市蔵ソラは両腕の黒い翼を広げて、クラナガンの海の上を飛んでいた。
訓練前の自由飛行。翼の先を舵のように傾け、体をほんの少しだけ右に倒す。 百メートル大の円を描いての旋回、滞空。広い翼で風を掴み、グライダーのような静かな滑空。
カモメの群が仲間だと勘違いして近寄って来た。白い鳥たちの群、スイミーみたいに一匹だけ黒い翼のソラ。ソラは大きな黒い翼を広げて、カモメたちの風よけになってやる。カモメたちは喜び、機嫌のよい猫のような声で鳴きながら、黒い翼を撫でるように飛んだ。青い海から吹き渡る上昇気流の塩の匂い。冬の海風は冷たく、真っ黒なバリアスキンが洗われるように冷えた。
ふと、脊髄のイカルス・デバイスが刻む時計の音に気づく。チクタクチクタク。時間が来たと、ソラは思った。〈危ないよ。ここはもうじき騒がしくなる。遠くに飛んで行くんだ〉。そう念話で話しかけると、カモメたちはカオス理論のように乱雑な編隊のまま、ソラの飛ぶ空を離れていった。自らの体から翼を生やすものは、ソラにとっては腹違いの姉妹みたいなものだった。私は鳥だ。いくら仕事のためといえ、同じ羽を持つ仲間を巻き込むのは、いけないことのように思えたのだった。だから鳥がさえずり歌うように、危ないよと言ったのだった。
鳥たちは空では独りぼっちだ。羽ばたきながらは、抱き合えない。だから代わりに歌を歌う。歌い、伝えあい、助け合う。温血動物なのだ。温い血の、温い心臓。
〈おいソラ、そろそろ時間だ。バードランドが出撃する。ガイドは頼んだぞ〉乱暴そうな少女の声。第12航空部隊バードランド分隊、ヴィータ副分隊長の声。
〈ヤー(了解)。コールサイン、ヨダカ。これよりバードランド分隊に先行して、敵情視察に移ります〉
強く、大きく羽ばたく。青い空の、一番濃い青を目指して、雲の合間を突き抜ける。羽ばたきだけでは足りない。大腿部から生えた音叉で青い魔力を燃やす。キシキシキシキシキシッ、音叉が震え、高く鳴く。魔法心臓がドクンと脈打ち、冷たい魔力を脊髄から足へ、足から音叉へ、音叉から空気中へと噴出させる。脊髄を魔力が伝わる度に、ギシギシと冷たい痺れ。イカルス・デバイスが駄々をこねている。調子が悪い。
背骨の痺れは、テレーゼを救ったあの日。自らの"限界高度"を超えて、天国のような成層圏に至った時から始まった。最初は疲れのせいだろうと気にしていなかったが。疲れがとれても、怪我が治ってもひかぬ痺れに、ソラは不安に思ってしまった。以前より高く飛べるようになった。以前より速くも飛べるようになった。しかし、何かがしっくりと来ない。痺れる背骨と、成長した飛行能力。その硲で、自由に飛べない苦悩だけが膨らんでいった。市蔵ソラ、十六の冬、初めてのスランプだった。
ソラは魔導師特有のマルチタスク(多重思考)で羽を動かし、音叉で魔力を燃やし、見て聞いて観察し咀嚼し、風をよみ、敵の居場所を探し、脊髄で暴れまわるイカルス・デバイスを宥めつけ、ようやく目的の高度、海上8000メートルの対流圏界面に到着する。
震え上がるほど冷たい青、背骨が凍る音。オゾンの匂いが鼻に染みた。
雲の厚い水蒸気のカーテンを、魔力の魔眼で中和する。開ける視界。観測任務の開始。策敵。
ふと、海上を飛行魔法で滞空する、真っ白なバリアジャケットの魔導師を見つけた。今回、第12航空部隊に教導に来た、高町なのは教導官だった。彼女は魔法の杖、レイジング・ハートを槍のように構え、帯常魔法陣を構築している。その姿に、かつてヴィータを撃ち抜きかけた狙撃手の姿を見いだし、これはまずいと慌てる。
