【第一部】~吉良吉影は静かに生き延びたい~/【第二部】~Saint Babel Run~ 作:どくたあちょこら~た
理不尽と絶望にギリギリと顔を歪め、射抜くように霊夢を睨む吉影。
その視線を平然と受け止め、冷徹に見下ろす霊夢。
両者の間に立ち込める覇気は周囲の空気を極限まで緊張させ、震わせる。
片や煮えたぎる溶岩、片や吹き抜ける涼風。
相反する気質の衝突が、審判の鉄槌によって幕を閉じようとした、
その寸前であった。
「待てッ!!」
響き渡る轟声。
その場にいる全員が、反射的に声の方向に目を向けた。
碧の彗星のように、高速で魔理沙達の上を飛び越えた影。
紫、藍、魔理沙、命蓮寺組、紅魔館組、射命丸、妹紅、吉廣、
翠の人影は彼女達の前に降り立つと、蹲り息絶えようとしている敗者のみを、その双眸に映した。
闇に輝く紅い瞳、
月に煌めく薄緑の髪、
そして、頭に備えた双つの角。
上白沢慧音は満月の下、吉影を見据え佇んでいた。
~吉良吉影は静かに生き延びたい~
第二十七話 満月の妖獣、人喰い猫の幻―Never Grow Old―
OP 凋叶棕『月光照らすはシリアルキラー』
「――――――上白沢………慧音……」
吉影は身体を震わせながらも顔を上げ、慧音に目を向けた。
腹部を貫く激痛に耐え、腕に満身の力を込めて、身体を起こす。
さらに、足をグッと踏ん張り、フラフラと危なっかしい姿勢ではあったが、立ち上がった。
「――――――吉良………吉影………」
血ヘドにまみれた痛ましい彼の姿を、慧音は真っ直ぐな瞳で見詰めた。
その双眸には何か、言い知れぬ『決意』を静かに湛えている。
「…………、っ?」
ガオンッ!
慧音に視線を向けていた霊夢が、突如現れた空間の【スキマ】に呑み込まれ、消えた。
同時に、紫の隣に開いた【スキマ】から、霊夢が吐き出される。
「何よ紫?
私の【仕事】は……」
不機嫌そうに食って掛かる霊夢を、紫は扇で制す。
「いいえ、『ここから』よ。肝心なのは………
黙って見ていなさい。」
霊夢に目を落とすことなく、相対する二人を視界に収め、紫はそう諭した。
霊夢は納得こそしてはいない面持ちだったものの、口をつぐみ二人に焦点を合わせる。
二人の【最後】の会話は、吉影が口を開いたことを皮切りに始まった。
「――――――その名で君に呼ばれたのは…ケホッ……思えば、初めてだったな…………ええ?上白沢慧音………」
口の端から血を溢し、吉影は慧音を睨み付ける。
「……何の用だ…?今更……
わたしにトドメを刺しに来たのか?
お前がわたしの【正体】に気付かず匿っていたから、こんな大騒動になったのだ……自分の手で決着を着けたい気持ちも、分からなくはないが………」
吉影の言葉を聞き、慧音は静かに首を横に振った。
「………違う。
私は……君に謝罪するために、ここに来た。」
吉影の黒い瞳を見詰め返し、慧音は強い決心を込めて、そう言った。
「私の『謝罪』を聞く前に……どうか気を強くもって欲しい。
君の【生命】に関わる…大事な話なんだ……」
言葉を切り、暫し流れる沈黙。
魔理沙達が息を呑んで見守る。
――――――やがて、慧音は口を開き、緊張した声色で、だがはっきりと、こう言い切った。
「――――――霊夢に君を【外】へ帰さないよう依頼したのは………私だ。」
その場に走る、緊迫の静電。
吉影はピクリ、と目を僅かに見開き、慧音を注視する。
「………その理由を話す前に………君には、説明しなければならないことがある。
――――――君はもう……『死んでいる』んだ。」
言葉を選ぶように、慧音は告げた。
「……君が人里にやって来た新月の晩……その時には既に、君は肉体を失っていた……
無縁塚に死体が残されていなかったことから、おそらく【外の世界】で死に、亡霊となって【幻想郷】に流れ着いたんだと考えられる……
【幻想郷】の亡霊は、外のイメージとは違う。
実体を持ち、飲み食いし、普通に生活できる。
だが、『自分が死んだこと』を自覚した時、それは高確率で成仏してしまう…
だから私は、君にそのことを伝えなかった……折角『生きて』この世に存在しているのに……それを『殺す』ようなことは、私にはできなかった……」
一言一言、噛み締めるように、慧音は言葉を繋いでいった。
「……そして、霊夢に君を帰さないよう依頼した理由………
君が【外の世界】に帰ってしまえば、【幻想郷】の影響が消滅し、君は実体を保っていられなくなる。
そうなってしまえば、誰にも見えず、話せず、孤独な幽霊のまま、永遠にさ迷い続けなくてはならない………
そんな目には……遭わせたくなかった……」
吉影は、チラリと自分を眺める少女達に目を向ける。
妹紅が真摯な表情で、彼をじっと見据えていた。
「……だが、結果として君をここまで追い詰めたのは……私だ…
私なんだ……!
霊夢は、悪くない……ただ、私の独りよがりな頼みを聞き入れて……【汚れ役】を黙って引き受けてくれただけ……
恨まれるべきは、彼女じゃない……この私なんだ……」
慧音は両手を固く握り締め、小刻みに震わせながら、そう告げた。
慧音の告白に、吉影は黙って耳を傾けていた。
「…………そして……
もう1つ……君に謝らなくてはならないことがある……」
歯を食い縛り、苦悩の滲む声で、慧音は独白を続ける。
「君が里の男衆に襲撃された翌朝……君は永琳に『永琳亭への移住』を頼んだと……そう、言ったな…
実は…その時、既に……私は永琳に依頼していた………
『君を永遠亭に住まわせる』ことを……」
吉影の眉が、僅かに動いた。
「君が里人の迫害を受けて、苦しんでいる様子が見ていられなかったから………永琳なら精神科の心得もあるから、君の苦痛を和らげてくれるだろうと……………
…………いや……違う………
本当は……私は……
君を疎んでいたんだ………君を遠ざけたかったんだ…!
過去の忌まわしいトラウマが……鎌首をもたげてきて……!
またあの、人に蔑まれる日々が来るんじゃないかと……折角築いた信頼を、君のために失ってしまうんじゃないか、と……!
怖くなって……そうしたら、君が私の家にいることに耐えられなくなって…!
とにかく家から追い出さないと、と焦燥感が襲ってきて…っ!!」
慧音は泣き崩れ、膝を地面に着いた。
「私は君を……!裏切った……!
すまなかった………許してくれ………!」
慧音は踞り、嗚咽した。
固く縛った両目から、涙が流れ、地面に落ちた。
「…うう………ううう………
ああああ………うあああああああああ………」
啼いて侘びる慧音を、吉影は無言で見下ろしていた。
焼け野原の境内跡に、慧音の嗚咽だけが響き渡る。
二人を遠巻きに眺める少女達は、固唾を飲んで吉影の返答を待ちわびていた。
――――――やがて、吉影は口を開いた。
「……………それだけか?」
一同を包む空気が、凍った。
震えていた慧音の肩が一瞬、ピタリと止まる。
女の魂の底からの告白を、冷酷な一言で無下に散らした殺人鬼は、さらに畳み掛けるように言い放つ。
「【裏切り】だと?
フン、元より信頼などあったと思っていたのか?
私を帰さなかった理由?
今更それがどうした……わたし自身の意思で、わたしは既にここまで来てしまった……このザマに至ってしまった。
最早【始まり】など何の意味も持たない……【謝罪】なんてものも無用の長物だ…」
静かな、だが強い語調で、吉影は冷然と言葉を吐きかける。
「極めつけに、『お前は既に死んでいる』だと?
そんなこと、わたしはとっくに知っていたさ……
何故ならわたしは……一度殺されて【ここ】に流れ着いたのだからな……」
そう吐き捨てると、今度は口角をつり上げて、嘲笑うように言葉を投げ掛けた。
「【実体】を失う…?
フンッ……大きなお世話だ。
いいか……よく考えてみろ……
【外の世界】では、今日は西暦2011年12月10日……【この世界】の暦では、西暦に直して2012年4月7日…
そして明日は4月上旬の【満月】後の最初の日曜日、イースター…『【あの御方】の【再誕祭】』………
どちらの暦が正しいのか……そんな事はどうでもいいことだが、重要なのはわたしが死んでから実に13年もの時が経過していることだ。
もうわたしには身分証明できるものは残されていない。
整形でもして誰かと入れ替わるくらいしか、【平穏な生活】を手にする手段は無いんだよ。
…そう考えると、どうだね?
実体があるよりも、無い【幽霊】である方が都合が良いんじゃあないかね?」
踞る慧音を見下ろし、ほくそ笑む。
慧音の嗚咽は止まり、ただ俯いて沈黙を保っていた。
「……随分と無駄な苦労をしてきたんだな……君も……
しかし、さっきも言ったとおり、君には別段恨みもない。
したがって復讐しようなどという気持ちもない。
…だが、もし君が本当にわたしに対して申し訳ないと思っているのなら……」
頭を落とし平伏す彼女を見る瞳に、妖しい輝きが踊った。
「わたしの【逃亡】の手助けをしてもらおう…
……わたしの【歴史】を、喰らえ。」
慧音の身体が、震えた。
「ここは『博麗神社』――――――『幻想と実体の境界』……
この世界にわたしを縛り付ける【碇】が消え去れば、この場所から、一気に【外の世界】まで浮上できるかもしれない……」
吉影の声に、希望の熱が滲む。
絶望しか見えない境地の中、突如舞い込んで来た【幸運】。
慧音の来訪も、告白も、その程度としか受け取っていないかのような言動に、妹紅は歯軋りし怒りを堪える。
「さあ………どうする?
どうするんだ?
このままだと、わたしは死ぬぞ……そこの巫女と大妖怪の手によって。
謝罪したいんだろう…?このわたしに……
ならば、迷うことは無い筈だ……わたしの【歴史】を喰らえ。
それとも、先ほどの言葉………あれは嘘だったのかね?
わたしを逃がして、あの二人に責任を追及されるのが怖いからか?
また保身のために、わたしを『裏切る』のかね?」
「…~~~~ッ!!
