ぽわーん、と鳴き声が頭上から聞こえた。
木々から垣間見える空はもう朱に染まっている。
きっと今の声はフワンテとフワライドの群れだろう。
夕方になると大群でどこかに飛んでいくのをよく見る。
昨日シャンデラと別れてから、わたしはこの森を出る準備を進めた。
といっても、何を用意すればいいのかもよくわからない。
二日三日は保つだろう分のきのみと、おやつを兼ねた杖候補の枝をカゴに入れたくらい。
この森に思い入れがないわけではないけれど、名残惜しいとはあまり思わなかった。
仲が良かったポケモンたちでも、ニンゲンのところに行くとなると事前に言えるポケモンたちは少ない。
あの時フーディンの元に一緒に行った友達、オオタチとルカリオにだけ話しておいた。
二匹とも心配しつつも応援してくれて、その時は少し泣きそうだったけれど。
あの時の仲間の最後の一匹、モノズが森を出て行くのを見送った時を思い出す。
あの時少し不安そうな表情だった気持ちが今ならよくわかる。
あとは、お父さんとお母さんと妹。
妹はともかくとして、お父さんとお母さんは何か言ったら絶対に喧嘩になっちゃうと思う。
何も言わないで出ていくつもりだけど、決して嫌いなわけじゃない。
心配もかけるだろうし、申し訳ないとは思う。
明日の朝、わたしがもう戻れないくらい歩いた後に、伝えてもらうようにオオタチには頼んでおいた。
もうこの森でやり残したことはない。
あとは寝るフリをしてから抜け出すだけ。
きのみのバッグも、寝場所の近くに置いてある。
そわそわと何をするにも落ち着かなくて、住処の周りで木のカゴを編んでいた。
「ちょっとテールナー、いるの?」
いきなりお母さんの大きな声。
ただ大きいというより、怒号だった。
「なに? いるよ」
いきなりなんなんだろう。
少しムッとしながら返事をする。
「あんた川で何やってたの!」
全身の毛が逆立つ。
「え、え……」
なんで。
いきなりのことに言葉が出ない。
「昨日の夜! 寝ないで川にいたんでしょう!」
なんで知ってるの?
どこでバレた?
頭の中にいくつもの疑問が渦巻く。
「黙ってても無駄よ。ケンホロウさんから川の方で花火を見たって聞いたんだから。あんたじゃなきゃ誰がやるの」
そういうことか。
あの花火を見ていたポケモンがいないとは思っていなかったけど、わたしのことを知っている誰かがいるとは思っていなかった。
迂闊だった。
頭の中は冷静なのに、喉は凍ったみたいに何も言えなかった。
目線を上げると、お母さんがいつになく厳しい表情でわたしを睨んでいる。
「…………」
「おい。テールナー」
前方から、岩が降ってきたような重い声。
お母さんの後ろから、お父さんもこちらに歩いてきた。
「夜に出歩いていたのか」
お父さんがお母さんの横に並ぶ。
ツノがギラリと光を反射してわたしの目に差した。
いきなり二匹から睨まれて、図星で。
言葉が出ない。
「…………」
「テールナー!」
お母さんが叱咤する。
「行ってたよ。別にいいじゃん」
絞り出した声は、自分の想像以上に小さく、低かった。
「良いわけないでしょ! 夜に出歩くなんて!」
「周りが見づらいことも、起きているポケモンが少ないことも、危険なことはわかるだろう」
「…………」
「それにちゃんと寝てないってことでしょ? 健康に悪いわよ」
「……うん」
お父さんもお母さんも、心配していたのは夜に出歩いていることだった。
これは確かにそうだ。
火をつけていても周りが完全に見えるわけじゃないし、助けも求めづらくなる。
わたしだって分かってはいるけど、それでもこう改めて言われると反論のしようがない。
「お姉ちゃんみたいに番ができて、そっちに行くっていうならともかく。そうじゃないなら夜は住処にいなさい」
「一匹で危ないことはするなよ」
「うん……」
たった今から、ここを離れようとしていたのに。
こんなことを言われてしまうと申し訳なくていられない。
でも、もうここを出るのは心に決まっている。
最後まで心配をかけるわたしは、親不孝かもしれない。
「それに」
「……?」
「行くにしても川はやめなさい! ニンゲンがいるって言ってるでしょ!」
お母さんがまた怒鳴る。
「ニンゲンの話は関係ない!」
なんでよ。
「ニンゲンなんて、野蛮で残忍で、危ないんだから!」
「ニンゲンは危なくない!」
心配してくれてると思ったのに。
「危ないわよ! 最近だってポケモンを誘拐するって話があるんだから!」
「誘拐なんかしてない!」
親不孝だったかなって思ったのに。
「あんた、川でニンゲンを見たって聞いたから。ニンゲン探してるんじゃないでしょうね?」
「探してる! もう会ったよ!!」
ここのポケモンなんていつもこう。
「なん……」
「わたしの友達を助けてくれたの! ニンゲンは悪くない!」
ニンゲンのことを悪いって決めつけて。
「……たまたまそのニンゲンが助けてくれたとしても! 危ないニンゲンだったらどうするの!」
