冷たい女   作:Y.E.H

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第2章・第2節

(こんなに愉しくて本当に良いのかしら? このままじゃダメになりそうだわ♪)

 

今やポーラが泥酔した理由はほぼ明白だった。

きっと彼女は愉し過ぎて己れを喪ってしまったのに違いない。

常日頃と何も変わらない筈のソウの店が、すっかりこの世ならぬ楽園と化していた。

 

「司令、このポワレもとっても美味しいですわね♪」

「本当にそうだな、さすがMr.竹橋は音に聞こえたマスターだよ」

律義でもの堅い彼の性格がとても良い方向に働いており、二人の距離感も相まって快いときめきを感じさせてくれる。

最初の切っ掛けはどうあれ、建前としては隅田がヒューストンをディナーに誘ったのであり、ここでの彼はホスト役だ。

ホストが女性のゲストを楽しませる様に努めるのは一般論としては当然なのだが、前後の経緯からしてこの場面には当て嵌まらないと思うのが普通だろう。

しかし、そうは考えないのが彼の良いところなのだ。

杓子定規と言ってしまえばそれ迄だが、お座なりでも機械的でもなく誠実に務めようとしてくれるその心地好さが彼女を駄目に仕掛かっていた。

 

(貴方に何の下心も無くたってちっとも構わないわ――あたしはもう決めたの、貴方を飛鷹にもポーラにも絶対に渡さないから♪)

 

そんな気持ちを知ってか知らずか、彼は何処かしら生真面目な愛想の良さを欠かさない。

「それにしても、君が隊の副長になってくれたのはとても意外だったよ」

「まぁ、ひょっとしたら艦隊司令の顔に唾を吐いて辞令を撥ね付けるべきでしたか?」

「まさか、これ程優秀でその上美しい副長が着任してくれた事に不満のある訳が無い。強いて言うなら、この事で残りの人生の運を使い果たしてしまったのでは無いかと不安になる位だよ」

「もうっ、本当にお上手なんだから♪ ――でも、正直に言いますけど、転属を命じられた時は不満で仕方ありませんでしたわ」

「いや、それが普通だと私も思う。只でさえ他国の指揮下に入る事は面倒で気苦労も多いのに、それがかつての君にとっての宿敵と来れば拒否したくなって当然だ」

「うふふ、仰る通りですわ♪ あたし、太平洋艦隊司令官に向かって『どうして私なんですか? 第七艦隊には連絡将校位いるんじゃありませんか⁉』と食って掛かりましたもの」

少しお道化て応じて見せると、隅田は何とも言えず曇りの無い爽やかな笑みを浮かべる。

「にも関わらず、君はそれを枉げて着任してくれた。私は只々それに感謝するばかりだよ」

「そんなに仰って頂いたら心苦しいですわ♪ あたしは只の艦娘のまとめ役でしか無い、名ばかりの副長ですもの」

「この隊が発足したのも艦娘の為なのだから、君の今の役割が重要であることに疑いの余地は無いし、君が良くその大任を果たしてくれている事も同じくだよ」

「本当にご期待に添えていれば宜しいですが……あたしの様にしばしば自身の感情に振り回されて我を忘れてしまう様な未熟者がそんな大任だなんて――」

 

「ヒューストン、君にはその……あ、いや――」

 

「はい?」

「いや、いいんだ。気にしなくて構わない」

「そうですか……」

 

それ迄弾んでいた二人の会話がパタリと途絶え、曰く言い難い沈黙が流れる。

ただ、これは悪い沈黙では無い。

彼が少なくともヒューストンに何らかの気遣いをしようとしてくれた故なのだ。

「司令、あたしに個人的な質問をなさり掛けたのでは無いでしょうか?」

出来るだけ柔らかい言葉遣いでそう問い掛けたにも関わらず、彼は如何にも申し訳なさそうに詫びる。

「失礼な事をしてしまって本当に済まない。君がとても親し気に接してくれるのについ甘えてしまった」

「お待ち下さい、あたしまだ何も失礼な事はされていませんわ?」

「だが、しようとした事は間違いないし、現に君はもうはっきりと感じ取っている――」

「だからと言って、個人的な事を聞くのが全て失礼な訳ではありません――」

「君だからこそそう言ってくれるだろうが、本来慎むべき事には間違いないよ」

 

