防疫08部隊、アハトの隊長は、輝く光の魔道言語でクローン・ウーファたちに命令を送っていた。
――壊せ。焼き尽くせ。炎を広めろ。
腕にはめたグローブ型のデバイスの補助で宙に浮かび上がった幾何学模様のテンプレートは、アンテナとなって彼の声をアハトのカラスたちに伝えた。
「宣戦布告だ。この場所から、私の新しい一歩が始まるのだ」
そう隊長は呟いた。
「ええ、愛するあなた。偉大なるあなたの歩みはここから始まるのです」
彼の隣に控えていた副官、戦闘機人のドゥーエはそうい言った。
「ありがとう、ママン。父さんが、ゲオルグ・テレマン父さんが死んだ今、ママンだけが僕の味方だ」
「そう。私だけが味方よ。私が産んだ、私を作った愛しいあなた」
狂った会話だった。普通ならばつじつまの合わない、奇妙な会話だった。ママン(母)が子を産み、子がママン(母)を生み出す。しかし、それであっていた。隊長とドゥーエは、そんなタイムパラドックスに満ちた、矛盾だらけの愛の只中だった。ウロボロスの蛇みたいに、自らの尻尾を食む、矛盾に満ちた永久輪環の愛だ。
二人はアダムとイブみたいに笑っていた。小高い丘の高台から、自らが操るカラスたちが街に火を放っていく様子を眺めながら、似たような笑顔で笑っていた。隊長の顔はガスマスクで覆われていて見えなかったが、声や雰囲気だけで、似ていることは一目瞭然だ。母と子のように。父と娘のように、つがう男女のように。二人はそっくりだった。
火が燃える。街が燃える。にくい敵が燃える。カラスも燃え、仲間が燃える。原始的な炎の誘惑が、二人を高ぶらせる。初めて人類に火を与えたプロメテウス。その原始的で神話的な幻惑が、科学的な体のデゥーエと、科学的な思考の隊長を魅了していた。
それが命取りだった。
遠くのビルに、輝く光が見えた。
天体たちがざわめく、魔力の光。二重に噛み合う、魔方陣のカレンド・スコープ。桜色の奔流。まるでスタラーイト。シュテールネンテルツの輝き。
それは光の速さで空気を破り、愛し合う二人を飲み込んだ。
高町なのはの、一番綺麗な弾丸。砲撃魔法、魔法の名前が紡がれる。
――スターライト・ブレイカー。
桜色の魔力が、全てを飲み込もうとしていた。
†
ビルの上で、高町なのは教導官は魔法を放っていた。
スターライト・ブレイカー。彼女の持ちうる、一番大きく、一番綺麗な魔法だ。
魔法を紡ぐ。はるか遠くの三千メートル先。高台でステモシーバー(生体ラジコン)術式を紡ぐ防疫08部隊隊長に、鋭いレイジング・ハートの穂先を向けて、魔力を注ぐ。
「悲しみを吹き飛ばそう。止めなくちゃいけないんだ」
叫びを上げる。心からの叫び。槍を保持して、敵へと放つ。魔法を放つ。
桜色の幾何学模様で描かれた二重の魔方陣、それらが魔力を収束して弾丸へと成す。自らの持てる魔力を全力で費やし、打ち抜くべき敵へと全開で魔力を注ぐ。撃ち放つ。
しかし、足りない。隊長の目の前に立ちはだかり、見たことのないテンプレートの光でスターライト・ブレイカーを防ぐ、副官ドゥーエの姿。両の手を突き出し、輝く光子のエネルギーでシールドを張り、身を挺して隊長を守っている。子を愛する母の愛。父を慕う娘の愛。禁忌の混じった男女の愛。墓から掘り起こされたときに狂ってしまった、環状感情回路。それらが頑なな力となって隊長を守る盾となった。
対決だった。
「レイジング・ハート。力を貸して。カードリッジ、リロード」高町なのはの叫び、そして祈り。
「オーライ」と魔槍レイジング・ハートが相槌をうつ。バスンバスンバスンバスンバスン! 狂気さえもはらんだ、魔力カードリッジ全弾開放の力強い五連譜。その轟きが魔力の濃密なアフターバーナーとなって、砲撃魔法の威力を上乗せする。
桜色が咲き乱れる。桜吹雪。香り立つような濃密なツァウベル(魔力)が、全てを飲み込んでいく。星空が落っこちてくる。
