魔導師たちの群像_ 魔法少女リリカルなのは   作:夏深てふ

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13/青空への逃走

炎に翼を焼かれ墜ちていくカモメ達、その下をくぐり抜ける、航空12部隊バードランド分隊。

 

ヴィータはバードランドの先陣を切り飛行しながら、夜空に向けて念話を飛ばした。

 

〈新入り、まだ傷が痛むんだろ。大丈夫なのか?〉

 

〈私はバードランドの守護天使になるって決めたんです。これくらいの傷、背負ったって飛べます〉

 

高い、高い夜空からの甘くひび割れた暗号念話。市蔵ソラの声だった。暗号念話で交わされるヴィータとソラの秘密のお喋り。

 

〈病室を抜け出して、嵐を突っ切って、先輩とバードランドを助けに来たんです。なにか素敵なことを言ってくださいよ〉

 

〈いっしょにいこう、テレーゼの奴はそう言ってやがる。寂しがりの元上司の所へ行ってやれ。あの駄々っ子といっしょにいけるのは、お前しかいない〉

 

〈先輩はいっしょにきてくれないんですね〉

 

〈カモメ共をどうにかしたら、直ぐにでも飛んで助けにいってやるよ。それに、お前もあたしも空を飛ぶ鳥だろ。お前が空を目指している限り、お前とあたしとバードランドは同じ空を飛んでんだ。ひとりぼっちなんかじゃないさ〉

 

ヴィータとソラが初めて出会った、病室での会話の焼き回し。あの時はソラが言い、今はヴィータが言う。ほら、素敵なこと言っただろ。ヴィータが高い、高い、そらを見上げてニヤリと笑う。

 

〈助けにきてくださいね〉

 

〈ああ、お前が墜ちそうになったら、あたしが抱えて飛んでやるよ〉

 

途切れる暗号念話、秘密のお喋り。雲の隙間に見えていた黒い十字架みたいなソラが羽を畳んで急降下、雲の中に消えた。同時に、デバイスに大量の情報がなだれ込んできた。ソラからの贈り物、高度8000メートルから見た"群鳥"の見取り図。叩き潰すべき"スイート・スポット"への最短コースが示された、地図だった。

 

「アイゼン、"道はあの子が示してくれた"。レーダー域を畳め、防御魔法域もいらない。全ての力を突撃と突貫だけにつぎ込め。紅の鉄騎と鉄の伯爵の本気、見せてやろうぜ」

 

「ヤー(了解)」。突貫鎚、鉄の伯爵グラーフ・アイゼンの電子音声。ポンプアクションの機構から、鉄を打つようなカードリッジの炸裂音。濃密な魔力が溶けた水蒸気を、排気ダクトが放出。製鉄所のような灼熱、もしくは刀鍛冶。

 

「欲しいのは、巨人だってぶっ飛ばせるロケットだ。いけるな?」

 

ガチャン。ヤーの代わりのポンプアクション、回転する弾装。燃え上がる紅色、ニトログリセリンの過激さで魔力が燃焼。アイゼンが真っ赤に溶けて、膨張、そして固まり、魔法の力で変身、新たな姿を手に入れる。

 

ギガント・フォルム。巨人だってぶっ飛ばせるロケット付き突貫鎚、ギガントでラケーテンな、対要塞爆砕用の金槌。

 

その200トンオーバーを握りしめるのは、小さな体。体重わずか二十数キログラムの子供の体。

 

ヴィータはその青い瞳で、ソラの示した最短ルートを睨みつける。台風の目のように静かな空間。そしてその向こう、砲撃魔法陣を構築しつつあるプロトタイプ・ナンバーのカモメ達。白い翼で滞空し、くすんだ赤の魔法陣を背負って光の刃を編み上げている。まるでケルビム、炎の剣のエデンの守護天使。

 

「ぶっ飛ばせ、アイゼン!」

 

ヴィータの叫び。巨大な突貫鎚のマギ・ジェット・エンジンに赤い炎が点火。ニュートンの物理法則をぶっ飛ばし、音速の壁だとか慣性の法則だとかもぶっ飛ばし、ついでに偶然軌道上にいた哀れなカモメ共をぶっ飛ばし、ぐんぐんと加速していく。

 