「そんなのポケモンもニンゲンも一緒じゃん!」
ポケモンだって悪いやつらもいるのに。
「やっぱりあの時に止められたら……」
「違う!!」
意味もなく敵にしてばっかり。
「あの事件から、あなたおかしいのよ」
「おかしくない! フーディンさんは悪いポケモンじゃない!! 絶対に違う!」
もう我慢の限界だった。
ただひたすらその場を離れたくて、わたしは川へ行く方に駆け出した。
「ちょっと! 待ちなさい!」
お母さんの叫び声が聞こえる。
「待て、マフォ」
お父さんが呼び止める声もした。
でも、もう関係ない。
わたしは今日ニンゲンのいるところに行く。
こんなところになんかいられない。
怒りに任せて何度も地面を蹴り付けて走った。
とぼとぼと一歩ずつ足を前に出す。
勢いに任せて走り出して、だいぶ疲れてしまった。
見上げた空はもう一欠片の光もない。
『……たまたまそのニンゲンが助けてくれたとしても! 危ないニンゲンだったらどうするの!』
お母さんの言葉を思い出す。
失敗した。
またカッとなって。
お母さんだっていっつも決めつけてくるから、わたしだけが悪いわけじゃないとは思うけど。
でも、もう少し話のやりようはあったかもしれない。
『あの事件から、あなたおかしいのよ』
……わたしはおかしいわけじゃない。
やっぱりこれで良かったんだ。
このままニンゲンのところまで行こう。
「……あ」
思わず声が出た。
準備したカゴを持って行き忘れてしまった。
せっかく準備したのに。
「……いいか」
あの時はとにかくその場を離れたかった。
今更戻るわけにもいかないし。
別にぷれはぶに行ってからでも準備はできるだろう。
「しょーがない」
不安な気持ちを抑えたくて、独り言。
『ちょっと! 待ちなさい!』
お母さんの声をまた思い出してしまった。
今頃、心配してるかな。
お母さんも、お父さんも。
『待て、マフォ』
……そういえば。
耳に残ったお父さんの声は、わたしではなく、お母さんを呼んでいた。
お母さんは多分わたしを追いかけようとしていただろう。
わたしを追いかけるお母さんを、どうして……?
今更気づいても、もう真実は分からない。
心に整理をつけて早足に森を抜けた。
木々が頭上からなくなって、開けた視界には星空が広がっていた。
月がない分、星がよく見える。
川は相変わらず静かに流れていた。
出発するにはいい天気かもしれない。
歩を緩めてぷれはぶに近づいた。
がちゃ、と音がしてとびらが開いた。
シャンデラが体の半分だけを外に覗かせた。
「きたよ」
「うん……いらっしゃい」
再びぷれはぶに戻るシャンデラの後を追って、わたしもぷれはぶに入った。
いつものように置かれている椅子に座った。
シャンデラはいつものように正面ではなくて、ドアと反対の横に来た。
「それで、その、行く準備は、どう?」
「うん。もう行くつもりで来た」
「そっか。お父さんとお母さんは大丈夫?」
「あー、えっと。大丈夫……ではないんだけど」
どう言ったものか。
自分自身完璧な行動ではなかったと思うからこそ、言いづらかった。
「大丈夫じゃないの?」
「ちょっと、言い争いして」
「それは……本当にもうここを出ていいの?」
「……うん。いいの」
「そういうなら、まぁ。とは言っても暗いうちには出られないから、明日起きたらになると思うけどね」
「うん。なるべく早くお願い」
明日にはこの森を出る。
あまりにも唐突な話で、しかもさっきは住処を飛び出して、お母さんとも喧嘩しっぱなし。
頭ではこれでいいと分かっている。
これが正しいんだ。
それでも、漠然とした不安がくろいきりのようにわたしを包んでいた。
拭おうとしても霧は一向に晴れそうにない。
「大丈夫?」
「……あ、なに?」
「大丈夫? って。ちょっと怖い顔してるよ」
「え、……うん」
顔に出てたんだ。
見逃されなかった。
「やっぱり大丈夫じゃなかったりしない?」
「えっと……」
「何か気掛かりがあるなら聞くよ。ボクなんかに何ができるかはわからないけど」
「その……うん」
戸惑った気持ちを感じながらも、一つ頷いた。
自分自身よく分かっていないから、何を言えばいいのかもよくわからない。
でも何かが不安なのは事実で。
それに気づいてもらえたのは嬉しかった。
わたしの言葉を待つシャンデラの瞳は、わたしが出す炎を映してゆっくり揺れている。
「その、また喧嘩して」
「お母さんと?」
「……うん」
「わたしがここにいたの、バレちゃって。それで怒られたの」
「それは……ごめんね」
花火で、とは言っていないけれど、多分シャンデラは分かっているんだろう。
「ううん、いいの。それで、夜に出歩くなって言われたんだけどね。その時一緒に、ニンゲンなんか探すなーって言われて」
「そのことも、お母さん分かってたんだ」
「そうじゃないんだけど、でもこの辺りでニンゲンを見たっていう話はいくつもあったの。全身白いって言われてたから、多分シャンデラを助けてくれたニンゲンだと思う」
