それから半月ほど経つ頃には、アビスは暴走を抑えて副作用を低減した薬を作っていた。
もう半月かけて、実験用ポケモンを使って臨床試験をしていたのも今の私は知っている。
「ケーシィ、今日は前やったみたいに協力してほしいの。お願いできる?」
うんうんと私は元気よく頷いた。
一ヶ月も経てば倒れたことなんて忘れてしまっているし、アビスに協力できる方が嬉しかった。
その日は夏真っ盛りには珍しく空は黒灰色の入道雲に一面覆われていた。
前の実験と同じ薄暗い研究所に入って、午前中にはアビスが作った薬が作用していない状態で実験をした。
いわゆる対称実験、効き目の差を確認するために薬が作用していない状態も必要なためだ。
午後になって、私はまた薬の混ぜられたポケモンフーズを食べた。
赤みがかかっていることは、やっぱり当時は気づかなかった。
食べ終えてから、そわそわしてアビスの周りをうろうろとしているくらいにはいつもより元気があって、端からみても薬の効果は現れていた。
「よし、実験するよ!」
「しぃっ!」
台の上に座ってアビスの指示を待つ。
「ケーシィ、サイコショック!」
機器の中央にサイコパワーを集中させる。
意識をサイコパワーに集中していたそのときだった。
「えっ……!?」
カッと私の全身から青く光り始める。
私の視界はもちろんだが、部屋中が青白い閃光に満たされる。
私は身体の内側から力が噴き出してくるのを感じた。
内側から突き上げる力が、身体を大きく膨らませていく。
右手に力がしばらく集中してから、光は収まっていった。
気づけば右手には何か知らないものを持っていた。
なんだろう、とアビスを振り向こうとすると、自分の身体に違和感があった。
肩も腕も尻尾も、大きくなっている。
振り返ると、アビスはぽかんと口を少し開けて、目を見開いたまま固まっていた。
たっぷり数秒は視線を交わしていた。
アビスの瞳がキラキラと輝き出す。
「……す、すごいよケーシィ!! いや……ユンゲラー、だよね!」
まばゆいくらいに満面の笑顔だった。
対して私はコダックのように頭をかしげていた。
ユンゲラーという単語が分からずに疑問に思っていたのは覚えているが、こんなにとぼけた顔をしていたのかと、あとから見て可笑しく思ったのを覚えている。
「あ、えっとね。ケーシィは進化したんだ。ケーシィはユンゲラーになったの。……わかるかな」
よく分からないが自分は変わったのだということは当時の私にもわかった。
「ユンゲラー、ちょっと待っててね。今日の実験は一旦終わり」
自分の変化に困惑しているうちに、アビスが手早く機器を片付けてしまう。
「今からちょっと別のところに行くんだ。ついてきて!」
優しくはあるものの、アビスは研究者だった。
唐突の展開の連続に戸惑いながらも私はアビスの後について行った。
着いた先は研究所全体の一番奥の奥。
建物の中は1階の時点でやはり薄暗かった。
階段を降りて、ずんずんとアビスは地下へ進んでいく。
少し怖かった記憶があるが、私はアビスについて行った。
天井にはパイプが張り巡らされ、人工灯だけが無機質に廊下を照らしている。
廊下を少し進むと、アビスがドアをノックした。
「アビスくんか。……おぉ」
白衣姿の初老の男がドアを開けた。
中にいた数人が一斉に私を見る。
「ケーシィ進化したんだ」
「やっと試すことができるな」
「今までは理論を詰めるだけだったからねぇ」
「はい! 実験はいつにしましょうか」
「できることなら今からでもやりたいところだね」
「装置はいつでも準備できてますよ」
「よし。じゃあすぐにかかろうか」
鶴髪の男が指示を出すと、実験室にいた男女はそれぞれテーブルに散らばっていった。
「いやーやっと来たね」
「進化は一匹のポケモンに一回だけですからね。そうそうやれません」
「しかも通信交換で進化するポケモンもそう多くないしな」
「抜かりなくデータを取るんだよ」
「もちろんです!」
当時はよくわからないが私が来てよかったらしいとしか思っていなかった。
これから始まることも知らずに。
「ユンゲラー、ちょっと待っててね。もう少ししたら別の実験に協力してほしいの」
「ゆん? ……ゆげ」
アビスはいつも通り例のアメを舐めて立っているだけだったから、私もアビスの白衣の袖口を握って待っていた。
「準備できました!」
「よし。ユンゲラー、こっちに来て」
アビスにつられ着いていった先には大きな装置があった。
高さは2mほど、直径1mほどの、円筒状のガラスのカプセル。
その上下には巨大な電極のような何かがついていた。
例えるなら、中に生理食塩水でも満たして人造の命でも作っていそうな、そんな不気味な装置。
