4匹の影が見えなくなるまでじっと見送ってから、ふう、と息を吐く。
思った以上に疲れるものだな。
興味を持ってもらえるよう演じるのも疲れたが、力が有り余っている子供達についていくのは、この体には重労働だ。
だが、少しでもニンゲンへの抵抗のないポケモンを作るためなら手段を選んでいる場合じゃない。
覚悟を決めながら、私は右腕にくっついている黄色の肉塊と、それに刺さっている銀の双頭の蛇に目を落とした。
鈍い痛みを発し続けるその塊を、何度サイコカッターで自ら切り落とそうと思ったかわからない。
だが……だが、私は一度も実行しなかった。
怖かったのだ。
切り落とす時の痛みが、でも、切り落としたことでサイコパワーが使えなくなることが、でもない。
……この右手は、進化不全障害の一つだ。
遺伝的な問題や充分でない進化環境などが原因で起こる、体の一部が進化しきれずに残ってしまう障害。
私の場合は、その中でもかなり運が悪かった。
スプーンとスプーンを持っていた右手が融合して一体化してしまったのだ。
スプーンを持って握り込んだ右手がそのまま指ごと溶けてしまったような、そんな右手になってしまった。
ものを掬う部分が二つに分かれた奇形のスプーンになったのも、ユンゲラーからフーディンになる過程で2つになるはずだったスプーンが分かれきれなかったものだろう。
もちろんスプーンが埋め込まれた右手にもきちんと神経が通っていて、スプーンに刺激が加われば肉塊が内部からかき回されるような痛みに襲われる。
それでも、切り落とすことはできないのだ。絶対に。
決意はもう新たにするまでもなかったが、そんなことを考えていると少し右腕の痛みが引いてきた。
完全に引くまで待つには、寝るのが一番だ。
そうだ、寝てしまおう。
岩の台の上までテレポートして、横たわる。
岩の冷たさが私の体に侵入しようと攻め込んでくる。
その内体温で温まってくるまでの辛抱だ。
サイコキネシスを解くと、疲れでいつも以上に重い体の重量が直にのしかかってくる。
その重さに身を任せ、私の意識は沈んでいった。
空に投げ出されたような落下感とともに不意に意識が急浮上する。
夢を見ないで目が覚めたのは久しぶりだ。
外はもう太陽の炎の残滓が跡形なく拭い去られた暗闇。
そのまま続けて寝るには少し寝過ぎてしまったかもしれない。
まだ夜は長い。
明日も子供達が来ることを考えるとあまり夜に起きているのは得策ではないだろう。
「……そう、だな」
テレポートで起き上がり、体をサイコキネシスでキャッチする。
そうして私はのっそりと洞穴の外へ出た。
夜空の中空に、のっそりと浮かぶ半円が見えた。
あれは、上弦の月だっただろうか、それとも下弦?
確か、沈むときに真っ直ぐの側が上か下かで見分けがついたはずだ。
……下弦の月か。
これからどんどん欠けていって、ついには無くなってしまう月。
昔の自分はあまり好きではなかったが、今ではこの月になんとなく親しさを覚えるようになっていた。
サイコキネシスの出力を上げて、私は細い月へと向かって空を昇った。
下を見ると、目線のずっと上にあったはずの木のてっぺんすらも遥か真下。
いつもより少し高すぎたかもしれない。問題はないが。
こうやって空中を散歩するのはいつもと違った景色が見られて退屈しない。
散歩、か。
思い出すのはやはりあの時の思い出だった。
——おうちにいるの退屈でしょ?
夕方ごろになるとアビスはそう言ってよく私を連れ出した。
まだケーシィだった頃だ。
当時まだ多く物事を知らなかった私は、外に出るたびに知らないものを見かけるのがとにかく楽しかった。
空に浮かぶビリリダマのようにまんまるの物体を『満月』と呼ぶのだとアビスは教えてくれた。
その日は特別月が大きかった。
『スーパームーン』、月がこの星にとても近づく現象が起こっていたと知るのはまた後の話だ。
煌々とした月明かりに照らされるといつもよりも夜の街がよく見えて、一層楽しかった。
満ちてから半月が経つと、月が跡形もなくなる。
それを『新月』と呼ぶことを知ったのは、この体になった後、散歩に行く代わりに本を読んでいるときのことだった。
夜の散歩が好きなのは何も月だけじゃない。
森の中は空気が綺麗だ。
木々が作った新鮮な酸素が体に染み渡るように感じる。
夜の涼しさで引き締まった空気が私は好きだ。
……ただ、綺麗とは言えないはずの街の夜の空気の方がずっと好きだった。
なにをするでもなくしばらく上空を漂って下の木々やら海やらを眺めながら、こうしてあれやこれやと取り留めもなく考える。
もう何回考えたかもわからないことを何度も何度も反芻して、寂しく、恋しくなって。
……また少し疲れてきた。寝ようか。
思考を中断してサイコキネシスの出力を弱めた。
緩やかに下降して、そのまま洞穴の中へ。
奥まで進んで、岩の上に横たわる。
冷たい岩が温まるのを待つよりも先に私の意識はそっと幕を閉じた。
それは眠ればほぼ確実に見る、夢の幕を開くための前振りだった。
暗い。
周り一面は少しの光も見逃さないようにとの暗闇で、私だけが影のできる隙間もないまでの光に全身囲まれていた。
うっすら見えるのは、ガラスの向こう側にいるアビスの白衣。
いつもの真っ赤なアメは舐めるのも忘れて棒部分を手に持っている。
その手は何への緊張か、痛そうなまでに握り締められていた。
周りにはやはりガラス越しに、白衣の男女が紙の挟まれたボードとペンを手に私を取り囲んでいた。
「それでは開始します。よろしいですか?」
ガラス越しにくぐもった声が聞こえてきた。
アビスを含め周りのニンゲンたちは各々頷いた。
「それでは」
真横にいる男が、私が入っている機械を操作し始めた。
チリっと頭頂部に違和感が弾ける。
小さな電流が当たっているような、痺れに近い感覚。
次の瞬間、全身の細胞が震えだした。
力が持て余すほどにみなぎっている。
ほのかに温かい力が私の体内を駆け巡り——
ドクン。
右手が脈打って強く痛んだ。
青空のような青い光に包まれていた視界が、鮮血のような凶暴な赤に染まる。
内側から肉をかき回されるような燃える痛みに右腕を強張らせながら、私はガラスの外側を見た。
手。
ガラスに押し当てられて柔く潰れた白い2つの手のひらだけがくっきりと見えた。
アビスは、大事なアメも落としてガラスに包まれた器具の外で震えていた。
右腕を灼く痛みが更に強くなる。
強い痛みに意識も手放してしまうのではないかと思った。
アビスの指が折り曲げられた。
私とアビスを隔てるガラスを引っ掻くように、無念の力がこもっていた。
アビスの目から何かがこぼれ落ちて、機械の光を受けてきらりと輝いた。
その滴が、頬を伝って、落ちて……。