無理強いしたとしても話してくれる様な事ではないだろう」
「でしたらよろしいのですが……」
「君が気に病む必要はもちろん無いし、何よりもその話を聞いて反省し自戒しなければならないのは私の方だ」
「司令が、ですか?」
「そうだ、君は僚艦からそこ迄の信頼を得ているというのに、私はまだ君の話を聞くに足る信頼をかち得ていないのだと思うと、只々反省しかない」
(あっ……)
暖かな幸福感が胸の奥に灯り、それが全身に染み渡って行く感覚を味わうと共に、つい今しがた夕暮から指摘された言葉が甦って来る。
一瞬どうしようかと逡巡し掛けたのだが、結局それを伝えたいという誘惑には勝てなかった。
「そんな風に心に留めて頂いて、とても嬉しいですわ――でもあたしは、ここで最初にその話をする方をもう決めております」
頬を桜色に染めたヒューストンにこう言われて冷静でいられる男性はかなりの少数派と思われるが、彼女の為なのかそれとも自らの信念なのか、どうやら隅田は持ち堪えたらしい。
「――そ、そうなのか――やはり、君は優しい――だがそれに甘えてばかりにならない様に努力する積もりだ」
今この場で想いを伝えてしまいたい――そんな衝動が湧き上がって来たものの、やはり規律を重んじる彼にそれを自分の都合で枉げさせる様な女と思われたくは無かった。
「有難うございます――勤務中に余計な話をしてしまって申し訳ありませんでした。少し書類の整理を仕掛けていたんですが、よろしければご確認頂けますか?」
「――分かった、早速確認させて貰おう」
我が意を得たりと言ったところだろうか、明るい笑顔で応じる彼の様子が何とも言えず心地よい。
(そうよね、急いでも何も良い事なんか無いわ――あたしの軍師が断言してくれてるんだし焦らずに行くわ♪)
そう思った彼女の脳裏では、先程迄は最も大きな懸念だった筈のポーラへの警戒心が我知らず薄れてしまっていた。