お前……っ!」
遂に堪えきれずに、妹紅が怒りを露に吉影に飛び掛かろうとした。
だが、
――――――スッ……
慧音が右手を掲げ、妹紅を制した。
「け……慧音………?」
妹紅はたじろぎ、後ずさる。
吉影は、慧音が了承したと見て、満足げに笑う。
「助けてくれる、と言うんだな……?
礼を言うぞ……上白沢慧音……」
ニヤリと口角を上げ、慧音を見下ろす吉影。
「慧音…ッ!?」
「慧音さん……!?」
命蓮寺と紅魔館の妖怪達、魔理沙、妹紅が息を呑み、彼女に視線を集中させる。
慧音は掲げていた右手を、ゆっくりと自分の前に下ろした。
そして左手で右手首を掴み――――――
――――――ゴギンッ……!
「――――――……え………?」
少女らの口から、疑問符が漏れた。
吉影が目を見開いたまま、硬直する。
慧音の右手は、あり得ない位置から曲がっていた。
自分の左手で、力任せにへし折ったのだ。
「………………………………
…………なにを……やっている……?」
強張った表情で、吉影は困惑した声で呟き問うた。
慧音は無言で、尚も左手に力を加える。
……ミシッ……ブチッ………ミキミキ…
さらに不快な音が耳に届き、吉影は慧音の行動を理解した。
「おい……ッ!
なにをしている…ッ…!?
そんなこと…ッ!わたしは頼んじゃあいないぞ…!?
止めろッ!」
唇を噛み締め、青ざめた顔を歪めて、吉影は慧音を制止しようとする。
ブチブチィッ……ミギ……ゴギッ…………
慧音は左手の力を緩めず、右手首を引き千切ろうと捻り続ける。
「止めろォ……!
誰がそんなことをしろと言った!?
止めるんだ…ッ!手が…、手が…ッ!
ああ…!!腕が………!」
吉影の顔に、はっきりと分かるほど焦燥の色が濃くなった。
声は上ずり、その叫びは嘆願にも似た様相を呈してきている。
彼の言葉に耳を貸さず、慧音は右手への攻撃を止めない。
「――――――望むなら……左手も……」
骨折した部分で皮膚が裂け、肉が露になる。
「…望むなら………右足も………」
筋肉がブチブチと千切れ、血が噴き出す。
「望むなら……左足も………」
腱が伸びきり、悲鳴を上げる。
吉影の額に汗が浮かび、肩がガクガクと震えだした。
「止めろ…!!
違うッ!
そんなんじゃあないッ……!!
止めてくれ…ッ!止めろォッ!」
懐から拳銃を抜き、慧音に向ける。
「今すぐその手を放せ!
わたしの【歴史】を喰えッ…!
できないというなら………!!」
震える手で照準を合わせ、安全装置を外した。
硬直した人差し指を無理矢理曲げ、引き金に指を掛けようとした。
――――――ガシィ!
「…!?
なァッ………!?
キ、【キラークイーン】……!?」
彼の背後に佇む【キラークイーン】が、拳銃を掴み押さえていた。
振り向き、見上げると、フルフルと首を横に振り、猫のような双眸で、彼を見詰め返した。
「……キ…【キラークイーン】………!」
【スタンド】は本人の無意識の力、その【スタンド】が彼を制止したのだ。
それは、即ち―――――
――――――ガシャッ…
吉影の右手は力を失い、拳銃は地面に落ちた。
慧音の左手も力は抜けたものの、まだ右手を掴んで放していなかった。
「――――――………消したくない………
無くしたくない……!」
俯いた慧音の口から、涙に掠れた声が聞こえた。
「……君の【歴史】を……無かったことにするなんて………
…できない……!
イヤだ……それだけはイヤだ……
……すまない…っ!
すまなかった…本当に………!……吉良…吉影………っ!!」
髪に隠れた彼女の頬から、涙の滴が伝い落ちた。
慟哭し踞る慧音の姿を見下ろす吉影の瞳も、潤み始める。
「ぐ……、…くっ……!
う……うう………!」
ガクリとくずおれ、膝を地面に落とした。
左手を土に着き、右手で顔を押さえ、項垂れる。
「うう……っ…あ………ああああ…………
ううああああああ…………ああ……」
消え入りそうな声で、嗚咽を漏らす。
冷酷さを装い、仮面の裏に押し留めていた感情が、溢れ出した。
BGM GET IN THE RING『remains~Another side of moondust~』
――――――何故だ
どうしてこうなってしまったのだ
こうならないようにするために、彼は闘ったというのに
こうならないために、彼は自分を切り捨てたというのに
――――――彼女の手を見る度、彼は自然と思った
………『美しい』と
里の子供達を育み、未来を紡ぐ
彼女こそが『吉良(きちりょう)』なのだと
――――――そして、彼女の手を見る度、彼はまた自然と、こう思い知らされた
……なんだ?
わたしの手は。
血に濡れ、罪に穢れ、数多の女の未来を奪った、朽ちた亡者の手。
『駄目だ』。
こんなもので触れてはいけない。
穢れてしまう。
壊れてしまう。
自分の穢らわしさを
自身のおぞましさを
例え慧音に【歴史】を読まれなかったとしても
例え自分の【衝動】が、ふと消え去ったとしても
自分だけは、知っている――――――
だから彼は、贖罪を求めた。
罪を清めたかった。
だが自分自身では、どうしようもなかった。
彼の心には過去の犠牲者達に対して、一片たりとも『罪の意識』と呼べるものは無いのだから。
『人殺し』は【悪】だ。
『人を不幸にする』のは【害悪】だ。
分かっている。
分かっているんだ。頭では。
だが、【罪悪感】という感情はとんと湧いてこない。
生まれついた時から、人として重要な何かが抜け落ちて産み落とされたからだろうか。
そのような情緒が生まれる土壌は、彼の中には無かった。
どれ程懺悔を口にしようとしても、
出てくるのは謝意の無い空虚な言葉ばかり。
【罪悪感】に苛まれている人間は、きっとこの世にごまんといるのだろう。
だが、『【罪悪感】が無い』ことに苦しむ人間は、果たして何人いるのだろうか。
『罪の意識』があるなら、この複雑怪奇に絡み合い連なった不幸の連鎖も、『報い』として受け入れることができるだろう。
だが、彼には受け入れられなかった。
だからこそ、彼は【遺体】にすがった。
【あの御方】の復活を手助けすれば、自分の【罪】も清められるかもしれない。
【化け物】として生まれてしまった自分を、【人間】にしてくれるかもしれない。
ただそれだけを希望に、彼は抵抗し続けた。
――――――だが、駄目だった。
ことごとく彼は自身を、不幸へと追い込んでいった。
慧音の優しさに、
霊夢の生真面目さに、
彼は見事に騙され、破滅へと身を沈めていった。
「……ううう…………
ああ………っ…ああああああああ……
おおおおお………お…」
踏み外したこの足を赦し合えないなら、
この手を取り合えないなら、
なんのため門は開かれて、敵を招き入れるのだろうか。
鬼が泣くな
泣きたくないから鬼になったのだろう
人は泣いて涙が枯れて果てるから、
鬼になり化け物に成り果て、成って果てるのだ
ならば笑え
傲岸に不遜に笑え
いつもの様に
「――――――うあ…あああああああ…………ああああ……
ああああああ………おおお……くっ………
おおおおおおおお………あああ…………」
がっくりと項垂れ、吉影は泣き続けた。
だが、その嗚咽は微かで、周りを取り囲む連中には届かない。
目の端に涙は滲めど、それらが流れ落ちることはない。
――――――そう、この男、まだ心折れてはいないのだ。
「(――――――打ち明けよう………)」
涙と嗚咽を堪え、吉影は右手を下ろした。
「(……………『最期』に………打ち明けるんだ……)」
顔をあげ、俯き泣き伏せる慧音を見る。
翠の髪と白い双角が満月に煌めいている。
それを映す吉影の瞳に、安らかな灯りが点った。
「――――――慧音………」
吉影は、ゆっくりと口を開き、涼風のごとき静かな声で告げた。
「――――――わたしは君が……………好きだった。」
――――――沈黙。
誰も言葉を発さなかった。
慧音の嗚咽も止まった。
風や遠くの木の葉のざわめきでさえ、押し黙った。
この場にいる全てが、彼の口から語られた言葉に聞き入っていた。
――――――――――――――
――――――この無音の境地を破ったのは、その『告白』をした本人だった。
「―――――――だがこの『言葉』はッ!!
誰の【歴史】にも残らないッ!」
大音声を張り上げる吉影の隣に、虚空から【写真】が現れた。
「ッ…!あれは…ッ!!」
レミリアが気付き、叫ぶ。
『前の一時間』、フランドールを呼び出す時に使った【写真】が、吉影の横に展開した。
―――――――『…吉良吉影………
心するのだ……
「【全て】を敢えて差し出した者が、最後には真の【全て】を得る
ましてや、【自分の最も大切な者】を捧げたなら……」――――――
覚えておきなさい』――――――
脳裏をよぎる、【あの御方】の預言。
「(――――――『捧げろ』…………)」
吉影は振り返り、【写真】を睨む。
この【写真】の向こうには、あの娘がいるはずだ。
自分の血を分けた、『大切な娘』が。
「(『捧げる』んだ…………
自分の……!『最も大切なもの』を………ッ!!)」
――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――――――――――――
「――――――……フラン、ここから先は【契約】だ……よく聴いておきなさい。」
顔を落とし、フランの耳に口を寄せて、囁いた。
「―――――――もしわたしが、君の心を裏切ったなら………そのときは…………
――――――『わたしの血を吸え』――――――――」
BGM 凋叶棕『ヒメゴトクラブ』
――――――――――――――――――――――――――――――
――――――彼女は、聴いてしまった。
自分の愛した男が、永遠を誓った男が、
自分以外の女に、愛を告げているのを。
ドオォォ――――――――!ッ
【写真】から紅い霧が飛び出し、目にも留まらぬ速さで吉影に襲い掛かった。
【写真】から躍り出た霧は少女の姿を再構築し、彼を強引に組み伏せると、
ドズッ――――
吉影の首筋、【遺体】により伝染した『星型の痣』に、牙を突き立てた。
「(――――――――『わたし』を捧げる――――――――ッ!!)」
フランは全身を【写真】から出すと、さらに深く喰らい付き、血を貪る。
吸血鬼の力と鋭利な牙に、彼の肉は紙の如く容易く破られた。
吉影の双眸から、フッと光が消える。
その目は『諦め』や『絶望』というよりは、『悟り』や『安らかな最期』といった穏やかな暗さを帯びていた。
「(これで……わたしは…わたし自身を【差し出した】……
結局わたしが心を許せたのは……親父とお袋、そしてフラン、彼女だけだった……
女の【心】ではなく【肉】を求め続けてきたわたしは、血の繋がりというものしか信用しない、古い石頭の人間だったのかもしれないな……)」
傷が頸動脈に達し、鮮血が迸る。
「(【フランドール・スカーレット】……ただのちっぽけな少女のために……あれほど執着していた【平穏】を………捨ててしまった――――――――
だが、ま…それもいいか………
これでわたしの気分もなかなかに………清らかだ。)」
物凄い力で押さえ込まれ、体力も空っきしで、腕一本まともに動かせない。
「(フラン………わたしは……『悪い大人』だ……
君の心を………裏切った……)」
宙を見上げる彼の目は、暴漢に汚される処女のように切なげに、暗く虚ろに沈んでいく。
「(だから……【契約】通り、わたしの何もかもをくれてやる………
わたしの血を、吸え…
わたしの意思を、お前の思い通りにできるように………)」
コプッ…、吉影の口の端から、血が流れ出る。
「………だめ……
…いや………!
