それから二週間程はあっという間に過ぎて行った。
そしてその間には、ヒューストンにとってこの上なく大切なイベントもあった。
ところが情け無い事に、余りに舞い上がっていたのか緊張していたのかはたまたその両方だったものか判らないが、肝心の彼の言葉や自分が何と応じたのかはっきり覚えていないのだ。
(あぁもうっ! 本当に情け無いわ……)
彼と初めて二人切りで外出し、彼が運転する車の助手席に座って交わす会話は得も言われぬ愉しさに満ちていた。
グアムは小さな島でもあり、どこへ行っても軍関係者の顔が差してしまう(しかもヒューストンは目立ち過ぎる)のだが、彼はちゃんと二人でゆっくり話せる場所を確保してくれていた。
食後の珈琲(信じられない事にトラジャだった!)が薫る中、彼に規則違反をさせない為にもちゃんと自分から口火を切り、彼も全てを承知した笑みで応えてくれたのにだ。
未だにどうしてその後の最も大切な言葉が思い出せ無いのか、理解出来ない。
この一週間その事ばかりが頭の中をグルグル回り続けているのだが、何かの拍子に彼と目が合う度に幸福感に包まれてそれを忘れてしまい、暫くして冷静になるとまたグルグル――を繰り返していた。
そんな事をしている内に時間が流れ、気付くとポーラの役務が終わる日になっていた。
幾ら脳内が幸せ一色になっていようが、彼とどうやってクリスマスやニューイヤーイブを過ごそうかで頭が一杯になっていようが、リベッチオと約束した事なのだ。
とは言え全く何の懸念も無いとは言いかねるので、彼には自分が何をする積もりなのか話しておく事にした。
「君が副長である事を本当に嬉しく思うんだが、反面心配にもなるよ」
誇らしさと不安感とが綯い交ぜになった表情でそう口にする彼に、出来るだけ深刻さを感じさせ無い様に応じる。
「さすがにまたカッとなって殴り掛かって来るとは考え難いんですけど、万一の時はその場に座り込んで大声で泣く様にしますわ♪」
「それは確かに有効な方法だな♪ ――とは思うが、くれぐれも注意して欲しい。君の事だからそれ位は重々承知だとは思うが」
「有難うございます、どんな結果になっても報告しますわ」
「よろしく頼む」
夕刻、役務が終了するタイミングを見計らって作業用更衣室へと向かうと、ちょうどポーラと監視役の兵士が向かい合っているのが見えた。
二週間少々前のヒューストンと同じ様に私室のセキュリティキーを受け取ったポーラは、こちらに気付いていないのか背を向けて歩き出そうとする。
「お疲れ様」
その背に声を掛けると、一瞬ピクリと反応した彼女はどう応じたものかと逡巡するかの様に束の間固まっていたが、どうやら何時もの仮面を被る事を選んだらしく、例の笑顔を浮かべてこちらを振り向く。
「あらぁヒューストンさぁん、有難う御座いますぅ〜、わざわざそれを言いに来て下さったんですかぁ?」
「まぁ、それだけが目的じゃないけど、貴方と話がしたくて来たのよ」
そう言って見せると、相変わらず笑顔を浮かべてはいるものの態度が素っ気無くなる。
「そうなんですねぇ〜、でもぉポーラお腹空いちゃったんでぇ、食堂行きたいんですよぉ」
言いながら元通り背を向けて立ち去ろうとするので、再びその背中に向かって声を掛ける。
「ミカエラに最後に会ったのは何時?」
まるで、その言葉が呪縛の魔法だったのかと勘違いする位に突然硬直した彼女は、舌まで麻痺してしまったのか長い間無言だった。
「――――ヒューストンさんには――関係無い事ですよね」
初めて聞くのではないかと思う様な低く堅い声に対して、こちらは返事を用意していた。
「人の顔蹴飛ばして穴まで開けといて、今更関係ないとか言われても聞こえないわよ」
「別に良いでしょう? 貴方は何もかも手に入れたんだから……今更、負け犬に構う必要なんか無いでしょう⁉」
「悪いけどそうは行かないの、このままじゃ納得出来無いわ」
「貴方の納得なんてどうでも良いですよ!」
「ええそうね、あたしの納得なんてどうでも良いかも知れないわ――でも、ミカエラの事も同じ位どうでも良い事なの?」
先程は同じ言葉が呪縛の魔法だったのに、今度は逆に呪縛を解く魔法に変わった様だ。