「この中に入るの。そしたら真ん中で立っててね」
少し怖かったが、アビスが言うなら大丈夫だろうと私は指示に従った。
カプセルの扉が閉められ、私は閉じ込められた。
カッと上下から眩い光を浴びせられる。
目が眩んでフラフラと揺れ動く体を踏ん張りながら、明るさに慣れるまでに数秒を要した。
暗い。
周り一面は少しの光も見逃さないようにとの暗闇で、私だけが影のできる隙間もないまでの光に全身囲まれていた。
うっすら見えるのは、ガラスの向こう側にいるアビスの白衣。
いつもの真っ赤なアメは舐めるのも忘れて棒部分を手に持っている。
その手は何への緊張か、痛そうなまでに握り締められていた。
周りにはやはりガラス越しに、白衣の男女がペンと紙の挟まれたボードを手に私を取り囲んでいた。
「それでは開始します。よろしいですか?」
ガラス越しにくぐもった声が聞こえてきた。
アビスを含め周りのニンゲンたちは各々頷いた。
「それでは」
真横にいる男が、私が入っている機械を操作し始めた。
チリっと頭頂部に違和感が弾ける。
小さな電流が当たっているような、痺れに近い感覚。
次の瞬間、全身の細胞が震えだした。
力が持て余すほどにみなぎっている。
ほのかに温かい力が私の体内を駆け巡り——
ドクン。
右手が脈打って強く痛んだ。
青空のような青い光に包まれていた視界が、鮮血のような凶暴な赤に染まる。
内側から肉をかき回されるような燃える痛みに右腕を強張らせながら、私はガラスの外側を見た。
手。
ガラスに押し当てられて柔く潰れた白い2つの手のひらだけがくっきりと見えた。
アビスは、大事なアメも落としてガラスに包まれた器具の外で震えていた。
右腕を灼く痛みが更に強くなる。
アビスの指が折り曲げられた。
私とアビスを隔てるガラスを引っ掻くように、無念の力がこもっていた。
アビスの目から何かがこぼれ落ちて、機械の光を受けてきらりと輝いた。
その滴が、頬を伝って、落ちて……。
当時の私の意識はそこでぷつりと切れてしまった。
実験が終わる頃には、アビスは力尽きたように地面にへたり込んでいた。
俯いた顔は涙が伝い、絶望に歪んでいた。
カプセルの中で倒れた私は、もう今と同じ醜い姿。
その場の誰もがしばらく言葉を発しなかった。
「……アビスさん、ユンゲラーを介抱してあげてください」
「モンスターボールもこの場で使っていいだろう。私から話を通しておく」
アビスは焦点の合わない瞳のまま、私をモンスタボールに戻した。
「二股に分かれたスプーン、赤い光、か」
「青よりもエネルギーが低い……エネルギー出力が足りなかった、ということですか」
「わからない。だが起きたのは間違いなく進化不全障害だね。それも、ひどい」
「…………」
「ひとまず記録だ。残念だったが、研究職の仕事を忘れちゃならん」
装置の不十分さの議論を背に、アビスは震える足取りで部屋を出ていった。
目が覚めた時私は家の寝床に横たわっていた。
部屋は真っ暗で、かろうじて寝床の横にある窓から電灯の光が入ってきているだけ。
首だけを持ち上げると、灯りが私の変わり果てた右手を隠さず照らしていた。
見たこともない二股のスプーン。
指もない。
なんだかイマイチよくわからなかった。
フーディンを見たことはこれまでない。
でも、少なくとも普通のフーディンはこんな手ではないだろうなということはわかった。
外の光を見れば、電灯の光に混ざって十三夜月が輝いていた。
起きるために右手を床に立てようとすれば、電流のような痛みが走る。
「でぃっ……」
聞き覚えのない声が漏れて、自分が進化したのだということを少し実感した。
2回も進化したからか、急にいろいろなことが考えられるようになったなと感じたのもよく覚えている。
「あ、起きたんだ。よかった……」
今にも消えてなくなりそうな細い声が私の腕のあたりから聞こえた。
部屋の暗闇に溶け込むような真っ黒な髪のせいでその表情は見えない。
アビスは私の右腕の下あたりに突っ伏していたようだった。
その時の時間は22時ごろ。帰って来たのは16時前だったから、6時間は私の足元で泣いている。
日が傾いても、日が落ちても、ずっと泣いていたのを今の私は知っている。
アビスに右手を伸ばそうとして、また腕に痛みが走り抜ける。
思わず顔を歪める。
「手、痛いんだよね」
「…………」
「……ごめん。……ごめんね」
外の電灯の光がアビスの頬の涙を光らせて炙り出した。
「……ごめんなさい。もう、疲れさせたりするような、こと、しないって言っ……」
すすり泣きと嗚咽で何を言っているのかもわからなくなってしまっていた。
私とてアビスに泣いて欲しいわけではなかったが、何をすればいいのかわからない。