ドゥーエも負けていない。エネルギーが全身を駆け巡る。それが桜色の魔力を弾き返す。それでも受けきらない魔力は、全身で受け止めた。腕を広げ、足を踏ん張り、歯を食いしばる。体中で金属のフレームが軋む音が聞こえた。機械仕掛けの体中で、ギアが唸る。リュウズが軋む。ベアリングが乾き、コンデンサが沸騰する。基盤が焼け爛れ、冷却のシステムが追いつかない。荒れ狂う冷却ファンの換気で体が穴だらけみたいに凍え、荒れ狂う桜色の魔力の奔流で焼き尽くされた。矛盾する二つの苦しみが彼女を覆いつくす。それでも負けられない。矛盾には慣れていた。機械でありながら、生命。娘でありながら、母。他人でありながら、自分。そんな矛盾だらけの自分を愛してくれる隊長の存在を背中に感じ、桜色の嵐が尽きるのを待つ。
対決だった。
勝敗が喫する。
高町なのはの魔力が尽きる。レイジング・ハートが地面に落ちた。白いバリアジャケットが地に付こうとする。隣で祈るように手を握り締めていたヴィータが、倒れこむなのはの体を支えた。
「よくやったよ。カラスたちはもう動かない。みんな終わったよ」
街中のカラスが、大地に墜落しようとしていた。アハトの隊長の操作が溶けたのだった。隊長はカラスたちを操るステモシーバー術式を解き、ドゥーエを守るように強力なアンチ・マギ・リンク・フィールドの盾をくみ上げていた。隊長のくみ上げた、魔力無力化の術式のお陰で、ドゥーエは立っていた。
愛し合う二人の勝利だったのかもしれない。
ドゥーエは振り返る。そして、ステモシーバー術式を投げ出して自らを救ってくれた隊長に微笑みかけようとした。
銀色の弾丸が隊長の左手を引きちぎったのはその時だった。
コンマ数秒遅れで聞こえる銃声は、音速をこえた弾丸の、質量弾狙撃の証拠。魔力伝導率の高い純銀製の重たい弾丸が、すべての魔術的防御を素通りして、真っ直ぐに隊長の左腕を奪った。防護服の防護術式を引き裂き、皮を削り取り、肉を食み、骨を租借し、痛覚神経を舐め上げて、透明なシューベルトの魔王みたいに隊長の左腕を刈り取っていった。
銃声。ドゥーエの優秀な聴覚センサーが狙撃手の位置を捉えた。狙撃手は、なのはとヴィータのさらに一キロメートル後ろのビルの屋上に立っていた。
狙撃手は背丈ほどの真っ黒な狙撃銃を持っていた。ブカブカと羽織ったフィッシュテール・コートが風に靡く。その下は、なぜか刑務所の看守の制服だった。その制服に、ドゥーエは見覚えがあった。ついさっきティンダロスの猟犬で殺してきた、カルロス・サルツェドが収監されていた刑務所の制服だ。しかし、それもすぐに思考の片隅に追いやられた。愛する隊長の悲鳴が、すぐ隣であがったからだ。遅れてきた、痛みの絶叫だった。
ドゥーエは左腕を失った隊長を抱きかかえると、全力で走り出した。こういったとき、彼女の固有機能はまったく役に立たない。彼女は諜報用にデザインされたサイボーグで、人に化けることは得意でも、あたりの景色に溶け込む機能は備わっていなかった。
銀色の弾丸が飛来する。魔弾の射手の自由狙撃。愛し合う二人を撃ち抜こうとトリガーが引かれる。黒いバレルが炎を吹く。望遠スコープの十字架瞳が彼らを逃さない。
弾丸がドゥーエの背中に命中する。あばら骨の炭素フレームが捻じ曲がり、酸素供給が阻害される。光学伝達脊椎の命令系統が断裂、左足が痙攣する。それでも腕の中の温もりだけは手放さないように、硬く抱きしめて走っていく。ビルの陰を走りぬけ、魔弾の射手の射程外へと逃げ去る。
いつの間にか通り過ぎていたゴールライン。
いつしか銃声は止んでいた。
助かったのだ。腕の中で隊長も笑っていた。大急ぎで治療を施して、千切れた左腕の血を止めてあげた。
「私たちは助かったんだ。逃げ延びている限り、私たちの勝利だ。そうは思わないかね? ママン」
「ええ。あなたの仰るとおりですもの。私たちの勝利です」
互いに互いの体を手当てする。手負いの番の獣が舐めあうように、愛し合うように。丁寧に治療していく。そうして動けるようになったころ、廃棄された地下鉄をとおって逃げ延びた。地下には、すでに待ち合わせた協力者がいて、安全地帯まで一直線だった。
「私たちの勝利だ」
「ええ、私たちの勝利です」
二人の笑い声が、クラナガンの底に響いた。
†
なのはは、ヴィータの腕の中で狙撃手の姿を見た。砲撃魔導師の優れた視力が、彼を逃さなかった。
狙撃手の彼が、深々とかぶっていた制服の帽子を脱ぎ、拜拜(バイバイ)と振った。現実味のない、不思議な人。幽霊みたいに消えてしまいそうな、死んでしまったはずのあの人。