くるっとこちらに向き直ったポーラは、またしても先日と同じ様に拳を握って殴り掛かろうとしたが、ヒューストンが蓋を開けたペットボトルを掲げているのを目の当たりにしてグッと踏み止まる。
「あら、ちゃんと自制出来るのね――そうよ、生憎だけどこの位の備えはしてるわ――序でに言うと不公平だから貴方にもちゃんと掛けてあげる。そしたら今度こそ正真正銘の殺し合いね――どう? あたしを格闘で殺せる自信がある? それとも殺して欲しい? そしたらリコの事もミカエラの事も綺麗さっぱり忘れられるわよ?」
「――貴方だって、忘れたいんでしょう?」
「ずぅっとそう思ってたけど考えが変わったの、忘れる事は喪う事だって――一度喪っただけでもこれだけ苦しいのに、それをもう一度喪うだなんて――ね」
歯を食い縛ったままの彼女が腹の底から押し出す様に息を吐くと、ヒューッと言う音が辺りに響く。
そのまま暫く睨み合った後で、再びこちらに背中を見せたポーラは、幾らか日頃の彼女に近い声を出す。
「――それで――そんな事を聞いてどうするんですか?」
「前にも言ったけど、貴方の向いてる方向が間違っているとしか思えないのよ、本当に大事な事を見失ってるんじゃないの?」
「飽きもせずにまた死体蹴りしに来たんですか? 口の軽い娘からネタを聞き出したんで、わざわざ煽りに? 本っ当、性格悪いですよね」
「ええ、そう言う事にしておくから好きなだけ悪者にしてくれて結構よ――でもね、負け犬だとか死体だとか言ってるけど本当にそうなの? 貴方、本当に彼の事を愛してたの?」
「二度も三度も同じ事ばっかり聞いてどう言う積もりなんですか? それともバカだから忘れちゃうんですか?」
「バカは貴方よ――とでも言い返す処なのかも知れないけど、そういう尖った物言いではぐらかそうとしてるのに一々乗ってあげる程お人好しじゃないの。だからはっきり言うわね――貴方、彼ならザラやリコの姉さんに対する立派な免罪符になると思ったんじゃないの? それに、自分を酒浸りの泥沼から救い出してくれると思ってたんじゃないの?」
軍師と参謀の助言に従って出来るだけ落ち着いてゆっくりと喋ったが、それでもやはり緊張した。
序に付け加えるなら、たった今も息を潜めてこの状況を離れて見守っている二人に相談したい気分だ。
『龍は逆鱗に触れた者を必ず殺すと申します。私は、出来得るならば副長にその様な事はして頂きたくないのですが……』
眉を顰めた夕暮は心配そうに言ったのだが、どうしてもと言うと助言をしてくれた上で隠れて見守りたいと言ってくれたのだ。
『あんまり腫れ物に触る見たいにすると却って不味いんじゃないですかぁ? 対等のスタンスからキッパリ言っちゃいましょ♪』
何時もながら朗らかに言い切ったロイもまた、こっそりと見守ってくれている。
万一の事を思えば心強いが、乱闘にならずに済めばよいと言う話では無くポーラに考え直して貰う事が目的なので、そればかりは自分で努力するしかない。
緊張して時間の感覚が無くなり掛けた頃、やっと口を開いたポーラの声は幾らか震えている様だった。
「――それが、どうかしましたか――そう言う理由で好きになったらいけませんか――許せませんか……」
「許すとか許さないとか言う話じゃ無いでしょ、どう言う理由だろうと人を好きになる理由に良し悪しがあるとは思えないわ――人生経験豊かな人間が何て言うのか知らないけど」
「だったら、もう結論は出てるじゃないですか――それとも、あたしが哀れだから彼を譲ってくれるとでも言いに来たんですか?」
「彼は物じゃないのよ、こちらの都合や気分で譲れる訳無いじゃない――第一、そんな事する気なんか無いわよ」
「じゃあ結局嘲笑いに来ただけでしょ? 性格悪いんじゃ無かったら、只の悪趣味ですよね」
「――どうして認められないのよ、貴方にとって一番大切なのは、大好きだったリコがこの世に残した――貴方をマンマと呼んでくれたミカエラなんでしょ? 貴方がやるべき事は、ミカエラに会うためにザラとリコの姉さんを納得させることなんじゃないの?」
「何言ってんのよ――判りもしない癖に気楽に言ってくれちゃって……そんなに簡単に済めば苦労しないわよ!」