小さな体で背負うもの。グラーフ・アイゼンの200トン。慣性の法則と重たい、重たい、万有引力。カモメ共の憎悪の視線。放たれる殺傷設定の弾丸。ちっぽけなプライドとアイデンティティ。もしかしたら仲間の信頼と約束。

 

"あたしはバードランドを背負っている"。

 

鯨のように進路上の群鳥を喰い散らかし、重たい体で駆け抜ける。あと少し。あと少しでたどり着く。手にはめた黒い手袋で血が滲む。私は真っ赤だ。紅の鉄騎だ。この赤は私の赤だ。傷と血と弱さを隠す、真っ赤な衣装だ。

 

そして強がりな紅は、滑空と急上昇の果て、目的地へとたどり着いた。200トンのグラーフアイゼンと、二十数キロの軽い体と、その他諸々の一千万トンを引きずって、砲撃術式を編み上げたカモメ共の目の前に躍り出る。

「ギガント・シュラーク!」魔法を解き放つリリック。突貫鎚を振り被るヴィータ。グラーフ・アイゼンがポンプアクションで魔力を供給、マギ・ジェット・エンジンのアフター・バーナー、そして大爆発。翻る真っ赤なバトルドレス。大切な家族にもらった『のろいうさぎ』の真っ赤なベレー帽の守護。全ての背負った重さを力に変えて、200トンのグラーフアイゼンと、その他諸々の一千万トンを横なぎに振り被った。

 

同時にカモメ達の砲撃術式が編みあがり、くすんだ赤い砲撃が到来する。それは次々とヴィータに命中。アイゼンを振り被り無防備な彼女を焼いた。背負うもの。敵の憎悪と殺意、そして傷と痛み。赤いドレスが、血に塗れて重たくはためく。己の血液でさえ、重たく纏う。

 

「ぶっとべぇええぇえぇ!」

 

空中でステップを踏み、マギ・ジェット・エンジンの爆発力で回転。重たい200トンオーバーの破城槌グラーフ・アイゼンを、エンジンの爆発で発生した重たい遠心力を、あたりを焼き付くす紅の魔力炎を、敵の憎悪と殺意と傷の痛みを、ちっぽけなプライドとアイデンティティを、そしてなにより「あたしは背負わなきゃならないんだ!」やさしく激しい、一千万トンの感情を、たった二十数キロぽっちの小さな体でぶん回し、全てを吹き飛ばした。

 

一回転。ヴィータの周りを滞空していたカモメ達が、巨大な突貫鎚の到来で全て消えてなくなった。まるで嵐。突貫鎚の軌道上にいたカモメ達は、紫色の人造筋肉と、乳白色の人工血液と、培養された神経系と、細々とした機械部品に還元され、凶悪な遠心力で吹き飛ばされ落下した。

 

二回転。グラーフアイゼンのラケーテン(ロケット)が激しく火を噴き、推進力を生み出す。それは黙示の天使の輪のように燃え広がり、"群鳥"を焼き尽くした。

 

三回転。赤いドレスを翻し、最後の回転。限界を迎えた200トンの鉄塊が、金属の軋む悲鳴をあげて崩落する。真っ赤に焼けた鉄が幾千の弾丸とかして、"群鳥"を襲う。全てを吹き飛ばす、炎と鉄の嵐。次々と落下していく白い翼。

 

そして数百羽のカモメが墜ち、嵐が止んだ後、空にはただヴィータが、無骨な突貫鎚を肩にかついで滞空しているだけだった。

 

ヴィータは灼熱したグラーフアイゼンを横なぎに払った。ひび割れた弾装がパージされ、キラキラと光るカードリッジの煌めきと一緒に落下していった。限界を迎えたベルカ式カードリッジシステムが崩れ落ちる。限界を超えた魔法の対価。

 

荒い息づかい。血まみれの体。真っ赤なドレス。真っ赤な私。隠しきれない傷、強がりな赤を覆い尽くす、痛い、痛い赤。

 

いつの間にかヴィータの周りを取り囲むように、カモメ達が飛んでいる。残り僅かな"群鳥"、それでも今のヴィータには多すぎる群鳥。

 

「おあつらえむきな光景だな」

 

まるで天使。白い翼がいつの間にか訪れていた朝焼けの雲に照らされている。海も空も私も、みんなみんな真っ赤に染まって、白い翼ばっかしが眩しくて。

 

