トリスタニア診療院繁盛記   作:FTR

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その29

『「まともでいる」という贅沢は後で楽しめ』と言った軍人がいる。

リアリストの見本のような男だった。

娑婆っ気が抜けない部下に言った言葉だったと思うが、戦場で行われていることは人として「まとも」とは言えない行為だということを端的に言い表した言葉だと思う。

だが、一度「まともではない」世界を覗いた者が、果たして「まとも」な世界に「まとも」なまま帰って来られるのだろうか。

 

 

 

 

 

タルブの戦いが終わり、街は戦勝ムードに沸きかえっていた。

戦勝記念パレードが派手に行われ、詰めかけた群衆からの歓呼の声が、一角獣に引かれたアンリエッタの馬車に降り注ぐ。

不可侵条約を一方的に破棄したアルビオンに対し、自ら陣頭に立った『聖女』アンリエッタ姫の人気は止まるところを知らず、間をおかず布告されたアンリエッタ戴冠の報もそれに拍車をかけていた。

それだけ、誰もがアルビオンとの戦いに絶望的な思いを持っていたのだろう。

屈辱的なアンリエッタのゲルマニアへの輿入れも白紙となり、まさにトリステインにとっては最良の日だった。

話に聞く範囲では、タルブの戦いの流れは概ね私が知るそれと変わらなかったようで、事の起こりが不意打ちだったためか、トリステイン預かりとなっているアルビオンの亡命艦隊や兵力と言ったイレギュラーも目立った活躍はしなかったようだ。

経緯はどうあれ、王都も戦場にならずに済み、戦勝祝いの祭りに街は活気に溢れている。

誰もが祝杯を酌み交わし、街には露店が立ち並び、緊張から解放された住人たちが思い思いに喜びを噛み締めていた。

祝い酒と、恐れていた戦乱の先にあった穏やかな平和に誰もが酔い痴れる、華やかな歴史の一幕の余韻。

しかし、アンリエッタが放つ眩いばかりの輝きが強ければ強いほど、落とす影もまた深く濃いことに、その輝きに目が眩んだ者たちは気づいていない。

そして私もまた、気づけなかった一人だった。

神の視点を持つ転生者であっても、前世で体験していなかったことまでは見通せはしない。所詮私は、平和ボケした日本人だったのだ。

光あふれる歴史の表舞台の陰で、地獄の残り香は静かにトリステインに根をおろしていた。

 

 

 

日常が戻って来たチクトンネ街の診療院を訪れる患者に変化が出始めたのは、戦勝気分が街から徐々に薄れ始めるころだった。

最初に来たのは、空軍の水兵だった。年の頃20歳くらいの、まだ若い平民の士官。

自覚症状として、不眠を訴えていた。

問診をしたところ、先の戦いで中破した後にアルビオンに降伏した戦列艦に乗り組んでおり、アルビオンからの攻撃の際に艦が数発の直撃を受け、その時に目撃した四散した戦友の遺体の光景が頭から離れず、眠ることができないのだと言う。

それがきっかけだったように、ラ・ロシェールに従軍した兵や壊滅した空軍艦隊の乗組員等が少しずつ相談にやってくるようになった。

症状は不眠、悪夢、耳鳴り、不安、情緒の不安定、そして、いつまでも続く悲惨な記憶のフラッシュバック等。

いずれも軍医に相談しても取り合ってもらえず、やむにやまれず藁にもすがる思いで私のところに流れてきたらしい。

誰もが自分ではどうにもならない症状を訴え、時には問診中に当時を思い出して泣きだす者もいた。

診察を繰り返すうちに、明らかになって来た事実の深刻さに、私はしばしばカルテを書く筆を止めることになった。

戦闘経験によるストレス障害。

より専門的には『戦争神経症』と呼ばれる障害と記憶している。

理解が浅いこの世界では『臆病風』とも言われるものだが、その実態は深刻な心の傷だ。

その知識を持つ私としては、戦争が始まった段階で予見すべきことではあった。

一方的な蹂躙を受けて全滅したトリステイン艦隊の乗組員や、ラ・ロシェールにおいて上空支援がないままに生身でアルビオン艦隊に立ち向かう羽目になったトリステイン軍の兵が負った傷は、血が流れるそれだけはなかったようだ。

 