吉影……吉影が…っ死んじゃう………!
やだぁ……止めて…っ!止めてよ……私…っ!!」
彼の首に食らい付いて生き血を啜るフランの目から、止めどなく涙が溢れる。
【契約】の重圧、その取り返しのつかなさを、身をもって体験しているのだ。
理性と本能、
抑制と衝動、
悲哀と快楽、
絶望と絶頂、
攻めぎ合い渦巻く刺激に身を捩り、悶える四肢を抑えようとするように、吉影の胴にすがり付く。
彼女が背中を震わせて、手加減なく吉影にしがみつく度に、彼の満身創痍の肉体は悲鳴を上げる。
骨は砕け、僅かに残った内臓は潰れ、口から血が滴る。
「(……泣くな…フラン………
子供が大人にプレゼントをもらう時………そのプレゼントの値段なんて、気にかけないものだ……
わたしの【命】などという……【腐った林檎(ろくでなし)】のような安い対価を叩き売って絞り出した、安物の【血】など、尚更……)」
脈動とともに噴き出す血を飲み下す度、体内を駆け巡る痺れるような熱。
よがり、肢体を仰け反らせ、狂おしく押し寄せる悦楽の波に抵抗しようとする。
が、【契約】に縛られた悪魔の血と、堪えがたい快楽に、フランの全神経は押さえ付けられる。
本能と自制の板挟みに、彼女の精神は揉みくちゃに掻き乱されていた。
「(…だから……泣くんじゃあない………
笑え……最期くらい……笑顔で……看取って………)」
殆ど力のない腕をフランの背中に回し、抱き寄せる。
「……ヤダ………!…ヤダ…よぉ…!
……私…っ…吉影を殺しちゃう………!
そんなのヤダ…っ!
ずっと一緒だって……!約束したのに………っ!」
だが、彼の意に反して、フランは慟哭し抵抗を続けた。
口からおびただしい血を溢し、吸血の悦楽に脳髄を焼かれながら、肉の疼きに堪え、咽び泣き身体を捻る。
鮮血を撒き散らして暴れのたうち、抗いながら、少女が男の肉を喰い千切り血を貪る………、
【交合】と言うにはあまりに的確で生々しい、壮絶な情景だった。
「(………そうか……
フランは…例えわたしを自分のものにできるのだとしても………わたしを殺したくはなかったのか………
まったく、我ながらつくづく人の気持ちの分からない奴だ………
これでは……、真っ当な人間などには…なれそうもないな………)」
フッ――――、力なく微笑み、右手をフランの頭に乗せた。
髪を鋤くように、ゆっくりと撫でる。
「(――――――――こんなにも優しい………良い娘だというのにな……)」
震える指先で、泣きじゃくるフランの髪を撫でる。
目尻に滴が光り、流れ落ちた。
「(…今まで……辛かっただろう……寂しかっただろう………
だが……もう大丈夫………わたしはお前のものだ……永遠に……)」
レミリアの言う通り、それは血の共有による【思い込み】なのかもしれない。
【錯覚】なのかもしれない。
裏路地の暗がりで泣いている迷子の子どもを、悪人が【飴玉】でなだめ手懐けた、それだけなのかもしれない。
だがこの感情は、例えそれが【悪魔の証明】なのだとしても、『証明されるべきもの』なのだ。
「(――――――――意識…が……霞が…かかってきた……
もう……そろそろ……限界…か)」
吉影の右手がフランの頭から離れ、ダラリと垂れた。
脳への血流が滞り、思考が回らない。
吉影は死を悟り、安らかな表情で目を閉じた――――――――その時だった。
――――バジィッ!
「……?」
フラン、そして吉影は、【音】を聞いた。
決して大きくはないが、すぐ近くで発生した音。
その直後、
ガアァンッ!!
「~~~~ッ!?」
銃声のような轟音、
同時に突如フランが驚愕に目を見開き、口を首筋から離して仰け反った。
「…か………は…っ!?」
カッと開いたフランの口から、煙が立ち上る。
咽頭の奥に何かが入り込み、彼女の肉を焦がしていた。
噛み付いていた場所、『星型の痣』から飛び出した【矢尻】が、フランの口内を貫いたのだ。
突然の出来事に、フランは目を白黒させて困惑した。
その間にも、勢いを失った吉影の血は体外に零れ落ちていく。
血はフランの赤い洋服を深紅に染めていった。
「(…あーあ………こんなに溢してしまって………
もう残り少ないというのに………勿体無い…
もうおべべも取れる年頃だろうに………
まったく…手の掛かる娘だ………)」
朦朧とする意識の中、吉影は目だけ動かしフランを見た。
最早視界がぼやけ、フランの表情も分からない。
「(………よく……見えない…な……ぁ…
……顔を…見せてく……れ…
よく……見えるように……)」
身体を起こし、フランの頬に手を添えようとする。
だが、既に死に体の彼の四肢は言うことを聞いてはくれない。
「(くそ……
手が……動かない……
こんなに……近くにいるのに………)」
力尽き、伸ばしていた腕がカクンと落ちた。
その時、
グッ―――――!
「――――――――!」
【キラークイーン】が吉影の手に自分の手を添え、彼を抱き起こした。
「(【キラークイーン】………!
………そうだ…わたしの【精神】はまだ死んじゃあいない……
せめて…最期に……全て『与える』だけなら……!)」
血と涙に濡れたフランの頬を、両手で掬うように掴むと、
―――――――――――――――――――――――
フランの唇に、自分の唇を重ねた。
「――――――――!」
フランは言葉なく、目を見開いた。
吉影の唇は、体温を失い、既に死人の冷たさを帯び始めていた。
だが、体温とは違う温もりが、フランの中へと伝わっていった。
――――――――バジッ…!
【矢尻】に貫かれた咽頭に、電撃が走る。
傷跡の周りに『星型の痣』が浮かび上がり、そこから星の印のついた【シャボン玉】のような泡が飛び出す。
「――――――――【ソフト&ウェット】――――――――」
【泡】は吉影の唇から中へ入り………
――――――――パチィンンン……
小さな音をたてて、割れた。
吉影の全身から一切の血液が『奪われ』、一瞬でミイラのように干からびた。
その瞬間、フランの中に流れ込んで来た、膨大な【イメージ】。
幼き日のこと、
母親の愛情と虐待、
最初の殺人、
東方仗助との戦いと死、
慧音との出会い、
走馬灯を覗き見ているかのように、吉影の人生の記憶が脳裏に浮かんでは消えて行く。
「(これは………私?)」
薄暗い地下空間で、前方に佇む少女。
少女は壊れた笑いを満面に湛え、襲ってきた。
殺すつもりで、応戦する。
そこには敵意しか存在しなかった。
場面が変わると、少女は水浸しで踞っていた。
「(ここは……あのときの……)」
手を伸ばし、帽子を被せてやる。
優しく言葉をかけ、血を与え、籠絡する。
「(え…………?)」
その言動の裏に渦巻く、黒い思惑。
少女を利用するための駒としか見ていない、邪悪な思考。
「(…うそ………やだ……!…うそよ……っ)」
ショックで胸が張り裂けそうだった。
涙が滲み、溢れ、頬を濡らす。
だが、そこで【イメージ】が加速をし始めた。
怒り、悲しみ、苦痛、安堵、
目まぐるしく回り駆け巡る感情。
少女の安らかな寝顔に目を落とし、穏やかな心を抱いたことに対する困惑、
自分に乗り掛かり、泣き崩れる少女、
同時に溢れる感情の渦、
自分の中で大きくなり、確固たるものとなったその【情】、
そして、泣きじゃくる姉の告白、
フランの前では決して見せなかった、弱さと優しさ、
それらが高速で流れ、弾けた。
――――――――そして、現在へ。
吉影の『全て』は血を媒介して、彼女のものとなっていた。
彼の全てを、吸血鬼の少女は『受け継いだ』のだ。
吉影は、自分の命が足下から消えていくのを感じた。
薄れ行く意識の底、最期に彼の脳裏をよぎった言葉、
「(―――生ひ立たむ ありかも知らぬ 若草を
―――後らす露ぞ 消えむ空なき―――)」
―――――――――――――――――――――――
吉影の命は、途絶えた。
亡霊として存在する彼を構成していた魂は、一片残らず吸い尽くされた。
遺されたのは干からびた、魂の脱け殻。
「――――――――死んだわ。」
紫の呟き。
何の感情も無く、感傷も無い、冷めきった声。
少女達は硬直したまま、フランに寄り掛かる遺骸を見詰める。
もう二度と動くことはないであろう、【幻想郷の敵】の最期の姿。
確実に、事切れていた。
…………だが、
次の瞬間、一同に駆け巡る、確信。
『―――――――この男の意志は、まだ潰えてはいない』。
――――――――ドクン――――
止まっていた心臓が、脈を打った。
フランの口から立ち上る【煙】を吸い、小さく、だが力強く、肉体の中心が鼓動を始めた。
胸、腹、肩、頭、腰、腕、脚、手、足、
カラカラに干からびた身体が、風船に空気を吹き込むように、中心から脈動の度に膨らんで、瑞々しさを取り戻していく。
空っぽだった腹部には、内臓がしっかと詰められ、
砕けた腕や手は、ミシミシと軋んで再生し、筋肉が隆起する。
喰い千切られた首筋は、傷がみるみるうちに塞がっていき、
――――――――彼は――――
――――吉良吉影は、【受肉】した。
「―――――――
―――初草の 生ひゆく末も 知らぬ間に
―――いかでか露の 消えむとすらむ―――」
フランドールの霞によって、儚い露は再び初草の葉上に降りてきた。
「―――――――わたしの何もかもを与えたが……彼女の何もかもを手に入れたぞ………」
亡霊、吉良吉影は、肉の身体を得て、その身を起こす。
吸血鬼の肉体が揮発して生じた【煙】を吸い【受肉】したが、吸血鬼の象徴たる牙の発達や、翼の形成などはない。
ただ、全身に【スタンドパワー】がはち切れんばかりにみなぎり、欠損した部位が異常再生しただけだ。
「――――――――――
………………吉……影………?」
記憶の撹拌による衝撃と、予想だにしなかった吉影の甦生を目の当たりにしたショックで、茫然と座り込み呟くフラン。
涙に濡れたその頭を、吉影は左腕でそっと抱き寄せた。
『これから起こること』を、彼女に見せないようにするために。
胸にフランを抱いて、十メートル程度離れた位置に座り込む慧音を見据え、右手を彼女に向けた。
グンッ――――!