「くそ。これじゃ助けにいけれないじゃんか」

 

赤い世界を見つめる青い瞳、瞼を瞑り、グラーフ・アイゼンを握りしめる。血まみれの手、ボロボロの掌。全てを諦めかけたとき。

 

〈助けにいけるさ〉突然の念話。灼熱の斬撃が鳥達を焼いた。

 

紅蓮の炎をまとう魔剣レヴァンティン、バードランドのシグナム隊長。

 

「ヴィータ、お前は無茶しすぎだ」

 

「うるせえ。これくらいの怪我、へっちゃらだよ」

 

「強がるな。泣いてたじゃないか」

 

「泣いてねえ」

 

基礎フレームだけになったグラーフ・アイゼンを振り回し、ヴィータがむくれる。そこへ次々と投げかけられる、バードランドからの念話。

 

ファビアンが酷く真面目な様子で言う。〈お疲れさまです、副隊長殿〉。

 

リヴィエールがふざけた調子で言う。〈泣くなよ。似合わないぞ〉。

 

ルルーが心配した様子で言う。〈嬢ちゃんはもう休め。あとは俺らがやるからさ〉

 

ペルランが感動の涙を浮かべて言う。〈惚れた。副隊長の男らしさに惚れた〉

 

ロビノーがペルランを宥めながら言う。〈落ち着け。お前はゲイで副隊長は女の子だ〉

 

ヴィータは騒がしいバードランドにため息をつきつつ一言〈とりあえず、リヴィエールとペルランは反省文決定な〉歓声と不満の声があがった。

 

あまりにも気楽なバードランドの馬鹿共に心底あきれながら、しかし嬉しくもなりつつヴィータは笑った。背負った重さが軽くなっていく。"嗚呼。あたし、バードランドに背負われてるんだ"。今度こそ本当に泣いてしまいそうだった。

 

シグナムが、そんなヴィータとバードランドの部下達の様子を眺め、澄ました笑顔で言う。

 

「市蔵のところに行くんだろう?ここは我々に任せて、さっさと行ってしまえ。お前の無茶のおかげで暴れ足りないんだ」

 

「バトルマニアめ。あとで助けてくれって泣きついてきても知らねえぞ」

 

「子供に泣きつくほど落ちぶれてはいないさ。さあ、行け。隊長命令だ」

 

「ヤー(あいよ)。じゃあな。あとは頼んだぞ」

 

ヴィータは基礎フレームだけの十字架みたいなグラーフ・アイゼンで魔法を編み、飛行をはじめる。

 

軽い体、軽くなってしまったアイゼン。そしてバードランドが背負ってくれたもの。

 

ヴィータはソラの飛ぶ空へと一直線に飛んでいったのだった。

 

 

 

 

 

 

黒い翼で市蔵ソラが海上プラントの上空にたどり着いたとき、フェイト・T・ハラオウンとテレーゼが空戦を繰り広げている最中だった。

 

フェイトが雷険バルディッシュを突き出す。空中を蹴るヒールブーツ。漆黒のフレアスカートが翻り、次の瞬間には雷鳴と雷光を引き連れて、稲妻の鋭角でテレーゼに迫っている。そして一閃。片刃のサーベルを逆に持っている。峰打ち、固い"タカ"の魔法力場を破るための対物設定の刃と、それでもテレーゼを助けたいという願い。殺さずの剣。

 

テレーゼが呟く。〈いっしょにいこう〉。

 

"タカ"に喰われた精神のなかで、唯一最後に残った願い。

 

"タカ"が羽ばたき、緑炎を纏ってフェイトに突っ込む。空を焼く一筋の炎、フェイトが炎に包まれて失速する。しかしすぐに加速、炎を振り払い稲光を纏って飛行。

 

その光景を目の当たりにして、ソラは思わず地声で呟く。「渡り鳥みたいな人」。

 

一度だけ、あの雷のような飛行を見たことがあった。64実験小隊に研修にきた、執務官のお姉さん。自分達に比べたら遅く低い飛行だったけれども、それでも誰よりも綺麗だったのは良く覚えていた。飛ぶために生きていた64実験小隊と、生きるために飛んでいた"渡り鳥みたいな人"。自分達と違って羨ましいと思ったのを覚えていた。

 

