確かに湾内ではうねりに悩まされ辛くはなったものの、複雑な地形の影響で思った以上に波の立ち方がイレギュラーな様だ。
外海に比べると却って予測が付かず、艦娘はいざ知らず小型の艦艇にとってはより危険な印象を受ける。
(これじゃ岸に近づくのは危険だわ、何かの弾みで大きな波に出くわしたら――)
その時、やっと遠く補給敞のタンク群が望める様になり、手前の岸壁に小さく真っ白な艇体が大きく上下しているのが微かに見える。
「あれですね!」
「ええ、行くわよ!」
さすがに速度は出せないものの見る見る内に距離は縮まり、艇の前甲板に立つ隅田と覚しい人影もしっかり見えて来る。
後僅かだと確信した所為なのか、胸中に他愛の無い想像が浮かび上がる。
(ひょっとして、あたしが頭から叱り付けたから意地になってるのかしら?)
随分子供っぽい話の様だが、ヒューストンのこれ迄の経験だけでも男と言うのはしばしば子供の様な意地を張るものだった。
完璧な人格者の様にも見える彼がそんな立ち居振る舞いを自分に対して見せたのだと思うと、つい可愛いと感じて頬が緩んでしまう。
だがそんな油断を嘲笑うかの様に、海は突然その牙を剥く。
ケーソン等で造られた岸壁に打ち寄せた波は反射して沖へ戻って行き、その過程で寄せ波とぶつかり合う。
ほとんどの場合それは互いに打ち消し合うなどしてその勢いを減じるが、果てしなく繰り返すその周期の悪戯なのか、時として寄せ波と反射波が重なり合って大きな重複波を生み出す事がある。
ヒューストンが目の当たりにしたそれは奇妙にゆっくりしており、あたかも時の流れがそこだけ遅くなったかの様だった。
波によって上下に揺さ振られていた白い艇体が何の前触れも無く岸壁よりも高く跳ね上げられ、一つの人影がふわりと緩やかに宙に舞う。
それは見方によってはとても不思議かつ美しい光景だったが、彼女に取って恐ろしい記憶――いや、実際の記憶では無く想像上の情景だ――を呼び覚ます。
10年前、あの現実離れした報せを受け取ってから、数え切れない程繰り返し心を搔き毟り続けた想像の中の光景が脳内に溢れ出す。
蜃気楼の様に揺らめく禍々しい塊が――
鋼鉄の船体を引き千切り――
まるで枯葉か何かの様に――
なす術も無く吹き飛ばされる人間達――
そして、その中の一人は…………
「アルッ!」
過去と現在とが交錯して胸の裡で急速に膨れ上がった激情が叫びを押し出し、一気に冷静さを吹き飛ばす。
遮二無二突進するその瞳が捉えていたのは、波間に翻弄される橙色のライフジャケット姿の人影なのか――
それとも鮮血を撒き散らしながら宙に舞う、若き士官の姿なのか――――
ところが、その先に待っていたのは予想もしなかった結末だった。
視界の片隅から一つの影が閃光の様に奔り、彼女が猪突猛進するその先へと瞬く間に到達する。
「何あれ!」
背後でデ・ロイテルが叫んだ事で現実に引き戻されたヒューストンの眼に、滾り立つ海面に立つ人影が映る。
(誰なの?)
そう感じたのも束の間の事だった。
その人影が、この様な荒天には不釣り合いな程鮮やかなイタリアンカラーのスーツを身に着けている事に気が付き、思わず声が出る。
「ポーラ、貴方なの?」
激しく咳き込みながら海水を吐き出す隅田を大事そうに抱いた彼女は、これまたこの様な状況には不釣り合いな笑みを浮かべて立っていた。
「あら~ヒューストンさんでしたかぁ。大丈夫ですよぉ~、この通りぃ司令はご無事ですよぉ♪」
良く見ると彼女は完全装備だった。
イタリア海軍の専用スーツにプロテクタージャケットを身に着け、荒天時用のヘッドガード付きフェイスシールドに加えてなんと艤装迄装着している。
押っ取り刀で慌ててすっ飛んで来た自分とは大違いで、予め準備していたとしか思えない。
(まさかこんな事態を予想していたの?)
