その夜、食事を終えて人心地ついてから、夜が更け過ぎない頃合いを見計らってソウの店のドアを開ける。
「いらっしゃいませ!」
何時もの様に声が響き、それに応えて笑顔を浮かべるとそのまま彼が立つカウンターに近付いてスツールに腰を落とす。
「今晩わヒューストン副長、今宵は何をご所望でしょう?」
「今晩わソウ、今宵はこの店のマスターとの会話がご所望よ♪」
それを聞いたソウは職業的な笑顔では無く、幾らか諦念の混じった笑みを見せる。
「――そうですか、どうやら年貢の納め時が来ましたか」
「あら、あたしがそんな狭量な女に見える?」
「いいえ――それでも、後ろめたい気持ちだけはどうにもなりませんのでね――お飲み物は何になさいますか?」
「そうね――お任せ――じゃ駄目かしら♪」
「光栄です――それでは副長に相応しい品をご用意させて頂きます」
そう言った彼は背後のキャビネットのあちらこちらを開いて様々な瓶を取り出し、慣れた手付きでメジャーカップに計り取ってはシェイカーに注いでいく。
一頻り小気味良いリズムでシェイクした後でハリケーングラスに注がれた液体は、夕焼けを思わせる鮮やかな茜色をしている。
グラスの縁に手際よくスライスしたパインとチェリーが添えられ、驚く程滑らかにヒューストンの眼の前に差し出されたそれは、南国を感じさせる懐かしい甘い香りがした。
「どうぞ、ご賞味ください」
「有難うソウ――これはラッフルズ・ホテルのシンガポール・スリングね」
「ええ、但し少しだけアレンジしておりますが」
もちろんその言葉の意図は理解出来たので、早速グラスに唇を付ける。
「甘さが抑えてあるのね、ひょっとしてグレナディンシロップを使って無いのかしら?」
「ご明察です、代わりに日本から取り寄せた柘榴の果汁を使っております」
「うふふ、つまりあたしは甘くないって事ね♪」
「貴方の愛を得た方にとっては、蜜よりも甘いのかも知れませんが♪」
「あら、嬉しいわ♪ ――改めてお礼を言うわねソウ、貴方が応援してくれたお陰でここ迄来れたのよ。本当に感謝してるわ」
「いいえ、私如きが加勢した位ではあの方の心を動かす事など出来ません。結局は、副長がそれだけの魅力を備えておられたのだと思いますよ」
「まぁ、女を喜ばせるのが上手なんだから♪ ――その所為でまんまと騙されちゃったけど」
「本当に申し訳ありませんでした。お詫びしてどうにかなるとは思っておりませんが、それでも心よりお詫び申し上げます」
そう言った彼が深々と頭を下げ様とするので、身を乗り出すと手を伸ばしてそれを止める。
「待って、お詫びして貰おうなんて思ってないわ。さっきも言ったけどあたし、貴方には本当に感謝してるの。だからそんな事はしないで、お願いよ」
「――有難うございます……正直に申しますが、貴方の様な方に愛される司令には本当に妬ましさを覚えます」
「あら、でも貴方はポーラの方がタイプなんじゃないの?」
「まさか、そんな♪ 私はそこ迄身の程知らずではありませんよ」
「身の程知らずだなんて全然思わないけれど――でも、邪推してしまってごめんなさい、そんな積もりは更々無いって言う事なのね」
「はい、私には身の丈に釣り合った妻もおりますし、子供達も両親の円満を信じてくれておりますからね♪」
「そんな家族があるだなんて羨ましいわ――あたし達には到底手の届かない幸せね」
「恐れ入ります――でも、折角掴み掛けたその大切な家族をこのまま喪ってしまわれるかも知れないと思うと、どうしても放っておけなくなって仕舞いまして……」
「そう言う事だったの――ねぇ、ひょっとして貴方はリコの事もミカエラの事も知っているのかしら?」
「ええ、あの方は、泥酔するとしばしば涙を流しながら昔話やよしなし事を呟いたり、時には私に訴え掛けて来たりされますので」
「そうだったの……もっと早くそれを知ってたら――って思ってしまうけど、そんな事を期待するのは貴方に対する侮辱にしかならないわね」
「ご理解いただき有難うございます。お客様のプライベートをべらべらと余所に漏らす様な者を、信用して下さる方なぞ居ないでしょう――もっとも、副長に情報を横流ししたのは褒められた事ではありませんが……」
ソウのプロとしての矜持と『後ろめたさ』とのせめぎ合いを感じる言葉だった。
