双頭のスプーン   作:クロサナ

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繊月

私はかつてニンゲンたちの街に住んでいてな。

 

あるニンゲンと生活を共にしていたんだ。

 

アビス、という名前だった。

 

今はどうしているかわからない。

 

まあ恐らくもうこの世にはいないだろうな。

 

過去を見て、私と別れたあとアビスがどうなったのかを知ることは、一応できるにはできる。

 

……怖いんだ。

 

アビスがいないという事実を確認してしまうのは。

 

アビスとの思い出が本当に過去のものになってしまうようでどうにも怖い。

 

アビスと暮らしていた頃は本当にたくさんのことがあった。

 

何から話そうか。

 

……あんまり動き回らないでくれ。お前の体の色はあんまり好きじゃない。

 

その鮮やかな赤が嫌いなんだ。

 

あぁ。まずその理由からにしようか。

 

……アビスは、ずっと赤いアメを舐めていた。

 

甘いモノを食べすぎると虫歯というものになる、と本で見て制止しもしたが、まるで聞かなかった。

 

それも後から納得はいったがな。

 

……あのアメが、アビスを殺したんだ。

 

「いかりのこな」だ。

 

あのアメが赤い理由はいかりのこなを含んでいたからなんだ。

 

いかりのこなは知っているだろう?

 

『いかりのこな。イライラさせる 粉を 自分に ふりかけて 注意を ひく。相手の 攻撃を すべて 自分に むける。』

 

「いかりのこな」はそういう効果だ。

 

 

ポケモンが摂取した時は、な。

 

 

あの粉の本質は興奮作用だ。

 

生物として体がある程度丈夫なポケモンが吸い込んでも一時的にイライラするような作用が出るだけ。

 

だが、ポケモンに比べてそういった耐性が低いニンゲンがあの粉をまともに摂取したならどうなるか。

 

……麻薬と化すんだ。

 

ポケモンとは違って、本来ならありえないまでに精神が昂ってしまう。

 

アビスがどういう感覚を覚えていたのかはわからないが、少なくとも最初に「いかりのこな」を間違えて吸い込んだ時のアビスは明らかにニンゲンの域をはみ出ていた。

 

あの時アビスは膝から崩れ落ちて、だが頭は上に吊られているように上を向いていた。

 

そして、大きく見開いた目が、私と合ったんだ。

 

過去を見るとき私は俯瞰視点で見ているから、本当だったら目が合うはずはないのに。

 

だからアビスは虚空の一点をじっと見つめていたんだろう。

 

アビス……深淵……。

 

未来の私を、見てはいけないものを見てしまった私を見るように。

 

あの光を失った大きな眼球は忘れられない。

 

いわゆる麻薬の多くは依存性がある。

 

あの粉も、例外ではなかった。

 

いかりのこなについて詳しい効果が書かれた本は私の知る限りないが、確かにアビスは依存していた。

 

いかりのこなは研究用に飼われているモロバレルから取ることができてしまうし、その採取量は自己申告だった。いかりのこなが足りなくなってしまうこともなかったんだ。

 

だからアメを舐めるのをやめなかった。

 

多分死ぬまで、いかりのこなを摂取し続けただろうな。

 

……元々アビスはサイコパワーについて研究していたんだ。

 

サイコパワーというものの原理を解き明かして、ニンゲンやエスパー技の使えないポケモンにもサイコパワーを操れるようにしようとしていた。

 

私を家に飼い始めたのも、元はそのためだ。

 

ケーシィの一族は進化する前の時点ですでにサイコパワーの扱いに長けている。

 

研究用のポケモンとして用意されているチリーンでは届かないサイコパワー出力を求めて、アビスは私の卵を手に入れた。

 

あぁ。研究用のポケモンを説明していなかったか。

 

ポリゴンZ……お前に説明する必要があるのかは謎だがな。

 

研究に使っていいポケモンは政府によって本来制限を受けていてな。ある程度扱いやすく、繁殖能力の高いポケモンしか研究目的に使うことはできないきまりになっているんだ。

 

これは、無闇に野生のポケモンなんかをニンゲンの危険な研究に関わらせないための措置として機能しているはずだった。

 

だが実際は「ポケモントレーナー」として研究対象のポケモンを手に入れて、「研究者」としてそのポケモンを研究に巻き込むことができてしまっている。

 

言ってしまえば私もその被害にあった1匹だ。

 

そういった研究がなかったなら、私の右手はこんなことにはまずなっていないだろうからな。

 