思い切って聴いて見ようとしたその時、岸壁の方向から声が掛かる。
「ちょっと貴方達! 大丈夫なの? 大佐は無事なの?」
鋭い叫びの主はすぐに判った。
顧みると岸壁の上にレインコート姿の人影があり、声や背格好からして飛鷹に間違い無いだろう。
「司令は無事よ! 整備棟は使えるの?」
「ヒューストン副長! ドック建屋の鍵は開けてあるわ、一旦上がって来て?」
「判ったわ、ポーラ! 司令をお願い」
「ハァ~イ、了解ですよぉ」
ポーラの返事を確認しておいてから多用途艇に向き直る。
「貴方達は、十分に注意して帰投しなさい! 司令はこちらで確保したから!」
「はっ、了解致しました!」
艇長らしき下士官のきびきびとした応答に満足して隅田の事に頭を戻し掛けたヒューストンに、デ・ロイテルがスッと顔を寄せて来る。
「あたしが一緒に付いて戻るから、心配し無くても大丈夫♪」
「助かるわロイ――勝手に貴方を引っ張り出しておいてこんな事迄……」
「良いの良いの♪ それよりも――頑張ってね」
冗談半分に言ったのかと思いきや、彼女は真顔だった。
「あれ、ポーラさんも絶対何かあるよね――だから――ね?」
露骨な物言いこそしなかったが、それだけで彼女が考えている事は十分に伝わって来る。
先程思わず感情が昂って叫んでしまった事も、幾ら艤装を装着していたとは言え、この荒れた海面を電光石火の速さで駆け付けたポーラの尋常ではない様子も、ロイは只ぼんやり見ていた訳では無いのだ。
「本当に頼もしいわ――あたしの名参謀の助言は大切にするわね♪」
「エヘヘ、でも何時迄参謀でいるか判りませんよぉ♪」
「ちょっと! 悪い冗談は止めて頂戴⁉ 貴方が敵に回ったら勝てる気がしないわ」
燃える様に情熱的な紅い髪にヒューストンの倍はありそうな澄み切った大きな瞳、溜め息が出そうな程にスラリと伸びた美しい脚と、そして朗らかで気さくな人柄迄備わった彼女は、母国オランダでは最早崇拝にも等しい扱いを受けている。
そんな彼女に好意を寄せられたら、普通の男性がそれを拒むのはまず不可能だろう。
「冗談ですよ冗談♪ あたしの恋はまだもうちょっと温めとこうかなって――だから今は頑張ってファイッ!」
そう言ってトンと背中を押す彼女に眼で礼を返すと、今度こそ本当に脳内を臨戦態勢に切り替える。
顧みると、既にポーラは岸壁に付けられた斜路を上がって行くが、彼女よりも一回り大柄な隅田がその腕に抱かれているのは何ともアンバランスな眺めだ。
(もうっ、それはあたしの役だった筈なのに!)
無論、先程はそんな事を考える余裕など無かったのだが、いざ土壇場で横合いから手柄を拐われて仕舞うと、必死の思いで駆け付けたのにと言う口惜しさが湧いて来る。
だが幾ら口惜しかろうが今更遣り直しが利く訳でも無く、ここから少しでも挽回せねばと思い直す。
急いで岸壁の下迄辿り着くと、そのまま斜路を小走ってポーラの横に並んで声を掛ける。
「司令、大丈夫ですか?」
「あ、いやヒュ――ゴホッ、ゲホッ……」
海水を誤嚥し掛けているのか、隅田はまだ咳き込んでいる。
「この体勢じゃ苦しいでしょう、ポーラ、下ろして差し上げたら?」
そう水を向けて見たのだが、彼女の反応は素っ気無い。
「ダメですよぉ~、少なくともぉ建屋の中に入るまではぁ、大人しくしてて頂きますねぇ」
「判るけど、気管に海水が入らない様に早く吐き出さないと不味いわ? 今下ろせないんだったら急ぎましょ?」
「はぁ~い」
返事は良いのだが、彼女が特に急ぐ様子は無く、相変わらず隅田は咳き込みながら運ばれて行くばかりだ。
(ポーラったら……結構強情なのかしら?)