白睡魚だった。
その隣に、真っ白な天使が舞い降りる。白く流れる、長い髪。緑色に燃えるエメラルドの瞳。両腕は真っ白な翼。テレーゼだった。
その背中には、真っ黒なドレス。真っ黒な髪。そして月のように白く眠る、白烏花の姿も。
手を伸ばした。しかし、当然届かなかった。
見る見るうちに、睡魚の紡ぐ透明な魔法で、三人の姿が消えていく。高度な隠蔽の魔術で、幽霊のように消えていってしまう。
「行かないで。お話をきかせて」
声は、願いは届くことなく、三人は消えてしまった。
最後に見た三人の顔は、いつかの烏花の部屋で見た窓際の写真みたいに幸せだった。睡魚だけが、困ったような苦笑いだったのもそっくりだった。
――半端なオシマイだけど、まあいいか。
そんな風に考えてしまったのは、苦笑いの彼からの影響だろう。
きっとそうだと、心の中で言い訳した。
†
ゲオルグ・テレマンの陰謀を探っていたフェイト・T・ハラオウン執務官とティアナ・ランスターあてに、手紙が届いた。それは何故か彼女らの車の座席に直接放り込まれていて、文鎮の代わりに刑務所の看守の帽子が添えてあった。
「贖罪をしたい。贖罪のために真実を伝えたい」の書き出しで始まったその手紙は、死んでしまったカルロスサルツェドからの手紙だった。
それを読んで、二人は全てを知った。
この事件の黒幕を。
そして、自らの運命の業の深さを。
もしかすると、絶望も。
すぐさま真実を伝えるべく、現場を仕切っている航空12部隊の八神はやて部隊長にコールした。繋がるまでの僅かな時間さえもまどろっこしい。「はい、もしもし」とようやくはやてが電話にでた時、一番に二人の口からでたのは「遅い!」の叫びだった。
「遅いって言われても。こっちも色々と大変なんや」と、のらりくらりとした八神はやて部隊長。
「遅いもなにも。犯人が、黒幕がわかったんだよ。あわてないほうがおかしいよ」と、舌をかみそうな早口で捲し上げるフェイト・ハラオウン執務官。
「ああ、真犯人は別にいて、ゲオルグ・テレマンはそいつに操られていた。そういう話やろ」
「なんで知ってるの!」
「なんでも、なにも。もしかしてテレビ見てないんか」
「うん。ついさっきまで墓暴きをしていて、ようやく現地の捜査官に引き継いだところ」
ふう、と大きくため息をつく八神はやて。心底あきれた様子で「テレビを今すぐつけてみい。どんな頑固なシャックリでも、一発でとまるくらいにビックリできるから」
はやてとフェイトの会話を盗み聞きしていたティアナが、いち早く車に備え付けられていた映像端末のスイッチを入れた。その迅速な行動のお陰で、心の準備が出来ていなかったフェイトの心臓は、凍りつくことになる。
――ひさしぶりだ。ミットチルダに住まう、善良なる市民の諸君。私の名前はジェイル・スカリエッティ。ついさきほど管理局から離反し、クラナガン中に細菌をばら撒こうとした、防疫08部隊の隊長だ。
遠い世界の牢屋の閉じ込められているはずの彼が、ディスプレイの中で笑っていた。
彼の左腕は千切れていて、血まみれの悪魔みたいな笑みだった。
†
贖罪をしたい。贖罪のために真実を伝えたい。
私カルロス・サルツェドと、彼ゲオルグ・テレマンの人生がいかれてしまった切欠は、JS事件が終わった次の春にあったと記憶している。そのころの私は、管理局の医療研究部で人工臓器やサイボーグ技術による、移植手術や蘇生術の研究に明け暮れていた。そして、テレマンは提督のポストに着き、いくつかの野心的な部隊設立を成功させ、JS事件を起こしたジェイル・スカリエッティの残した技術の管理を任されるようになっていた。
彼とは古い付き合いだった。それが幸いしたのか、それとも不幸だったのか。私には判断しがたい。彼には何度も邪魔された。しかし、昔の友情が邪魔して、憎むことが出来なかった。まだ現場職にいたころの彼は、希望に満ち溢れていた。そして、私のよき友人だった。そんな過去の友情が邪魔をして、彼を憎みきることが出来なかった。
話それてしまった。時間はないのだ。いそがねばいけない。