そう叫ぶ様に言ったポーラは三度こちらに向き直ったが、瞳から大きな雫を幾筋も頬に伝わせていた。
「あの娘のマンマになって欲しいって――リッキィは言ってくれたの! ザラやアドリアンナに言ったんじゃ無いのよ! ……なのに――あいつらはまるであの娘を自分の物見たいにして――あたしの手から取り上げて……」
「だったら、意地でも取り返さなきゃ駄目じゃない――貴方の一番大切なものを取り上げられて、おめおめと引き下がってる場合じゃ無いでしょ?」
「判らない奴ね! だから彼が必要だったのよ――彼がいてくれたらザラもアドリアンナも黙らせる事だって出来たのに――なのに、あたしから奪っておいて、今更何言ってんのよ!」
「どうして彼に頼らなきゃ出来無いのよ! ミカエラの為だったら酒ぐらいきっぱり止められるんじゃないの⁉ プライドか何か知らないけど、毎日作り笑いして余裕見せてる位ならそれぐらいやって見せなさいよ!」
「他人事だからそんな事言えるんでしょ! あんた見たいに恵まれてる奴に言われたく無い! ――毎晩リッキィが来るのよ――本当に優しく笑うの――抱き締めてくれるの――でも――でも――目が醒めちゃうのよ! たった今迄そこにいたのに――傍にいてくれた筈なのに――なのにぃぃ! ……」
おめく様に言葉を絞り出したポーラは、よろよろと近付いてヒューストンの二の腕を掴む。
ぎりぎりと締め付ける様な痛みと共に、脳裏に蘇って来たのはあの頃の記憶だった。
夜毎に胸を締め付けるアルの優しい笑顔が日に日に己の精神を蝕んでいくのに、それをどうする事も出来なかった。
何度となく夜中に飛び起き、その度にまるでシャワーでも浴びたかの様に全身びっしょりと汗を掻いてるのに気が付く。
次第に夜眠るのが恐ろしくなり、ある時は薬に頼り、ある時は仲間に頼った。
(そうね――そうだったわ……)
後に派手な姉妹喧嘩をして禄に口を利かなくなる姉ですら、あの頃は親身になってくれた。
こうして思い返して見ると、自分があそこから立ち直れたのは仲間がいてくれたからかも知れない。
「――――睡眠薬って――――効かないわよね……」
ハッとした様に顔を上げた彼女の瞳を見詰めると、微かな戸惑いが見て取れた。
「人間が、自殺出来る位の量を呑まないと――本当に効かないのよね…………夢の無い眠りだなんて言うけど――この世にそんなもの有るのかって――あの頃はそう思ってたわ……」
「――――夢は――――見なくなったの……?」
「ううん――まだ見るわ――――でもね、見た瞬間に『あぁこれは夢なんだ』って判る様になっちゃったのよ――悲しいわね…………」
「――――いいじゃない――それでもいいじゃない…………でしょう?」
「そうね――あたしには仲間がいてくれたわ――それに、今じゃ禄に口も利かない姉も、あの頃は優しかったわね……」
「やっぱり――恵まれてるじゃない――それに比べてあたしは――」
「でも、貴方にはミカエラがいたのよ? 護るべきものがあったのに、何故そう迄して酒に逃げ続けるの?」
「好きでそんな事――してやしないわよ!」
「――そう――でもあたしには、貴方が頑張り過ぎに見えるのよ――『自分達は何時も独りだ』なんて格好付け過ぎじゃない? 誰かに頼ったっていいじゃない、そもそも彼には頼る積もりだったんでしょ?」
「さっきも言ったでしょ、恵まれてる奴に言われたく無いって!」
「そんな風に強がってる間にどんどん時間が経って行くのよ、判ってる? ――もう一度聞くわね、ミカエラに最後に会ったのは何年前なの?」
「――――4年前よ……」
「そんなに? ――もう、何してるのよ……ミカエラは今幾つなの?」
「――来年は、
「――中学生だなんて――そんなに大きく……」
「そうよ――あたしの腕の中にいた――あのちっちゃな可愛いミカエラはもういないの……直ぐにあたしを追い越して行っちゃうのよ――あたしの知らない処で……」
それは、人間と共存する全ての艦娘にとって避けられない運命だった。
老いる事の無い艦娘にとって、年月と共に老いを重ね、そして何時の日にかこの世を去って行く人間と真に時を共有することは出来ない。
この世に艦娘が現れてから十数年が経過したが、例えば恋愛関係にある人間のパートナーを老衰によって喪った者はまだいない。
