「司令、そろそろお時間では?」
「ああ、どうやらその様だな。そろそろ発たねばならないか――率直に言って、君に『留守をよろしく頼む』と頼みたい処なんだが……」
「あら、嬉しいですわ♪ でも、東京の幕僚監部の方々も同じご意見でしたらもっと嬉しいのですけれど」
「残念だが、多分君の推測の方が正しそうだ。君の国籍が気になる者の顔が浮かんで来るよ」
「お気に為さらないでください、それが当たり前です」
「有難う、そう言ってくれて嬉しいよ。しかし次回以降は、副長である君が司令を代行するべきだと交渉する積もりだ」
「余り言い過ぎると、また篠木部長さんに揶揄われませんか?」
こう水を向けて見ると彼は白い歯を見せて微笑む。
「奴は同期でね――いい男なんだが遠慮が無いんだ」
「まぁ同期でいらしたんですね。――何でも奥様が艦娘でいらっしゃるとか」
「ああそうなんだ、嘗ては君とも砲火を交えた事のある妙高さんだよ」
「一度だけ交流プログラムの席でお会いした事はありますわ、ただ美しいばかりで無くとても聡明な方でした」
「そうだな、少々辛辣で怖い処もあるが素晴らしい女性だと思う」
「ひょっとして羨ましいと思われてませんか?」
「そう思った事は無いな、私は君の方が素晴らしいと感じる」
(!)
ごく軽い調子でそう言った隅田は、次の瞬間ハッとした様な顔になると少し慌ててこう付け加える。
「い、いやその――決して変な意味で言ったのでは無く――ただ、何と言うか……」
暫し微妙な沈黙が流れた後で、思い切って問い返して見る。
「――本当に――そう言う意味で言って頂いたのではありませんか?」
ドキドキしながら応えを待っていると、やがて彼は照れ隠しの様に横を向いてから低い声を出す。
「――いや――そんな事は無い」
我知らず頬が火照って来るのが判る。
今手を差し伸べたなら伸ばしたその手に彼は応えてくれるかも知れないが、流石にそういうタイミングでは無かった。
「有難うございます、司令――――どうやら、お時間の様ですわね……」
「そ、そうだな――では行こうか」
「はい♪」
執務室を出た二人は、そのまま隊の敷地内にある滑走路へと向かう。
日本へと発つ連絡機は既に駐機スペースで待機しており、同行する士官らの手前もあったのでそのまま見送りとなる。
ヒューストンに見送られた隅田は、いささか後ろ髪を引かれている様な視線を投げ掛けた後で機内へと消える。
機体はそのまま誘導路へと向かい、間も無く轟音と共に一気に加速して行くと何事も無かったかの様に飛び立っていった。
それを見送ってしまった後、執務室へと戻る途上で一人になると自然に顔の両端が垂れ下がって来る。
(ダメよ、ダメダメ! もう少し耐えなさいヒューストン!)
そうして己を叱咤するものの、何の効果も無く顔が垂れ続けるので、已む無く両手で支えて元の位置に押し戻す。
(で、でも、す、少し位は喜んだって良いわよね⁉ やっとここ迄来たんだから♪)
先日、夕暮が指摘してくれた事もさることながら、この期に及んでさすがに彼の反応を見誤っているなどと言うことは無いだろう。
もちろん油断は禁物(これ迄の経験からしてもだ)だが、彼がこちらを振り向いてくれているのは間違いないので、後は最後の詰めを誤らない様にするだけだ。
(そうよね――女からグイグイ押されるのは余り好きじゃなさそうに見えるし……)
飛鷹とポーラは相変わらず彼に積極的にアプローチし続けているが、捗々しい成果を上げている様には見えない。
二人にして見れば、人間からの恋愛が禁止されている以上艦娘の側から押して行くしか無いと言いたい処なのだろうが、どうも彼の性格上それを望んではいない様に感じるのだ。
ヒューストン自身も最初は積極的な行動を心掛けていたのだが、ライバル達の立居振舞を観る内に少しずつ戦術を転換して来ている。
ただ、彼にあからさまな規則違反をさせずに明確な意思表示をして貰う為にはそれなりのお膳立てが必要だと思われ、まだもう一工夫がいりそうだ。
(でも、やると決めたからには最後までよね、必ず勝って笑うんだから♪)
そう思って気を引き締め直した時にそれは出し抜けに起こった。
「あら~、ずいぶんご機嫌そうですねぇ~♪ そんなに良い事があったんですかぁ?」
誰もいない通路の脇からゆらりと姿を現して前方に立ち塞がったのは、あの何時もの笑みを浮かべたポーラだった。
(しまった!)