〈テスタロッサ・ハラオウン執務官、聞こえますか?市蔵です〉

 

戦闘の合間、フェイトが空を見上げた。

 

〈きれいな羽ね。昔と全然かわらない、でも昔より大きく力強く見える〉

 

〈あなたには負けます。相変わらずの綺麗な飛行。羨ましいです、"渡り鳥さん"〉

 

〈覚えていてくれたんだ〉

 

〈ええ〉

 

まるで過去にワープしてきたみたいな感覚。ソラは誇らしげに翼を広げた。そして足から生えた音叉で青い魔力を燃やして、自らの今の姿を夜空に晒した。キシキシキシキシキシッ。音叉が高く澄んだツェー・ゲー・アー・デー・エー(ド・ソ・ラ・レ・ミ)で鳴く。黒い翼が青白い光を反射する。真っ黒な守護天使。"人を好んだ天使は、堕天使になった"。懐かしい神話。私はバードランドの人たちが好きなんです。空しか知らなかった昔、空より人を選んだ今。それでも飛んでいられる今。

 

フェイトはその姿を静かに見つめた。もしかしたら"タカ"やテレーゼも見ていたかもしれない。

 

"タカ"は翼を大きく広げ、風を掴んだ。冷たい夜の、穏やかな上昇気流。そしてグライダーの軽やかさで上昇しながらフェイトのもとを離れていった。

 

〈いっしょにいこう〉とテレーゼが言った。

 

〈いっしょにいってらっしゃい〉とフェイトが言った。

 

〈いっしょにいこう。ついてきて〉とソラが言った。ソラは黒い翼で羽ばたいた。そして足から生えた音叉でキシキシキシキシキシッと青い魔力を燃やし、真っ直ぐ上へと飛んでいった。

 

テレーゼも白い翼で羽ばたいた。そして尾羽で緑色の魔力を燃やすと、ソラの後を追っていった。

 

追いかけっこ。戦う術を持たないソラが、テレーゼを打ち負かし止める唯一の方法。飛行、超音速で"限界高度"の向こうを目指すこと。〈いっしょにいこう〉とテレーゼは言った。きっと彼女は私の後を追いかけてくれる。一緒に飛んでくれる。そして"限界高度"を越えたとき、疲れ果てて一緒に墜ちてくれるだろう。

 

一緒に飛び、一緒に墜ちる。まるで心中。しかしソラは死ぬ気なんて全くなかった。ヴィータとの約束。私が墜ちそうになっても、きっと先輩が助けてくれる。テレーゼ隊長だって、あの優しい"渡り鳥さん"が助けてくれるに違いない。軽くなる心、軽くなる命。私たちは背負われている。軽い体で私はどこまでも飛んでいける。

 

"軽くあれ"。ソラは心と音叉で、青い炎が燃え上がるのを感じた。その炎の推進力で、万有引力から解き放たれるのを感じていた。

 

翼で風を切る。青い魔力の燃え滓が、羽根のように宙を舞う。

 

目指すべきは空の果て、私たちの"限界高度"、対流圏界面の上に広がる、成層圏。

ソラはテレーゼをつれて、高い、高い、空の果てへと飛んでいったのだった。

 

 

 

 

 

 

燐のように青く燃える光が、朝焼けの空へとむかって飛んでいった。その後を緑炎のタカが追っていった。

 

その様子をバードランドの隊員達が見た。彼らと戦っていたカモメ達が見た。はやても呪文を歌いながら見たし、ティアナも眠たい目を擦りながら見た。フェイトは眩しそうに目を細めながら見た。スイユは銃を撃つことを忘れてしまうほどに見入っていた。

 

綺麗な、綺麗な、青い光。まるで童話の中の、よだかの星。

 

二つの炎が、朝焼けの紅雲に消えていった。

 

ヴィータは、青い瞳で二つの炎を見ていた。そして小さく呟く。

 

「そうだ、飛んでいっちまえ。墜ちそうになったら、あたしが助けてやるよ」

 

 

 

 

 

 

ソラは青い炎の推進力でキシキシキシキシキシッと音速の壁を破り去ると、そのまま赤く燃える朝焼けの雲へと突っ込んでいった。

 