要点だけ話すならば、私はテレマンに、とあるガイノイドの修復と、その体に眠るクローン生命の培養を依頼された。私は昔の友の頼みを聞き、すぐさま作業に移った。
ガイノイドのほうは、完全に治すことは出来なかった。生体部品を取り替えながら、植物みたいな生命を繋いだだけで、腐らせないようにするのがやっとだった。そのことをテレマンに伝えると「ガイノイドはいい。クローン体の培養だけは、必ず完成させるように」と言われた。そして多額の研究費と、かつてジェイル・スカリエッティとプレシア・テスタロッサが関わったとされる死者蘇生プロジェクト。『FATE(フェイト)』計画の草案、結果報告、検体の資料を渡された。私の仕事は、ガイノイドの腹から取り出したクローン体を、プロジェクト・フェイトのプランに沿って培養するだけだった。それだけで、そのクローン体は胚になり、胎児になり、やがては赤子として生れ落ちた。プロジェクト・フェイトの記憶念写技術や成長促進によって、クローン体は一ヶ月あまりで大人の体を手に入れた。
クローン体は、あのジェイル・スカリエッティのクローンだった。
クローン・スカリエッティは、少し不安定なところはあれども、その脳はオリジナルに負けるとも劣らない天才だった。
私がさじを投げたガイノイドを修復してみせ、彼女のことを「ママン」、すなわち母と呼ぶようになった。そして、彼が生まれるきっかけを作ったゲオルグ・テレマンのことを「父さん」と呼ぶようになった。クローン・スカリエッティは母を慕い、愛した。そして、父親に対して従順に従った。テレマンは、第二のスカリエッティという優秀な研究員を手に入れ、ますます力を強くした。
やがて、テレマンはクローン・スカリエッティを防疫08部隊の隊長に推薦することになる。暫くして、最後まで反対していた現役の隊長が自殺して(もしかすれば、それもあの悪魔のせいだったのかもしれない)、クローン・スカリエテッィは防疫08部隊の隊長に就任した。同時に偉大なる母、ガイノイド・ドゥーエを副官として招いた。
ここまでは、すべて順調だった。テレマンは力を蓄え、私は天才の紡ぐ奇跡の数々を目撃した。そして私自身も研究成果を上げてきていた。
そのはずだった。
最初はテレマンがおびえだした。「悪魔だ。言うことを聞かないんだ」と、言っていた。才能を持ち、自由に研究できる場所を持ち、ドゥーエという協力者を持った、クローン・スカリエッティ。今や彼は、一つの部隊を手に入れ、権力さえも手に入れかけていた。いつの間にか、私たちはクローン・スカリエッティのパペットと化していた。操り人形だ。
そして、あとは転落だった。
奴は悪魔だ。そのことを全ての人間が知らねばいけない。だから私はペンをとった。願わくば、この手紙があの悪魔を倒す銀の弾丸になるように。そう祈りながら、私はこの手紙を“彼”に預けよう。かつて私を撃ち殺そうとした、しかし今では最大の理解者である“彼”に。
それが私のできる、精一杯の贖罪である。
†
夜が明けようとしていた。
朱の空と燃え上がる街の赤が混じりあい、世界は燃え上がっていた。まるで世界の終わりだった。
その世界の終わりの空を、市蔵ソラは飛んでいた。
世界を成層圏から見下ろす。アハトのカラスたちが落っこちていく様子が見て取れた。黒色の防護服をバタバタとはためかせ、地上へと墜落していっていた。捨てられた玩具の最後だった。
正しく、世界の終わりだ。死者が蘇り、生人が死ぬ。だれも報われることなく、ただ悪戯に傷つけあった夜が明ける。
天国のような成層圏を、天使のように飛びながら、ソラは思う。
世界が終わった。私たちは、終わったあとの世界を生きていかなければいけないんだ。
全てが見えた。
高町なのはは、手を伸ばしていた。消えてしまった白睡魚の幻想を掴もうとしていた。かつて星を掴もうとした少女は、救えなかった一人の男を掴もうとしている。恋心でもなく、親愛でもなく、友愛でもなく。唯々真っ直ぐな正義の心で、救おうとしていた。その手は、今はまだ空っぽだ。