先程迄は隅田の行動に腹を立てていたのだが、こうなった今では少々気の毒になって来る。
如何に超人的な能力を持つ艦娘とは言え、壮年の男が女にお姫様抱っこをされているのは屈辱的だろう。
此処には幸いヒューストン達三名しかいないが、もし他の部下や他国の派遣士官などに見られでもしたら司令の権威を揺るがせ兼ねない。
もしそんな事になりそうであれば力尽くで止める積もりでいたが、気が短い飛鷹にとっては既に限度を超えていたらしい。
「ちょっといい加減に下ろしなさいよ! 肺炎にでもなったらどうする積もり⁉ それともまさか、嫌がらせの積もりでそんな事してる訳?」
彼女の喧嘩腰は毎度の事だが、何時もは愛想良く応じる筈のポーラがそれを全く無視したのは初めてかも知れない。
返事もしなければそちらに顔を向ける事すらせずに相変わらずマイペースで彼を抱いたまま歩き続けるその振る舞いに業を煮やした飛鷹が、ツカツカと近寄ってその肩を掴む。
「触らないで貰えますぅ?」
強気な彼女が思わずビクッと手を引っ込める程冷たい声だった。
そのまま邪魔だと言わんばかりに睥睨して道を空けさせたポーラに戸惑いを隠せない様子の彼女に近付いて、肩に手を掛ける。
「何なの一体⁉」
「判らないわ――でも、いざという時は二人で止めるしか無いわね」
「どうもその様ね……」
さすがにそう応じざるを得ない位にポーラの様子は鬼気迫るものがあった。
が、どうなることかと思いはしたものの幸いにも彼女は狂気に駆られていた訳では無さそうで、ドック脇の屋根の下に入ると屈み込んで隅田をそっと下ろした。
一頻り激しく咳き込みつつ残った海水を吐き出す彼の許に急いで駆け寄り、その背中に手を当てる。
「気管に吸い込んでおられるかも知れませんから、後で必ず診察を受けて下さいね」
「本当にいい加減にしなさいよ! 若造じゃあるまいし立場を弁えたらどうなの⁉」
こういう古女房の様な物言いが出来る飛鷹のことを羨ましく思う時もあるが、その度に隣の花は紅いものだと自らに言い聞かせる。
「ねえ、ひょっとして車で来てるのかしら?」
「そうよ、正門側で待たせてるわ。とにかく隊に戻るわよ」
体を曲げて咳をしていた隅田が少し身を起こしてそれに応じ様としたその時、ポーラが割って入って来る。
「お二人は先に戻ってて下さいね~、ポーラはぁ司令にお話がありますからぁ」
「ちょっとナニ言ってるのよ――」
飛鷹が食って掛かるのを押し止めて出来るだけ冷静な声を出す。
「一刻も早く司令が隊に戻られる事に意味があるのは判るでしょう? 話なら隊に戻ってからでは駄目なの?」
「いーえーそれは出来ませんよぉ~。ポーラの話が終わる迄はぁ、司令にはここにいて頂きますからぁ」
平然とそう口にする彼女は一見すると常日頃と同じ様な笑顔だが、言っている事がそもそも非常識なだけに何かしら得体の知れないものを感じさせる。
「もしもそれを本気で言ってるんだったら、立場上見過ごす訳には行かないわよ? 隊の司令を一時的であれ拉致すると言ってるのも同然なのよ?」
「査問どころじゃなくて一足飛びに軍法会議に掛けられるわよ、判ってるの⁉」
横合いから口を挟んだ飛鷹の過激な言葉に反応したのか、ポーラの瞳が背筋が寒くなる様な冷たい光を帯びる。
「お二人こそ本気なんですかぁ? ポーラはぁ――」
「待ってくれないか」
隅田のしっかりとした声が昂り掛けた緊張の塊をガラスの様に砕く。