銃撃や魔法も怖いと言えば怖いのだが、砲爆撃というものはそれらとはいささか趣を異にする類の攻撃だ。砲撃というものは敵艦の舷側に瞬く発砲炎の輝きからして恐ろしいものだが、着弾後の衝撃は筆舌に尽くしがたいものがある。閃光と爆風と爆音、飛散する破片と巻き上げられる破片や土砂。ぶちまけられるそれらの破壊のエネルギーは、まさに想像を絶するものだ。私もアルビオン時代に一度だけ王立空軍の砲撃訓練を観たことがあったが、あの腹に来る爆音を聞いた時は、間違ってもこれの的になりたくないと思ったものだった。本来は城や敵艦のような大きな標的に向かって解放されるべき破壊力の大きさは、生身の人間にしてみればもはや火山の噴火等の自然災害と同義だ。殺意がない分、自然災害の方がまだ可愛げがあるかも知れない。

そんなものの洗礼を受け、隣にいた戦友が一瞬の後に肉片になるようなシーンをライブで見れば、誰だって平静ではいられないだろう。

その時の光景、音、匂い、あるいは感触。

次は自分がああなるかも知れないという、抗いがたい恐怖。

その場にいなければ理解できないであろうことは、私にも判る。

例え映画『プライベート・ライアン』の冒頭を100回見ても判るまい。

彼らは、比喩でも何でもない、本当の地獄を見て来たのだ。

 

相談を受けた時、正直、対応に困った。

医者の看板を出していても、私にもできることとできないことがあり、今回の相談は後者の最たるところだ。

ネッターやハリソンは手に取った覚えはあっても、心理的治療の専門的な知識が私にはないのだ。

心のケアと言えば、お爺ちゃんお婆ちゃんの愚痴を聞いてストレスを和らげるくらいが関の山の私にとって、戦闘ストレス障害はさすがに荷が重すぎた。

死に対する恐怖は生物の最も深い部分にある本能であるだけに、入った罅が小さくても影響は大きい。それは同時に、下手に手を出したらそのしっぺ返しも大きいということでもある。治療にしても、同じ対処法でも患者の症状によって効いたり効かなかったりするようで、対処法の選択には専門的な知識と経験が大きく物を言う。

いかんせん、『心』というものは規格品ではなく、お一人様一点限りのオーダーメイドされたソフトウェアだ。素人の私にどうこうできるようなものではないのだ。

しかしながら、放っておけば悪化の一途を辿る患者がいる可能性もあり、鬱やパニック障害、自傷等の合併症にも繋がるので無条件降伏という訳にはいかない。

うろ覚えと言うのもおこがましいほど曖昧な記憶をサルベージし、まさに手探りで対応する日々が続いた。

 

対応と言っても、私ができる事は患者の独白に耳を傾けるくらいが精一杯だ。

お話療法は心理的治療の基本と聞いたことがあったが、デブリーフィングのように深くまでは掘り下げず、語りたいことを語りたいだけ語ってもらうだけだ。ひたすら患者の話を聞き、やばそうなラインになったらブレーキをかけ、可能な範囲で記憶の整理と精神のリラックスを促すようにして会話を繋ぎながら、『すべては過去の出来事』ということと『脅威はもうない』ということを穏やかに伝えるよう心掛けた。

ここが私の限界だ。

私には、どこまで患者に心の奥を曝け出してもらえばいいか判らないのだ。

『思い出してもらう』ということは、当時の悲惨な記憶との対峙を要求することだ。

その記憶が、患者が耐えられるような物ならばいいのだが、それが耐え難いほどのものであった場合、思い出すだけでパニックに陥ることがある。そうなると私には眠ってもらう以外に打つ手がない。

催眠療法や認知行動療法等の手法が判ればいいのだが、名前は知っていても具体的な方法を知らないのが痛い。EMDRの真似事もやってみたが、素人の付け焼刃では五円玉を揺らして行う催眠術と五十歩百歩といったところだろう。

人の心の迷宮は難解で、その闇も深い。

何故、精神科医の他に臨床心理士という職種があるのかが、今更ながら理解できた気がした。

 

薬物療法も考えたのだが、秘薬文化が隆盛なハルケギニアにおいてもこの種の障害に関してはお寒い限りで、エルフの薬を調べる過程であれこれいろいろな薬の情報を読んできたが、そういう趣旨の薬は見たことがなかったし、その道の専門家であるピエモンに相談していい返事は聞けなかった。秘薬として作れたとしても、最近は水の精霊との取引が滞っているため『水の精霊の涙』が手に入らず、その種の向精神系の秘薬は値段の相場が荒れているのだとか。何とも八方ふさがりな話だ。

セロトニンに対する学術的な理解もないのだから特殊な薬品がなくても無理はないが、ハルケギニアでは、どちらかと言うとこの種の障害については精神力で何とかすると言う前時代的な思想が一般的なようなので、そもそもそういう薬を作ろうとする人もいないのだ。水魔法は他の属性と違って心に作用する魔法体系があるのだが、操ったりすることはできても癒すことができないというのは、その属性の魔法使いとしては何とも寂しい限りだ。