フェイト・T・ハラオウンは、昔の幻想にとらわれていた。プロジェクト『FATE』によって産まれた、人造の体。同じ技術によって生れ落ちた、クローン・スカリエッティの存在を知った。彼女はきっと重たい過去に押し潰される。もしかしたら、その重さに耐え切れなくて飛べなくなるかもしれない。過去は重しだ。“軽くあれ”。過去を放り出すために、決着をつけなければならない。
ティアナ・ランスターは、フェイトの隣で寂しそうなそうな顔をしていた。全て、他人事だった。白睡魚と高町なのはの邂逅も、フェイトがテレーゼに寄せる思いも、プロジェクト『FATE』だって、全ては他人事だった。当事者でないんだ。隣で過去に押しつぶされそうになっているフェイトを見て、何故か羨ましいと思ってしまった。寂しかったのだ。ポケットに手を突っ込んで、鑑識からくすねて来た銀色の弾丸に手を触れた。それで、どうにか、当事者になれたような気がした。
八神はやては、耳を澄ませ、目を開き、全てを受け入れようとしていた。そして、最善の未来を探っていた。幸せでないといけないんだと、一生懸命に現実を直視していた。自分だって幸せにならないといけないのに、そのことに彼女は気付いていない。
秘密の場所で、抱き合う男女を見た。母と子のように。父と娘のように。愛し合う恋人たちのように。優しく抱き合っていた。幸せそうだった。応援してあげたいような気分になったけれども、彼らは敵だった。あの幸せを潰さねばいけない。私たちの幸せのために。それは間違いなく、翼を押しつぶすウェイトだった。
シグナムは炎の上を飛んでいた。バードランドの隊員たちに指示を出し、炎に飲み込まれようとする管理局の魔導師たちを救おうとしていた。同時に墜落していったアハトのカラスも救おうとしていた。彼らは既に死んでいた。それでも、すこしでも炎から遠い場所へと抱えていった。きっと過去がそうさせたのだろう。闇の書の奴隷だったころのシグナムの姿が、そのままそこにあったのだろう。彼女も過去にとらわれた者の一人だった。
吼えるザフィーラがいた。烏花そっくりのカラスたちの骸の地獄で、延々と吼え続けていた。帰ってこない烏花。彼女を守るための盾で、彼女そっくりのカラスを殴り殺した。盾でいたかったのだ。ただ、頑なに。それだけのこと。
全てが見えた。高い成層圏の空からは、全てが見えた。
ソラはその悲しみに押し潰されそうだった。
《私たちは、背負わなきゃいけないんだ》
燃え上がる、終わる世界を眺めながら、ヴィータが言った。
《ええ。背負わなくちゃいけないんです》
燃え上がる、終わる世界を眺めながら、ソラは言った。
世界が終わる。
新しい世界がやってくる。
世界はいつだって重い、地球の重さ。
その重さを想いながら、私たちは飛ばなくちゃいけない。
万有引力が、私を世界に縛り付ける。
私が万有引力から開放された日、私は天国に上がっていくのだろう。
この、終わる世界のように。
重さとは、生きることなんだと、ソラは思った。軽さとは、小さな死なんだとヴィータは思った。二人とも正解で、間違いだった。
遠くの地平に、太陽が輝く。終わった世界を、燃え尽きた世界を照らし出す。真っ白な灰。煙が雲になる。涙が蒸発して雲になる。全てが雲になる。天国を支える雲になる。
天国みたいな成層圏に、大きな雲が出来た。沢山の灰と、涙と、その他諸々の感情でできた、大きな雲だ。
その中で、ソラは隠れて泣いた。水分と塩分のロスを渋るイカルス・デバイスのせいで涙は出なかったけれども、その積乱雲は集中豪雨の雨粒たちをふくんでいて、それがそのまま彼女の涙となった。
百万トンの涙が降ってくる。終わりの世界の炎を消す。死者の灰を洗い流す。彼岸花の飲み水になる。炎のように、リコリスの花弁が燃え上がる。
ヴィータが泣いていた。積乱雲を見上げながら、雨に隠れて泣いていた。
青い瞳からあふれ出る摂氏36・7度の優しい涙。
幸せにならなくちゃ、報われなきゃいけないんだ。そういって青い瞳が泣いていた。
全てが泣いて、百万トンの涙が終わった世界の炎を消し去った。
みんな悲しいんだ。重たくて。だから不時着前の飛行機みたいに燃料を捨てる。ぽろぽろと、瞳の奥から流しきる。悲しみは燃料だけれども、その水銀のような重さに耐え切れる人は少ない。
ただ、泣き続けた。
戦争のオシマイは、いつだって涙だ。