(ダメよダメよヒューストン⁉ このままじゃ押し問答になるわ)

 

彼のもの堅さは頑固さと紙一重なのだろう。

迂闊にそこへ踏み込んでしまえば、折角の良い雰囲気を台無しにするだけだ。

そう思い直すと、一旦言葉を仕舞っておいてから軽く深呼吸する。

「良く判りましたわ、あたしは別に何とも思っておりませんけど、司令のお詫びは喜んでお受け致します」

そう言っておいてから、わざと少々悪戯っぽく笑って見せる。

「その代わりに、何故そんな事をお聞きになろうと思われたのかちゃんと教えて下さらないと♪」

笑顔を畳み込んでから澄ました顔で見詰めると、照れ臭そうに俯いた隅田は少し真顔になって面を挙げ、真っ直ぐに視線を合わせて来る。

ドキリとして少々身構えたのだが、次の瞬間彼が口にした言葉は更に胸を揺さ振る。

 

「私の前で君は決して強い感情を顕にはしない――だが、時折瞳の奥に深い哀しみを覗かせる時がある……単なる私の思い違いなのかも知れないが、それが気になっていてつい軽率な事をしようとしてしまったんだ。本当に申し訳なかった」

 

またしても謝罪を口にする彼に何か言葉を返さなければと思うのだが、口も舌も麻痺してしまったかの様に動かない。

 

(司令、司令――貴方はそんなにもあたしの事を心に留めていて下さったんですね……)

 

そう口に出したいのだが、どう頑張っても喉から言葉を押し出す事が出来ない。

 

(何やってるのよもうっ! こんな大事な時に……)

 

懸命に自分を叱咤するが、己れの体だと言うのにどうしても言う事を聞いてくれない。

余りの事に我知らず泪が滲んで来てしまう。

 

(嫌だダメよ! 誤解させちゃうわ!)

 

しかし、既に遅かった。

慌てて目頭を押さえ様としたのだが、その指の隙間から一筋の雫が零れて頬を伝う。

「す、済まないヒューストン! 私が愚かな真似をして君を傷付けてしまった……君に何と言って詫びれば良いのか――」

 

腰を浮かせながらサッとチーフを取り出す彼を認めた瞬間、やっと冷静な自分が戻って来る。

身を乗り出して伸ばされたその手にあるのは真っ白なチーフだった。

 

(少し位――甘えたって良いわよね)

 

そう思って顔を覆い掛けていた手を下ろすと、彼の手に握られたチーフがくすぐったい程にそっと触れて来る。

その芳しくも心地好い感覚は、今夜最高のご褒美だった。

「自分が情けない、許して欲しいなどと言えた――」

「司令は勘違いをなさっています」

「えっ……」

 

はっきりと否定しなければと思って少々硬めの声を出したところ、彼は期待通りの反応をしてくれる。

「お願いですから、どうか勘違いをなさらないで下さい。悲しくて涙が出たのではありません、我が身が思い通りにならなくて癪に障っただけなんです」

「――ヒューストン、君は私を気遣ってそう言ってくれているのでは無いだろうか」

「いいえ違います。たった今、とても肝心な処なのにあたしの口が動かなくなってしまったんです♪ ですから、少しだけ会話を巻き戻させて頂けませんか?」

そう言って口許にだけ笑みを見せておいてから応えを待つ様に見詰めると、どうやら言葉が肚に落ちたらしい彼はやっと笑顔になる。

「もちろんだよ、君が望む所まで話しを戻そう」

「有難うございます――あたし、とても嬉しかったんです。司令があたしの事をしっかり気に掛けていて下さった事が」

「――と言う事は君は……」

「司令がお察しの通りです、これ迄自分から誰かに話すことが一度も出来ずにいる事があります。――太平洋艦隊では少なからず知っている者もおりますし、あたしの同僚達は皆知っている事なんですが……」