種類を選ばなければ気持ちが楽になる薬はあるにはあるが、それは麻薬の類であり、服用すれば一時的に躁になりすぎた挙句に反動で余計に悪くなったり、洒落にならない副作用や常習性を伴うものばかりだった。うっかりすれば、アフガニスタンのソ連軍と同じような末路を辿ることになりかねない。

麻薬と言えば、この種の障害においては、麻薬やアルコールへの逃避も看過できない問題だ。

日々、恐怖の記憶の反芻に晒されていては心が壊れてしまうのは当然のことだし、その恐怖を紛らわせるために酒や薬に頼るようになるのも自然なことだろう。だからと言って麻薬やアルコールに逃避・依存すれば、待っているのは悲惨な中毒への道だけだ。

 

大変な病ではあるが、これらはある意味至って正常な反応でもある。

そもそも、命のやり取りをする場所で平気でいられる人は、ほぼ確実に心のどこかが壊れているのだ。原作にメンヌヴィルとかいう傍迷惑なチャッカマンがいたと思うが、あの辺がその典型だろう。

そういう世間が直視しない現実を目の当たりにするたびに、私の中で戦争への嫌悪が増していく。

戦争と言うものは外交の一手段なのだそうだが、敵兵や敵国民を殺し、傷つけるのみならず、自国民にもそのような苦痛を強いる所業は、やはりやらないに越したことはない。

一将功成りて万骨枯る。アンリエッタが浴びている栄誉の陰で、それらの代償を負うのはいつだって弱い立場の者なのだ。

しかし、悲しいことに人の世においては、その悪は必要悪となることがある。

戦争は嫌いでも、非武装非暴力では一方的な蹂躙を受けるはめになるのがこの世の理、降りかかる火の粉は掃わねばならない。自らを守らねばならない戦いもこの世には確かに存在することは私も理解しているつもりだ。今回の戦いは間違いなくそれだろう。

そして、その避けられない戦いのために傷つき、病み、壊れていく人たちがいることも、悲しいことだがやむを得ないことではある。

彼らもまた、戦死者たちと同様、勝利と平和の祭壇に捧げられた尊い犠牲者だ。

 

しかし、そう言った兵に対する世間の扱いはお世辞にも手厚いものではない。

トリステインには『廃兵院』という施設がある。

傷痍軍人の救済のための軍関係の施設で、一般的な就労が難しいほどの戦傷、例えば全盲、四肢の欠損などの障害を負い、一般就労が難しく生計を立てるのが困難な兵の救済のために公に設けられた施設だ。

国のために命をかけ、そのために傷ついた方々を国が遇する施設だが、あまり一般には知られていないらしい。

刀や矢弾の戦争から砲・爆弾による派手な火力をぶつけ合う戦争になってから、加速度的にそういった傷痍軍人が増えたと聞いている。ある意味、歩兵にとっては下手な魔法よりも砲撃の方が怖いのだ。

悲しいことだが、落命するほどの傷であっても死なせずに済ませてしまう医療の力も、そういった方々を生み出す原因ともなっていることも確かだろう。

そんな傷ついた者たちとは別に、肉体的には負傷していない者も院に送り込まれることがある。

戦場で心を病み、立ち上がれなくなったものは『臆病者』の烙印を押されて世間から隔絶されるのだが、その収容先が廃兵院なのだ。

彼らが院に隔離される理由は簡単。士気に関わるからだ。

都合の悪い者は世間から切り離し、その目から隠す。それが、廃兵院のもう一つの顔だ。

あまりにも無理解なこの世界のあり方ではあるが、腹を立てても仕方がない。

心の傷は目に見えないものなのだから。

 

診察を繰り返すたび、私は必要以上に彼らに感情移入している自分がいることに気付く。

障害を抱え、苦しむ患者が他人とは思えないのだ。

現代において心理的治療を受けるのは、男性より女性の方が多いと聞いたことがある。

その心の傷の原因の多くが、性的暴行によるものだ。

とても受け止めることなどできない程の心の傷を受けた女性たちのそれは、感覚で言うと、自分を支える柱を根こそぎ折られてしまうようなものなのだ。

苦痛とか衝撃といった陳腐な言葉では言い表せないくらいの黒い記憶。生涯消えない、心の根幹に刻まれる悪意の爪痕だ。

そこにあるのは恐怖と無力感、そして絶望。

戦争神経症と性的暴行による心的外傷後ストレス障害は、基本的に同質のものなのだ。

昨年、私が抱える障害の原因である男は我が忠臣の手によってこの世から消えたが、頻度こそ減ったものの、今でも私はあの男の悪夢に魘される。不可逆な、消すことができない心の傷だ。

