次の日からアビスは一人で研究所に行き、私は家で留守番をした。
来る日も来る日も、朝になればアビスを見送ったし、夜になればアビスを玄関で迎えた。
アビスは毎回決まって私の頭を撫でながら玄関に上がった。
夜の間は、楽しかった。
昼の間は、つまらなかった。
ずっと一人で、何をするでもなく時間を過ごすしかなかった。
アビスがいない間は何も起こらない。
真夏のうだるような暑さからはエアコンで守られていたし、食べ物も飲み物も欠かさず用意されていたから困りこそしなかった。
むしろアビスに守られて困らなかったからこその暇だったと今では思う。
手持ち無沙汰にサイコショックを練習して、失敗して部屋を荒らして怒られたこともあったな。
そんな暇な日を乗り越えたある夜。
アビスと夕飯を食べてからくつろいでいると、いきなり腹に響く爆発音が外で鳴った。
慌ててアビスに目を向けると、アビスは何の危機感もなくにこにことしていた。
「今日花火の日なんだね〜」
ハナビ?
知らない単語に私が目を丸くする。
アビスは席を立って大きな掃き出し窓を開け始めた。
ちょいちょいと私に手招きをする。
「……ふー?」
普段アビスから外には出るなと言われているから、出ていいものかと戸惑った。
「一緒にだから大丈夫。ちょっとだし。おいでよ」
そこまで言うなら、と私も掃き出し窓に近づいた。
ベランダに出ると、満月から少し欠けてきた臥待月が輝く空をアビスはじっと見上げていた。
真似して私も見上げたが、広がっているのは月と電灯以外絵の具を塗り広げたような黒一色。
何もないじゃないかとアビスを見ると、アビスは「見ててみて」と空を指さした。
仕方なくまた空を見上げると。
真っ黒なキャンバスに鮮やかなオレンジの花が咲いた。
直後、腹に響くような爆音が辺りに響く。
また空に種が撒かれて、今度は黄色の大輪が開く。
いくつもいくつも花が咲いた。
爆発音は少し怖かったが、それ以上に、色とりどりに咲き乱れる花々に見惚れた。
ふとアビスを見る。
アビスの瞳は花火を映して輝いていた。
こちらに気付いてアビスも私を見た。
「綺麗でしょ」
ふふ、とアビスは笑う。
慈愛に満ちた、とでも言おうか、あの優しい笑顔は今でも思い出せる。
しかしすぐにアビスはイタズラっぽい表情になって、
「よーしよしよし!」
私の頭を撫で回す。
頭を振って抵抗すると、「ごめんごめん」と笑いながらまた空を見上げた。
空は花畑のようにいくつもの花が同時に咲いていた。
「たーまやー」
ぼそりとアビスが何かを呟く。
アビスの呟きの意味は、当時の私にはわからなかった。
目を丸くしてアビスを見ると、アビスはまた笑顔で教えてくれた。
「花火が綺麗な時にね、こうやって言うんだ。たまやー、かぎやーって」
「…………?」
そう言われても当時の私にわかるはずもない。
「まーそうだよね。流石に進化しても人間の言葉わかるようにはなってるわけないか」
ざんねん、と大して残念そうでもない顔で肩をすくめて、アビスはまた空を見上げる。
その横顔を私はじっと見ていた。
少し、いや、すごく、悔しかった。
翌日食卓についた私は、テーブルの上にあったアビスの本を取った。
表紙に何が書いてあるかもわからないが、とりあえず開いた。
「お、本読みたいの?」
自分の分と私の分の食べ物を持ってきたアビスが食卓につきながら私を見る。
次の瞬間アビスは大笑いし始めた。
突然の笑い声に困惑して私がアビスを見ると、アビスは本を取り上げた。
「逆! 本の読む向き、逆さまだよ!」
本を元の向きに直してからもアビスはしばらく笑い続けた。
少し不満に思いながら私は先に朝ごはんを食べ始めた。
「あ〜、笑った笑った……ねぇフーディン」
軽く頬杖をついて、にこにこと笑いながらアビスがまた私を見る。