油断していたその隙を突かれた事を悔やむが、同時に周囲の状況が事前の予想とはかなり隔たっている事にも気付く。
確かにたった今は人通りが途絶えてはいるものの、この場所は基地内でも特別辺鄙なところでは無く、今にも誰かが通り掛ってもおかしく無い様な場所だ。
こんな所で彼女は一体何をする積もりなのか。
「えへへぇ、どうしたんですかぁ? 司令をお見送りするのがぁ、そんなに嬉しかったんですかぁ♪」
「別にそんなことは無いわ、寧ろ出張が無い方があたし達としては助かる話じゃない」
「へぇ~そうなんですねぇ♪ あたしはまたぁ、司令がお留守の隙にぃ狡賢い小細工でも企んでほくそ笑んでるのかなァ~なんて思っちゃいましたけどぉ~?」
「随分人聞きの悪い事を言われたものね。それともあたしが米軍から密命を帯びてて、司令の留守中に機密を盗もうとしてるとでも? ちょっとスパイ小説の読み過ぎじゃないかしら♪」
「お生憎様ですねぇ~、副長がぁ、そんな高尚な事を企ててるとか思ってませんよぉ〜?」
「スパイ行為が高尚な企てとか初めて聞いたわね♪ だったらあたしは一体どんな事を企んでるわけ?」
「そんなの決まってますよぉ〜、任務中でもぉ司令の気を惹く為にわざと負傷して見せる位平気な方ですからねぇ〜。僚艦に迷惑掛けてるのにぃ、お構い無しですもんねぇ~♪」
「ご大層に待ち伏せ迄して何を言い出すのかと思ったら、そんな根も葉も無い妄想なの? ちょっと呆れるわね」
「あらぁ~大した心臓ですねぇ♪ それともぉ、司令さえ誑し込めればぁ他国の兵士の噂なんてどうでもいいですかぁ?」
「ひょっとして、噂になってるって忠告しに来てくれたのかしら? だとしたらお礼を言っておくべき? まぁそれはもう少し後でも良さそうね、少なくとも噂の出処が貴方じゃ無いって判ってからでもね」
「うふふぅ~、それでぇ余裕見せてる積もりですかぁ? 何て言われてるのか知ってますぅ? 司令の前だけではイイ女ぶってるメンヘラ女ですよぉ~♪ あっ、これってぇ噂じゃなくて本当の事でしたねぇ♪」
「それを貴方が言うんじゃ無かったら、まだしも聞く耳持ってる積もりだったけど♪ 居室に戻ってもう一度鏡でも見てきたらどう?」
「執務室でまでぇ鏡ばっかり見てる様な女じゃないですからぁ~♪ それにぃ、二人切りになる度に身体を擦り付けたりぃ、谷間や股間を見せ付けたりして気を引こうとする様な女でも無いですよぉ♪」
「何それ、三流のタブロイド記事の愛読者か何かなの♪ まぁそれ以前に情けない奴ね、貴方司令が好きなんじゃないの? それともそんな安っぽい色仕掛けに引っ掛かる様な軽薄な男が好みなの?」
「司令はぁ迷惑してるに決まってるじゃないですかぁ♪ はっきり拒否されないと判らないとでもぉ? それともぉ、昔そうやって男を引っ掛けた成功体験がぁ忘れられ無いんですかぁ?」
「――はぁ?」