〈ヨダカより、バードランドへ。仮想敵を発見。一時の方向、海上50メートルにて狙撃用砲撃魔法陣を構築し滞空。砲撃されます!〉
〈散解しろ!かたまると、撃ち抜かれるぞ〉隊長シグナムの判断。
ソラの尾羽の方で、灰色のコートの空戦魔導師の一団、バードランド分隊が散解したのが見えた。左翼の方では、仮想敵たる高町なのは教導官がレイジングハートの魔力カードリッジを破裂させ、砲撃用の魔法陣に魔力を喰わせている。弾倉の大きさを見るに、大口径カードリッジ五発が総弾数、今一発リロードしたから、あと四発。眼下で桜色の魔力が収束していく。収束砲、大気中の魔力を己の弾丸とする、砲撃魔導師の一番大きな弾丸。魔法陣が窄まり、トリガーボイスが囁かれるのを見る。
〈第一射、来ます〉
桜色の魔力が海の上を奔った。それは僅か一秒の四分の一、マーチテンポの八分音符の時間でバードランドの陣中に飛び込み、灰色のコートの一つを撃ち抜いた。
〈くそっ、痛てえ。やられた〉撃たれたのはリヴィエールだった。訓練弾が顔面に直撃。一名脱落。
〈嘘でしょう?十キロメーターを超える魔法砲撃なんて〉バードランドのガンナー、ファビアンが驚く。
〈それをやってしまうのが、高町なのはという魔導師だ。人間を相手にしている気分だと、リヴィエールみたく顔面をひっぱたかれるぞ。あれは艦載クラスの魔導砲を幾つも持つ、動き回る小さな砦だ。二手に分かれて挟撃する。狙われたら、躊躇わず逃げろ〉
二手に分かれるバードランド。菫色の騎士甲冑のシグナム分隊長が、ルルーとロビーノを率いる。深紅の騎士服のヴィータ副分隊長が、ファビアンとペルランを率いる。それぞれ密集と散解を繰り返しながら、高町教導官の、桜色の弾丸を避けている。
〈あたしが突貫する。グラーフ・アイゼンで突き崩してやんよ〉いつになく好戦的なヴィータの声。もしかしてはしゃいでいる?なんてことも考えたが、まあそれも作戦なのだろうとソラは思うことにした。
ヴィータの手に握られた突貫槌グラーフアイゼンのラケーテン(噴射機)に、火がついたのが見えた。マギ・ジェット・エンジン搭載の過激なトンカチの推進力で、ヴィータはぐんぐんと加速していき、やがては深紅の弾丸になった。そして高町なのは教導官の目の前に赤いスカートを翻しながら躍り出て、一回転。グラーフアイゼンのアフターバーナーの大爆発で、盛大にぶん殴った。
グラーフアイゼンのヘッドが高町教導官の防護魔法陣に突き刺さる。ヴィータが術式の逆算、解体に入る。ラケーテンのバックファイヤーが二人を飲み込む。
高町教導官が、レイジングハートの穂先をヴィータに向ける。カードリッジが二度炸裂、残弾あと二発。カードリッジの濃密な圧縮魔力でA.C.S.の魔法力場を構築、桜色の翼が羽ばたく。零距離射撃。砲撃魔法の閃光が煌めく。
爆炎。ヴィータの手によって降り抜かれた突貫槌グラーフアイゼンが高町教導官を吹き飛ばし、桜色の魔力光がヴィータを飲み込む。
相打ち。炎の中、スピン(きりもみ)状態で落下していく高町教導官に、追撃を加えようとペルランが飛び出し、ファビアンが魔法陣を構築、弾幕をはる。が、しかし。
〈よせ、馬鹿!"死んだふり"だ〉ヴィータが叫ぶ。同時に、追撃のために単調になった飛行のペルランとファビアンを、いつの間にか出現した桜色の魔力弾群が雨霰と襲う。アクセルシューター、魔弾の群、落下する空薬夾。エース・オブ・エースの恐るべきブラフ。魔力弾は幾百と哀れな二人に降り注ぎ、優秀な誘導弾であるそれは、殆どが命中。
〈死因、検死台にも乗っけられないくらいに滅茶苦茶に混ざり合ったため〉シグナムが、訓練弾で助かったと、ため息をつきながら。