そのことと、苦しむ患者の心の奥が重なって見えるのだ。

それだけに、頼ってきてくれた患者たちに満足な治療を施せず、ただ患者の独白を聞き、彼らを肯定する言葉をかける事しかできない状況には、ただただ無力感を感じるばかりだ。

話を聞いてもらえるだけでも救われると言ってくれる患者も多いが、許されるものならば、患者たちに対してテファの『忘却』が使えればとすら思う。

医者の看板が泣き出しそうなカルテを幾つも重ねていく日々を、私は送っていた。

 

 

 

 

そんなある日の、午前中の診察の後半のことだった。

 

「次の人~」

 

受付のテファに声をかけると、一人の壮年の患者が入って来た。

マントをまとった姿はメイジ。服装からすると、空軍の軍人らしい。

妙に威厳のある、怖い感じの人だった。

メイジがここに来る時は多くの場合は訳ありだ。いささか私も身構えたのだが、貴族で、しかも軍人でありながら、待合室で順番を守っていてくれるとは律義な人だとも思う。空軍は貴族と平民の区分をしないと原作にあったが、この人もその辺の偏見があまりないのかも知れない。

最近は待合室のじいさんばあさんも心得たもので、以前のように貴族が来たからと言って逃げ出したりしないようになった。人というのは慣れていく生き物だとつくづく思う。

 

「あ~…来るところをお間違えではありませんか、ミスタ? ここは平民相手の診療所ですが?」

 

「いや、ここでいいと思うの…だが…」

 

目を丸くしているあたり、考えている事は大体判る。

 

「君が治療師の『慈愛』のヴィクトリアかね?」

 

「そんな御大層な二つ名は知りませんが、ヴィクトリアなら私ですよ」

 

私の言葉に、予想通りに男性は驚いた顔をした。一見さんが驚くのにはいい加減慣れているし、諦めてもいる。

私だって、例えば雛見沢の入江診療所を訪ねて行ったら、メガネの先生ではなく古手梨花ちゃまあたりが『ボクが医者なのです、みぃ』と出てくればギョッとするだろうし。

まあ、今まで幾度も繰り返してきた通過儀礼だ。ちゃんとした診察をすれば黙ってくれることだろう。

 

それはさておき、第一印象で言えば、その患者はぼろぼろだった。

マントの下に左腕の気配がなく、左足はひざ下から木製の義足になっていた。まだ慣れていないらしく、足の運びがたどたどしい。口ひげを生やした顔にも、酷い火傷の痕がある。

いずれも、まだ新しいものと見える。

そんな患者さんに椅子を勧めて問診を始めた。

まっさらのカルテを手に名前を問うと、男性はフェヴィスと名乗った。

記憶にない名前だが、空軍の戦列艦の艦長をやっていたとのこと。

そんな高級士官が、何故軍医のところに行かずにこんな場末の診療院に来るのやら、とも思うが、経歴はどうあれ診療院の扉を叩く者に貴賤はない。因縁を付けに来たわけでもなければ、どんな人でも私の患者だ。

 

「今日はどうされましたね?」

 

「ああ。傷の具合を診て欲しくてね」

 

肘から下がない腕を差し出し、無表情に言う。

診ると、治療自体はきちんと行われているようで、内部の組織も適切な処置が施されており、傷の処理も綺麗だった。

 

「…戦傷ですか?」

 

「ああ。先日戦いでフネが沈んだ際に、足と一緒にアルビオンの連中に進呈してしまったのだが、夜になると何故か失くしたはずの指先が痛むんだよ」

 

そう言って、残る右手で左腕の先を指さす。

幻肢痛だろうか。

 

「軍医の方の所見は?」

 

「そのうち慣れると言って薬ももらったのだが、なかなか痛みが治まらなくてね」

 

痛み止めが処方されたのだろうと思うが、幻肢痛に鎮痛剤は効かない。そのうち慣れる、と言うのも軍医さんらしい意見ではある。ちなみに私は、森鴎外と脚気の話を知って以来、軍医と言う人種にちょっとだけ偏見がある。

閑話休題。

幻肢痛は、四肢の欠損により神経の伝達に問題が生じるために起こるものと言われているが、実は明確な原因は判っていない。そのため、状態について説明をしたのだが、もともと原因がよく解っていないだけに判り易く解説するのには少々骨が折れた。