重たい、重たい、万有引力を軽い体で引き千切り、赤く染まった雲の臓腑を切り裂いていく。空気と空気中の雨粒の摩擦で、体が青白く帯電する。それらは体を覆う真っ黒なバリアスキンの上を走り抜け、足から生えた音叉で放電された。まだ治りきっていない火傷が、ぐずぐずと疼いた。

 

ソラが音速で飛ぶとき、彼女は世界の全てを敵に回していた。体を突き刺す静電気の痛み、重たい空気の弾力、音速でぶつかってくる雨粒。薄く冷たい大気。世界を支配するニュートンの林檎の力学から、アインシュタインの相対性理論まで。そしてなにより、この世界その物と言っても良いであろう万有引力。もしかしたら地上で築いた人と人との繋がりでさえも、重たい鉄の鎖だった。

 

"軽くあれ"。

 

だからソラは全てを捨て去って、ただ軽い体で空を飛んだ。

 

大地を歩く足を捨てた。代わりに足からは二対の音叉が生えている。青い炎が燃え上がった。それの推進力を糧に、青い炎で赤い空を切り裂いた。

 

何かを掴む両腕を捨てた。何も掴まない空の手は翼になり、巨大な揚力を手に入れた。何も掴めない掌、誰の手も握れない生き方。つまりは孤独ということ。頼れるのは風を掴む翼だけ。黒い翼がギシギシと軋んだ。

 

暖かな色の皮膚を捨てた。高所飛行用の対光線処理で、皮膚は真っ白に漂白された。その皮膚さえも、空を飛ぶときはバリアスキンで真っ黒に塗りつぶした。

 

大きくなることを捨てた。 代謝加速によって、常に空腹に苛まれた。食べても、食べても、満たされぬ腹。それでも痩せていく体。いつの間にか成長は止まり、飛ぶのに有利な軽い体が出来上がった。

 

そして最後に捨てたもの。感情にまかせて流れ出す涙。脊髄のイカルス・デバイスの体管制が、瞳から流れ出る水分と塩分の無駄を許さなかった。

 

何もかも捨て去って、世界の全てを敵に回して、ぐんぐんと加速していく。雲の中の飽和状態の雨粒が、いつしか雪に変わっていた。翼にぶつかる氷粒が痛かったが、それでも翼を畳むことはしなかった。翼を畳むということ、揚力の加護を捨てるということ。今はまだ、その時ではないと思った。両腕の主翼で氷塊が張り付いた。その重みを引きはがすべく、さらなる加速を敢行する。

過酷で冷たい世界、"空は軽いものを愛します"。

 

ソラはテレーゼがちゃんと自分の後を追っているか心配になる。そして後ろを振り返りそうになって、しかし止めた。振り返れば、その拍子にバランスを崩して墜落する。鳥はけして後ろには飛ばない。逆風を好み、前を向いて飛んでいくのだ。それが偉大なる航空力学の神秘、揚力の加護を受ける秘訣だった。

 

〈いっしょにいこう〉尾羽の方で、テレーゼの幼い声。

 

〈いっしょにいこう。最後まで、いっしょにいこう〉ソラは軽い体で"限界高度"を一直線に目指しながら呟いた。

 

まるで64実験小隊のラストフライト。ソラが飛び、テレーゼが飛ぶ。今はただ、一緒に墜ちるために飛んでいる。

 

飛ぶために、飛んだ。飛ぶために、生きた。飛ぶために、耐えた。飛ぶために、飛ぶために。そして今、墜ちるために飛んでいる。

 

薄くなる空気、翼の羽ばたきが役に立たなくなってきた。それどころか大きな翼のせいで、吹き乱れる風にバランスを奪われそうにもなった。対流圏界、"限界高度"がやってきた証拠だった。マイナス70度の冷たい大気、この世界で一番強い風が吹く、冷たい空。空を飛ぶための翼でさえ邪魔になる、冷酷な世界。

 

ソラは大きく翼を広げると、魔力を青く振りまきながら最後の羽ばたき。そのアフターバーナーで最後の加速。羽を体にぴたりと貼り付け、青い流星の姿で上昇した。赤い雲を切り裂き、空気の壁を突き破り、音叉が発するキシキシキシキシキシッという鳴き声を遥か尾羽のほうに追いやって、もしかしたら自らの魂だとか地上との繋がりだとかも振り切って、赤く染まった雲の世界、"限界高度"を突破した。