ファビアンとペルランが脱落。ヴィータは孤立無援。シグナム班が助太刀の機会を窺うも、激しいヴィータと高町教導官の鍔迫り合いに、介入の余地なし。
〈ヴィータ先輩。教導官の魔力カードリッジはあと一発。次の大きな魔法の後がチャンスです〉
〈ヤー(あいよ)。おい、ソラ。あたしが合図をしたら降りてこい。んでもって曲芸飛行で、なのはの奴を驚かしてやれ。驚いた隙に、生き残ったバードランドで一斉攻撃をかける。出来るな?〉
〈ええ、もちろん。私は鳥です。鳥の真骨頂は、見ることでも、さえずることでもなく、飛ぶことです。64実験小隊の飛行、見せてやります〉
心臓で青い炎が燃え上がった。足から生えた音叉がキシキシキシキシキシッと鳴き、熱を帯びる。背骨のイカルス・デバイスは依然として冷たく痺れてはいたが、それ以外は良好だった。〈いつでも命令して下さい。私の翼はいつだって大丈夫です〉
ソラは魔力強化された二つの眼で戦状を見て、地上から聞こえてくる念話に耳をすます。
シグナムが手に握ったデバイス、レヴァンティンを弓の形に組み替え、その魔弓を引き絞っている。ロビーノは結界魔導師の空間把握力でシグナムの観測手を務めている。ルルーが二人の周りを飛び回り護衛。即席の魔導砲分隊。
突貫槌が振るわれる。魔法槍が光を放つ。ヴィータと高町教導官の激しい攻防。
高町教導官が、靴から生えた魔力の翼で空を翔る。純白のバリアジャケットを翻し、鈍重なはずの砲撃魔導師らしからぬ軽やかな飛行。そして宙返り。突き出されたレイジングハートの先で魔力が収束、煌めく桜色、魔力の直射砲がヴィータを襲う。
〈アイゼン!盾だ〉ヴィータが己のデバイスに命じる。避ける算段は端から無し。一直線に加速して、ぶん殴るために。
〈ヤー(了解)〉と、機械仕掛けの突貫槌が魔法を編む。ベルカ式の三角魔法陣が出現して、その魔法の盾が桜色の魔力を擦り潰し、引き裂いていく。
「アァアアァアァ!」
咆哮。そして、重たい、重たい、グラーフアイゼンが降り下ろされる。とっさに張られたシールドが、その重たい衝撃を受け止める。
ヴィータが、魔力シールドを突き破らんと力を込める。グラーフアイゼンの演算装置がシールドの術式逆算を行い、高町教導官の盾を蝕んでいく。それでもまだ足りない。堅い、堅い盾。
「アイゼン、ロケットだ」
〈ヤー、ラケーテン・ハンマー〉
グラーフアイゼンのヘッド部分に取り付けられた、プッシャ式マギ・ジェット・エンジンに点火、深紅の魔力が燃え上がる推進力。ヴィータが魔力を注ぐ。アイゼンが火を噴く。子供の姿の小さな赤い騎士と、旧時代のロートル・アームド・デバイスの、恐ろしいチームプレイ、1+1=小さくて高性能な核爆弾のごとき破壊力。その破壊力が、ガリガリ、ガリガリと、高町教導官のシールドを削り、擦り潰し、引き千切り、咀嚼し、喰い潰していく。
そして、待ちに待った瞬間。バスンと、カードリッジの圧縮魔力が破裂する音。その濃密な魔力を糧に再生し復活するシールド。落下していく空薬夾と、レイジングハートのマガジン。ヴィータの叫び。〈降りてこい、ソラ〉
〈ヤー(了解)。ヨダカより、バードランドへ。これより観測任務を中断、援護に移行します〉
"軽くあれ"。ソラは黒い翼をたたみ、航空力学の神秘と揚力の加護を捨て去った。そして、軽い体で一直線に落下していく。キシキシキシキシキシッと足から生えた音叉で魔力を燃やす。加速、背骨が痺れた。"軽くあれ"。痛みは幻想だ。ただの気のせいだと、自らを騙す。痛みは重たい鉄の釘だ。