とりあえず、知っている治療法を施すべく私はフェヴィス氏を処置室に案内した。

両腕を向かい合う形で机の上に置いてもらい、鏡を持って来て右手を映す位置に鏡を置き、左腕を鏡の裏に回すようにポジションを取ってもらう。

鏡に映る右手が鏡像として左手の形を取ることを利用し、鏡の裏の左腕の先に失った左手があるような配置になっていればいい。

そのまま当人には両手で同じことをしているような意識で右手の指を曲げ伸ばししてもらう。これは、脳神経のマップの修正が必要な疾病、例えば脳卒中などの場合に効果があるとされるリハビリ法だ。四肢の欠損の場合にも神経伝達の修正に効果があると言われている。

そのままにぎにぎと指を動かしてもらい、視線の置き方などに指導をしていく。

リハビリなので、自宅でもできるようになってもらわなければならない。

これでダメなら、この先は機能脳神経外科の世界だ。私ごときではどうにもできない分野に踏み込むことになる。

 

「このような感じで、できるだけ気持ちを落ち着けて、鏡の中の手を本当の自分の手だと思って行って下さいな。やがて体が慣れてくると思います。慣れないうちは1日10分、慣れてきたら徐々に時間を伸ばしていって下さい。あと、痛みが出たら『これは痛くない。気のせいなんだ』と自分に言い聞かせて下さい」

 

「自己暗示と言うことかね?」

 

「そのようなものと考えて下さい」

 

はったりの域を出ない指導だが、ファントムペインに対して打てる手はこれくらいしか知らない。

 

「判った。やってみよう」

 

フェヴィス氏は頷き、開閉を繰り返す鏡の中の左手を見ながら笑った。

 

「それにしても、戦いで満足に働けなかっただけでなく、生き恥を晒しながら、こうしてなおも世間に迷惑をかけるというのは我ながら情けないものだね」

 

「何を言いますやら。命懸けで国を守ったが故の負傷ではないですか」

 

私の言葉に、フェヴィス氏は自嘲するように言う。

 

「名誉の負傷と言いたいところだが、我らの不覚が多くの将兵の血を流す発端となっただけに、とても胸を張る気にはなれんさ。旗艦であった我が艦が今少し頑張っていれば状況も多少はマシであっただろうと悔やむばかりだ」

 

言葉に困った。

旗艦ということは『メルカトール』。ラメーとかいう提督は覚えていたが、その隣にいたのがこの人だったか。

その悲運の艦隊旗艦は、最後には火災を起こして爆沈していたと記憶している。

よく命があったものだ。

先の戦いにおいて、アンリエッタの武名は止まるところを知らないが、それに反してトリステイン艦隊に対する国民の評価は非常に厳しいものだ。

酒場に行けば、空軍艦隊については、油断をして足元をすくわれた愚かな提督に、ろくに抵抗もできずに白旗を上げた弱兵たち等と、聞いていて耳を塞ぎたくなるような話が飛び交っている。どれもこれも、後知恵に過ぎない罵声ばかりだった。何となく南雲中将を思い出した。

開戦の際、アルビオン艦隊の陰謀により、トリステイン艦隊は戦力に勝る敵艦隊から一方的な奇襲攻撃を受けたはずだ。勝てる要素が何一つない戦いを強いられ、それをなじられるというのでは体を張った人たちがあまりにも不憫だ。そもそも、あそこまで汚い手を使い、しかも性能も戦力も敵の方が上という無理ゲーだったのだ、こちらから騙し打ちを仕掛けようとでも思わない限りは、あの艦隊全滅は避けられない事態だったと私は思う。

 

「お言葉ですが、そのような物言いはおやめください。すべての局面で勝利できる戦いなど聞いたことがありません。少なくとも私は、貴方たち軍人に心から感謝しています」

 

「いいのだよ。事実なのだから」

 

そう言ってフェヴィス氏は笑うが、その笑顔はどこか悲しそうだった。

命をかけて戦いながらも、もらえたのが嘲笑だけというのは、軍人にとってはこの上なく悲しいものなのだろう。

 

 

 

 

「他は特に問題はないようです」

 

腕以外の部位も一通り診察し、状態を確認した。担当した軍医さんの腕もなかなかのものだと思う。別にここに来なくても良かったのではないかという考えが脳裏をよぎるくらいだ。

 

「今後は、軍の治療師の指示に従ってリハビリを行ってください。義肢についてはまだ慣れぬことかと思いますが、焦らずに時間をかけて馴染ませるとよいでしょう」

 

「ありがとう」

 

「では、お大事に」

 