「あらぁ~やっぱり図星でしたかぁ♪ でも仕方ないですよねぇ、そんな無駄にご立派なお顔とスタイルがあったらぁ、それに頼っちゃいますよねぇ~♪ でも虚しくなりませんかぁ? 体で釣ったセックス目当ての男の思い出引き摺ってるだなんてぇ♪」
(――何ですって⁉)
どろどろとした漆黒の渦が胸の奥から沸々と湧き上がり、急速に全身を塗り潰して行く。
眼の前にいるこの女は、触れてはならないものに触れたのだ。
今この瞬間からこの女は僚艦などでは無く只の敵だ――手加減してやる必要は何も無い。
「やだぁ~本当に引き摺っちゃって情けな~い♪ 確かにぃ、そんな面倒臭い女なんてぇ幾らルックスが良くてもお断りしたくなるのが普通ですよねぇ~。まぁでも仕方ないのかなぁ、だから偶々引っ掛かって来てくれた男の事がぁ忘れられないんですよねぇ♪」
ここぞとばかりに煽って来るポーラの表情に、何かを確信した様な色が浮かぶ。
彼女は確かに何事かを企んでいる様であり、その目的を達成するためにヒューストンを激昂させようとしているらしいが、成功を確信するには少し早かったかも知れない。
嘗てのヒューストンであれば、こんな事を言われれば怒りに任せて我を忘れていただろう。
しかし人は――正確には艦娘だが――変わるものであり、隅田の隣に立つ様になった彼女は確かに以前とは変わりつつあった。
「引き摺ってるのはあんたの方よ、呑んだくれのごみ屑女は自分を冷静に見詰める事も出来ないのね」
「えへへぇ♪ それって自己紹介か何かですかぁ?」
「さっきから体で引っ掛けただのセックス目当てだのって、全部あんた自身の事じゃ無い。そんなゴロツキ同然の男の事が忘れられ無いだけならまだしも、それを認めるのが怖くて毎晩酒に逃げてぎりぎり自分を保ってる様な奴が他人をメンヘラ呼ばわり? 笑わせてくれるわね」
「……」
「そうやって毎晩酔っ払って、死んだ男の事思い出してめそめそ泣きながら部屋で自分を慰めてるの? 想像したくもない地獄絵図よね♪ そんな酒と淫臭塗れの手で、ヘラヘラ意味も無く作り笑いしながらあたしの大切な司令に触らないでくれない?」
「――それだけですか?」
「それだけの訳無いじゃない♪ どうせイタリア海軍からここに送り込まれて来たのだって態の良い厄介払いなんでしょ? 司令が本当にお気の毒だわ、こんなゴミ見たいな男の事ずっと引き摺ってるだけのアル中の屑女押し付けられて。あんたにとってあの人は確かに太陽よ、近付く事すらおこがましいわ。あんたには、
さすがに今この場にグラーフやアークロイヤルがいたら真顔で窘められたかも知れないが、ヒューストンにとって眼の前のポーラは深海棲艦同然に只の敵なのだ。
とは言え一応相手の様子を観察する事はどうにか出来ていたので、次に起こった出来事にも何とか反応する事は出来た。
突然、黒い球か何かの様に拳が顔面目掛けて飛んで来たので、咄嗟に身を引いてそれを躱す。
但しヒューストンの想像の中では横から平手打ちが飛んで来るものと思っていたために僅かながら動きが間に合っておらず、拳が頬を掠めて行くと共に灼ける様な痛みが走る。
(くっ!)