この問題はニンゲンたちの間でも議論を呼んでいるんだが……まあそれは置いておこう。

 

とにかく、アビスはサイコパワーの研究を進めるために私を使ったんだ。

 

アビスが目指したのは、誰でもサイコパワーが使える世界。

 

サイコパワーを結晶化させて保存し、その結晶を使えば誰にでもサイコパワーが使えるような技術を創ろうとしていた。

 

私がリオルたちに使わせたのが、その研究の賜物さ。あれはアビスの努力の結晶なんだ。

 

サイコパワーが使えるようになるとすぐに私は実験に投入された。

 

幸い進化していないケーシィの状態でも、研究用のチリーンよりはサイコパワーの扱いに長けていたから、実験自体は私の存在で少しずつ進んでいった。

 

それでもまだサイコパワーの濃度が足りなかった。

 

当時はサイコパワーの濃度を上げるには、私が進化する以外に手立てはない。

 

だがポケモンが進化するには、一部のポケモンを除いて相応の時間がかかるものだ。

 

私が進化するまで待っていてはあまりに研究が遅れてしまう。

 

だから、アビスはポケモンの能力を強化する別の方法を探った。

 

文献などを漁って探した結果が、いかりのこなだったんだ。

 

いかりのこなには感情をコントロールする力がある。

 

バトル場で実際に吸ってしまう程度の少なさだからこそ、イライラしてしまうだけで攻撃の威力は上昇しない。

 

だが、適切に配分してやれば集中力の向上によって威力上昇が見込めるということにアビスは気づいたんだ。

 

アビスはいかりのこなを材料に、ポケモンの能力を引き出す薬を作り出した。

 

その過程で自分も粉を吸い込んで、人生を狂わせてしまったわけだがな。

 

そうだ、アビスがわざわざアメの形でいかりのこなを摂取していたのにも理由がある。

 

そもそも最初はタバコのように煙を吸っていたんだ。

 

手巻きタバコのように、中に怒りの粉を詰めて自分で作っていた。

 

それでも真っ赤な煙が出ることを除けば普通のタバコにしか見えないものだった。

 

問題が起こったのは私が成長して少し活動的になってからだ。

 

いかりのこなタバコを吸っているアビスの隣に近づいて、私はその煙を少し吸ってしまったことがある。

 

いかりのこなを吸ってしまったわけだから、バトル場で起こる現象のように、アビスに攻撃を始めてしまったんだ。

 

もちろん当時は技も使えないような時だったから何か怪我を負わせたりすることはなかったが、今後技を使えるようになってから同じことが起こったら怪我くらいはしてしまうだろう。

 

かといって家でいかりのこなを摂取できないのは耐えられない。

 

そんな問題を解決するためにアビスが作ったのがあの赤いアメさ。

 

既製品のアメを溶かして、そこにいかりのこなを混ぜ込んでまた固めれば魔法のアメが作られてしまう。

 

アメ玉の形に固定してしまうことで持ち運びやすく、怪しまれない。

 

卵焼きさえ砂糖を大量に入れる甘党だったアビスには余計にぴったりだっただろうな。

 

このアメのせいでアビスはずっといかりのこなを摂取し続けた。

 

それが原因でアビスは入院してしまった。

 

あのアメがアビスを殺したんだ。

 

……わかっている。アビスを殺したのはアメなんかじゃなくて、アビス自身だ。

 

どんなに疑われようとも嘘で塗り固めてまで、いかりのこなを摂取し続けたのはアビス自身だ。

 

……わかってはいるんだ。

 

でも……。

 

 

……この話はやめよう。

 

あとは……何があったかな。

 

そうだ、この右腕の話でもしようか。

 

ああ。この醜い肉塊の話だ。

 

この右手は進化不全によって起こってしまったこと。

 

進化不全というのは、ポケモンが進化するときに体の一部が進化しきれずに進化前のポケモンの体の特徴が残っていたり、運が悪ければ変形の途中で止まってしまうことだ。

 

原因には色々ある。多くは遺伝子的な問題だが、進化環境が悪いせいで発生することもある。

 

私は、後者。進化環境が悪かった。

 

そもそもユンゲラーというのは、ニンゲンの世界では通信進化によって進化するポケモンだ。

 

通信進化の原理についてはまだ色々な説が出ていて確定したわけではないが、現段階では、放射能が染色体を傷つけて情報を変えてしまうのと同じように、通信進化の過程の何らかの要素でDNAに変異が起きて、進化を引き起こす、というのが有力な説だ。

 

その中でもユンゲラーは、通信進化に対する遺伝子の影響が大きいポケモンとして有名だった。

 