「そうだったんだ……そんなニンゲンが」
「それで……それで、やっぱりフーディンさんのせいって言われて。飛び出してきちゃった」
「キミも嫌だったよね」
「うん。でも、お母さんはやっぱり心配してくれてたなって、後から思って」
今の素直な気持ちを、全部言った。
シャンデラはしばらく困った顔をして、それから伏目がちに話し出す。
「その、全然戻ってもいいよ。ボクに付き合って、森を離れるなんてしなくても」
「ううん、いいの」
「ほら、行くにしても、今日じゃなくてもいいわけだし」
「いいの。友達にね、伝言頼んであって。最後まで心配かけちゃってごめんって、言ってあったんだ」
「そっか。後悔してないならいいんだけど……」
「なんとなく、ニンゲンのところに行くなら今しかないって思ってるの」
「今しかない……?」
「うん。今まで何度も森を抜け出そうかなって思ってたけど、結局やって来なくて。それが初めてわたし以外の理由ができたから。行くなら今だって思う。今戻ったら、もうニンゲンの街には行かない気がして」
「……そっか。ありがとう」
シャンデラは、申し訳なさ半分の笑みをわたしに向けた。
「ん、なんか話したらスッキリした」
自分で言葉にして改めて、わたしは今日この森を出るんだと実感できた。
不安もあるけど、今しかない。
「ほんと? よかったよ」
なんとなく椅子から立ち上がって、外が見られる透明な板に近づいた。
触るとひんやりと冷たい。
「これはなんて言うの?」
「それは窓。外が見られるんだけど、扉みたいに開けられるよ」
「ふーん……やっぱりすごいね」
まどの木の枠に手をかけて、外を見やる。
そとは星明かりのわずかな光を川が反射して煌めかせていた。
月がないから暗いけど、綺麗だった。
ふいと、お母さんの言葉を思い出した。
『お姉ちゃんみたいに番ができて、そっちに行くっていうならともかく。そうじゃないなら夜は住処にいなさい』
お姉ちゃんもこんな感じで夜に出歩いてたのかな。
「あーあ。番がいたらなぁ」
「……つがい?」
「お母さんが、お姉ちゃんみたいに番がいるなら出歩いても危なくないけど、って言ってて」
「…………」
「わたしにも番がいれば、お母さんも説得できたのにって」
「……………………」
「そうだ、ニンゲン達の住処で探そうかな」
そしたら、ニンゲンのところにずっと居られる。
そう言おうとして、シャンデラがじっとこっちを見ているのに気づいた。
まどの外からシャンデラに視線を映す。
「……? どうしたの?」
「……その」
「また体調悪いの?」
「あ、ううん! そうじゃなくて」
「??」
「……えと、あの……………………」
「ボクじゃ……だめかな」
……え。
お腹に力が入って、掠れた声も出なかった。
それまで考えていたことが全部吹き飛んで、何も考えられない。
「あ……その、キミと話すの、すごく居心地が良くて」
「……ダメって、番のこと?」
無理やり声を絞り出す。
シャンデラは少し目を逸らしたあと、またわたしを正面から見つめた。
「……うん。キミと一緒にいたいって、思うから……」
「それは、これからニンゲンのところに一緒に行くけど……」
「番なら、探さなくても、って」
わたしの中に渦巻く気持ちはなんだろう。
シャンデラはまだ知り合ったばっかり。
……でも、もう色んなことを話して、川の向こうにも出かけて、決してもう怪しんでいるわけじゃない。
「その……花火に元気もらったんだ」
「花火?」
「あの花火のおかげで、まだもう少し生きててもいいかなって、ここにきて初めて思えて。だから、キミには返しきれないくらい恩がある」
そう言われると、わたしの花火で本当に勇気づけられたなら、嬉しい。
けど。
「ニンゲン達のところでも見られなかったものを、キミは見せてくれたから」
けど。
そうだ。
「……でも、わたしたち、タマゴはできない、よね」
そうだ。
ポケモンには色々な種類がいても、誰も彼もが番になってタマゴができるわけじゃない。
ニドキングのお父さんとマフォクシーのお母さんみたいに、別種でも体の作りなんかが近ければタマゴはできるとされているけれど。
でも、わたしとシャンデラは、多分違う。
体の作りも、何もかも。
「……タマゴがなくちゃ、ダメかな」
「ダメ、ってことは……」
確かに子供がいない番もいる。
ダメではない、のだろうか。
わからない。
「ボクはただ、一緒にいたいから……」
どうして?
わたしの考えに、一片の疑念が生まれた。
どうしてシャンデラはそこまで食い下がってくるんだろう。
何か、企んでいるんだろうか。
シャンデラと最初に会った時の警戒心が蘇ってくる。
「…………っ!」
シャンデラを前に突き飛ばす。
「なっ……」
突然押し返されて、シャンデラは体勢を崩して倒れ込む。
倒れるシャンデラの、その横を駆け抜けて、わたしはぷれはぶを飛び出した。