言い換えれば、彼はそこ迄ギリギリの判断をしてヒューストンを助けてくれたという事であり、改めて感謝せざるを得ない。
「有難うソウ、貴方の信念に触れる様な事迄して助けて貰って感謝しか無いわ。だから良く分かるの、貴方があたしを応援してくれた事はまぎれもない真実だって――でも、さすがにそれがポーラの目を覚まさせる為だったなんて本当に気付かなかったわ」
「副長にそう仰って頂けるところ迄遣り遂せたのであれば、私には上出来と言ったとこでしょうか♪ でも、最後の駄目押しの一手は副長が為さったとのことですので、やはり私は中途半端な仕事しか出来無かったのかも知れません」
「もう耳に入ってるのね、大したものだわ――それにちょっと謙遜のし過ぎよ、貴方の支えが無ければ彼女はもっと破滅的な道を選んだかも知れないのに」
「その点は流石に冷や汗が出ました。先程『信念』と言って頂きましたが、それを捻じ曲げてでも副長にはお伝えしておくべきだったかと真剣に後悔した程です」
「もしそうして貰っていたとしても、結果に余り違いは無かったかも知れないわ。だって、あたしの軍師から一応警告は貰ってたのに、つい油断しちゃったのよ」
「軍師――ですか、副長にそう呼ばれる様な方はそうは居られないでしょうね、デ・ロイテルさんかグラーフ・ツェッペリンさんでなければ――ひょっとして夕暮さんですか?」
「ご名答よ♪ ポーラがどうも良からぬ事を考えている様だから注意して欲しいと忠告しに来てくれたのに、あたしがそれを生かし切れなかったの」
「貴方が副長に選ばれた理由が良く分かります。比べてしまうのは酷なのかも知れませんが、やはりあの方は孤独にこだわり過ぎたと思います」
「孤独にこだわるだなんて――言い得て妙ね。でもその通りだと思うわ……どうしても自分の本当の弱さを他人に知られたく無かったのね」
「そうですね――でもそれとは裏腹に、己の弱さや醜さの様なものをありのままに受け止めて欲しいとも願っていたのでしょうか」
「そうだと思うわ、そうして創り出した理想の存在が彼だったのね」
「――そんな風に、自身が創り上げた理想の男性であれば――ミカエラさんを取り戻して、リコさんの辛い想い出からも解放してくれる――そう思い込んでいたのかも知れませんね」
「でも――一つ忘れてるわよ?」
「それは、どんな事でしょう?」
「弱さや醜さをありのまま受け止めて欲しいと願っていたのは彼だけじゃないわ――貴方もよ」
そう言って軽く片眼を瞑って見せると、少し照れ臭そうな顔をしたソウはやや遠慮がちに応じる。
「――敢えて否定迄は致しませんが――でも、私のは条件付きです。酒の力を借りて泥酔した上での話ですよ」
「あら、その代わりお得意の作り笑顔は抜きなんでしょ? だから、彼が理想像なら貴方は等身大ってとこじゃないかしら」
「副長には敵いませんね――とは言うものの、もし信頼して貰えているのであれば嬉しい事です」
「ところが――ってとこなのよ。あの意地っ張りは、貴方が頼りになる存在だってことをそう簡単には認めそうも無いの」
「あの方の事ですから、さもありなんと言うところでは無いですか?」
「それはそうなんだけど♪ まぁ、先ずは酒浸りの生活を改めるとこから手を付けないと、どう考えてもザラやアドリアンナをを説き伏せられないわよね」
「そうでしょうね、それで初めてスタートラインに立てると言うところでは無いですか」
「ええ、だから力を貸してあげてね。お店の売り上げが下がる話を貴方にお願いするのは筋違いなんだけど♪」
「いいえ、その点は心配しておりません。きっと副長は協力なさって下さるものと期待しておりますので♪」
「そんな事言われたら、来ない訳には行かないじゃない♪ 当分はこの店で彼とデートし様かしら」
「それはよろしいですね、そうすれば恐らく飛鷹さんにも通って頂けそうですし♪」
「ああ――何だか急に憂鬱になって来たわ……こんな事言うのって傲慢もいいとこなのかも知れないけど、飛鷹にはちょっと申し訳無い気がしてしまうのよ」
「それは、くれぐれもご本人には言わない方がよろしいですね。あの方はポーラさんの様なタイプではありませんから」
「あらそうなの? 飛鷹も結構な意地っ張りに見えるんだけど」