診察の終わりを告げるが、立ち上がるかと思ったフェヴィス氏は、一息ついてから口を開いた。

 

「すまないが」

 

「はい?」

 

「実は診察の他に、君に一つ訊きたいこともあってね」

 

予想もしなかった単語に、私は呆気にとられた。

 

「何でしょう?」

 

「私の兵だった者たちが、君の診察を受けたと聞いているのだが、そのことについて教えて欲しい」

 

いきなりな質問に少々面食らった。確かに平民の水兵がここしばらくで幾人か診療所を訪れてはいるが、一応ヒポクラテスの誓いの中には守秘義務というものがあるので、私としてもうっかりした事は言えない。

そんな私に、フェヴィス氏は言う。

 

「知ってのとおり、空軍の評判は今が底だ。兵に対する国民の風当たりも厳しい。そんな事もあって、余計に先の戦いで心をやられた者たちへの上層部の対応も厳しいものでね。軍医を頼ることもままならないので、王都出身の者の勧めでこの診療所を頼ったと聞いている。とても変わった指導を受けたと言っていたよ」

 

「大したことができずに申し訳ありません」

 

「いや。皆、君に感謝していた。普通なら『何を軟弱なことを』と叱咤を受けるような事なのに、親身になって話を聞いてもらえて嬉しかったと言っていたよ。恐怖することは人として自然なことだと言われた者もいれば、戦場では『臆病なくらいがちょうどいい』と言われたと笑っていた者もいる。君のおかげで気が楽になったためなのか、あの戦いの後で暗がりを恐れて乗艦しただけで震えていたのに、今は何とか折り合いを付けられている者もいるそうだ」

 

いきなり語られた賛辞に、私は顔を赤くして嫌な汗を流した。

身に覚えのないお褒めの言葉を素直に受けるほど、厚かましくはないつもりだ。

話が歪み始めた気配を感じ、私はフェヴィス氏の話を否定した。

 

「いえ、それは違います。彼らは自力で立ち直ったのです。私はただ話を聞いただけですし、治療らしい治療もできていないのです」

 

話を聞くことしかできなかった私の対応だったが、それがどこかの誰かには多少は役立ってくれているというのは嬉しいことだ。

だが、それは恐らく一握りの者だけだろう。

急性のストレス障害ならば、1か月ほどでほぼ回復は見込める。タルブの戦いから2週間、私の診察など受けなくても自力で回復し始める者がいてもおかしくはないと思う。フェヴィス氏が言うのも、恐らくたまたま私の診察と自力の回復が重なっただけだろう。

問題なのは、回復できずに慢性化した患者であり、それらの回復にどれほどの時間が必要かは見当もつかないのだ。

慢性化した障害は、この世界ではもはや呪いと同義だ。心の麻痺によってバランスを失った精神は重度の精神障害に発展する可能性がある。付け焼刃のお話療法が通用しない、本当の意味で重篤な患者だ。

それは時には廃人にまでなり得る障害だということは、できれば軍の上層部にも認識として持ってもらいたい。

これは、個人の力では抗いようがない病なのだと。

その点について、可能な限り丁寧に説明したのが、フェヴィス氏の顔は渋かった。

うまく伝わっていればいいのだが。

 

「とにかく、一方的に責め立てて奮起を促すことは逆効果です。その状態では当然ながら兵としても役に立ちませんし、下手をすれば、辛さから逃れるために、率先して敵の杖の前に立とうとすらするでしょう。軍としても、そういう兵の処遇について見直すことは有意義だと思うのですが」

 

話を黙って聞いていたフェヴィス氏は難しい顔で長く考え込み、ややあって口を開いた。

 

「…言いにくいことだが」

 

まるで、苦いものを吐きだす様な重い口調でフェヴィス氏は言った。

 

「…実は、私も…そうなのかも知れんのだ」

 

「何ですって?」

 

予想外の言葉に、私は一瞬意味を把握しかねた。

その言葉が呼び水になったのか、フェヴィス氏は訥々と語り出した。

 

「目を閉じると思い出すのだ。あの時の、船が沈む時の兵たちが苦しみ、助けを求めている阿鼻叫喚の光景が頭から離れないのだよ。私も破片を受けて腕と足を失っていた。その挙句に、苦しむ兵たちを助けられず、自分だけ生き残ってしまったことが辛くてたまらぬのだ。何より、ただ、死にたくなかった。あの時考えていたことは、それだけだったのだ」

 

