双頭のスプーン   作:クロサナ

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十六夜月

あの実験以来、アビスは研究所に行くことが少なくなった。

 

代わりに、一日中家のパソコンに向かって唸っていることが多くなった。

 

研究したり実験したりしたものは、論文として発表しないと意味がない。

 

アビスはそう言って、夜の目も寝ずにひたすらパソコンに向かっていた。

 

私が寝る時にはまだ作業部屋の明かりはついているし、私が起きた時にはもう既に膨大なデータと格闘している、そんな毎日を過ごすようになる。

 

寝ていなそうな時もままあった。

 

なんでも、もうすぐある大きな研究発表会に間に合わせたいのだとか、そんなことを言っていた。

 

起きてから研究室に行くまでの朝の時間も、夜ゆっくりと月を見上げる時間も、なくなってしまった。

 

それでも少しでもアビスを応援しようと私はアビスの代わりに家事をやった。

 

右腕が使えなくともサイコパワーを使えば家事をすること自体は困らない。

 

それでも、ご飯を作ったり、洗濯をしたり、勝手がわからなかったから苦労した覚えはある。

 

同時に、私が小さな頃のアビスは私の世話をしながらこんな家事をしていたのか、と驚きもした。

 

ご飯を運んでいくと、アビスは申し訳なさそうな笑顔で、わざわざ舐めていたアメの棒を取って、ありがとうと毎回言ってくれた。

 

それに対して、「まかせて」と返事ができて嬉しかったのもよく覚えている。

 

一つ心当たりがあるとするなら、アビスの表情に段々と辛さが混じっていくのに気づけなかったこと。

 

睡眠時間までもを削ってひたすらデスクワークをしていれば、当然健康にいいわけがない。

 

……あの時に気づいておけば。

 

いや、あの時だけじゃない。どこかで気づいておけば、アビスと別れることはなかったかもしれないのに。

 

 

論文の話は、スムーズに進んだ。

 

アビスは無事に論文を書き切って、発表した。

 

三日前にミスが見つかって、ふた晩かけて直していた時のアビスは見るに耐えなかったがな。

 

それでも本番は上手くいったようで、研究発表会の日の夜はずっと上機嫌でいた。

 

普段はあまり飲まない酒も飲んでしまったりして、いつになく騒がしい夜だった。

 

翌日は私の定期受診の日だった。

 

例のポケモンセンターに初めて行って以来、一ヶ月に一回のペースで受診することになっていたんだ。

 

その日アビスは体調がすぐれない顔色で、私は検診には行かなくてもいいんじゃないかと、休んだ方がいいと相談した。

 

アビスは決して首を縦に振ってはくれなかった。

 

アビスは私のためになると絶対に妥協してくれなかった。

 

その日も、いつものように裏のポケモンセンターに出向く。

 

「ご飯は食べられてますか?」

 

『食べた』

 

テレパシーを使って自分で受付での問診に答えて、待合室に座る。

 

横にどさっと落ちるように座ったアビスは明らかに私なんかより病院に行くべきだった。

 

『……大丈夫?』

 

「……うん、大丈夫」

 

いつもより荒い呼吸からしても、どう見ても大丈夫じゃないのはわかっていたが、今更どうすれば休んでもらえるかなんて思いつかない。

 

所在なく不自然な白一色の周りを眺めていた。

 

刹那。

 

ヒュウウ、と限界まで息を吸う音が隣から聞こえた。

 

驚いてアビスの方を振り向く。

 

三白眼。

 

限界まで開かれた、生気のない瞳。

 

アビスの青ざめた顔は、明らかに魂の存在しない形相だった。

 

アビスも微動だにしなかったし、私も金縛りを受けた時のように体が動かなかった。

 

時の歯車が奪われて世界の時が止まってしまったみたいに。

 

そのまま、まるで動力を失った機械のように、真横に倒れ伏した。

 

裏のポケモンセンターといえど医療施設。

 