無機質な白の光に照らされる、血の気のない真っ白な手が目に入った。
私の足に縋り付くようにして泣くアビスの手を、そっと左手でつつく。
アビスが顔を跳ね上げる。
アビスの右手に自分の左手を重ねた。
ぎゅっと包み込んで、私は持ち上げていた首を下ろして天井を見上げた。
そして、アビスの右手を自分の頭の方へ引っ張り上げる。
「……進化しても、そこは変わらないんだね」
当時の私には見えなかったが、アビスはハッとした表情になった後、口角を少しだけ上げた。
アビスは私の頭のそばにきて、しばらく私の頭を撫でていた。
「……私、研究はもうやめる」
「ふー……?」
「稼ぎ口だから、研究自体をやめることはできないけど。でも私が今までやろうとしてたことは、もうやめる」
「私の夢はまだもしかしたら実現できるかもしれないけれど。でも、それはもしかしたら私の思った通りの夢じゃないかもしれないから」
「……これ以上ポケモンを傷つけられないから」
「でぃん……」
1日にいろいろなことが起こりすぎて、私自身整理がついていなかった。
その当時はまだ自分の体が大変なことになっているということすら実感がない。
アビスに撫でられたまま何も考えずに天井を見つめているうちに、私は眠りに落ちていた。
翌日アビスはポケモンセンターに向かっていた。
もちろん私はモンスターボールの中だ。
着いたのは、ポケモンセンターのトレードマークである赤い屋根……には擦りもしない、ごく普通のビルだった。
中に入って、エレベーターで20階まで登り、廊下のT字路の一本を塞ぐ屈強なガードマンの前に立つ。
ガードマンのそばに立つエルレイドが一瞬アビスを見つめた。
「証明書類はお持ちですか?」
「これで大丈夫でしょうか」
アビスが研究員証を見せると、ガードマンは何やら機械を差し出してきた。
板状の光る機械にアビスが研究員証をかざすと、ぴーと無機質な音が鳴る。
「確認しました。この先の曲がり角を曲がりましたらモンスターボールから全てのポケモンをお出しください」
パソコンを確認すると、ガードマンは道を譲った。
アビスはすたすたと歩いて行って、曲がり角を曲がった。
「エルレイド、ふういん」
アビスの背後の空間がモザイクをかけたように歪む。
サイコパワーが固まり、左右の壁と同じような壁が作られた。
「す、すごいな」
サイコパワーの研究をしている者として、研究心が出てしまったのだろう。アビスは壁をペタペタと触り始める。
「……あの、モンスターボールを全て出していただけますか」
「あ、っと、すみません」
進んだ先にいた、同じような体格のガードマンに声をかけられた。
腰からモンスターボールを外してボタンを押すと、私が飛び出した。
ガードマンもその隣にいるレントラーも、私の右手を見ても眉一つ動かさない。
「レントラー」
ガードマンが呼びかけると、レントラーの瞳が黄金色に輝き始める。
透視能力で隠したモンスターボールがないかを確認しているのだろう。
これも安全のためだ。
「……ではこちらのエレベーターから地下2階へお進みください」
ガードマンの誘導に従ってまたエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの運ぶ先は、病院の受付にしてはやけに薄暗い、そんな場所だった。
待合室のはずなのに椅子の間には厚い仕切りがついていて、他に待っているニンゲンもポケモンも確認できなかった。
受付を済ませると、待合室の部屋の一つに私たちは座らされた。
周りは壁もカーテンも不自然なくらいに真っ白。
虫歯のポスターが貼ってあったり、見た目は普通の病院のようだったが、照明のせいか、どこか薄暗かった。
何もせず座っていると、どうにもやはり右手が気になった。
指を動かそうとしても金縛りを受けたようにびくともしない。
握り込むと、痺れるような痛みが起こる。
私がそわそわしているのがアビスにもわかったようで、アビスはゆっくり口を開いた。
「ほんとはあんまり連れてきたくなかったんだ。裏のポケモンセンター」
その言葉に聞き覚えはなかった。
他の人に聞こえないようになのか、アビスは声を潜めて話し続ける。
「科学の実験で失敗して怪我をしたりとか、普通のポケモンセンターに連れて行くと問題になりかねない事情がある人だけが集まってるポケモン診療所だから。……言ってもわからないかもだけど」
「ここで診察すると、私とフーディンの情報が登録されちゃうんだ。もし私に何かあったら、その情報を辿ってフーディンを引き取りに来るかもしれない。そうしたら何されるかわからないし……」
後から考えれば、相手の施設の中で相手の悪口を言って大丈夫だったのかはわからない。