そう語るフェヴィス氏の右手が震えているのを見て彼がここに来た本当の目的に気が付き、私は己の浅慮に愕然となった。

ああ、私は馬鹿だ。

一見、落ち着いているように見えるこの人物を、私は兵を気遣う徳に溢れる上官だと認識していた。

迷宮に陥ってしまった兵を救う術を求めにこの場に足を運んだものと、勝手に思い込んでいた。

しかし、今、私の前でその身を震わせているフェヴィス氏もまた、ここに僅かな望みを託して救いを求めに来た患者であることにようやく気付いたのだ。

病を抱える者に、その症状について懇切丁寧に語ってしまうとは、我ながら度し難い。

そんな私の心中を他所に、フェヴィス氏の口から彼が抱える恐怖が連綿と紡がれる。

実戦経験を有する彼ですら、あの戦いは恐怖を覚えるに充分なものだったようだ。

それは、『死ぬかも知れない』という恐怖。

彼の心の深奥に打ち込まれた、抜けることのない楔だった。

恐怖を感じるのに老若男女の区分はない。社会的地位も立場も関係はない。長年の経験ですら吹き飛ぶような恐怖が戦場にはあることを、私は知った。

今のフェヴィス氏は、軍人でも艦長でもない、心に傷を負った一人の患者だったのだ。

自分の人を見る目の無さに腹が立ったが、首をもたげ始めたそんな思いをねじ伏せながら、頭を切り替えた。

自分の事は後で考えよう。

まず、目の前にいる患者の話を聞くことが私の仕事だ。

ここは診療院。来院した患者を癒す施設なのだ。

涙ながらに自らの内なる恐怖を語るフェヴィス氏の話を聞き、その精神の安定に脳のリソースを割り振った。

 

1時間ほど語り続けて、ようやくフェヴィス氏は落ち着きを取り戻した。

自嘲するように笑い、私に対して頭を下げた。

 

「すまない。女々しいとは思うが、どうにも一人で抱えるには重すぎてね」

 

「何の。これも診察の一環とお考え下さい。何より、そういう体験は女々しいと言う言葉が当てはまるものではありません。お立場もありますでしょうし、さぞ我慢されてきたのでしょう」

 

「上に立つ者として、感情を押さえつけねばならなかったのだが、どうしても抱えきれなくなってしまったのだ」

 

「そのような抑制は、ここでは要りませんよ」

 

私の言葉に、フェヴィス氏は笑った。

 

「なるほど、話を聞いてもらえるだけでも楽になると言うのは本当のようだね」

 

その表情は先ほどまでに比べると、幾分穏やかなものになっている。

 

「私でよければ幾らでも伺います。辛くなる前に来院して下さい」

 

「すまないが、そうさせてもらうかも知れん」

 

「とりあえず、まずは怖がる自分を許してあげて下さい。あと、死ぬかも知れない思いをされたことは事実ですが、助かったことも事実です。今、貴方はここで生きているのです。そして、既に戦闘は終わっているのです。またフラッシュバックが起こるようでしたら、そう自分に言い聞かせて下さい」

 

「それも自己暗示かね?」

 

「そのようなものです」

 

 

 

 

 

夜、夕食後に診察室でカルテの整理をしている時だった。

ドアがノックされ、どうぞと答えると茶道具を持ったディーが入って来た。

 

「茶を立てましたのでお持ち致しました」

 

「ああ、ありがとう」

 

やや疲れ気味の目の縁をもみながら礼を言う。太陽のツボと言うのを刺激すると疲れ目にいいと聞いたが、本当に効くのかなあ、等と考えながら優雅な手つきで茶を注ぐディーの手元を見つめる。美男は何をやっても絵になるものだと思う。

お茶を淹れるサーヴァントとしてはアーチャー君が定番だろうが、男ぶりならディルムッドのほうが上だ。

 

「お悩みのようですね、主」

 

彼の言葉に、益体もないことを考えていた私は我に返った。

 

「うん。ちょっと診察の事でいろいろあってね」

 

フェヴィス氏への対応の失敗に対する自己嫌悪について、自分の中の折り合いを付けるのはいささか骨が折れた。

 

「傷痍軍人の相談ごととお見受けしますが」

 

あまり私の仕事には口を挟まないディルムッドが、思いのほか大きく踏み込んできた。

 

「当たり。ろくに知識もない藪医者には、荷が重くてね。己の未熟を思い知らされているんだよ」

 

いつもなら彼の前では格好をつけたいところだが、今夜だけはちょっとだけ愚痴をこぼした。

 

「主、さしでがましい事とは思いますが、私も戦士の端くれ、その種の話については少しはお力になれるものと存じます」

 