「――そうだったのか……では、此処に来てから誰にも話してはいないと」

「ええ、そうです。ロイには必ず話すと約束してはいますが――まだ話せていません」

「デ・ロイテル君か、彼女は周囲の者にとても細やかな気配りが出来る上に、その事で余計な気遣いをさせない様に朗らかに振る舞っているな。本当に素晴らしい人格の持ち主だと思う」

事も無げにそう言った隅田に少々驚くと共に、また新たな感動と幾らかの失望が湧き上がって来る。

 

(あたしの事を特別に意識してくれてた訳じゃ無いのね……そこ迄あたし達の事を注意深く見てくれているのは嬉しいんだけど――ちょっとがっかり♪)

 

「――ポーラさんが、司令を太陽だと言う意味が良く判りますわ♪」

「何だって?」

「誰にも別け隔て無く慈愛の眼差しを注ぐ、公平で裏表の無い存在――本当に太陽そのものです」

「いや待ってくれ、君迄そんな事を言うのは勘弁して貰え無いだろうか。私は到底そんな器ではない」

「器かどうかは存じ上げません、でも――あたしはそんな完璧な司令にはちょっと不満ですわ♪」

「なっ――それは本当に?」

「ええ、本当です」

「そうか――ならばどうか忌憚の無い処を聴かせて欲しい。君の忠告は決して蔑ろにはしない」

「まぁ♪――それではあたしからもお尋ねしますが、本当ですか?」

少し茶目っ気を出して見せた積もりなのだが、残念な事にそれが通じた気配は無く、彼は至って生真面目に応じる。

「もちろんだよ、大切な副長の諫言を軽んじる積もりは無い」

 

(本当に真面目なんだから……でも良いわ、ここ迄引っ張ったんだから言っちゃうわよ♪)

 

「それじゃ遠慮無く申し上げますけど、そこ迄完璧に公平にされるよりは――貴方の副長にだけは、もうちょっと別け隔てして頂ける方がずっと嬉しいですわ♪」

もっとストレートに言わなければ通じ無いんだろうなとは思うのだが、いきなり引かれてしまってはショックが大き過ぎる。

何と無く匂いを感じ取って欲しいと言う願いを視線に込めてじっと見詰めると、隅田の表情に微かな当惑が滲み出る。

「――君はとても難しい事を言う……でも、それが君の願いだと言うのなら、それに近付ける様に努力しよう」

 

(やっぱり無理だったわね……まぁ仕方ないか)

 

そう思って諦め掛けたその時だった。

「只、闇雲に努力すると言っても口先だけの空手形に為り兼ねない、出来たら当面の具体的な目標をくれないだろうか?」

これこそ彼の誠実さの賜物だろう。

小躍りしたくなるのをグッと堪えて、用意していた言葉を慎重に口にする。

「有難うございます、目標だなんて大袈裟な事は申し上げませんけど――その、何時かはあたしの話を聞いて頂けませんか?」

「君の――話を……分かった。時が来れば 君にとって大切なその話しをしっかり受け止めると約束するし、君が安心して話せる男になる様に努力しよう」

 

(それよそれ! それが聞きたかったの!)

 

この際、彼がどう言う意図を持って言ったのかなどはどうでも良い。

彼が自らその言葉を口にしてくれた事が大切なのである。

「そう言って頂いてとっても嬉しいですわ♪ 本当に今夜は最高のディナーです」

そう言ってさりげなく微笑んだ積もりなのだが、本心が溢れ出てしまい満面の笑みになってしまった。

その所為なのか、隅田は一瞬頬に赤味を走らせた後で珍しく視線を軽く外して口を開く。

「――正直に言うが――私も、その――とても、楽しかった……本当に有難う」

一瞬目眩がする位、一気に頭部に血が集まって来る。

万一理性の箍が外れでもしたら、テーブルを乗り越えて彼を力一杯抱き締めていたかも知れない。

 

(お、落ち着きなさいヒューストン! ここが踏ん張り処よ!)