「司令――」
「ヒューストン、飛鷹、二人共有難う。隊に戻る前に私はポーラ君の話を聴こうと思う」
「あんたねぇ一体――」
「分かっている積もりだ、だから君達二人にも一緒に居て貰いたい」
(本当に困った人ね……)
無論彼の意図はすぐに判った。
もし本当にポーラの言う通りの事が起きてしまえば、飛鷹が指摘した通り確実に軍法会議は避けられない。
なので、彼が自らの意図で彼女の話を聞くという体にする事でそれを回避したのだ。
「それで良いだろうかポーラ君?」
「もちろんですよぉ〜、それじゃあ中に入りましょうかぁ」
そう言って何事も無かったかの様に先に立って控室に向かう彼女の後に躊躇いも無く付いて行く隅田の振る舞いに、飛鷹はすっかりお冠である。
「どれだけ甘やかせば気が済むのよ、本当に!」
「あの人の事だから、多分昔からそうだったんじゃないの?」
「――――残念だけどその通りよ。初めて会った頃から何一つ変わって無いわ……癪に触るけど」
「ふふ――ねぇ、ひょっとしてずっと追い掛けてるのかしら?」
「一度、振られたのよ」
「本当?」
「全く――信じられ無いわよ、こんな良い女を袖にするとか何様よ⁉」
「でも、誰かライバルがいた訳でも無さそうね」
「そうなのよ! 『国の宝とも言うべき貴方を私する事など許されない』とか真顔で言われたのよ⁉ あたしの意志はどうなるのよ! って話よ」
「どんな顔して言ったのか想像つくわね♪ それでも諦め無かったのよね」
「当たり前じゃない! 絶対にウンって言わせてやるに決まってるわ⁉ ――それより貴方の方こそ理解に苦しむわ。何でわざわざグアムくんだり迄来て堅物の中年男になんかちょっかい出してるの? アメリカ海軍なら良い男は幾らでもいるんじゃないの?」
「そこ迄言う程でも無いわよ♪ 第一、あたしは海軍じゃ男受け最悪の艦娘だったんだから」
「ふぅーん、それはつまり何か訳ありって事ね」
「ええ、そうよ――色々あって色恋沙汰とは距離を置いてたの」
「やれやれ、そのまま距離を置いててくれたら良かったのに♪ それにしても――どうしてあいつはこんな訳あり女ばかり引き寄せるのかしらねぇ、頭が痛いわ」
言いながら彼女は如何にも嘆かわし気に、今しも建屋のドアを開けようとしているポーラに視線を投げ掛ける。
「ふふふ、どうするの、共同戦線でも張りたいの?」
一瞬真顔になり掛けた飛鷹だったが、すぐにニヤリと笑って否定する。
「折角だけど遠慮しとくわ♪ 特に、あいつがこの手の悪巧みを快く思わないのを知ってそうな相手とはね」
「あら残念、そう簡単には乗って来ないわね♪」
「そうそう何度も足を掬われてばかりいられないわよ――言っとくけど、絶対に譲らないわよ」
「ええ、良く判ってるわ。それはあたしも同じだから」
「だったら話は早いわね、取り敢えずはあの呑んだくれが一体何を話すのか聞いてやりましょ!」
「それには賛成、でも――何が出るのか判らないわね」
「それこそどんな事だって同じよ、まぁ本当に危険な時はちゃんと手を貸してよね」
「そうならない様には祈ってるけどね」
その言葉に彼女はフンと鼻を鳴らして応じて見せ、前に向き直ると隅田の後を追う。
(まさか荒っぽい事にはならないわよね……)
一抹の不安を感じたヒューストンだったが、今更ながら全身ずぶ濡れであることにも気が付いてしまい、思わず眉をひそめて彼女の後に続いた。