言われて初めて気が付いた。

考えてみれば、この男も元は騎士団員。確か、フィアナ騎士団と言うのはどちらかと言えば傭兵組織に近いものだったように記憶している。イメージ的に『鷹の団』みたいに私は捉えているのだが、そういう組織に身を置いていたからには、修羅場におかれて心が追いつかなかった者を見る機会もあったのだろうか。

 

「…そうだね。いよいよとなったら相談させてもらおうかな」

 

頭を掻きながら答える私を見て、ディルムッドが笑う。

 

「是非に。槍働き以外にも、私の使い道があることはお忘れなきよう。何より、主とて全知全能ではありますまい。数多いる患者の中には、対処できぬ者もいることでしょう。一人で抱え込んでしまわれては、主自身が潰れてしまうのではないかと懸念いたします」

 

確かに、その辺りをドライに切り替えられたらと思うことはある。これは専門外だから何ともならないと言うのが本当の意味で患者のためなのかも知れない。

しかし、持って生れた性分というのは厄介なもので、何だかんだで何とかならないものかと思ってしまうのは私の悪い癖だと思う。

 

「とにかく、もっと私の事も頼ってください。これでもこの身は御身の使い魔。主が苦悩されているとあらば、少しでもお役に立ちたいものです。私で足りなければ店長もテファさんもおられます。どうか、一人で抱え込まれますな」

 

そう言ってディルムッドは笑う。

我が使い魔らしいストレートな励ましではあるのだが、剥き出しの優しさと言うのは、やはりちょっとくすぐったい。

照れ臭いので会話を断ち切るように空いたカップをディルムッドに差し出した。

そのカップにおかわりを注ぎながら、ディルムッドは思い出したように言った。

 

「そうそう、今日、工房にアニエス殿が来ましたよ」

 

「アニエスが!?」

 

歴史を知ってはいるが、それでもやはりアニエスのことは心配だった。

無事に戻ってきてくれるなら、武勲など二の次でいいとすら私は思う。

彼女もまた、今となっては大事な友人の一人だ。

 

「はい。先の戦いに従軍したものの、怪我もなく、元気な様子でした」

 

「そうか、無事だったか。よかった…よかったよ」

 

マチルダとアニエスは元より、何気に工房組の3人は仲がいい。皆、大人組と言った感じで落ち着いているし。揃って落ち着いたバーでグラスを手にしていると似合いそうな連中だ。

私だって大して歳が変わらないのに、そこに混ざると不協和音になるのはいささか面白くないが。

まあ、いいさ。三人より私の方が若いんだと言うことにしておこう。

 

「でも、どうせなら家にも顔くらい出してくれればいいのに」

 

「今日は公用でたまたまブルドンネ街に寄ったようで、明日にでも主のところに帰還の挨拶に来たいと言っておりました」

 

「それはいいね。お祝いの用意をしておこう」

 

戦争というものは、砲火の応酬が止まった時点が終わりではない。

携わった人の、すべての人の心に平穏が訪れるまでは、その地獄の残り香が消えることはない事を、私はこの世界に来て初めて知った。

それに気付いた時、前世の学校教育で何となく聞き流していたお年寄りの戦争体験が思い起こされた。

正直、当時の私にとってはそれは他人事で、遠い時代で誰かが悲惨な目に遭ったというのが私の戦争というものに対する認識だった。

だが、今は判る。

あの人たちもまた、地獄を見てきたのだと。

きっと、あの人たちもそんな場所には行きたくなかっただろうし、誰かに助けて欲しかったことだろう。

そう考えると、今まで遠いどこかの他人としか思っていなかった先達の方々が、すごく身近に思えてくる。

 

悲しいことや辛いことが多すぎる世の中で、そのネガティブなエンジンをフル回転させたイベントが戦争と言うものなのだろう。

ちっぽけな人の身の私では、抗いようがない嵐のようないイベントだ。

だからこそ、その地獄を知る中で私が得られた物を、自分の中に積み重ねていこうと私は思う。

死んでいった者を嘆くだけではなく、傷ついた者を悲しむだけでもなく、それら以上に、死があふれる場所から帰って来てくれた友の無事を喜ぼう。

やがて、さらに大きな戦いが起こるだろう。

何人も止めようがない大きな潮流は、さらなる犠牲を求めて流れ続けている。

それを知る身として、己の身の丈を振り返り、できるだけのことはやっておきたいと痛切に思う。

その地獄の中で私ができることは何なのか。

それを考えることが、当面の私の最大の課題なのだろう。

 

そんなことを考えながら、ディルムッドの淹れてくれた茶に口を付けた。

ハーブの香りが、穏やかに、胸一杯に広がった。

 


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