雲を突き破る。体に水蒸気の抵抗がまとわりつき、体が帯電。開ける視界。青い電子の、セントエルモの光の鎖を引き千切りながら、雲を抜け、戦いの空へと到着する。
体を捻り、翼の先を持ち上げて、緩やかな弧でヴィータと高町なのはの間に割って入るべく加速していく
落下していく体。落下していく魂。重力と、位置エネルギーと、音叉で燃える炎を糧に、加速。そして、たどり着く落下地点。
突貫槌を振るう赤い小さな騎士と、魔法槍を払う白い魔導師。二人が戦う、空。
翼を広げ、空気の抵抗を全身に受けてブレーキ。高町教導官の目の前に躍り出る。
目を見開き驚く高町なのは。突然現れた、巨大な黒い鳥。キシキシキシキシキシッという騒音。その鳥が引き連れてきた衝撃波、音速を超えて落下してきた証拠。全てが規格外の想定外で、それが教導前の資料で見た市蔵ソラだとは気づくことは出来なかった。
ソラはなのはを見ると一瞬だけ微笑んだ。靴から生えた、魔力の翼。もしかして、同じ翼を持つ仲間。
〈あなたの相手は私です〉
そう宣言すると、青い魔力の推進力で一直線に海面へと急降下。我に返った高町なのはが、アクセルシューター、誘導弾を放つ。魔弾の群がソラを襲う。リンカーコアの青い魔力を脊髄のイカルス・デバイスを介し、音叉に直接吹き付ける。爆発、青い魔力が燃え上がるアフターバーナー。急加速。避けるのではなく、追いつかれないという選択。桜色の魔弾よりも速く空を翔け、一直線に海へと飛び込んでいき、ぶつかる寸前。慣性制御で重心を後ろにずらし、推進力をカット、翼をめいいっぱい広げて体を持ち上げる。尾羽が海面を叩き、灼熱したそれが水蒸気をあげたところで、再び燃え上がる青い炎の推進力。ダイブ・アンド・クライム(急降下、そして上昇)。上昇しきれなかったアクセルシューターの誘導弾が、次々と海面に突き刺さり、破裂。キラキラと光る飛沫の中を、風を切って飛んでいく。
背面飛行。海を背に、空を仰ぎ見る。上空ではレイジングハートを構えた高町なのはが、砲撃用の魔法陣を編んでいる。万華鏡のようにキラキラと煌めく二重の模様。誘導弾ではなく、スピードのある一撃で仕留めようとしているらしい。マガジンは空のまま。チャンス。
〈ヨダカより、バードランドへ。"今"です〉
桜色のディバイン・バスターが放たれた。それは恐ろしい速度で真っ直ぐにソラに向かって飛んでくる。10キロメートル・オーバーを一秒の四分の一で駆け抜けてリヴィエールを脱落至らしめた、高町なのはの主砲。
翼を捻る。音叉を振り、急加速と急旋回。ブラックアウトしてしまいそうな慣性を魔法の力でどうにか誤魔化し、クライム・アンド・ロール(上昇、そして回転)。体から引き剥がされた衝撃波が海面を叩き、水蒸気と飛沫が巻き上がる。左翼に熱、桜色の直射砲が掠めた証拠、音速飛行で灼熱していたバリアスキンがとうとう剥がれ落ち、青く燃える。冷却術式を組ながら上昇。燃え上がる炎、背骨を伝う冷たい術式。冷たい、冷たい痺れ。体の芯から凍りつく。冷たい、冷たい、"両足を失ったあの日の空"。地面に引かれていく体、空に惹かれていく魂。目眩がして、空が海で、海が空で、どちらも青い、青い、深い引力で。
空と海の区別がつかない。突発性の空間失調、どこに飛べばいいのかがわからなくなる。ふと、混濁する意識の中で、赤い煌めきを見た。世界を覆い隠す青を跳ね飛ばす、深紅の輝き。
鳥の心が囁く。あの赤に向かって飛べばいい。"軽くあれ"。あの赤が全てを背負ってくれる。
見失った平衡感覚と、曖昧な自分を捨て去り、鳥の心が囁くままに、その赤を目指した。