偶然だったが、ガードの積もりで挙げ掛けた左肘が体重を掛けてパンチを繰り出して来たポーラの顔面にまともに入り、ぐしゃりと嫌な感触がする。
(不味った⁉)
一瞬注意が逸れたその隙に、間髪を入れず回し蹴りが襲って来る。
回避が間に合わず、体を伸ばして脇腹を庇おうとした次の瞬間激痛に見舞われるが、幸いにもポーラが体勢を崩していたためかその一撃は腰骨に中った様だ。
(やったわね⁉)
どうにか攻撃を凌いで、体勢を立て直そうとしている彼女を力任せに突き飛ばすと、堪え切れずにどうと倒れ込む。
しかし敵もさるもので何とか受け身を取って転がると、脚を振り上げた反動を利用して起き上がろうとする。
(させないわよ!)
素早く廻り込んで、起き上がり掛ける所に首筋目掛けて思い切り肘撃ちを食らわせると、身を捩ってそれを受け止めたポーラは、倒れ込みながらも半ば盲滅法に足を振り上げる。
バキッ!
振り上げられたその足を運悪く顔面で受け止めてしまい、激痛と共に口の中に折れた歯の感触と血の味が広がる。
(こいつ!)
今度こそ本当に激昂したヒューストンは、倒れ込んだポーラの頭を狙って力一杯蹴りを入れる。
ガンッ!
人間であれば致命傷になったかも知れない激しい一撃が側頭部にヒットすると、さしもの艦娘もどうやら脳震盪を起こした様で急にぐにゃりと力が抜ける。
だが一度ついた勢いは止まらず、そのまま鳩尾目掛けて膝蹴りを叩き込もうとしたその刹那の事だった。
「止めなさい!」
声と共に羽交い締めされるのを構わずに振り切ろうとするが、鋼の様なその腕を振り解く事が出来ない。
怒りに任せてがむしゃらに暴れてやろうとしたが今度は前から抱きついて来る者がいる。
「ヒューストンさん!」
「お願い止めてぇ!」
さすがに我に返ると、涙を一杯に溜めたジョンとサムの眼差しが見上げていた。
「――ジョ、ゴホッ、ゲホッ」
口を開こうとした途端に喉に血が流れ込んで来て咳き込んでしまい、その拍子に折れた歯がコンクリートの上に転がってカラカラと音を立てる。
「大丈夫? 酷いケガ……」
サムがそう言って頬に触れると激痛が走り、同時に背中から締め付けていた腕が緩む。
「ポーリィ! しっかりしてポーリィ!」
何時の間に現れたのか、床に倒れたポーラの横に座り込んだリベッチオが声を掛けると彼女は薄っすらと目を開けて力無く手を差し挙げるが、周囲が見えている様では無い。
潰れてへしゃげてしまった鼻から夥しい血を流しているのを見ると、自分もさぞ酷い姿をしているんだろうなと自嘲気味に思う。
「ったく――何やってるのよあんた達は……」
呆れた様な声を上げたのは飛鷹だったが、どうやら先程ヒューストンを羽交い締めして止めたのも彼女らしい。
「あそこです!」
叫びながら走って来たガンビア・ベイの背後には救護班が続いており、相変わらず倒れたままのポーラを囲んで担架を広げ始める。
「それで何なの? 面倒臭いからこの際殴り合いで決着付けようとしたって訳? だったらちゃんとあたしも呼びなさいよ、二人纏めて叩きのめしてやったのに!」
恐らくは彼女なりに気を遣ってくれているのだろうがリベッチオには通じなかったらしく、べそを掻きながら飛鷹を睨むと更にヒューストンをも睨み付ける。
思わず溜め息が出るが、頬に穴が開いてしまったらしく息が抜けて行くのが酷く不愉快だった。
「――悪かったわね――今度からは、忘れないように必ず声を掛けるわ……」
「減らず口叩く余裕があるんなら、さっさと医療棟へ行きなさいよ!」
こればかりは、全くその通りだとしか言い様が無かった。