市蔵ソラはただ一人、夜の海を飛んでいた。西風が強く、低い雲がちぎれ飛ぶ、天体達の眩しい夜空だった。
〈ヨダカより、H・Q・ビレッジ・バンガードへ。"群鳥"は未だ目視出来ず〉
〈H・Q・ビレッジ・バンガードより、ヨダカへ。"群鳥"は貴官の18海里前方を23ノットで飛行中〉
〈ヤー(了解)〉
大きく黒い翼を広げ、脚の『音叉』で静かに青い魔力を燃やし飛んでいく。速さは要らない。必要なのは静かであることと、疲れないこと、そして"群鳥"に気付かれないことだった。気付かれたくない。それ故に、ソラは探知魔法を使わず自分の目と最低限の暗号念話による管制だけで飛んでいた。探知魔法はうるさい。魔力を飛ばし、目標から跳ね返ってきた魔力を聞いて距離と方向を計るのだ。そんなうるさい魔法を使ったら、"群鳥"に気付かれてしまう。だから目と耳と風を切る羽の感覚のみで飛んでいく。夜目のきくソラだからこそできる、夜間飛行だった。
不意に、顔面にヒヤリとした風を感じた。冷たい海風の中でも、よりいっそう冷たい湿った風だ。不思議と潮の匂いが薄い風。"嗚呼、雨が来る。"ソラは全身を覆う黒いバリア・スキンを少しだけ厚くした。
風が乱れた。ソラは、擬人化された夜空が黒いマントをはためかし、自分の空路を閉ざそうとしている姿を幻視した。直に冷たい雨も降り始め、雷が海面に落ちた。雲が光り、閃光が走り、風が踊り回る。雨は雪に、雪は雹(ひょう)になり、嵐と氷と電子の嵐がソラの目の前に出現した。
風がキシキシと黒い翼を揺さぶった。雹がバリア・スキンを打ちつける。雷の合間を縫いながら、鼓膜をつん裂く轟音に耳を塞ぎたくなった。しかし彼女の手は今は羽で、ただ我慢するしかなかった。
嵐だ。
ソラは顔面に打ちつける雨を、黒い仮面越しに感じながら、心の中で呟いた。
〈ヨダカより、H・Q・ビレッジ・バンガードへ。天候が酷く、目視での確認は無理です。一旦、雲を抜けて雨雲の上にでます〉
〈受諾しました。レーダーによると"群鳥"は嵐を突っ切って暴風圏から抜けようとしています。上空ではち合わせるようなことは無いと思いますが、気をつけてください〉
ソラは羽ばたいた。進路はそのままに、しかし上へ上へと飛んでいった。そして、空を覆う雲の天井の中へ真っ直ぐ突っ込んでいった。
雲の中は飽和状態の電子で溢れていた。雹と雹がぶつかり合い、そのたびにパチパチと火花を散らす。それが溜まり、雲の中で帯電し、盛大な閃光と破裂音を伴って雷の姿になった。雷は雲と海の間を走り回り、時々はソラの体に落ちてきて、黒いバリアスキンの表面を通って『音叉』の上をパチパチと走り抜けた。そして雲の中に消えるか、海に落ちていった。
雲の中を飛ぶとき、ソラはまるで自分が雷みたいになったように感じる。空気や氷粒の抵抗で体に静電気が溜まり、バリアスキンを走り抜けたあと、『音叉』で青白い光を放ち消えていく。そのバリアスキンごしの感覚がソーダの炭酸のようで、とても好きだった。
そしてもう一つ好きなこと。 上昇の果て、雲を抜ける瞬間。
体を駆け抜ける電子の光を引き千切りながら雲を抜けたソラは、果てしない雲の海と天体の輝きを目撃する。
ズーフ・イーン・イリューベルム・シュテールネンツェルツ!(星空のかなたに、創造主をもとめろ)
イューベル・シュテールネン・ムス・エル・ヴォーネン(星たちのかなたに、かならず創造主は住み給う)
心の中が、歌声で満たされた。
海だ。天体に照らされた雲海だった。群青色の夜空の下に、灰色の煌めく雲海がうねり渦巻いてる。それは雷が光るたびに泡立ち、波打ち、しかし海のように平たく広がっていた。
嗚呼、フロイデ(歓喜)。フロイデがやって来る。
〈フロイデ・シューネル・ゲッテルフンケン・トッホテル・アウス・エリーズィゥム。(喜びよ、美しい神々の輝きよ、楽園の娘等よ)〉
心の中から溢れ出した歌が、甘くひび割れた暗号念話となって小さく、小さく漏れだした。"軽くあれ"。でも、これだけは捨てられない。