赤は、高町教導に向かって鉄槌を振りかざし突進する、ヴィータだった。
降り下ろされたグラーフアイゼン、砕けるシールド。ヴィータが「今だ!」と叫ぶ。放たれる火矢、シグナムの魔弓から放たれたシュツルムファルケンの魔力炎が宙を焦がす。
やがて背骨の冷たい痺れが収まり、海と空の区別がついた頃、全ては終わった後だった。
〈模擬戦闘訓練終了、バードランドは帰投せよ。高町教導官、仮想適役ご苦労だった。やりすぎてしまったようだか、大丈夫か?〉シグナム隊長の帰投命令、そして気遣い。
〈丈夫なのだけが取り柄ですから。なんでしたら、もう一戦交えますか?〉高町教導の応答。鼻にかかった可愛らしい声で、ソラは思わず笑ってしまいそうになる。戦技教官というよりも、保育園のお姉さん。
「おい、なにニヤニヤ笑ってんだ?腹が減って仕方ないんだ。さっさと帰るぞ」
ヴィータがソラの回りを器用に飛び、話しかける。
〈いや。高町教導官とヴィータ先輩、二人で組んだらいいロッテ(二師編隊)になるだろうなって。ヴィータ先輩が暴れて、高町教導官が守って〉
想像するのは保育園の先生みたいな砲撃魔導師と、子供のように真っ直ぐな意志で暴れまわる赤い騎士。
「ああ、そうだな」とヴィータが笑う。「でも、たまにはあたしだって守るぞ」
何故だが寂しげな表情でそう言ったヴィータは、そのまんま飛び去っていった。
私も帰らないと。
ソラも自らの巣である、第12航空部隊のすきま風吹き荒ぶ隊舎へと帰るべく、羽ばたいた。遠くに見える深紅の光、あれを追っていけばいいと、鳥の心が呟いた。
†
訓練を終えた市蔵ソラが車椅子の車輪をカラカラ回して医務室にたどり着くと、そこには先客が居た。高町なのは教導官が、医務官のシャマルの診察を受けていた所だった。
敬礼。「市蔵ソラ二等空士です。高町教導官。先ほどの教導はお疲れさまでした。もしかして、お怪我ですか?」
なのはは、はだけていたシャツを着直しながら「"なのはさん"でいいよ。口調も楽にね」と笑い、「昔の怪我が、ちょっとね。車椅子ということは、もしかして市蔵さんも怪我かな」打って変わって心配そうに。
「足は元々です」と、義足のフレームをコンコンとノックする。金属の硬い音。「ここに着たのは、まあ、思春期特有の悩み故にと言うことで」と誤魔化す。本当は、嘘。模擬戦中に自らを襲った、麻痺と空間失調が怖くなって。
「あとで報告頂戴ね。教導先の隊員のメンタルチェックや相談事も、教導官の仕事だから」
「忙しいですね。疲れません?」
「大丈夫、今回は見知った仲間も多いしね。それに、飛んでいる間は疲れなんてどこかに、ね」
「ああ、確かに」
どんなに疲れていても、空に上がれば軽くなる心と体。空戦魔導師の習性と言うべきか、つまりは高町なのはも市蔵ソラと同じ、翼の生えた空の人だった。
「気が合うかもしれませんね」
「うん、きっと」
そして敬礼と挨拶、白と青のスカイカラーな教導隊服をキッチリと着込んだなのはは、そのままどこかへと去っていった。
「それで、市蔵さんはどうしたの?」
カルテを片付けながら、シャマルが問う。
「例の麻痺、想像以上に酷くて。今、看てもらうことってできますか?」
「ええ、大丈夫よ」
検査が始まった。
†
検査を終えて、ソラが義足を脚に填めたり、服を着直したりしていると「驚きの結果ね」とシャマルが呟いた。彼女の手には、レントゲンの写真。
「イカルス・デバイスが、成長している」
写真を光るシャウカステンに透かしながら、そう言った。
「市蔵さんは、自分の脊髄に埋め込まれたイカルス・デバイスの融合率を知っている?」