「司令に対しては仰る通りだと思いますが、そうでない時には目的地が見えているのに回り道をする様な方では無いでしょうね」
「そう言われると確かにそんな所はあるかしらね、じゃあうっかりそんな事を言ったら付け込まれそうね」
「ええ、もし貴方がそんな事を言おうものならその場で『じゃあ遠慮してくれるって訳ね、助かるわ』と仰ってすぐさま司令の所へ引っ張って行かれるでしょう」
「今のちょっと似てたわ♪ ――確かに如何にも言いそうな事ね、やっぱり貴方は以前から知ってるのね?」
「はい、以前は横須賀の隊内にあるカフェテリアのマスターだった事もありますので、飛鷹さんや少佐だった頃の司令も来て頂きましたね」
「まぁ酷い♪ そんな大事な事を黙ってるだなんて」
「これは失礼を致しました♪ そもそも副長が私共の様な者との会話のマナーを心得ていらっしゃる所為ですよ。他のお客様の事を根掘り葉掘り為さらないですからね」
「また丸め込まれちゃったわね――でも、以前の彼に会って見たいわ、飛鷹が振られても追い掛け続ける位魅力的だったのよね」
「そのご懸念は無用ですよ、今のあの方の方が魅力的だと思いますから――この数ヶ月程は特にですが」
「あら、意味深な言い方ね。そんなにあたしを喜ばせても、これ以上何も出ないわよ♪」
「いえいえ本当の事ですよ。以前の司令も誠実な良い方でしたが、どうも堅物の面ばかりが目立っておられた様に思います。それからすれば、副長がお傍におられる様になってからの司令は人格の幅と申しますか深味が増されましたね」
「もうっ、そんなにお代わりを頼ませたいのね♪ ――良いわ、乗ってあげる――今度はウォッカベースで何かお願いできるかしら?」
「有難うございます、それでは失礼して――」
そう言った彼は再びキャビネットに向かい、先程よりはかなりシンプルな素材をシェイクすると、クラッシュアイスを満たしたトールグラスに目にも鮮やかな碧い液体を注ぎ入れる。
「お待たせしました、どうぞご賞味を」
「やっぱり綺麗だわ――ねぇ、このブルー・ラグーンはひょっとして、彼の事ね」
「ええ、私の勝手なイメージで恐縮です、副長のお口と感性に合えば宜しいのですが」
しかしストローを通って口中に広がった爽やかな酸味と甘味、そして見た目よりも野性味を感じさせる酒気の強さは確かに彼のイメージと重なる。
「とっても美味しいわ、それにちゃんと彼の雰囲気も感じるわね」
「それは何よりです、これに限らず私の拙いレパートリーをあの方と一緒に試しにお越し頂ければ幸いです」
「うふふ、そう言われたら何だかとっても楽しみになって来たわ♪」
その時背後のドアが開き、サッと視線をそちらに投げ掛けたソウが明るい声を上げる。
「これはいらっしゃいませ♪」
その響きに釣られて振り返ると、何と入って来たのはロイと彼女に手を曳かれたパース、そして夕暮だった。
「あーっやっぱりいたいたぁ♪ ヒューストンさん今日はお疲れ様でしたぁ」
「あら、それも全部貴方達の助けがあったからだわ。本当に有難う」
「助けと言う程の事は何もしておりませんわ、どう見ても副長が為さった事です」
「そうそう♪ あんな感動的なシーンはなかなか見られませんよぉ」
「それを出来れば近くで拝見したかったですね、残念です」
「そんな大袈裟なものじゃ無いわよ♪ それより皆座りなさいよ――ソウ、この娘達のオーダーを聞いてあげて? あたしが払うから」
「エヘヘ、やったぁ♪」
屈託の無い笑顔でそう言うロイに対して、夕暮は眉を寄せて申し訳なさそうにする。
「これと言ってお役に立てた訳でもありませんのに――お心遣い頂き恐れ入ります」
「あら、そんな事無いわ。貴方達がいてくれたお陰でとっても心強かったのよ」
「そうでしたら宜しいのですが…」
そう口にしつつも嬉しそうにしてくれるその様子に心が和むが、予想通りパースは堅い声を出す。
「Mr.竹橋、私のオーダーは私が払いますので別けて頂けますか?」
「もう、パーシィったら素直じゃないよぉ? 一緒にヒューストンさんにご馳走になろうよ!」
「私は貴方達の様にお手伝いをした訳じゃないんだから、そんな事をする理由が無いわ」
「あら、理由だったらちゃんとあるわよ? ――パースちゃんはあたしの大切な癒やしだからよ♪」
ところがそう言った途端、横に座った夕暮が敵意剥き出しの鋭い眼差しでパースを睨む。