ソラは雲海の上を飛びながら、そして歌いながら、かつての航空64部隊実験小隊のラストフライトを思い出していた。一番最初に堕ちたは、一番重たい人だった。沢山の荷物や食料を背負ったまま、一直線に墜ちていった。次に落ちたのは、怖がりな人だった。 "軽くあれ。不安は鉛だ。太り続ける、生きた鉛だ"。とうとう飛ぶことどころか生きることさえ怖くなって、地面に向かって全速力で突っ込んでいった。秘密を抱える人も墜ちていった。罪を抱える人は墜とされた。墜とした人も、すぐに亡霊に捕らわれて墜ちていった。任務を抱える人は長く生き残った。それを糧に自分を保っていられたから。しかし、装備重さと仕事に疲れ墜落した。仲間を助けようとした男も、助けた時に負った傷で弱って堕ちた。氷にまみれた顔は幸せそうだった。助けられた女は言った「私も行くよ」。彼女は仲間思いの彼と一緒に墜ちていった。彼女は恋心と犠牲心を持っていた。
重たい人から墜ちていった。そして残ったのは、黒い羽のソラと、白い羽のテレーゼだけになった。
テレーゼは一見、何も持ってないように見えた。肩甲骨からはえた強靭な翼でソラの先を飛んでいた。
ソラは歌を持っていた。歌を歌い、仲間の死や、凍傷の痒み、退屈な時間を忘れようとしていた。テレーゼはその歌を聴き、ソラと同じ様に全てを忘れようとした。"軽くあれ"。空に愛してもらおうと、二人は歌の力で心を支えた。ソラは歌と一緒に、テレーゼの心も持っていた。
そして二人きりの一日が過ぎ、二日が過ぎた。
真っ青な空。白い雲の海。マイナス70度の、薄い大気。全ては退屈で過酷ではあったが、暴風の吹き荒れる雲の下よりは幾分ましに思えていた。
二人は眠りながら飛び、大気に溶ける魔力を食らい、凍りついた体で成層圏飛行を続けていた。
三日目の朝、ソラの目の前を飛んでいたテレーゼの体がぐらりと揺れた。そして白い翼を翻し真っ白な雲海へと沈んでいった。あまりにも呆気なく、テレーゼは堕ちた。まるで花弁が散るみたいな様子だった。そして、同時に突風がソラの体を襲った。
その時、ソラは何故テレーゼが自分の目の前を飛んでいたのかを知った。テレーゼはソラの目の前を飛ぶことで、ソラの"風よけ"になっていたのだった。
ソラは歌うことで、テレーゼの心を抱えていた。
テレーゼは風よけになることで、ソラの体を抱えていた。
"重たい人から落っこちていった"。心を抱えたソラより、体を抱えたテレーゼが先に墜ちていった。心より体の方が重たかったのだった。
その晩、ソラは自らの脊髄と融合していたデバイス『イカルス』のリミッターを外し、"軽くあれ"と命じた。手は翼になった、体を覆う皮膚は、黒いバリアスキンで覆われた。凍傷で駄目になり感染症を起こした両足は千切れて、変わりに青い魔力を燃やす『音叉』が出現した。赤く白く凍りついた足が、雲の海に落下し沈んでいった。
脚を失い軽くなった体と、歌声に癒されていた心。一体どっちの方が重たいんだろう。
その夜、ソラは新しい翼で飛びながら、少しだけ涙した。涙の分だけ、軽くなった。
じきに、涙さえもイカルス・デバイスの体管制で出なくなった。最後に捨てたもの。感情に任せて流れる涙。
〈H・Q・ビレッジ・バンガードより、ヨダカへ。"群鳥"が暴風圏を抜けました〉
通信が聴こえて。思い出に沈んでいたソラは目を覚まし、今に目を向けた。
〈ヤー(了解)。私ももう直ぐ抜けます〉
永遠に広がっていると思われた雲海は風で千切れ飛び、その切れ目からは海が見えた。嵐は止んでいた。ソラはその長大な羽で風を掴み、ゆっくりと下降して雲を抜けた。嵐は遥か尾羽のほうに去っていっていた。
〈目標を確認しました〉
そう暗号念話で呟くソラ。彼女の目には、V字の編隊を組んだ"群鳥"の姿が映り込んでいた。"まるで64実験小隊だ"。ソラはそう思った。
〈ヨダカより、H・Q・ビレッジ・バンガードへ。"群鳥"の姿を確認しました。ドローンです。ナンバリングは12、13、14、16、24、30、54、56、59、81。それと、〉
白く巨大なカモメの先頭を飛行する、白い翼。長い白髪を風にとかし、尾羽で緑色の魔力を燃やして飛行している、懐かしい彼女。完璧な飛行だった。白い羽で風を切り、ドローンたちの先頭を飛んで"風よけ"になっている。