試そうとしているような目だった。
「本、読みたいの?」
アビスと視線が交差する。
私は力一杯頷いた。
「ん、わかった」
アビスはひとつ頷いて、それからご飯を食べ始めた。
そのまま特に本の話はすることなくアビスは研究所に出かけていった。
夜、アビスは行きには持っていなかったものを持って帰ってきた。
何が入っているかわからない大きな袋を見ていると、アビスもそれに気づいた。
「これ気になる? じゃーん!」
アビスが袋から取り出したのは何やらたくさん文字が書かれたポスターだった。
「……でぃん?」
「文字ポスター! これで字を覚えて本読めるようにしようよ」
「ふーでぃ!」
「ご飯食べたら早速やろう」
晩御飯を食べてからアビスはポスターを壁に貼った。
「ほらこれ。手。手って書いてあるんだ」
「ふでぃ」
「うーん、覚えられてるかわかんないな。喋ってくれたらわかるんだけど……」
「でぃん……」
ポケモンはニンゲンの言葉を喋ることはできない。
アビスの言葉は私に伝わっても、私の言葉はアビスには伝わらない。
仕方のないことだ。
「あ、ねえねえ、テレパシーだったら喋れない?」
それはあんまり考えたことがなかった。やってみればできるかもしれない。
「でぃん」
『……手』
「聞こえた‼︎ 手!」
「ふでぃ!」
「もしかしたらフーディンと喋れるようにもなるのかな」
「でぃふ!」
アビスと喋れるようになったら、昨晩の花火のようなこともなくなる。
これは頑張らなければと思うと気合が入った。
「よし次! これは目! 目だよ」
『……目』
「うんうん、いい感じ!」
……それ以来私はニンゲンの言葉を猛勉強した。
昼のアビスを待っている間ずっと練習をした。
字を読めるようになるまではそう時間はかからなかった。
字を読めるようになったら、今度は本を読んだ。
全部読めたらアビスがまた別の本を買ってきてくれる。
それを楽しみに、全部読めるようになるまで何回も読んだ。
夏の暑さも落ち着く頃には、日常生活に困らない会話がアビスとできるようにまでなった。
お腹が減ったと言うこともできるようになったし、部屋が冷房で寒いと言うこともできるようになったし、おはようとも、ありがとうとも、ごめんなさいとも、おやすみとも、言えるようになった。
進化してからの生活にも慣れてきて、毎日が楽しくなってきた頃の、ある日。
私たちは夕ご飯も食べて、特に何をするでもなくテレビのバラエティー番組を見ていた。
画面の中では、司会のおねえさんとミルホッグがガヤガヤと喋っている。
ミルホッグが赤い布を被ったワゴンを奥から運んでくる。
『今日お話しするのは〜』
司会のおねえさんが赤い布を取り去った。
『エスパージュエル!』
画面の前には純粋に濃い桃色の宝石が、照明を浴びてキラキラと輝いていた。
アビスがふいと目を逸らす。
一方私は画面に見入っていた。
あの輝きには、見覚えがあった。
私がまだケーシィの頃の、あのサイコパワーの実験をしていたときに、一瞬だけ出来た塊に少し似ていた。
そういえば進化して以来実験の話をアビスはしなくなったな、と思考が進む。
今でこそその理由が痛いほどわかるが、当時はその理由もわかっていなかった。
別に右手が使えないことと、サイコパワーの出力にはあまり関係がない。実験はいくらでもできる。
それに、あの頃アビスの役に立つのはとても楽しかった。
もう実験はしないのかな。
そう思った私は、アビスに直接言ってしまった。
『実験したい』
ちょんちょんと私に突かれてこちらをみていたアビスの頬が引き攣った。
アビスの目がぐるぐると泳ぐ。
『もう一回やりたい』
アビスと私の目は合わない。
「……やらないよ」
アビスはそっぽを向いて、弱々しく呟いた。
『なんで?』
当時の私はすかさず聞き返してしまった。