「――ってどうどう! いきなりそーゆー危険なオーラ出さないの♪」
すかさずロイに突っ込まれた彼女はハッとした様な顔になると、頬を染めて俯いてしまう。
「も、申し訳ございません――私ついパースさんに嫉妬してしまいましたわ……」
「や~ん、ヒューストンさんったら女泣かせ何だからぁ♪」
「い、今のはあたしの所為なのかしら……それとパースちゃん、お願いだから引かないで!」
「いえ、私は至って冷静です」
その言葉とは裏腹に、彼女の腰はスツールから浮き掛けている。
「ほらほらぁ、パーシィも落ち着きなよぉ♪ ねぇソウさん、パーシィに言ってあげて? ここには美味しいラミントンもあるよって」
「――えっ――本当ですか?」
「はい、お好みでしたらラズベリージャムを使ったものなどもお出し出来ますよ?」
「ええっ……」
「ふふふ、パースちゃん――ここは素直にあたしに奢られた方が良いわよぉ? そうじゃ無かったら、果たしてソウがラミントンを出してくれるかどうか判らないわよ♪」
「いや、そんな――Mr.竹橋、まさかそんな事はしませんよね?」
しかし、ソウは如何にも浮かぬ顔をすると申し訳無さそうな声を出す。
「私はもちろんパースさんのご注文にお応えしたいのですが、隊内で出店させて頂いている以上、副長のご意向を無視する事は出来ませんので……」
「な――ヒューストンさんはMr.竹橋に圧力を掛ける積もりですか? そんな事をする方だとは思いませんでした、失望です」
「残念だったわね、鬼と呼ぶなら呼びなさい! あたしはパースちゃんに奢る為だったら幾らでも非情になれるのよ♪」
「くっ――なんて卑劣な……」
「どーでも良いけどぉ、この小芝居何時まで続くのぉ~? あたし早くオーダーした〜い」
「もうロイったら無粋ねぇ、あたしがパースちゃんとじゃれ合える滅多にない時間なのよ? ちょっと位我慢してくれたって罰は当たらないんじゃない?」
「私は、パースさんがこんなにノリの良い方だとは存じませんでしたので、少々驚いておりますわ」
「夕暮ちゃん酷ぉーい、パーシィはそこ迄堅物じゃないよぉ~、ねぇパーシィ?」
ところが当のパースはキョトンとした顔になり、それから探るように口を開く。
「――どう言う事ですか? ヒューストンさんは――Mr.竹橋に圧力を掛ける積もりでは無いと言う事?」
「――えっ……まさかパースちゃんは本気だったのかしら?」
「……」
「やだぁ~パーシィったらしっかりしなよぉ、ヒューストンさんがそんな事する訳ないでしょう?」
「いやっ――そっ――そんな訳はありません、もちろんちゃんと知ってました!」
だが、耐え切れなくなった様に夕暮が押し殺した笑いを漏らし始め、何とか顔を覆ってその笑いを堪える。
パースの為にもなんとかフォローしなければと口を開き掛けるが、幸いにも笑顔を浮かべたソウがその場を収めてくれる。
「それではパースさん、オーダーはラズベリージャム入りのラミントンで宜しいですね? もちろん副長のお支払いでという事ですが♪」
「あ――いえ、その――はい、それでお願いします……」
「あ~良かったぁ♪ それじゃソウさん、あたしはコーヒーグロッグとストロープワッフルね!」
「ホイップクリームはお入れしますか?」
「たーっぷり入れて!」
「承知しました、夕暮さんはどうなさいますか?」
「私は――久し振りにあれが頂きたいですわ、お抹茶をいれたワニンクス・エッグノッグです」
「わたしにとってもお作りするのは久し振りですので――手許にあるお抹茶が少し日が経ってしまっておりますが、その点だけご容赦ください」
「構いませんわ、ソウさんにお任せ致します」
「有難うございます、それでは皆さん少々お時間を頂けますか」
そう言って手際よく準備に掛かる彼の様子を見ながら、深い寛ぎの中に心を解き放つ。
幾つもの新しい友情とそして彼の愛情とを手に入れたこの瞬間の幸福は、国を発つ時には予想もしていなかったものだ。
(でも――本当に手に入れたのよね――あたしは……)
その実感がゆっくりと全身に染み渡って行くその感覚は、言葉に出来ない程満ち足りていた。
これで第5章を終わります。
次章では、ヒューストンの過去と最後の奮闘とを書きたいと思います。
引き続きよろしくお願いします。