 

己れの自我に対して必死にそう言い聞かせると、何とか気を鎮めて言葉を絞り出す。

「そこ迄言って頂いて、あたしの方こそ光栄です――またこんな風にご一緒出来ますか?」

「――君が良いと言ってくれるなら……またこんな風に食事がしたい――と思う」

 

昔座学で聴いた処に依れば、嬉しい事に遭遇した場合人間の脳内には幸福感を増大させる神経伝達物質が多量に分泌されるらしい。

艦娘の生理機能は人間と似通っているとの事だが、もしそうだとすれば今の彼女の脳内には間違いなくそれが溢れかえっていた。

ポーラではないが、まるで酔っているかの様にフワフワとして頼り無くも温かい不思議な感覚に包まれて、このまま気を失なってしまいそうだ。

「ヒューストン、大丈夫か? 調子に乗って酒を勧めてしまっただろうか」

「い、いえ、そんな事ありませんわ――今夜はお誘い頂いて有難うございました。――次の機会を楽しみにしていますわ♪」

「私も楽しみにしているよ――楽しい夜を本当に有難う」

そう言った彼は素早く席を立つとテーブルを回り込んでヒューストンの椅子の背もたれに手を掛ける。

それなりに杯を重ねた筈だが、全く酔いの気配も見せておらずしっかりとした身のこなしだ。

 

(お願い、もう少しだけ甘えても許してくれるわよね♪)

 

今日はすっかり調子に乗っているのは重々承知の上だが、彼がここ迄胸襟を開いてくれているのもまた千載一遇のチャンスなのだ。

「有難うございます」

そう言いつつ腰を浮かせると、彼が伸ばしてくれた手をそっと掴む――そのタイミングでほんの少しだけ早く手を閉じると、狙い過たずそれは空を掴んでしまう。

「きゃっ!」

軽くよろけるだけの積もりだったが思ったよりもバランスを崩してしまい、一瞬ヒヤリとする。

が、次の瞬間彼女は逞しい胸にしっかりと抱き止められていた。

 

(あっ……)

 

眼を閉じてそのまま踞りたくなる様な安心感が全身を包み込み、我を忘れてしまいそうになる。

 

「も、申し訳ありません司令……」

「いや、これは私の所為だ。やはり無責任に酒を勧め過ぎてしまった様だ」

そう言う隅田の顔を見上げると、心なしか頬を紅潮させているらしい。

「いえ、楽しかったものでつい過ごしてしまいましたわ」

「そう言ってくれてとても嬉しい。脚など挫いてはいないだろうか?」

「ええ、大丈夫です」

「では行こう」

 

いささか名残惜しい思いに後ろ髪を引かれつつも、ソウが立つカウンターに向かう。

「ご馳走様Mr.竹橋、とても楽しい時間を過ごす事が出来たよ」

「こちらこそ有難うございます、お楽しみ頂けて幸いです」

「有難うソウ、本当に楽しかったわ」

「どう致しまして、副長に喜んで頂けてとても光栄です」

「それでは今夜はこの辺で失礼するよ、お寝みMr.竹橋」

「ええ、またのお越しをお待ちしております司令」

そう恭しく言ったソウは、隅田が背を向けたのを確認してからヒューストンに向かって片目を瞑って見せる。

 

(本当に有難うソウ、貴方が味方してくれるなんてとっても心強いわ♪)

 

視線に感謝を込めて見返してからドアの傍らで彼女を待ってくれている隅田の許へと駆け寄るが、その足取りは我知らず軽やかなものになっていた。

 

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