〈"タカ"、テレーゼ隊長です〉
懐かしくて、泣き出してしまいそうだった。しかし、脊髄と融合したデバイスの体機能管制がそれを許さない。"軽くあれ"。テレーゼの落ちた日、ソラが空で泣いた最後の夜。涙は、ソラが最後に捨てたものだった。
〈H・Q・ビレッジ・バンガードより、ヨダカへ。バードランド分隊が輸送ヘリで出発しました。貴官はそのまま観測任務を続行、バードランドのサポートをお願いします〉
〈ヤー(了解)〉
そして羽を広げ風を掴み、"群鳥"から離れようとしたその時。どんな悲しみにも涙で曇ることのないソラの瞳に何かが映り込んだ。
地平線の向こう、白塗りの時空航行艦。うるさい魔力波でフルパワーの探知魔法を使っている。『うみ』、時空航行部隊の船だった。
"群鳥"もうるさい魔力波に気づき、各々探知魔法で索敵を始める。居場所を知られるリスクを侵してなお、敵を見つけようとする行為。大気がうるさい魔力で乱れ、長距離念話が使えなくなった。
そして、海上に出現する大型儀式魔法陣の煌めき。転送魔法。そこから黒いバリアジャケットの『うみ』の武装空士達が飛び出してきた。
武装空士と群鳥の双方から魔力発光。互いに撃ち放たれる、殺傷設定の魔法弾。空戦が始まった。
ソラは羽を畳み脚の音叉で青い魔力を燃やすと、音速の壁を突き破り殺意の嵐の中へ飛び込んでいった。
戦うな。殺し合うな。テレーゼ隊長を殺すな。テレーゼ隊長に殺させるな。
怒りは羽を強ばらせた。しかし同時に力も与えた。
キシキシキシキシキシッ。音叉が軋み叫びをあげる。心と音叉で青く燃え上がった炎を推進力に、飛んでいく。羽から展開される力場を硬く強くして、空気の壁を切り裂いていく。
ソラは青い光になって、夜空を裂いていった。
†
ヴィータは叫んだ。
「止めろ!撃つな!」
しかし止めの一発はソラの脚から生える音叉を打ち砕き、推進力を失った彼女は冷たい海に墜落した。
ソラを打ち落としたのは「うみ」の武装空士が放ったアンチマテリアルの魔法弾だった。
†
少しだけ時間は戻る。
ヴィータが航空12部隊バードランド分隊を率いてが輸送機で作戦空域に入ったとき、すでに「うみ」の一個小隊は半数にまで減っていた。テレーゼの命令するドローンが白い羽で飛び回り、まるで餌でも啄むように落としている最中だった。
そして白色の翼と黒色のバリアジャケットの間を縫うように飛ぶ、青い光の鳥。キシキシキシキシキシッ。甲高い音をあげ、羽を大きく広げて飛ぶ鳥。市蔵ソラだった。
ソラは飛ぶ。そして魔法力場で覆われた翼の羽ばたきで飛び交う対物設定の魔力弾をたたき落としていた。
くすんだ赤の煌めき。それがソラの翼に直撃する。誘導弾に自ら突っ込んでいき、武装空士を襲ったそれを掻き消す。黒いバリアスキンが剥がれ落ち、空気抵抗の熱と静電気で、青い光の粉となって消える。傷は一瞬で焼けた。千切れ飛んだ皮膚はバリアスキンで強引に継ぎ足した。赤い煌めきの魔法弾がドローンの一つ目から放たれる。自らの体を盾にして『うみ』の武装空士を守るソラ。飛び散るバリアスキン。燃え上がる青い炎。肉の焼ける匂い。彼女に命を救われた武装空士が叫ぶ。
「新手だ!撃ち落とせ!」
乱戦のせいで攻性魔力の満ちた大気は、念話も識別ビーコンも駄目にした。敵と味方との判断は己の目だけが頼り。そして、ソラの翼は余りにも鳥達に似すぎていた。
ソラは撃たれた。罵声を吐かれた。敵からも見方からも撃たれ、しかしそれでも逃げなかった。ソラが撃たれている間は、武装空士と群鳥は逃げ回る彼女だけを撃っていた。"必要悪が必要なんだ"。ソラは武装空士と群鳥の、この場にいる全ての敵になることにした。"そうすれば、私が飛んでる間は誰も撃たれない"。"私は大丈夫。堅い翼と青い炎がある"。翼から広がる魔法力場で体を守り、音叉で青い魔力を燃やす。前へ、前へ。もっと速く。
ソラはこの場にいる全ての命を背負っていた。全ての怒りと一緒に。"空は軽いものを愛します"。だというのに、今の彼女の体はどうしようもなく重たかった。