アビスは困ったようにうなだれて、しばらく床を見つめた後に私をはっきりと見据えた。
「もう、あなたに痛い思いも、不便な思いも、させたくないの」
『ゆめ!』
「……いくら子供の頃からの夢でも、あなたを傷つけてまで達成するものじゃない」
サイコパワーを使えるようになるのが、アビスの子供の頃の夢だった。
それを前に聞いていた私は、それを利用して説得しにかかる。
アビスは歯がみして、またそっぽを向いた。
ダメそうかもしれない、と思った私は、本当のことを言った。
『役に立ちたい』
「役に……?」
怪訝そうな表情でアビスがこちらを見る。
『実験、アビスの役に立った。今は、何もできない』
アビスはしばらく呆然としていた。
表情が変わらないまま、次第にアビスの目に涙が溜まり始める。
涙が一筋流れると、ダムが決壊するように、アビスの表情は崩れた。
ぎゅっと私は抱きしめられる。
「ありがと、ありがとね……っ!」
涙声のまま、アビスはありがとうと言い続けた。
結局実験はできるんだろうか、と思いながらも、私はアビスの背中を左手で撫でる。
時間にすれば10分ほども、アビスは咽び泣いていた。
やっと収まってから、アビスは私を離して、涙が浮かんだままの笑顔で。
「やれるようになったら、協力してね」
また今にも折れてしまいそうな細い声で言った。
「でぃん‼︎」
私は元気付けるように、大きく頷いた。
それから特に生活が変わることもなく、月が欠けてまた満ち始めた。
実験ができるようになったことは絶対に忘れなかったが、アビスを急かすのも嫌で話題には出さなかった。
夜不意に、明日は研究室に来て欲しい、とアビスに言われた。
その夜は楽しみでなかなか寝られなかったのを、今でもよく覚えている。
モンスターボールに入って研究棟まで行って。そこからは並んで歩いて、研究室まで。
すれ違った人は私のことをもう知っているのか、私の手を見ても何も言わない。
部屋の分厚い扉を開くと、中には見覚えのある薄緑色のテーブル。
前と違って体が成長していたから、アビスもテーブルの前を指して「ここで待っててね」と言って機械を取りに行った。
しばらくしてまた、飴を手に持ったまま、手と顎で押さえて大きな機械を持ってくる。
かちゃかちゃと機械がすぐに設定される。
「実験の方法は覚えてる?」
『覚えてる』
「そか」
よし、実験だ。
意気込みながら私は機械に向かった。
しかし、アビスはゴーサインを出さない。
もう実験はできるはずなのに。
「……?」
アビスの方を見る。
アビスはじっとこちらを見ていた。
「……私のためにごめんね」
透明で、ガラスのように割れてしまいそうな声だった。
ぶんぶんと私は首を横に振る。
「そう、だよね。……じゃあ、お願い」
アビスも機械に向き直って、左腕の時計に手をかざす。
「フーディン、サイコショック!」
合図とともに私はサイコショックを発動した。
空間が歪んで、無数の光点が出現する。
サイコパワーの粒たちを、2本の針の間に集約させる。
どんどん粒を発生させては真ん中に集めて、サイコパワーの塊を育てていく。
進化したこともあって、持っているサイコパワーはケーシィ時代に薬を飲んだ時よりもずっと多かった。
スライムのような桃色の塊を、手で握り固めるイメージで小さく圧縮する。
透明度の高い桃色だった塊は小さくなるにつれて、むせかえるような鮮やかなピンク色に変化した。
「……そろそろ、いくよ」
アビスが機械のつまみを回す。
ばちんと電気がサイコパワー塊を駆け抜けた。
急にサイコパワーが制御できなくなる感覚は前と同じように確かにあった。
違ったのは、制御できなくなるまでの時間が遅いこと。
電撃を浴びても制御を離さない力が、進化によって確かについていた。