ニンゲンの病院とのコネクションはあったようで、アビスはすぐさま救急搬送された。

 

倒れた原因は、睡眠不足もそうだろうが、最初に話したな。

 

あのいかりのこなのせいだ。

 

睡眠時間を削ってなお作業がし続けられたのは、いかりのこなの興奮作用、覚醒作用のおかげだ。

 

後から私が過去を見た時に知ったことだが、論文を書いている間、アビスはいつもの2倍近くの量のいかりのこなを入れてアメを作っていた。

 

もちろん私が寝ていた深夜にな。

 

摂取時間も起きている間はほぼいつもだから、慢性的だった。

 

摂取量が急激に増えて体に悪影響が起きないわけがない。

 

あとは、もしかすると前日に珍しく飲んでいた酒も最後の一押しになったかもしれない。

 

とにかく、いくつもの不健康が重なってアビスは倒れてしまった。

 

 

 

 

 

 

「脳出血、ですかね……?」

 

「脳だけじゃない。体内の出血が多いな……原因がわからない」

 

「胃壁がキラキラ光っていたのは……」

 

「あれも血、か……? いや、わからない」

 

医者と看護師がパソコンの画面を見ながら困惑しているのを、私は眺めることしかできなかった。

 

アビスは無事なのか、気が気でなかった。

 

「原因不明……ですかねぇ」

 

医師の諦めの声が聞こえてくる。

 

医師たちから目を離して、真っ白なベッドに横たわったアビスを見やる。

 

ぴくり、左手のあたりの毛布が少し盛り上がった。

 

「ん……ぁ……?」

 

うめき声。

 

もしかして起きたのか?

 

アビスが今度は頭をあげた。

 

『起きた! アビス、起きた!』

 

医師たちへテレパシーを飛ばす。

 

「だ、大丈夫ですか⁉︎」

 

看護師さんが小走りに歩み寄る。

 

「ぁ……え……っ⁉︎」

 

いきなりアビスが飛び起きた。

 

心電図を測っていた器具がポロポロと外れ落ちる。

 

まるで目の前に殺人鬼でも降ってきたかのような、恐怖と絶望の入り混じる表情。

 

看護師さんも、予想外の出来事に面食らって立ち止まる。

 

それでも、病人がいきなり起き上がってはいけないとまたアビスに近づいた。

 

「や……く、来るなっ……‼︎」

 

アビスは毛布を蹴り飛ばし腕を振るって、近づく看護師に抵抗する。

 

アビスの腕に当たった点滴の器具が甲高い音を立てて床に倒された。

 

「アビスさん、大丈夫ですか⁉︎」

 

「来るなぁ……っ‼︎」

 

さらに近づく看護師さんから逃げ出すように、アビスは足を縮めて立ち上がろうとする。

 

しかしまだおぼつかない足元に体勢を崩した。

 

「ふーでぃ‼︎」

 

ベッドから転落するアビスを、間一髪、サイコパワーで受け止める。

 

床に倒れ伏した後も、這いつくばって動くアビスを看護師さんが抱きかかえた。

 

「は、離し……てっ!」

 

看護師さんが押さえてもなおアビスはオニゴーリのような形相で暴れ抵抗する。

 

最後の抵抗に思いっきり振われたアビスの頭が看護師さんの肩に直撃する。

 

一瞬肩を押さえた看護師さんをそのまま突き飛ばして、アビスも反動で床に倒れ込んでしまった。

 

アビスが豹変した衝撃からやっと立ち直って、私もアビスの元に駆けつけた。

 

『……アビス‼︎』

 

テレパシーで強く名前を呼ぶ。

 

立ち上がれない足を引きずって逃げようとするアビスが少し止まった。

 

アビスの元までテレポートして、アビスの体をサイコパワーで起こした。

 

そして、ずっとずっとアビスがしてきてくれたように、アビスを抱きしめる。

 