「数値的にはあまり。でも、融合箇所は脊髄と小脳の一部を辿って海馬の付随脳の辺りまでって聞いています」
「そのとおり。航空64実験小隊から譲り受けた、あなたのカルテにもそう書いてある。でもね、今調べてみたら、全然違っていた」
カツカツと考え込むようにボールペンをノックして、シャマルは言う。
「脊髄というより脊椎、つまりは背骨全体にデバイスの融合と癒着が見られる。それだけじゃない。視神経や腕の運動神経にも擬似的なニューロン・パスを作っているし、小脳どころか大脳にさえ融合は達しかけている。ついでに言えば、小脳の下のあたりで擬似的な脳さえも作っている。もしかして最近、イカルス・デバイスの声が聞こえたりしない?」
「いいえ」とは言って、しかし思い出す。"あの赤に向かって飛べばいい"。「いや、心当たりはあります。でもイカルス・デバイスは人格非搭載型の融合騎でしょう?人格なんか、」
「テレーゼ・F・ブルンスヴィック二等空尉の事例で、イカルス・デバイスが人格を学習したケースが見られた。あり得ない話ではないの」
最後に二等空尉とつけてくれたことに、ソラは素直に嬉しく思う。テレーゼは、階級を剥奪された状態で入院中だった。退院の見通しはたたず。
「二人の意志で、一人の体を動かすんですか。そんな重たいタンデム飛行なんて、やってられません。"軽くあれ"です。それで、対処法とかはありますか?」
「ない」とシャマルは即答。「イカルス・デバイスからのコンタクトも、癒着したデバイスによる脊椎の痺れも、過剰成長、つまりは成長痛みたいなもの。時間が解決してくれるはずよ」
成長痛、たしかにと思う。"限界高度"も"限界速度"も、旋回の最小円径や減速したときの安定、果てには視力や風を読むセンスさえも今までより成長した。しかしまだ、バラバラなのだ。どうにか魔導師のマルチタスク(多重思考)で繋いでいるだけ。まるで蝋と引き抜かれた借り物の羽根で固めた、イカルスの翼。そのことを今回の模擬戦で嫌と言うほどに理解した。
すべては"限界高度"を超えて、天国のような成層圏に至った時から始まった。
地面に引かれる体。空に惹かれる魂。鳥に変身していく背骨。鳥の心が囁く。"軽くあれ"。あの赤に向かって飛べばいい。あの赤が全て背負ってくれる。
「怖くないの?」シャマルの問いかけが、ソラを思考の世界から現実に引き戻す。
「怖くは無いです。私は鳥です。鳥になっていく体も、遠くなっていく地面も、とうの昔に覚悟していたことです」
そう言ってから、診察台から車椅子へと身を移す。ありがとうございました。お礼をして、医務室から出ていこうとする。ふと、奇妙な想像が脳裏をよぎり、最後に質問をしてみた。
「もし私の頭の中が、全てイカルス・デバイスになってしまったら。その時も私は私ですか?」
「そう願い続けるならきっと。細胞でさえ、心筋細胞を除けば数年間で全部入れ替わってしまうんですもの。心臓を人工心臓に取り替えたって、その人はその人でしょ。昔、弁護士さんも言っていたわ。人間は"途切れなければ"その人のままでいられるって」
弁護士、おそらくヴィータが"悪役"だったころの話。弁護士が言うのだから、正しい間違っている云々は兎も角、道理にはかなっているのだろう。多分。弁護士は屁理屈も並べるから。
ソラは質問を重ねる。
「途切れたら?」
「それ即ち、魂の死だって」
なら多分大丈夫。私は鳥だ。昔も。今も。そして多分、これからも。
ソラは改めて「ありがとうございました」とお礼を言い、医務室から出て行った。