サイコパワー塊はまたエスパージュエルのようにきらめいて、それから空中に溶けていった。
「……すごい、前までと全然違うね。フーディンすごいよ!」
アビスが嬉しそうに褒めてくるのが、何より嬉しかった。
『もう一回。まだやりたい』
「わ、わかった。じゃあもう一回協力してね。そしたらデータまとめるから、少し休み」
「ふー!」
私は機械に向き直った。
そうして同じ実験をして、アビスがパソコンに向かって何やら仕事をした後、アビスは昼ごはんを取り出した。
見覚えがある。いつもより少し赤っぽいポケモンフーズ。
「これ、食べたらちょっとだけ元気が出ると思う。もしどこか痛くなったりしたら、教えてね」
『わかった』
アビスと一緒にご飯を食べていくうちに、やはり体に少し変化があるのを感じた。
頭が活性化して、体がうずうずする。
今ならさっきよりも実験がうまくいく気がする、と当時も思った記憶がある。
アビスも私もすぐに昼ごはんを食べ終わって、また実験を再開した。
薬の効果は顕著に出ていて、サイコパワーの塊の色の濃さが午前の実験とは段違いだった。
電流が流れるたびにサイコパワーの制御が途切れてしまって、結晶が宙に溶けていく。
でも、ぎゅっと握りしめていれば、なんとかその制御を手放さずに済みそうな気がした。
何度も何度もアビスに次を頼んで、結晶を作り続けた。
結局その日の実験は成功することはなかった。
それ以降も、私が悪いのか、機械が悪いのか、実験はなかなかうまく行かなかった。
私の体力の問題もあって、実験がやれるのは一週間に一回程度。
秋、冬、春、夏、秋、冬、春、夏、秋。
早いようで、本を読んで色々なことを知ったり、長かったようにも思う。
ついに私のサイコパワーの制御が、電撃に勝った。
ぴきん、と辺り一帯を凍らせるような音を立てて、電撃を浴びたサイコパワー塊が、かくばった結晶の形に固まる。
天井からの光を一部だけ反射して、キラキラと透き通った濃い桃色がその存在感を伝えていた。
同時に私の体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
「…………」
「…………」
「で……できたっ!」
「ほんとにできた! すごいよ……あ……」
倒れた私に気付いて、アビスの顔から笑みが消え失せる。
「……ご、めん、ごめんね……」
アビスが倒れた私に手を伸ばした。
私はその手を払って、左手を機械に向ける。
『……わかった』
無機質な白い床に倒れ伏す私からそっと手を離して、アビスは機械に乗っている結晶に手を伸ばした。
結晶が柔らかなアビスの両手にぴったりと収まる。
両手でサイコパワー塊を持つアビスの目がいっぱいまで開かれた。
緩んだ口元から赤いアメがこぼれ落ちそうになるのをすんでのところで受け止める。
「本当にできたんだ……」
瞳はキラキラと光を吸って輝いていた。
私もにっこりと笑う。
当時の誇らしかった気持ちは今でもよく思い出せる。
『フーディン!! 成功だよ‼︎』
倒れる私の元にふたたび膝をつく。
私も一瞬だけにこりと笑った。
紫の塊を機械に押し当てて、アビスは目を瞑った。
しゅぴん、と空気の動く音。
機械とアビスの手のサイコパワーが消え去った。
『やっぱり、私にも使える……!』
何度も何度も過去を見返していても、それでも色褪せることのない、輝いた笑顔だった。
三度膝をついて、アビスは私に話しかける。
『ほんとに、ありがとう。フーディン……』
アビスは右腕で私を抱き上げて、左手で私の頭を優しく撫でた。
「……あ、データデータ!」
結晶をコトリと机に置いて、アビスはぱたぱたと機器の方へ走る。
カメラを覗いたり、パソコンのキーボードを叩いたり、嬉しそうながら忙しくし始める。
私は達成感と心地よい疲労に浸りながら、そんなアビスを眺めていた。