慧音の中から【破壊の目】が引き出され、吉影の右手に集束する。
「【キラークイーン】!」
【キラークイーン】が慧音の【目】に憑依し、彼女のもとへと帰って行く。
【目】は慧音の中に戻り、【キラークイーン】が取り憑いた。
甦生からの一連の行動は剰りに衝撃的かつ迅速すぎたため、
その時になって漸く、その場にいた者たちの反射神経は吉影の行動に追い付き始めた。
「奴の【スタンド】が慧音に憑依しました!」
美鈴の叫びで、レミリアは吉影の意図を理解した。
「(まずいっ…!?
今慧音に誰かが『質問』したら、【バイツァ・ダスト 一条戻り橋】が発動してしまう!!)
みんな!慧音に『質問』しちゃ駄目―――――――!!」
レミリアの絶叫は、しかし、僅かに先に沸き上がった喧騒に掻き消された。
「なんだって!?
ヤツの能力が!?」
「復活したっ!?
吸血鬼化したというの!?」
「慧音ッヤツに何を―――――――」
同時多発的に発生した言葉の奔流。
それらのどれかが【引き金】となり、吉影の最後の【能力】は発動した。
カッ――――
慧音の肩の上に、ミニチュアサイズの【キラークイーン】が現れる。
「居たぞっ!肩の上だッ!」
「あれがヤツの【能力】っ…!」
「私にも見えたぜっ!」
「慧音ッ顔を逸らせ!
私が焼き払う!」
『目撃』した者たちは一斉に攻撃を加える。
「ええぇェェェいッ!!」
レーザー、弾幕、火炎、放たれた十数発もの集中砲火は、しかし虚しく空を切った。
「何………!?」
驚愕に目を見開く少女たち。
その瞳の中には既に、【キラークイーン】の【像】が入り込んでいた。
「【起爆条件】は満たされたッ!!
この一時間の【事実】と、一ヶ月の【歴史と記憶】を消し飛ばすッ!」
吉影の咆哮が響き渡る。
「(―――――――さよならだ――――上白沢慧音―――)」
来るべき爆音と平穏を胸に、吉良吉影は目を閉じた。
―――――――――――――――――――――
――――――――――――――
「―――――――………?」
訪れるべき大殺戮も、起こるべき時空の爆破も発生しない。
吉影は、ゆっくりと目を開けた。
―――――――そして、硬直した。
「……………『内と外の境界』を操作して……【スタンド像】をみんなの中から弾き出せば………」
日傘を軽く掲げ、紫は頭上を指す。
「ほら、このとおり。」
紫の日傘の示す先、ミニチュア【キラークイーン】が、紫色の結界に捕らわれていた。
「このクソカスどもがァァァ―――――ッッ!!」
吉影が絶叫を上げ、左手を紫に向けた。
次の瞬間、
ガオンッ!
【スキマ空間】が彼の両手を呑み込み、切断した。
「うぐウゥゥッ!?」
血が飛散し、地面に落ちた【写真】に降り掛かる。
断面から迸る鮮血が、フランの黄金色の髪を紅く染めた。
「―――――――え………?」
生暖かい液体が髪にかかり、フランは顔を上げ吉影の惨状を目の当たりにする。
「吉影っ!?吉影ッそんなっ―――――――」
――――クパァ―――
フランの背後に、【空間】が口を開き、
反応する間も無く、中から伸びる無数の腕が、フランをがんじがらめにひっ掴んで、
「吉影ェェェ―――――――ッッ!!」
フランの悲鳴を残して、彼女を亜空間へと連れ去った。
「フランッ……!?」
虚空へ消えたフランの方を見て、愕然と目を見開く。
「ぐゥッ……!!」
立ち上がろうと体勢を立て直すも、
シパァァン――――――
紫が人差し指と中指で空を切った。
ただそれだけで、吉影の両足は風船が割れるように弾け飛んだ。
「ぐあアァアァァッ!?」
身体を支えるものを失い、鮮血と肉片を撒き散らして前のめりに倒れ込む。
両手両足を破壊され、おびただしい量の血液が噴き出した。
「吉影っ!?」
慧音が叫び、飛び寄ろうとするが、
「ぐぅっ!?」
紫の張った結界に、無情にも跳ね返された。
「紫っ今すぐ止めろッ!
話を聴いていただろうっ!?
悪いのは私だ!
裁くならこの私を―――――――!」
慧音が紫を睨み怒鳴るが、紫は日傘を吉影に向けて冷ややかに笑う。
「『悪い』?
いいえ、貴女は悪くなんてないわ。
貴女はこの唾棄すべき【化け物】に、精一杯の思いやりを以て接してやった。
それを踏みにじったのはこの男よ。
誰も貴女を責めはしないわ……この【怪物】の味方もね。」
冷然とした瞳で、静かに慧音を見返す。
「…………っ!?
…お前は…………ッ!!」
ギリッ、金属的な音を溢し、歯を喰い縛って紅い眼で紫を睨み付ける。
「…………亡霊と吸血鬼のハイブリッド………なんとも邪悪で、醜悪ね。」
【結界】で囲まれ、手足の断面から脈動に合わせて血を迸らせる吉影に視線を戻し、日傘を振り上げる。
「……半白沢の嘆願に沿って、少しだけ優遇してあげるわ。
御希望通り、貴方を【幻想郷】の外へ出してあげましょう。
破格のサービスで、永遠の【平穏】もおまけしてね。」
両手両足を失い、芋虫のように地に転がされ赤黒い血溜まりを拡げる吉影に、冷酷な判決を告げた。
「目と鼓膜を抉り、舌をもいで孤独に暮らさせてやるわ…………私の所有する無数の【スキマ空間】の一つでね。」
吉影は自分の血にまみれ、もがきながらその死刑宣告を聞いた。
「―――――――ハァ―――――――ハッ――――
ハァ――――ハァ――ッ―ハッ―――ハァ―――ハッ――――!
(『――――――――【全て】を敢えて差し出した者が、最後には真の【全て】を得る――――――――』
わたしには……まだその【資格】は無いというのか……
命さえ差し出したというのに……まだ足りないというのか………!?
そうまでしてこのわたしに…【贖罪】をさせようというのか……【運命】は………)」
絶望に呑まれ、吉影は地に伏せる。
最早、万策尽きた。
逃れる術は、無い。
【死】よりも残酷な運命が、大口を開けて彼を待ち受けていた。
己の希望が、風前の灯火のように掻き消されていく。
動悸が激しく、目眩がするほどの恐怖に襲われ、吉影の心は闇に呑まれようとしていた。
『―――――――吉良吉影………よくお聴きなさい……』
「―――――――ッッ!?!?」
【背後】に聞こえた、男の声。
神々しく尊い、光り輝くようなイメージが脳裏をよぎる。
それは紛れもなく、【あの御方】のものだった。
「(この声は―――――――!
この神々しい【気配】はッ!?)」
彼の手から離れていった、一つの光明。
その光芒が彼のもとへ再び降り立った。
紫の日傘の一閃が振り下ろされる瞬間、
一縷の望みを掛け、すがる思いで、咄嗟に―――――――――――彼は『振り向いた』。
―――――――――――――――――――――
振り向いた瞬間、彼の目に飛び込んで来たのは、
広がる【闇】と、無数の【手】だった。
「―――――なァッ……!?」
吉影の顔から一瞬で血の気が失せる。
彼はこれらを、いや、この【現象】を、体験したことがあるのだから。
ガシィッ!
【闇】から伸びる亡者の腕が、彼の身体中を鷲掴みにし、吊し上げた。
「こ、これは……あぁぁ…ッ!?」
吉影の表情に、絶望の色が滲んだ。
対して、彼を取り巻く少女達も驚愕の声を上げる。
「なんだあれは…!
ヤツの新しい【能力】か?」
「……違う、と思います……
あんなにも禍々しくて、かつ無尽蔵の負のエネルギー…っ…人間や妖怪のそれとは、次元が違う……!!」
白蓮の背筋を悪寒が走り抜け、額を冷や汗が伝う。
意思や感情といったものを微塵も持ち合わせていない、ただただ無機質な【死】そのものだった。
「―――――――これは…………?」
吉影に日傘を向けたまま、紫は言葉に詰まる。
常に余裕を湛えている彼女の表情に、初めて焦りの色が浮かんでいた。
吉影の背後の【闇】に目を凝らし、その発生源を発見した。
【闇】が水に垂らした墨汁のごとく漏れ出し、無数の腕がその奥から伸びている、
その背後には、空中に展開した【写真】が浮かんでいた。
「っ…!?」
【写真】、その単語が頭をよぎった時、はっと気付き振り返った。
紫の背後、全身輪切りに分解され【結界】に閉じ込められた幽霊、吉良吉廣が、一枚の【写真】を覗き込んでいた。
「…吉影ェ………すまなかった……
また……!わしはお前を守ることができんかった……!」
大粒の涙を溢れさせ、皺だらけの顔をさらにしわくちゃにして、吉廣は号泣する。
「この方法は……最後の最後まで使いたくはなかった………
次はどこに引き摺り込まれるのか、全く分からんからのう……
…じゃが、もうこれしかない……この【手段】で、僅かな可能性に賭けるしか……」
慟哭し、吉廣は顔を上げ愛する息子を見詰める。
「無事に………いてくれよ………吉影……
今度は……もっと…ッ!お前が……幸せでいられる場所で………!」
戦慄く声で呟き、【振り返ってはいけない小道】を写した【写真】に、再度目を落とした。
【写真】から放出された【闇】が、一瞬にして【結界】内部を埋め尽くした。
【闇】は圧縮されるように萎んでいき、限り無く小さくなって、消えた。
後には吉廣の指先ひとつ、抜け毛一本、【写真】までも、何一つ残されていなかった。
「―――――――こんな……逃げ道が………」
誰にも聴こえない小さな声で、紫は茫然と呟いた。
『駄目だ』。
あの老いぼれ幽霊は、別に逃がしたって構わない。
だが、この異変、いや【事変】の首謀者である吉良吉影に、逃亡を許すわけにはいかなかった。
そうなってしまえば、彼女の綿密な【計画】は瓦解してしまうのだから。
紫は振り向き、宙吊りにされている吉影を睨む。
コンマ一秒にも満たない一瞬のうちに、彼の不浄な魂を塵芥に消し去ろうとした。
だが…………、
―――――――ズオオォォォンンン―――
紫の背後に展開した【闇】から伸びる亡者の腕が、彼女に襲い掛かった。
「っ!?」
背骨が氷柱に詰め替えられたかのような悪寒を感じ、咄嗟に振り返ろうとした、が、
ガシィッ!