アビスは、はじめ抵抗しようとしていたが、だんだんと落ち着きを取り戻し始めた。

 

『アビス……だいじょうぶ。なにもない』

 

呼びかけると、アビスが私の背中に腕を回した。

 

アビスが昔してくれたように、ゆっくり左手で背中を撫でる。

 

平静を取り戻したのか、しばらくするとアビスはまたすやすやと寝息を立て始めた。

 

様子を見て近づいてきた看護師さんと協力して、アビスをベッドに寝かせる。

 

看護師さんが外れてしまった器具を付け直し始めて、私は少し離れた。

 

「意識混濁まで……一体何が……」

 

医師がほぞを噛んだような表情のまま、眉をひそめる。

 

「……ひとまずは大丈夫そう、ですかね」

 

「あぁ。さっき落ちてしまた分の点滴は取って来てくれるかな。私は一旦戻るから、点滴を置いたら診療室で」

 

「分かりました」

 

何やら話して、医師も看護師も去っていってしまった。

 

後に残されたのは、何事もなかったように寝るアビスと私だけ。

 

何かしようかと少し悩んで、はっと閃いた。

 

次に起きた時に喜んでくれるだろうと、アビスの赤いアメを持ってくることにしたんだ。

 

この時は当然まだあのアメに潜む悪魔に気付いていなかったからな。

 

家までテレポートをした。

 

アビスがアメをいつもどこにしまっているのかは知らないので、探すしかない。

 

リビング、台所、風呂場なんかも。

 

家中をくまなく探し回ったが、なかなか見つからない。

 

あと探していないのはアビスの作業部屋だけ。

 

多分ここにあるだろうなという気はしていたが、一番最後にしてあった。

 

この部屋に入るのは、アビスと一緒にいる時だけにしてくれとアビスからはキツく言われていた。

 

大事な研究データを何も知らないポケモンが触って何かがあってはいけない。

 

もちろん私もそれを納得していたから、入るのが躊躇われた。

 

でも今は、病床に伏せるアビスを少しでも安心させたいし、喜ばせたい。

 

意を決して、扉を開けた。

 

アビスと一緒に入ったことは何度もあるから、中は見慣れた光景だ。

 

棚に所狭しと並べられる資料には絶対に触れないように気をつけながら、部屋を見渡す。

 

目につく場所にはなさそうだ。

 

机の下の引き出しに左手をかける。

 

中に何か振動に弱いものが入っていてはいけないので、慎重に開けた。

 

ひとつ。文房具やらキーホルダーやら、小物が小さい袋に分けられてしまわれていた。

 

ふたつ。資料の紙だらけ。

 

みっつ。

 

……あった。キラキラと光る、深紅のアメ。

 

全てを知ってからもう一度見ても、手作りだとは思えないくらい丁寧にラッピングがされている。

 

それをあるだけ左手に握りしめて、またテレポート。

 

アビスの隣に戻ってきた。

 

薬が置かれている小さな丸テーブルの上に、持ってきたアメを優しく置いた。

 

他にやれることはなんだろう。

 

立ち尽くして考えても、何も思いつかなかった。

 

今更のようにどっと疲れが体にのしかかってきて、私はその場に座り込んだ。

 

アビスの肩の横に左腕だけ置いて、前から突っ伏す。

 

右手は痛くないように、膝の上。

 

——アビスは大丈夫なんだろうか。

 

——私が外に出ることを反対していれば、こんなことにはならなかったかもしれない。

 

——アビスの顔色の悪さには気付いていたんだから、途中で帰ろうと言うこともできたかもしれない。

 

——私のせいで迷惑をかけてしまった。

 

——それに、なんでアビスが体調を崩さなくちゃいけないんだろう。

 

——あんなに頑張っていたのに、悪いことが起こるなんて。

 

当時考えていたことは、今でも思い出せる。

 

そんな風に頭の中をぐるぐると嫌な思考にかき乱されているうちに、私は眠りに落ちていった。

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