突き破った雲の向こう。そこでソラは天国のように静かな空を目撃する。

 

成層圏。静かな、静かな世界の果て。重力の始まり。"限界高度"の向こう側。雲一つない、無風の青。

 

〈嗚呼、フロイデ〉

 

口にしたのは歓喜の名前。ソラはその世界で一番天国に近い場所で、生まれてはじめて神様に呼びかけた。青空の向こうに住み賜うはずの神様は、何も答えてくれはしなかったが、それでも満足だった。

 

ソラは祈るように翼を広げた。そして成層圏を静かに上昇した。

 

対流圏界面の雲が、白く渦巻く海の姿で水平線の彼方まで続いている。上空では天体達と青空。朝と夜の境。澄んだ空。上へと昇っていっている筈なのに、まるで空に落下していくような感覚。

 

嗚呼、フロイデ。

 

空に導かれる魂と、大地に導かれる肉体。その二つが今初めて同じ場所で出会ったのを感じた。

 

太陽が昇る。長い夜を吹き飛ばす光の奔流。黒い翼が熱を帯びる。体を包んだ霜と氷が、剥がれ落ちる。剥がれ落ちた氷のぶんだけ、体が軽くなる。フロイデ(歓喜)。その時、ソラは初めて優しい空というものを知った。"限界高度"の向こうにあった優しい空は、透き通るような青色だった。

 

青色。ソラはこの青によく似た瞳を知っていた。ヴィータの青い瞳。荒々しく、厳しく、悲しい赤。その向こうの優しい青い瞳。よく似ている。ソラはヴィータに惹かれた理由を、初めて理解した。彼女は空によく似ているのだ。惹かれないはずがない。そのことに気づかなかった昔の自分に、思わず笑いだしてしまいそうになった。

 

何もかもを捨て去って、軽い体でようやくたどり着いた空の果て。だというのに、軽い心は地上のヴィータを思っていたのだ。

 

そして。

 

〈先輩。今、帰りますね〉

 

黒い左翼が粉々に砕け散った。ほどけていく魔法。翼の下からは真っ白な左手が露わになった。右手は辛うじて翼のままだったが、羽ばたく力は残されてはいなかった。黒いバリアスキンの仮面も割れた。砕けた仮面の下は、柔らかな笑顔だった。

 

睡魔、暖かな空。瞼を閉じる一瞬前、雲を突き抜け、翼を広げる白い鳥を見た。まるで天使、〈いっしょにいこう〉の言葉の通りにソラを追ってきたテレーゼだった。

 

テレーゼをこの場所まで押し上げてきた緑炎が、ふっと掻き消えた。彼女は〈いっしょにいこう〉と呟くと、そのまま雲の海に沈んでいった。

 

〈いっしょにいこう〉とソラも言った。

 

母なる大地の、偉大なる万有引力。

 

二人は成層圏の静かな空から、万有引力にひかれ、墜落していったのだった。

 

 

 

 

 

 

フェイトは天空から白い羽を広げて落下する、真っ白な鳥を目撃した。テレーゼだった。

 

すぐさま足元で飛行術式を編み、金色の光で飛んでいく。速く、もっと速く。雷の速度で加速していく。掴まってと、テレーゼに向かって真っ直ぐ手を差し伸べる。

 

しかし。

 

「飛ぶために生きているの」

 

テレーゼはそう言って、大きく翼を広げた。差し伸べられたフェイトの手を掴む掌は、そこには無かった。両腕を捨てた。掌は風を掴む翼になった。誰の手も握れないという生き方。

 

鳥の孤高。独りぼっちの笑顔。"軽くあれ"ということ。自らの重さを誰かに押し付けないということ。

 

フェイトはテレーゼの手を掴むことが出来なかった。テレーゼは墜落した。そして白いカモメ達の亡骸が浮かぶ、青い海に衝突する。そして未だに荒れる波の間に沈んでいった。

 

フェイトには波の下のテレーゼを助ける術も、見つける術さえも持っていなかった。

 

 

 

 

 

 

「いっしょにいこう」

 

そう言って、スイユは荒れる海に飛び降りた。

 

ティアナは彼を引き留めようと手を伸ばしたが、突如として出現した不可視の壁に阻まれて、彼を止めることは叶わなかった。魔法だった。

 

彼が海に消えた後、不可視の壁も消えた。

 