【闇】がミニチュアサイズの【キラークイーン】を包み隠した。
さらに、そこから伸びる腕が【結界】を突き破り、
紫は全身を掴まれ、羽交い締めにされた。
微動だにできない。
能力も弾幕も使用不能にされ、一切の抵抗が封じられる。
月の民の【フェムトファイバー】よりも強力で、凶悪なパワーだった。
「紫様…っ!?」
「紫っ!?」
「おい、ヤツが逃げちまうぞっ!
くそっ、逃がすもんかっ!」
藍、霊夢、魔理沙達が、【小道のパワー】へ攻撃を加えようとするが、紫はそれを制止する。
「駄目よっ……!
この【力】に関わっては駄目……
貴女達も……捲き込まれるわ………」
唇を噛み、紫は少女達を諫めた。
腕は紫の身体の至るところにへばりつき、彼女の肌を引っ掻きまさぐる。
そして二つ一組で爪を突き立てると……
ビキッ……
ビキビキィッ………
グパアァァ………
紫の全身の皮膚を抉じ開けた。
「い………っ!
ああああああ……………!」
紫が苦悶の声を漏らす。
パックリと開いた無数の傷口からは血や肉の朱は見えず、代わりに紫色の空間が顔を覗かせていた。
その傷口に残りの腕が突っ込み、内部を掻き回してのたうちまさぐる。
そして何か目的のものをひっ掴むと、腕は傷口から引き抜かれた。
その手には【スキマ空間】に呑み込まれた吉影の両手と両足の破片が握られていた。
ガクリと膝を折り、紫は地面にへたり込む。
その額には玉のような汗が浮かび、疲労と恐怖が刻まれていた。
腕は吉影の肉片を手に、【闇】の奥へと引っ込んでいき、【闇】は呑み込んだ【キラークイーン】共々縮小して、虚空へと消滅した。
「紫!?ねえ、紫っ!?」
霊夢が取り乱した様子で紫に駆け寄り、彼女を抱き起こした。
―――――――――――――――――――――
その時だった。
「「「―――――――?」」」
その場にいた全ての者が、焦燥に駆られた。
『何か、おかしい』
形容できないほど、具体化できないほどに、何か『とてつもなく大きな変化』が、自分達を取り巻いている、
そんな違和感に襲われた。
そして僅かの逡巡の後、彼女らはその違和感の正体に気付いた。
『―――――――明るすぎる』
ハッと息を呑み、魔理沙は【夜空】を見上げた。
「………!?
これは……ッ!?」
愕然と目を見開き、絶句する。
満月の夜空は、既に夜空ではなくなっていた。
かといって、太陽の姿は見えない。
金環日蝕の際のように全てが薄暗く、光の線が弧を描いていた。
「…………!?」
妹紅が息を呑み、慧音を指差す。
「慧音、貴女……!
【白沢化】が……っ!!」
慧音ははっと気付き、自分の頭に手をやる。
頭部にあるはずの双角が、無い。
髪の色も、服も、妖しく煌めく翠から、平生の白みがかった蒼に戻っていた。
【白沢化】が、解除されている。
「…!
くうっ…!?」
レミリアが呻き、踞った。
「お嬢様!?」
美鈴がレミリアに目を向ける。
彼女の翼が爛れ、煙が立ち上っていた。
「まさか………あの『線』が太陽……!?」
少女達は戦慄し、昼と夜が極限まで撹拌され溶け合った不気味な空を見上げる。
―――――――クパァ…
レミリアの真上に空間が開き、日傘を開いて振った。
「っ!!」
美鈴が引ったくるようにして受け取り、踞るレミリアを日光から守る。
その直後、
ザザッ―――――――
一瞬、皮膚を打つ冷たい感触。
日は陰り、服が水気を帯びる。
だが、日の光が復活すると同時に、その水気は嘘のように消え失せた。
「今……何が起こった…?」
「分からない……分からないけど……まさか、雨が降ったの?」
「…………いいえ……違うわ。」
口々に疑問を呟き、混乱する少女達の中、一つの【確信】をもった声が響き、静寂をもたらした。
皆の視線が、発言した大妖怪、八雲紫に集中する。
「紫……っ!!」
彼女を抱き起こそうとしていた霊夢は安堵の溜め息を吐く。
全身を【小道のパワー】に蹂躙された痛みに顔を歪めながら、身体を起こして、きっぱりとした声色で言い切った。
「【時間】が…………『戻っている』のよ。
……超高速で……
雨が降ったんじゃあない、『雨が上がった』のよ。
だから服に付いた雨水は残らず雲まで昇っていき、太陽も『線』になるほど、昼夜の区別もつかなくなるほどの速さで、『戻って』いるの。」
その言葉の直後、魔理沙が自身を抱くように身体を縮め、肩を震わせる。
「さ………寒い……?
まるで冬みたいに………!」
魔理沙の吐息が、白く煙る。
「まさか……!?季節まで戻っているの…!?」
妖怪達は熱さや寒さにこたえたりしないが、気温の変化には気付いた。
「木や草や動物は、特に変化がない……!
これは……【年月】【現象】だけが巻き戻されている!?」
妹紅は辺りを見渡し、そう叫んだ。
「アイツ……!
あの八雲紫を屈服させた【パワー】といい、いったいどれほどの力を隠し持っているんだ!?」
「………吉影……」
人間状態に戻った慧音が身体の震えを抑え、吉影に目を向ける。
「お…………おおお…………
うああああああああ…………」
【小道】から伸びる腕に吊るされて、吉影は呻いていた。
「ギャアアァァァ―――――――……ッ!!」
元のサイズに戻った【キラークイーン】が彼の背後で咆哮する。
ズズ――――ズズズ―――………
スタンド、本体、手足のパーツ、吉影の全てを残さずかっさらい、腕は彼を【小道】へと引き摺り込んでいく。
「くっ………!」
紫の脇に座り込んでいた霊夢は吉影をキッと睨み、札を抜き身構える。
だが、紫が彼女の肩を抱き、制止した。
「紫っどうして!?
彼を【退治】しないと、【幻想郷】は―――――――」
霊夢は振りほどこうとしたが、紫はよりいっそう強く抱きすくめて落ち着かせた。
「………霊夢、大丈夫よ……
私がなんとかするから……貴女は、【あんなもの】と関わらないで………」
母のように慈愛に満ちた声で、そう囁いた。
札を握る霊夢の小さな手から、力が抜け、ゆっくりと降ろされる。
「ぐッ…………あ……あ……
うあああああああああああ―――――――ッッ!!」
腕が抗いようもない強力な力で、吉影を【写真】へと引き込む。
膝、腰、胸、と彼の身体が【闇】に呑み込まれていく。
「吉影ぇぇぇぇェェェ―――――――っ!!!!」
慧音の脚が地面を蹴り、吉影のもとへと跳躍する。
だが、吉影の頭は、腕は、【闇】に沈んで見えなくなった。
「うおおおおおおおおおおおお――――――ッ!!」
溺れる者が水面に手を伸ばすように【闇】から覗く手を掴もうと、慧音は全速力で飛翔する。
「駄目よ慧音っ!!罠よッ!!」
紫の怒声も耳に入らず、ただひたすら【手】だけを見つめ、慧音は加速する。
『吉影の手首は紫によって切断されていた』、
『では、今彼の【手】を操っているのは――――?』
――――――そんな簡単な疑問が脳裏をよぎることもなく。
「(――――吉影―――っっ!!)」
【手】に張り巡らされた悪意に満ちた罠に気付かず、手を伸ばした。
パァン―――――――
吉影の【手】が、慧音の手を払い除けた。
「―――――――え――――?」
茫然と目を見開いた慧音の前で、
吉影の【手】は、【闇】の向こうへと沈み、見えなくなった。
「うわあああァァァ―――――――!!」
魔理沙の絶叫が耳をつんざき、我に返った。
見渡すと、世界が一変していく。
地面は崩落し、雲は消え、空は割れ、全てが崩れ去っていった。
そして、何もかもが消滅した果てには、
大地も空も太陽も無く、無限に広がる星空の中で、自分達は廻っていた。
人間、妖怪、妖精、神、幽霊、獣、魚、木々、虫一匹に至るまで、
【幻想郷】中の全生命が、広漠たる宇宙で長大な輪を描き、渦を巻いて回転していた。
壮大かつ幻想的な、目を見張る光景に圧倒された、
だが、それも束の間、
カッ―――――――
目も眩む閃光、
視界が白一色に染まり、何も見えない。
先ほどの混沌とした情景が現実だったのか、幻覚だったのか、今となっては、最早確認しようもない。
「うわああああああああああああああああああ―――――――」
空中高く打ち上げられた身体が、重力加速度に負け落下を始めるような浮遊感を伴い、彼女らの意識は地表へと引き寄せられていった。
―――――――――――――――――――――
――――――――――――――
―――――――ドシャッ
「う…………うう………!?」
【スキマ空間】から放り出され、フランは無造作に床に落とされた。
「う…あ…………あぁ…ぁ」
涙と吉影の鮮血で濡れた顔を拭いもせず、フランは起き上がり宙を見上げた。
彼女が送り込まれたのは、紅魔館地下図書館だと、見渡して分かった。
彼女をここまで連れ去った【スキマ】は既に閉じている。
慌てて床に目を落とし、【写真】を見付けて駆け寄り、しゃがんで覗き込むが、ただの写真に戻っており、吉影の姿を確認する術は無い。
「……はあ………はあっ……はっ…
…よ……吉影………吉影ぇ………!」
脳裏に浮かぶ、最後に見た彼の傷ついた姿。
不安が高まり、胸が締め付けられる。
頭を抱えて踞り、泣きじゃくる。
薄黄色の髪を染める鮮血が、涙と共に床に雫を落とした。
「ひぐっ………えっ………ええっ……
……ひっく…………うええ…っ……ハァっ……えぐっ………」
フランの嗚咽が、本棚とその中身が散乱し荒廃した図書館に木霊した。
「うう………ぐすっ……
…………………、…?」
顔を伏せ泣いていたフランの目が、あるものを捉えた。
【写真】の周囲、【小窓】としての機能が失われる前に入った吉影の血が、床に飛散して血溜まりを作っていた。
『――――――……フラン、ここから先は【契約】だ……よく聴いておきなさい。
―――――――もしわたしが、君の心を裏切ったなら………そのときは…………
――――――『わたしの血を吸え』――――――――』
「………………ハァ………ハ…っ
ハァっ………」
導かれるように、フランは顔を血溜まりに近付け、
舌を伸ばし、血を舐めた。
―――――――――――――――――――――
――――――――――――――
「―――――――…………?」
気が付くと、フランは見知らぬ場所に立っていた。
「……ここは………?」
辺りを見渡すと、ミミズがのたくったような字が書かれた細長い板、積み上げられた小石が立ち並び、地面は赤い華と、見たこともないガラクタで覆われている。
―――――――ザッ――――
「…!」
ぼんやりと周囲の異様な情景を見回していたフランは、目の前で聞こえた足音に気付き、前を見た。
「…………吉影……」
吉良吉影が、彼女の前に佇んでいた。
手足がちゃんとあり、自身の足で立っている。
涙をハラハラと溢し、心から安堵の笑顔を浮かべ、吉影のもとへ駆け寄ろうとする。
だが、
スッ―――――――
吉影は右手のひらを彼女に向け、制止した。
「…………?