しかしそれは時間の問題であって、その別離は何時か必ず避け難く訪れるのだ。
それはヒューストンにとっても同じであり、たった今でこそ彼との幸福な日々を夢想してはいるが、その先に待ち構えている別離の瞬間はもちろん、その日に向かって少しずつ彼が老い衰えて行くのを目の当たりにしなければならない。
「貴方、ひょっとして――それで焦ってたの? もう時間が無いと思ったから、あんな無茶な事し様としたのね?」
「だって――あたしよりも大人びたあの娘に会って、何て言えばいいの? 『ご無沙汰してますポーラさん、軍のお仕事大変ですね』なんて言われたらどうしたら良いの……?」
「その為に彼が必要だなんて、話が飛躍し過ぎよ、その前に先ず酒を控えたらどうなの? 自分だけで難しいんだったら誰かに頼りなさいよ――貴方の傍にはリベちゃんだっているでしょ?」
「あの娘は子供よ? 当てに出来る訳無いじゃない」
「そんな風に決め付けてるけど、判ってるんでしょう? あの娘は貴方の過去も、あたし達の事情も全部ちゃんと理解してるのよ? 貴方の事を理解して思い遣ってくれてるのよ? 本当に素直じゃないのね」
「どうせあたしは素直じゃないですよ!」
「ええそうね、本当に意地っ張りのお馬鹿さんだわ」
「バカって言うなぁ!」
「いいえ、貴方はどう仕様もないお馬鹿さんよ♪ 辛くて苦しくて仕方無いのに、それを知られるの嫌さに何時も笑顔を作ってないと落ち着けないお馬鹿さん」
「また言ったぁ! ほんとに嫌な奴ぅ、許さないからぁ!」
「はいはい、あたしはとっても嫌な奴よ♪ 貴方が聞きたくない事ばっかり言っちゃう嫌な奴なの」
「いい加減にしろぉ! あたしの事に口出しするなぁ!」
「お断りよ、貴方が考え直す迄絶対止めないから♪」
「うわぁ~ん、なんで嫌がらせばっかりするのよぉ、彼の事横取りしといてぇ〜」
「人聞きの悪い事言うわね――でも、これで彼には頼れなくなったのよ。ミカエラに会うためには自分で努力するしか無いわね、貴方を助けてくれる仲間と一緒にね」
「リベにどうしろって言うのよぉ、毎晩呑みに連れて行けってのぉ?」
「あら、リベちゃんだけだと思ってるのね♪ 貴方には他にも心強い味方がいるのに」
「適当な事言うなぁ! 言っとくけど、あんたの助けなんか絶対要らないからぁ! わはぁ〜ん」
「言われなくたって、あたしはそんなに暇じゃないわよ♪ これからは、彼と一緒の時間たくさん作らなきゃいけないんだから」
「ふざけんな、こん畜生! 泥棒猫!」
「ええ、何とでも言えばいいわ♪ その代わりに約束して? 何があっても必ずミカエラを取り返すのよ、判った?」
「言われなくたってそうするわよ! うわぁぁぁぁぁぁぁん――」
号泣するポーラは、まるで子供の様に両手を振り上げて顔と言わず頭と言わずポカポカと殴り掛かって来るが、構わずに抱き締めると大人しくなってひたすら泣きじゃくる。
(本当に世話が焼けるわね、この意地っ張りは……)
まるで暖かな泉が湧き出る様に涙が溢れて頬を伝うが、とても良い気分だった。
得体の知れない闇だと思っていたその暗がりの中にいたのは、小さな愛らしい女の子だったのだ。
その小さな女の子の為に彼女は焦り、ちょっと足元を見誤っただけの事だ。
激しく嗚咽するその体をしっかり抱き締めながら顔を上げると、涙で霞んだ視界の向こうに、何時の間にか頻りに目頭を拭いながら立つロイと夕暮の姿が見える。
何とか二人に笑い掛けようとすると、その二人の背後からゆっくりと歩み寄って来るもう一つの人影があった。
(あ――来てくれたのね……)
隅田はロイと夕暮の間まで来るとそこで立ち止まり、彼を見返った二人と視線を交わした後でヒューストンを真っ直ぐに見詰める。
それに応えたいと思うのだが、どう仕様もなく涙が溢れて来て眼を開けていられなくなってしまう。
(あたしも貴方に褒めて欲しくなっちゃったわ♪ ――でも、もう一仕事終えてからね)
そんな想いが伝わっているのかいないのか――誇らしさを隠そうともせずヒューストンを見詰め続ける彼を、ロイは冷やかしたくて仕方が無いのか、可笑しそうに含み笑いを浮かべていた。