そして時はやって来る。
「止めろ!撃つな!」
輸送機から降下したヴィータが叫んだ。
しかし魔法弾はソラの脚から生えた音叉に命中。砕かれた音叉の破片が、硝子のように砕けた。そして青い炎を辺り中に振りまいた。その爆炎の中からボロボロの黒い十字架のようなシルエットが落っこちて、海に沈んだ。
「ファビアンとルルーは弾幕をはって"群鳥"を追い返せ。ロビノーとリヴィエールは『うみ』の馬鹿共を一網打尽にしろ。ペルランはあたしについてこい。ソラを助けに行く」
五人分の「ヤー(了解)」。灰色の外套のバードランドが輸送機から落下、そして飛行魔法で飛んだ。
ファビアンは魔法陣を展開すると、"群鳥"と『うみ』の武装空士を分け隔てなく平等に狙いをつけた。そして幾百の魔術弾を精製。バルカン砲のように打ち出した。スタン設定の非殺傷弾が鳥達と恐慌状態の魔導士に次々と命中。鳥達は驚き、逃げ出した。武装空士達は逃げる暇もなく命中、昏倒、落下。リヴィエールとロビーノの結界に引っかかり転落を免れ、そのままバインドで拘束された。ルルーは誘導弾を生成し、撃ち逃した鳥達を追い払った。
ヴィータとペルランは海面すれすれを飛びソラを探す。落下し海面に叩きつけられた武装空士達の亡骸。カモメの亡骸。白と黒の地獄の風景。
その中にヴィータは真っ黒な歪な十字架を見つける。それがソラだった。
「ペルラン、辺りを警戒しろ。あたしが行く」
バシャンとヴィータは海面に着水。深紅の騎士甲冑が水面に広がった。そして半分沈みかけたソラを抱き上げた。ソラの黒い仮面がピシリと割れて、真っ白な顔が現れた。黒い翼が音を立てて崩れ、羽とも腕ともつかない奇妙な物が現れた。その奇妙な物は脈動を繰り返し、やがて本来の人間の腕に戻った。
黒いバリアスキンがひび割れ、白い裸体が露わになる。抱えた体はヴィータの、子供の体より華奢で軽かった。"軽くあれ"。そのせいで軽くなってしまった体。抱き上げて初めて分かったこと。"ソラはあたしなんかより、よっぽど軽い"。
「よだかは、実にみにくい鳥です。だから虐められたんです」
ソラは疲れ果てた笑みを浮かべると、なにか気の利いた冗談みたいに言った。宮沢賢治の引用だった。
ヴータは空を仰いだ。そして叫ぶ。
「聞け、馬鹿共!あたしたちは背負わなきゃならない!あたしも、新入りも、バードランドの馬鹿共も、タカも、くそったれなお前らもだ。でもお前らはやりすぎだ。こんな軽い体に寄って集って背負わせやがって。あたしたちは背負わなきゃならない。でもそれは、誰かに背負わせないためにだろ!お前らは、そんなことも分からないのかよ」
そしてバカヤロウと小さく呟くと、そのまま顔を伏せて泣いてしまった。殆ど八つ当たりのような叫び。しかし心の底からの本気の叫びだった。
「何人死にましたか?」
ソラが小さく呟いた。
「いっぱい死んだよ。人も鳥も、一杯墜ちた。でも、お前がいなかったらもっと沢山死んでいた」
「そうですか。始末書じゃすまない失態です」
叱られるんだろうなと思った。人が死んだのだ。私が飛べないせいだ。しかし、ヴィータの声は予想に反してやさしいものだった。
「ああ、そうだな。始末書だけじゃ足りない。始末書のあとは何でも好きなもの食わせてやる。嫌って言うほど食わせてやる。ご褒美だ」
ヴィータは泣いていた。青い綺麗な瞳から、涙がこぼれる。「見んなよ。海の水が沁みただけだ」。うそつきと、心の中でつぶやいた。綺麗な涙、それをずっと見ていたかったが、それ以上に慰めたかった。そして。
「でも、この分だと暫くは入院でしょう。点滴にも大盛とか特盛りってあるんですかね」
口に出たのは、馬鹿みたいな冗談。綺麗な言葉も、気の効いた皮肉も、疲れ果てていて思い浮かばなかった。
「看護婦さんに言っておくさ。この子、見た目によらず体より胃袋のほうがデカいんですってな」
「先輩だって顔より口のほうが大きいでしょうに」
そして二人で馬鹿笑い。もう、何もかも笑い飛ばさないと重たくて沈んでしまいそうだった。
体はこんなにも軽いのに。二人は重たい心で笑い、泣いていた。