…なんで……?なんで…近付いちゃダメなの………?」
足を止め、フランは震える声で吉影に問い掛ける。
吉影は答えず、代わりに半歩後ろへ下がった。
それを見て、フランは理解する。
「…………吉影……
…………もう……行ってしまうの……?」
吉影は、答えない。
だが、右手を下ろし、また一歩遠ざかる。
「…あの時………私が貴方の血を吸った時………
貴方は私を助けてくれた……!
お姉さまを私が裏切ったことも…
私が貴方に味方したことも!
全部帳消しにするために、みんなの目の前で、私に殺されてくれたっ!
私がお姉さまや、他の人たちに、後でいじめられないように…………貴方は【悪い人】を演じてくれた…
そうでしょ!?」
吉影の血に籠められた、彼の意志。
【ソフト&ウェット】で彼の血を介してそれらを得た彼女は、吉影の胸中を知っている。
だからこそ、彼の中にあった【最大の感情】を知りながらも、引き下がることなんてできなかった。
「………」
吉影は、押し黙ったままだった。
だが、後退もしない。
ただ、暗闇の中に立ち尽くし、少女の紅い瞳を見つめ返すだけだ。
「…連れてって………」
胸に手を当てて、誓いを立て懇願する。
「あなたの邪魔にはなりません………
だから、どこか遠く…………私を連れてって………!」
目にいっぱいの涙を溜め、フランは駆け出した。
「どこか……
ここじゃない…どこかに………」
吉影の腰に抱き付き、フランは涙ながらに嘆願した。
「どこでもいいの………
ここじゃなければ……貴方がいるなら…どこでも……!」
【無縁塚】の闇に、フランの泣き声が吸い込まれていった。
吉影は、自分にすがり付く幼い少女の両肩に手を置き……
「―――――――見ろ」
「…………え…?」
頭上に降った吉影の言葉に、フランは顔を上げ、疑問符を浮かべる。
「……周りを…よく見てみろ。
目をこらして、周りの暗がりを………
………わたしの周りの、【闇】を。」
言われた通り、フランは首を回して辺りを見回し―――――
――――絶句した。
暗闇に浮かび上がる、無数の手、手、手。
節くれ立ち、爪は無造作に伸び割れ、生気の無い亡者の腕。
それらが、彼女を取り巻いていた。
「………………あ………あ……」
恐ろしさのあまり、悲鳴も喉に詰まって出て来ない。
禍々しい妖気に曝され、フランは身震いし身体を縮こまらせた。
「……ここじゃないどこかと言ったな?
これがそのどこか、【この世の境界線】だ。」
怯えるフランに、冷徹な言葉が降り注ぐ。
「ここは吹き溜まり……
死んでもなお命ある者に取りすがる、妬みと未練を撒き散らす敗者どもの掃き溜めだ。
……どこでもいいと言ったな?
ここがお前の辿り着いた場所、ここがお前の楽園だッ!」
幼(いたい)けな希望を打ち壊す事実を、残酷に告げた。
「―――――――子供」
「ひぃっ!?」
【闇】から聞こえた声に、フランはビグッと身を震わせる。
無数の亡者の手が、彼女に迫ってきた。
「若い身体」「くれ」「おくれ」「中入れろ」
「魔の匂い」「オレの」「ちょうだい」「女だ」
「くれ」「私の」
口々に枯れ葉が擦れ合うような声を上げ、手がフランの身体に触れる。
「あ………ああ……
いや……っ…いやぁ……来ないで……!」
フランは自分の身体をまさぐる手を払い除けようとするが、恐怖に身がすくんで動けない。
「―――――マンマァ………」
小さな子供の手が、彼女の頭を掴んだ。
ズブズプと沈み、彼女の頭に入り込んでいく。
「(イヤ―――――――っ!!)」
自分自身の中身を、得体の知れない誰かに侵されていく。
堪えられない恐怖と異物感で、気を失いかけたその時、
グシャッ
頭に入り込んだ【手】が、引き摺り出される感覚。
【キラークイーン】がフランにまとわりつく【手】を引き剥がし、掴み、払い、潰し、爆破し、一掃した。
フランは目眩と全身の力が抜けた弛緩で、膝を地面に落とし倒れ込む。
「……ハア…ッ…ハア…………ハァ……
ゴホ………
…うっ………う…っ……ぐふ……っ」
咳き込み、頭痛と吐き気に苛まれ、フランは踞り涙を滲ませる。
吉影は彼女の前に膝を着くと、
「―――――――!」
彼女の肩に手を回し、抱き寄せた。
フランの身体の震えが、ピタリと止まった。
「…………逃げ出した先に、楽園なんてありはしないんだ。」
胸の中にいるフランに、吉影は優しく囁いた。
フランは顔を上げ、吉影を見上げる。
「辿り着いた先、そこにあるのは……身の丈に合わない【地獄】だけだ。」
フランの紅い瞳と、吉影の黒い眸、
見上げ、見下ろし、互いに交差する。
交わした言葉は、それだけだった。
だが、それより遥かに多くの思いを、その柔らかく暖かい眼差しが伝えていた。
どれほどの時間だったのだろうか。
ずっと長い時間だったのかもしれない、一瞬だったのかもしれない。
スッ―――――――
吉影はフランから手を離し、立ち上がった。
「!……
……吉影…………?」
座り込み、フランは吉影を見上げた。
「…………帰れ」
吉影の声を聞き、フランは背筋を震わせる。
「そんな………
帰りたいとこなんて…………帰りたいとこなんてないよ…!!」
フランの頬を涙が伝う。
今にも泣き喚きそうに、小さな口を引き結んでいる。
「帰りなさい。
ここから先は、わたしの【居場所】だ。」
静かな口調で、吉影はフランに言う。
「イヤだよ………!
だって………やなことばかりだもの……!!
誰も……優しくないもの…!!」
フランは泣きじゃくり、彼のズボンの裾にすがる。
慟哭するフランに、吉影は穏やかな声で伝えた。
「…わたしの【記憶】を見ただろう?フラン……
君のお姉さんのことも、ちゃんと見たはずだ……彼女の言葉を聴いたはずだ。
分かっただろう?
君の周りの人たちは、本当はみんな優しかったんだ……ただ……その気持ちを伝えられなかった……ただの、それだけだったんだ……」
首を左右に振り、フランは泣き叫ぶ。
「…ウソよ……
だって……!お姉さまは……五百年ずっと、私の部屋に来てくれなかったじゃない!
一緒に遊んでくれなかった……!
お外に出してくれなかった……
お話してくれなかった!
ご本を読んでくれなかった!
お食事も、お昼寝も、私とはしてくれなかった!
私は、ずっと寂しかったのに……!あいつだけ咲夜やパチュリーや美鈴と一緒にいて……っ!!
でも……!貴方は違った………
私と一緒にいてくれた。
お父様やお母様やお姉さまにしてもらえなかったことを、ずっと憧れていたことを、全部叶えてくれた……!」
フランは吉影の足下で泣き続ける。
「吉影……っ…貴方じゃないと…ダメなの………
私には……貴方しかいないの………っ!」
彼女の心は痛切で、必死だった。
500年待ち焦がれ、夢にまで見たものが、自分のもとから消えようとしているのだから。
今この手を離してしまえば、二度と出逢う機会は訪れないだろう。
切実に訴える彼女の頭に、吉影は手を置いた。
「……フラン…、わたしは、君の心を裏切ってしまった……
君と【友達】になろうと言った時から、わたしは君に対する裏切りと背信を重ね続けてきた。
このことはいくら謝っても、到底償うことはできないと思っている。
だが……、『今』、わたしの中にある【心】は、嘘ではなかったと分かってくれているはずだね……?