私と何か話そうとして、頭の中がそれでいっぱいだったからそのことしか話せなかった、のかもしれない。
そうこうしているうちに、看護師さんが私たちのところまで呼びに来た。
待っている他の人が名前を聞かないようにだろうか、徹底している。
看護師さんの誘導に従って診察室に入る。
少し恰幅のいい白衣の中年男性がパソコンの前に座っていた。
横に立つ看護師さんが椅子を二つ、医者の前に並べる。
「どうぞ、お座りください」
「フーディン、ここに座って」
アビスが医者の目の前に座り、私はその横に座った。
「さて、進化不全とのことですが……ひどいですね。症状は右腕だけですか?」
「はい、一通り見ましたが恐らく右腕だけです」
「わかりました。痛みなどを確認したいので、触診させていただきたいです」
「フーディン、痛いかもしれないけど、少し我慢しててね。右手を見せてほしいの」
「でぃん」
医者に右手を差し出す。
医者が慎重にスプーンに手をかける。
2本に分かれたスプーンの片方を少し動かされた瞬間、電流を浴びせられたような痛みが走った。
「ふでぃっ!」
思わず声を上げると医者は慌てて手を引いた。
その後も慎重に触診が続いたが、スプーンを触られた時だけ激痛が走った。
「……わかりました、次にレントゲン写真を撮りましょうか」
その後、いくつかの機器で私は調べられ、また診察室で最初のように座らされた。
「このレントゲン写真を見ていただくのが一番早いと思います。くっついてしまった手がこの2股のスプーンをぎゅっと握り込んでしまってまして、恐らくここにそのまま神経が通ってしまっています。握り拳にそのままスプーンを突き刺したような、そんな状況になっていると思っていただければ」
アビスの顔の血の気がさっと引いた。
「スプーンは触ると痛いようですが、体と一体化していて神経が通っていたり、というわけではないようです。拳自体は触っても痛くないようなので、やはり今言ったような感じになっているかと。」
「……な、治りますか?」
「治る見込みは正直言ってありません。手を切開してスプーンを外そうにも、フーディンにとってのスプーンはニンゲンにとってのスプーンとは意味が違います。フーディンはこのスプーンを使ってサイコパワーの出入りを管理しているんです。外部に位置しますが内臓のようなものでして」
「……はい」
声が震えていた。
「取り去ってしまうと、恐らくサイコパワーは使えなくなってしまうかと思われます。進化したてとのことで、フーディンもサイコパワーでの移動に慣れているでしょうが、スプーンを切除する場合はそれができなくなるということです。スプーンを切除する術自体は可能ではありますが、その場合、術後にサイコパワーを使わずに移動するためのリハビリ処置が必要になりそうですね」
「…………」
「診察は以上になります。お役に立てず申し訳ありません」
「……いえ」
「痛み止めだけは出しておきましょう。錠剤は飲み込めますか?」
「あ、錠剤はまだ飲ませたことないです」
「わかりました、試すための錠剤少しと、あとは粉薬でお出しします。それではお疲れ様でした」
「……ありがとうございます」
私の肩に手を置いて、いくよ、と掠れた声で呟いて、アビスが席を立つ。
私は言われるがままについていった。
がちゃり、と玄関の鍵を閉めて、玄関に上がったところで、アビスはへたり込んだ。
両手で顔を覆って、肩を震わせる。
アビスの前に立って表情を確認しようとしたら、静かに抱き寄せられた。
「ごめんね……ごめんね……」
あるいは呪詛のように、謝り続ける。
「…………」
確かに手については不便だが、私はアビスのことを恨んでもいなかったし、そんなに謝られたってどうすればいいのかわからない。
「……でぃん」
アビスをサイコパワーで引き離す。
そうされるとは思っていなかったのだろう、アビスは目を丸くして私を見つめた。
私は左手を握ったり開いたりした。
左手は使える。
それから、近くにあった観葉植物の鉢をサイコパワーで持ち上げた。
進化してからこんな風にサイコパワーを使ったのは初めてだったが、難なく持ち上げることができた。
これも2回進化したおかげだ。
「フーディン……」
アビスはしばらく呆然と私を眺めていた。
私もアビスを見つめ返した。
アビスは石像のようにしばらく動かなかった。
不意に、アビスの目がじわりと涙を含み始める。
くしゃっと表情が歪む。
ぎゅっとまた強く抱き寄せられた。
私のお腹あたりに顔を埋めて、アビスは泣いた。
嗚咽を漏らして、それから声を上げて泣いた。
ずっとずっと泣いて、それからアビスは立ち上がって、もう一度抱擁した。
今まで生きてきた中で、あの時が一番温かくて、優しかった。