何しろ他の通信進化出来るポケモンと違って、かわらずのいしを持たせていてもなお進化してしまうからな。

 

そして、通信交換の際にかわらずのいしを持たせていると、不完全な進化をしてしまう可能性が上がる。

 

ユンゲラーの遺伝子に進化を促進する力と抑制する力が重なってしまうから、中途半端になるんだ。

 

その結果、フーディンに進化したら消えるはずだった尻尾が残ってしまっているフーディンもいる。まあ尻尾が残っていること自体はフーディンへの苦痛はないはずだがな。

 

私の場合は、かわらずのいしを持たせたなんて生やさしい理由じゃない。

 

通信進化をせずとも強制的に進化できる装置の実験台になったんだ。

 

その装置の不具合で刺激が足りず、進化の流れが右手で止まってしまった。

 

右手は進化途中の肉塊のままになって、スプーンも先のすくう部分だけが二股に分かれてしまっている。

 

スプーンを握り込んだまま右手が肉塊になったから、スプーンと右手が一体化しているだろう。

 

これでも生体的にはスプーンと右手は別のもので、スプーンが動かされるたびに右手が内側からかき回されるような痛みが起こる。

 

ちょっとでも触れればもう痛いんだ。

 

何度もこの右腕の先を切り落とそうか迷った。

 

でも、できなかった。いや、しなかった。

 

切り落とすことはサイコカッターでできるし、止血法も知っている。痛みだって今更怖いものではない。フーディン族はスプーンがないとサイコパワーが使えなくなってしまうが、サイコパワーが使えなくとも生活はしていける。

 

でも、切り落とすことはしなかったし、これからもしない。

 

これも、私がニンゲンの世界にいた証だからな。

 

アビスがいなければ、この右手にはなっていなかった。

 

この右手を見ることで、私は昔ニンゲンの世界にいたんだと思うことができるんだ。

 

この右手が痛むことで、ニンゲンの世界の生活が思い出せるんだ。

 

右手が痛むと、たまにアビスの心配する声が聞こえる。

 

その度に自分の中でアビスはまだ生きているんだと思えるんだ。

 

だから、この右手を、わざわざ切り落とすことはしない。

 

ニンゲン界を忘れるのが怖いから。

 

この腕時計だって、バンドが切れたとき以外は外したことがない。

 

この白衣だって、いかりのこなが付着していようと脱いだことはない。

 

それと同じさ。

 

……私はニンゲンに執着しすぎではないのか?

 

いや、仕方ないんだ。

 

私はニンゲンとしか生活してこなかったから。

 

研究用のポケモンは一般の人の目に触れることはほぼない。

 

アビスはよく散歩に連れて行ってくれたから、研究用ポケモンたちの中ではこれでも圧倒的に外出の量が多い方だった。

 

一生外の世界を知らずに過ごすポケモンも多いからな……。

 

それでも、私はアビスの他のニンゲンは数人の科学者しか知らない。

 

じゃあこっちの森に来て自由になってからどうなったかと言えば。

 

ニンゲンを肯定するのは私だけ。

 

ニンゲンのことを話す私はニンゲンと同じように敵として見なされた。

 

……もうずっと前のことだがな。

 

この森に来てから、ポケモンだけの社会に私がいられる時間はそう長くなかった。

 

追い出されて、森の最北端……ここに来たんだ。

 

あれ以来1人で、何も生み出さず、ずっとここに意味もなく留まり続けている。

 

意味がないからと言って、死ぬことはできなかった。

 

この森でニンゲンのことをちゃんと知っているポケモンは私だけ。

 

その私がいなくなってしまえば、この森にはニンゲンのことを知るポケモンはいなくなる。

 

アビスのようなニンゲンがいることが忘れ去られてしまう。

 

そう思うと自殺なんてできなかった。

 

こうして私の経験はもう増えなくなった。

 

私は知っている世界が少なすぎるんだ。

 

他のポケモンと触れ合うこともなく、ひたすら過去を見て、感傷に浸ることしかしない生活を、もうどれだけ繰り返したか。

 

小さな世界をどれだけ反芻し続けたか。

 

……私にはもうニンゲンに執着することしかできないんだ。

 

他の選択肢を全て断たれて、また自分から断ったからな。

 

これでいいんだ。

 

アビスには恩があるから。

 

こんな生活で恩を返せているかはわからないが、少しでも恩を返さなければいけないんだ。

 

……恩?

 

恩とはなんなんだ……?

 

わからない。

 

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