人は、『変われる』。
人と人との関係は、『変える』ことができるんだ。
わたしと君のように、最初はただの赤の他人で、お互いを傷付けることしか考えていなくても………
君がわたしを必要としてくれたから、折れかけていたわたしの心を慰めてくれたから、わたしも君の思いに応えようと思った。
君がわたしと出逢って変わったように、君のおかげで、わたしも変わることができた。
冷酷であり続けたわたしの心にも、暖かい血が通い始めたんだ……フラン、君のおかげだ………
………だから、今度は君の番だ。
君の方から、お姉さんに歩み寄ってみるんだ。
わたしが君にしてあげたことを、今度は君のお姉さんにしてあげてみなさい。
そして、彼女にもしてもらいなさい。
そうすれば………君たち姉妹にも、必ず暖かい絆が生まれるはずだ。
500年の溝を、壁を、誤解を、すれ違いを、軋轢を、わだかまりを、君の手で『壊す』んだ。
そして、地下室の扉を開けて、外の素晴らしいものに心踊らせなさい。
友達もたくさん作って、たくさん遊びなさい。
そうすれば、君は一人の少女でいられる………500年の孤独が無かったように明るく笑えて、500年の涙が無かったように、いじらしく泣くことのできる………見かけ相応の、素敵な少女に…………」
フランの薄黄色の髪と頭を、優しい手付きで撫でる。
肩を震わせ、しゃくりあげて、フランは彼の手に身を委ねていた。
頭に伝わる、柔らかく温かい感覚、
彼女が親から与えられることはなく、いつも姉が当たり前のようにしてもらっているのを物陰から眺め憧れ、羨んでいた温もり。
彼の大きな手から伝わる熱が、彼女の身体に染み渡っていき、悲痛な気持ちを取り除いて、穏やかな心地よさが満たしていく。
彼女の慟哭は嗚咽となり、啜り泣く声に変わり、小さくなって、消えた。
「…………ほんと……に……?
お姉さまと………みんなと……貴方みたいに……なれるの………?」
顔を上げ、潤んだ瞳で見上げて、問い掛ける。
吉影はそんな彼女を見下ろして目を合わせ、微笑んだ。
「わたしの心はもう、君のものだ。
決して裏切りはしない。
信じてくれ、わたしを。
そして………、わたしを変えてくれた、君自身を………」
優しい眼差しは、『言葉』より多くの確かな『心』を伝えていた。
暗い地下で幽閉されていた500年間の悲哀が、打たれ続けた犬のように萎縮させ、日射不足の花のように未発達のまま歪めてしまった彼女の心に、安心が広がり、解放した。
涙を拭い、身体を起こして、フランは立ち上がった。
「………行け。
君は、君の居場所に。」
フランの瞳に灯る確固たる輝きを目にし、吉影も安堵の微笑を湛え、彼女を見つめた。
フランは気丈に背を伸ばし、七色に輝く翼を広げ、胸を張る。
もうその表情には、悲痛な陰りは差していなかった。
「―――――――吉影………」
これが、最後に交わす言葉。
万感の思いを言葉に乗せて、最愛の人に伝えた。
「ありがとう………ほんとうに………
貴方に出逢えて……良かった……っ!」
向日葵のように健気に笑う少女。
かつて経験してきた苦痛を感じさせないほどに、屈託のない笑顔。
この少女がかつて【悪魔の妹】と揶揄され、家族に虐げられていたなど、いったい誰が想像できようか。
「……ああ…わたしも…君に出逢えて……良かった……本当に……
フランドール、わたしの娘……わたしの伴侶……」
微笑みかけ、もう一度だけ、フランの頭を撫でる。
目を瞑り、くすぐったそうに肩をすくめ、羽をパタパタと動かして、最後になる感覚を胸に刻み付けた。
―――――――やがて、吉影は手を離し、穏やかに告げた。
「フラン、帰り道は君の後ろだ。
『決して振り返ってはいけない』。
『約束』だ……守れるな?」
フランはコクン、と一度だけ頷くと、クルリと背を向けた。
踵を返し、遠くに見える小さな光を目指して、脇目も振らず駆け出した。
どんどんと小さくなっていく背中、振り向くことなく遠ざかっていき、光の点の中に消えるまで、吉影は見送った。
―――――――フランの姿が、光となって消えた。
無事『家に帰った』のを見届けると、フッ―――と笑い、吉影は右手を見つめる。
『彼女』の手を払った手、そして、今一人の少女に触れた手だった。
少しだけ、名残惜しそうな表情をして、吉影は右手を下ろした。
「―――――――さて」
踵を返し、顔を上げ、『振り返った』。
「わたしも帰るとするか………
わたしの【居場所】へ」
無数の亡者の腕が、彼を取り囲んでいた。
「外界、幻想郷、冥界………三つの世界の【結界】が交差しているらしいな……この【無縁塚】では……
まだ行ったことのない場所は【冥界】だけだが……
今度はそこへ連れて行く気か?」
自分を無間地獄へと連れ去ろうとする刺客たちを眺め回し、不敵に笑う。
「だとしても……このわたしを屈服させることは、地獄の閻魔ですらできはしない……
何度だって『やり直せる』のだからな……」
余裕を湛えた面持ちで、吉影は【小道のパワー】に宣戦布告を叩きつける。
「貴様らは、わたしが【外】へ帰るための【通り道】に過ぎない。
…案内させてやる、連れて行け。」
一斉に襲い掛かる朽ちた腕を、身じろぎ一つせず、鋭い眼光で睨み返した。
―――――――――――――――――――――
――――――――――――――
―――――――――――――――――――――
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BGM IOSYS『千歳の夢を遠く過ぎても』
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――――――――――――――
―――――――墨汁に筆を浸け、持ち上げた。
紙の上に先を置き、筆を走らせる。
上白沢慧音は、自宅の書斎にいた。
筆を持ち、硯を脇に置き、机の上の紙に向かって正座している。
彼女の白みがかった蒼髪はうぐいす色の緑に煌めき、頭頂部の両隣からは、猛々しい双角が伸びている。
今夜は【満月】、彼女のもうひとつの姿、【白沢】が顕現する晩である。
普段、彼女は歴史編纂を【白沢】の『歴史を創る程度の能力』によって行うが、今は筆を使って己の使命を果たそうとしている。
これには、理由があった。
『外来事変、その全容と、そこから学ぶべき幻想郷及び人里の防衛と外の世界との関係の在り方』
タイトルを記し、慧音は【歴史】を創り始めた。
―――――――あの後………
吉影が【小道】に引き込まれ、消えた後―――
――――【幻想郷】の時間は、『逆流』した――――
四ヶ月もの時が巻き戻され、全ての【歴史】が抹消された。
日付も季節も人も妖怪も森も獣も花も蟲も、全てが四ヶ月前の状態に戻された。
但し、皆【記憶】はある。
農家は春に植えた苗をまた植えなおさなければならないことをぼやき、
商人は四ヶ月で得た利益がすっかり消えたことを嘆いた。
だが、良いこともあった。
輝之輔と吉廣、そして彼らが放った妖怪たちによって破壊された家々が、すっかり直っていたことだ。
吉影によって跡形もなく消し飛ばされた博麗神社も、元通りになっていた。
霊夢の八つ当たりを恐れていた妖怪、人間は、ホッと安堵の溜め息を吐いた。
―――――――そして、大きな変化が訪れた場所がひとつ。
―――――――――――――――――――――
――――――――――――――
「―――――――……
……………………………?」
レミリア・スカーレットは、目を開けた。
「………ここは……?」
辺りをきょろきょろと見回し、自分の居場所を把握する。
ここは紅魔館の自室バルコニー。
椅子に腰掛け、紅茶の入ったカップを持っていた。
「……お嬢様………?」
背後から呼び掛けられ、振り向いた。
咲夜が困惑した様子で背後に控えていた。
「これは……!?
さっきの光景は……!?」
辺りを見渡し、訊ねる。
「……時間が……戻ったようだわ………
『今度は』……貴女も【記憶】があるようね……」
少し考えて、レミリアは口を開き答えた。
その直後、
「っ!?!!」
ガダンッ!
椅子をはね飛ばし、立ち上がった。
驚く咲夜に、レミリアは必死の形相で訊く。
「フラン……ッ!
あの娘はっ!?」
咲夜も気付き、ハッと息を呑んだ。
次の瞬間、レミリアは翼を広げ空を打ち、全速力で飛び立った。
咲夜も自分の時間を加速させ、後を追う。
扉をいくつもぶち破り、
混乱し廊下でうろうろしているメイド妖精達を吹き飛ばし、
弾丸のごとき速さで、彼女達は地下へと向かう。
バアァァ―――z―ンッ!!
エントランスホールの階段を降りた時、正面玄関の扉が弾け飛ぶように開かれ、美鈴が飛び込んで来た。
「お嬢様ぁっ!咲夜さぁぁんっ!!」
残像の如く地下階段へと消えた二人の姿を目撃し、美鈴も全力で追い掛けた。
―――――――バアァァンッ!!
紅魔館地下、フランの部屋の扉を蹴り開け、三人は中へと飛び込んだ。
「フランッッ!!!!」
レミリアが叫び、着地する。
部屋の真ん中、絨毯の上に、薄黄色の髪と宝石のような羽を持った少女が座っていた。
「―――――――…お姉さま……………?」
彼女の妹、フランドール・スカーレットは、首を回して振り返った。
レミリアは荒い息をつき、涙が頬を伝った。
「フラン……!ああ、フラン……っ!!
良かった……無事で………!」
涙を拭い、レミリアは自分の妹に歩み寄る。
「フラン……ごめんなさい……!
私は…貴女にいっぱい、謝らないといけないわ……
たくさんたくさん、お話したいこともあるの………
急にごめんなさいね……でも………!
言わなくちゃいけないことが多すぎて………」
涙声で話し掛けながら、フランの前まで足を運んだ時、
ゴツン―――――――!
「―――――――え………っ?」
レミリアの脳天に衝撃が走った。
扉付近に控えていた咲夜、美鈴が仰天する。
フランの握り拳が、レミリアの頭を叩いたのだ。
「え……っ…あっ………
フ……フラン………?」
拒絶され、レミリアの顔は蒼白になり、言葉に詰まる。
次の瞬間、
「バカっ!」
もう一方の手で、レミリアの頭を叩いた。
「バカっ!バカぁッ!!
お姉さまのバカっ!」
さらに一発、二発と、フランは手を振るう。
「なんで今までっ!会いに来てくれなかったのっ!
なんで今までっ!!ちゃんとお話してくれなかったのっ!」
ポカポカとフランはレミリアを打つ。
「いたっ!?痛いっ!
やっ止め……!?
止めて!止めなさいっフラン!」
フランに気圧されたじろぎ、叩かれた痛みと衝撃で後ずさるが、フランは手を止めない。
「私、ほんとうに寂しかったんだよ!?
いっつもひとりでっ!
お食事も!お昼寝もっ!!
私、ずっと……!いらない子なんだって思ってたんだよっ!?
嫌われてるって、ずっと思ってたんだよ!?