まるで最初からいなかったかのように、消え去った。黒いコートも黒い帽子も、黒い銃も。純銀魔弾の狙撃と、隠れん坊の魔法だけが取り柄の、名無しのスイユの唐突な最後だった。

 

彼がいなくなったあと、五十余りの空薬夾と、それと同じだけのカモメの躯、硝煙の匂いだけが彼のいた証拠だった。

 

 

 

 

 

 

ヴィータが叫んだ。

 

「あたしの手を掴め!」

 

そしてボロボロの真っ赤な体で滑空した。空から、青く燃える黒い破片を振りまきながらソラが落下していっている最中だった。曇天の雲を突き破っての落下。ソラの体は冷たい体で、あちこちが凍り付いていた。

 

ヴィータは軽い体で加速する。"軽くあれ"。バードランドに面倒事を全て押し付けて手に入れた、軽い、軽い体と心。"私たちは背負わなければいけない"。背負いあい、敵を叩き潰す重さと、空を翔る軽やかさを手に入れなければいけない。

 

壊れかけた軽いグラーフ・アイゼンで魔法を編み、穴だらけの魔法で見えない翼を広げる。深紅の光で空をとび、青い瞳でソラを見つめる。延ばされた手は血まみれ。悲しく痛む紅。強がりな赤。

 

そしてヴィータはたどり着く。落下しながら眠る、ソラのもとへ。

 

左翼は砕けて、真っ白な左腕が見えていた。右翼は無事だった。顔のバリアスキンが剥がれ落ち、氷に塗れた真っ白な面が露わになっていた。風に乱れる髪の下で、瞼は堅く閉じられていた。

 

ヴィータは手を差し伸べて、彼女の名を呼んだ。

 

 

 

「ソラ」

 

 

 

その呼びかけでソラが重たい瞼をこじ開けたとき、一番最初に見えたのは予想外の青だった。

 

成層圏のように澄んだ青い瞳、それが彼女の目を真っ直ぐのぞき込んでいた。ヴィータの青い瞳だった。

 

「ソラ、掴め!」

 

そういって差し伸べられた掌は、相変わらずの赤だった。そこで初めて、ソラは自分が墜落していることに気づく。そしてヴィータが約束を守って助けに来てくれたことに気づく。

 

ソラはヴィータの傷だらけの手を無視して、その小さな赤い体を砕けた翼の左腕で抱き寄せた。そして強く、強く、抱きしめた。愛おしくてたまらなかったのだ。ただそれだけのこと。

 

ソラは最後の力を振り絞り、無事な右翼をめいいっぱい広げた。そしてその翼で風を引っかき、減速を試みた。ヴィータは赤い魔力を燃やして、飛行術式を編んだ。

 

背負わなければならない。背負いあい、抱きしめあい、空を翔る軽やかさを手に入れなければいけない。

黒い翼が風を掴んだ。赤い魔力が万有引力を断ち切った。二人は傷だらけの軽い体で、強く、強く、抱き合った。そして訪れる、柔らかな衝突。墜落。二人は一人のように抱き合ったまま、海に深く沈み込んだ。そして二人で泳ぎ、二人で海面に顔を出した。

 

「初めてソラって呼んでくれました」とソラが笑った。

 

「いつまでも新入りじゃ、可哀想だろ。新入りは今日で卒業だ。この泣き虫め」とヴィータが笑った。

 

泣き虫。ソラはそこで初めて自分が涙を流していることに気づいた。

 

捨てたはずの涙。疲れ果てて休眠したイカルス・デバイス、体管制が外れた結果だった。感情にまかせて涙を流せる喜び。ソラはヴィータを抱き寄せると、その胸に額を押し付けて大いに泣いた。水面が数ミリメートル上昇するくらいの、盛大な泣きっぷりだった。

 

そして一頻り泣いて、赤い目でヴィータの顔を見上げれるようになったころ、仕返しのように呟いた。

「先輩だって泣いてるじゃないですか。お互い様です」

 

ヴィータも青い瞳から、ぽろぽろと涙を流していた。海面が、また上昇した。

 

あの静かな成層圏に良く似た、青く澄んだ瞳。私の大好きな、空みたいな瞳。地上の空。

ただ、ぽろぽろと。

 

二人は泣き、そして笑ったのだった。

 

 

 

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