なんで……っ…なんでっ………!!」
フランの叫び声は涙が混じっていき、やがて泣き声に変わった。
レミリアを叩いていた手が止まり、代わりに抱き着く。
レミリアも泣きじゃくる妹の背中に手を回して、抱き返した。
かくんと膝を折り、二人は抱き合ったまま座り込んだ。
「お姉さまっ…!お姉さまぁ~!」
「フランっ…!ごめんなさい……!ごめんなさいっ………フラン…っ!!」
抱擁し、わんわんと大声で泣く、二匹の吸血鬼。
それはどこにでもある、ありふれた姉妹の姿だった。
「―――――――美鈴、ちょっとは場をわきまえなさいよ。」
「ううっ……だって……だって…!あのお二人がああやって、仲良くなって……っ!
ずっとずっと願っていたことが、叶うなんて………!嬉しくて…!!」
エントランスホールでしゃがみこみ、美鈴はグスグスと泣く。
気を利かせた咲夜が時を止め、美鈴を連れて退室してきたのだ。
「もう……美鈴…貴女って人は………」
小言を言おうとしたのだろう。
だが、そう言う彼女の声も涙に掠れ、瞳からは涙の雫が溢れている。
「咲夜さんっ……!」
美鈴は唐突に立ち上がり、咲夜をギュッと抱き締めた。
咲夜は驚いたりせず、彼女の背に腕を回す。
「良かった……っ!
良かったですっ……咲夜さん……!!」
「………ええ…
本当に良かったわ……美鈴……!」
二人の従者はメイド妖精達の好奇心に満ちた視線の中、憚ることなく抱き合い、喜びを分かち合った。
―――――――パチュリー・ノーレッジが地下図書館の机に全身複雑骨折で突っ伏しているのが発見されたのは、それから数時間後のことである。
―――――――――――――――――――――
『―――――――【外来事変】:第◯◯◯季4月7日の満月の晩、外の世界から侵入した外来の亡霊及びその一味が、人里を襲撃し博麗の巫女に戦いを仕掛けた事件。
里人の大半が誘拐、人質に取られ、まかり間違えば幻想郷の滅亡も危ぶまれたが、博麗の巫女と大妖怪八雲紫の活躍により無事解決した。
首謀者である亡霊、吉良吉影の能力(後述)により、時間が第○○△季12月10日まで四ヶ月巻き戻されたので、【三半年異変】とも呼ばれる。』
歴史喰らいの半獣、上白沢慧音は、紙の上で筆を踊らせた。
事件に関する【歴史】は全て失われてしまったために『能力』を使えず、筆と自身の手で歴史編纂を行っているのである。
『経過:第◯◯◯季3月22日、新月の晩、主犯である亡霊、吉良吉影は幻想郷に侵入した。』
許可、記載。
『直後、妖怪と交戦し負傷、人里付近の水田で行き倒れていたところを、門番が亡霊と気付かず救助、保護される。』
許可、記載。
『23日夜、上白沢宅で意識を取り戻した吉良吉影は、上白沢慧音が黙秘したため自身の亡霊化に気付かず、上白沢宅での居住を許可される。』
不許可、改竄……
『23日夜、意識を取り戻した吉良吉影は、自身が亡霊であることを黙秘、人里に潜伏を始める。』
『25日、吉良吉影は上白沢慧音の指示により博麗神社を訪問、あらかじめ彼を【外の世界】へ帰さないよう依頼されていた博麗霊夢により拒絶され、【スペルカードルール】にのっとり決闘するが敗北、法外な奉納金を要求され帰宅する。』
不許可、削除……
『29日夕刻、天狗の新聞にあった遊技大会の広告を信じ、博麗霊夢への奉納金として賞金を得るため紅魔館を訪問、
しかし天狗と結託した紅魔館当主レミリア・スカーレットの謀略により、同館地下にて当主の妹、フランドール・スカーレットとの決闘を余儀なくされ、一日半に及ぶ戦闘の末勝利をおさめる。
しかし契約違反のため賞金を得ることはかなわず、失意の中館を去る。』
不許可、改竄……
『29日夕刻、吉良吉影は紅魔館を襲撃、
門番紅美鈴及び魔女パチュリー・ノーレッジに重傷を負わせ、紅魔館当主の妹フランドール・スカーレットを強襲、一日半に渡って死闘を繰り広げた末に彼女を屈服させ、悪魔の契約を結び配下に加える。』
慧音は、静かに筆を操り、【歴史】を紡ぐ。
【歴史】とは即ち事実、ではない。
起こっていないことを捏造し、逆に実際の出来事を抹消することで、事実を一視点から見たものが【歴史】である。
彼女が機織るのは、【幻想郷】のための【歴史】。
その神聖な使命に、一人の人間の、半獣の、女の感傷など、入る余地は無い。
あってはならない。
『31日昼、里に帰還した吉良吉影は天狗の喧伝作戦により暴徒化した一部の里人に襲撃を受け、頭部に重傷を負う。
激昂した彼は里人十数名に対して反撃、重傷を負わせる。』
不許可、改竄……
『31日昼、里で吉良吉影の蛮行に関する情報が流れ、帰って来た吉良吉影に対して里人が抗議、激昂した彼は里人十数名を暴行、顔面を剥ぐ、足や頭部を切りつけるなどの重傷を負わせた。』
『6日夜、上白沢宅に押し入り吉良吉影襲撃を企てた里人を撃退、しかし上白沢慧音が里人を庇い軽傷を負う。』
……不許可、削除………
『7日夜、吉良吉影は犯行を決意、
迷いの竹林にて藤原妹紅を殺害し、その約20分後人里襲撃を開始する。
その直前、時間が巻き戻された形跡が残っていたが、【歴史】も【記憶】も消滅させられたと見て、真相は不明。』
許可、記載。
『―――――――事件直前、吉良吉影は共犯者である吉良吉廣、宮本輝之輔に「里人の殺傷の禁止」、彼の姿に変身した【サーフィス】に対し「問題が起きなかった場合、上白沢慧音の手によって破壊されること」を指示。
そのため里人の中に死者は一人も出ず、霧雨魔理沙と命蓮寺により人質は全員無事解放された。』
……不許可…………改竄……
『吉良吉影、吉良吉廣、宮本輝之輔の三名は、人里に大量の妖怪を解き放ち、家々を爆破し、破壊の限りを尽くした。
多数の里人が人質として誘拐されたが、妖怪退治屋と里に居合わせた妖怪達の活躍により、奇跡的に死者は出なかった。』
『―――――――……博麗神社にて人質の到着を待っていた吉良吉影は、計画の失敗を知り時間を巻き戻そうと決意、
しかし博麗霊夢に阻止され、さらに八雲紫の登場により敗北を悟り、フランドール・スカーレットに自身の血を献上、
受肉を果たし反撃を試みるが、八雲紫の力の前には歯が立たず、窮地に立たされる。
しかし前述の「四ヶ月時間を巻き戻す」能力と、【無縁塚】の結界の歪みのエネルギーを利用するという苦肉の策で、【幻想郷】からの脱出を遂げた。』
……不許可…っ…改竄………っ
『……人里から逃走した吉良吉影は、博麗神社に立て籠り博麗の巫女を捕縛するよう計画を変更、
自身を吸血鬼化するためフランドール・スカーレットを利用しようとするが、彼女の反抗によって一度は絶命する。
しかし、彼女の肉を焼いて発生した煙を吸うことで魔の眷属として転生することに成功、再び博麗の巫女に襲い掛かるも、彼女と八雲紫の力に圧倒され、
再度追い込まれた彼は「時間を巻き戻す」能力を発現し、なおも逃亡を図るが………、【無縁塚】の結界の歪みのエネルギーを利用するという…八雲紫の…機転により………、異世界に…っ…送り飛ばされ……!、事件は……………っ…』
「…………う……うう………」
筆を握る手が、震える。
手が、進まない。
涙が滲み、目が霞む。
「う…ううう………っ
うああああ………ああ……」
カラン―――――――
筆が手から離れ、硯の上に落ちる。
墨汁が跳ね、黒い染みが【歴史】を書き連ねた紙の上に散った。
【幻想郷】の妖怪達は、実は【外の人間】を極度に恐れている。
【広い世界】から自分たちを追い出し、【幻想郷】の外では存在を保つことさえできないような世界を創ってしまった人間たちに、恐怖と脅威を抱いている。
だからこそ、吉良吉影は【亡霊】でなければならない。
【外の人間】が【幻想郷】を滅亡の危機まで追い込んだという認識が広まれば、この世界が被るダメージは計り知れない。
妖怪には、未だ外に残留し、さらに力を求めこの幻想の牙城に攻め入った、強大な【化け物】として、
人間には、血に餓え魔に堕ちた【狂人】として、
表の【歴史】に永遠に記録されなくてはならない。
だが、それならば―――――――
―――――――慧音は、聴いていた。
博麗神社での、吉影とレミリアの会話を。
【バイツァ・ダスト】で消し去った一時間の記憶が、誰に継承されるのかを。
そして、告白の後、最後に言い放った言葉。
『――――誰の【歴史】にも残さない―――』
その言葉の真意が、今の彼女にははっきりと分かっていた。
「―――――――私の中にだけは…………
……残りたかったんだ……………っ!」
両手で顔を覆い、慧音はさめざめと泣いた。
涙が頬を伝い、紙の上に落ち、文字を滲ませる。
歴史書の上からでは、人間一人の思いなど読み取れはしない。
では、彼女が自身の【使命】と信じ、し続けてきたことは、いったい何の意味があるというのか。
「くっ……ううっ…………!
うああああああ……ああああああああああああ……………」
書斎を、嗚咽が満たした。
窓から差す月明かりが、暗くなり、消えた。
2011年12月10日、皆既月食の晩。
【白沢化】が解除され、彼女の髪は涙のような蒼に戻る。
双角は消え失せ、啜り泣く弱い女の姿が月光の消えた部屋の中に残された。
「―――――――………
…………………」
静かに涙を拭き、立ち上がる。
机の上の紙をどけ、新しい紙を広げた。
―――――――創ろう―――――――
筆を手に取り、持ち上げる。
彼女の胸にさざめく、思い出の光沢。
人を殺し、己を殺し、最後に人間の心を手にした、ある男の物語。
それらに万感の思いを委ね、筆先を紙に下ろした。
―――――――私だけの………【歴史書】を…………―――――――
―――――――――――――――――――――
――――――――――――――
ED SOUND HOLIC 『eternity』
今まで長らく応援ありがとうございました。感想お待ちしてます!
最終回でしたが、これで終わりではありません!もう少しだけ続きます。ご期待ください。