トリスタニア診療院繁盛記   作:FTR

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その32

<インターミッション>

 

 

 

「ふ~ん、なるほどね」

 

帳面にあれこれ書き込みをしながら、ルイズは頷いた。

そんなルイズ相手に、診察室の黒板の前に立つ私。

最近すっかり定番になってしまった、夕食前の風景だ。

 

「さすがに理解が早いね。そんな訳で、止血は何より重要なんだよ。体重の概ね13分の1が循環血液量、その3分の1から半分を失えば死に至るとされている。成人男子で大体これくらいさね」

 

説明しながら、手にしたビーカーを2つ示す。合わせて2リットルくらいだ。

 

「もちろん、傷の位置によっても条件は変わってくるよ。血管は太い物から細い物に枝分かれして行くものだから、その元になる太い血管がやられて重要な器官に血液が流れなくなると、末端の組織が壊死して命取りになることもあるのさ」

 

「重要な器官?」

 

「代表的なところだと、ここだね」

 

私は傍らの人体模型の脳を指した。

 

「さっきも言った通り、血液は酸素や栄養を全身に運ぶ命のスープだ。その酸素を人の体で一番消費する器官は脳味噌なんだよ。頸動脈の血流が止まると、よほど規格外な人じゃない限りは10秒かそこらで意識が落ちる。その状態が5分も続くと脳に障害が残るし、最悪の場合は死に至ることになるんだよ。体の外に出血するだけじゃなくて、体の中への出血も同じように死に繋がることがあるよ。例えば、先日の患者もそうだったけど、腸に流れる血流が止まると腸の組織が死んでしまう。腸は何をする器官だっけ?」

 

「栄養と水を吸収する器官」

 

「正解。その器官がごそっと死んでしまったらどうなるだろうね?」

 

「まあ、生きてはいられないわね」

 

「そう。そんな訳で事故があった場合、外部への出血の割に患者の顔色が悪かったり頻脈を確認した場合は内部出血を疑う。よくあるのが腹腔、すなわち内臓が入っているここの部分に血が溜まること。一口に腹腔内出血と言っても、肝臓や脾臓や腎臓やその他の血管、どこから血が出ているか見た目では判らない。治療ではその出血箇所の特定が急務だね。あと、もっと危ないのが心臓だ。心タンポナーデといって、心臓と心外膜の隙間に出血があると心臓の動きが阻害されて、すぐに抜かないと死んでしまうこともある」

 

模型の腹部や心臓を指す。その度にルイズが妙な顔をしている。

 

「そんな訳で、呼吸と出血は真っ先に確認と対応をしないといけないんだよ」

 

「ふ~ん…」

 

ルイズは唸りながら一生懸命書き込みを続けている。

 

治療のことに興味を示すルイズの質問の波状攻撃が日々激化し、半ばなし崩し的に夕飯前の講義が定例化して数日経つ。

最初は『生兵法大怪我の元』ということもあるので適当にあしらおうかとも思ったのだが、いかんせん頭のいい子なので鋭い質問が多くて逃げようにも逃げられず、こちらも半ば本腰を入れて講義をしなければならなくなったのだ。

トリステインの教育制度については恐らく幼少期は家庭教師、長じて魔法学院と言う感じだと聞いているが、そんな中で生物学や保健体育の講義がどの程度行われるのかは判らない。ルイズの話を聞いている範囲では、日本の中学校くらいの知識は充分にあるようだが、どちらかと言えばルイズは実学の方に興味を示しているようなので、取りあえず私がレクチャーできる範囲で初歩的な医療の概念について解説している。

 

「それじゃ、次は肝臓のことについて説明しておこうかね」

 

ポコッと模型から胆嚢付の肝臓を外すと、それを見たルイズが唸る。

 

「その『定吉くん』っていうの、本当に模型よね?」

 

「そうだよ?」

 

「…何だか、模型にしては生々しすぎない、それ?」

 

「良く出来ているだろう?」

 

『定吉くん』は、私の監修の下、リアル指向を突き詰めてマチルダを泣かせながら作ってもらった実物大の人体解剖模型だ。

100を超える内臓・器官のパーツはすべて取り外し可能と言う大阪科学も顔負けの優れものなのだが、表面の質感など、実物と見まごうばかりの完成度の高さに気を良くして診察室に置いていたところ、それを見た患者が悲鳴を上げたり子供が泣き出してしまうなどの騒動が続いたので、いつもは全身骨格模型の『ブルックくん』と一緒に処置室の奥で布を被っている。

ちなみに『マチルダを泣かせながら』というのは比喩ではなく、製作中に本当にべそをかいていた。完成間近なそれらが工房に並んでいた間は、必ず日が暮れる前に逃げるように帰宅して来たものだった。

あまりにマチルダのリアクションが可愛いので、夜中に『定吉くん』をトイレの中に置いておこうかと思ったこともあるのだが、やったらその日が私の命日になりそうな気がしたのでやめた。

私としては、自分の体内にあるものなのに何がそんなに嫌なのか理解に苦しむところではある。テファもこの手の物は平気だし。

そんな訳で、引き続きミドルクラスの模型として頭部模型『誠くん』や脳髄模型『純夏ちゃん』等も順次発注の予定なのだが、今のところ納品の見通しは立っていない。

 

「見ててあまり気持ちがいい物じゃないんだけど」

 

嫌がる割には視線がちらちらと一部に向いていることは判っているよ、ルイズ。

ちなみに『定吉君』は男性モデルだ。

 

「そうかい? 標本に比べればだいぶマイルドだよ?」

 

「標本…って、内臓の?」

 

「そう、標本。実物が薬品に漬かった奴。知らないかい?」

 

「知らないわよ。そんなものあるの、ここ?」

 

「見たいかい?」

 

「み、見たくないわよ!」

 

割と必死なルイズが可愛い。さすがに標本はないけど。

そんな会話をしている時だった。

 

「た、ただいま~」

 

玄関から息も絶え絶えでと言った感じの才人の声が聞こえてくる。

診察室からドアを開けて首を出すと、襤褸雑巾になった才人が玄関に倒れていた。

 

「お帰り。思ったより遅かったね」

 

「きょ、今日から、5キロ、延びたん、だよ」

 

延びたというのはディルムッド主導の走り込みのことだ。ここしばらく、この師弟は仕事帰りに大きく遠回りして帰ってくるのを日課にしている。5キロメイルプラスと言うことは、およそ15キロか。

 

「おやおや、それは御苦労さん。鼻から吸って口から出す深呼吸を大きくゆっくり3回おし。呼吸が落ち着くから。肺の空気を全部出すくらい深くするんだよ」

 

「情けないわね。しゃんとしなさいよ」

 

深呼吸している才人に私の隣でルイズが厳しく言うが、15キロは結構効くと思うよ?

 

「で、お前さんのお師匠さんは?」

 

「外でストレッチやってる。とりあえず、水…」

 

「キッチンにお行き。夕飯食べられるのかい?」

 

「…今すぐはきついかも」

 

「せっかくのテファのご飯を残したら承知しないよ」

 

「無茶言うなって。師匠なんかは適度な食前の運動だって言ってるんだけど、さすがにこれは…」

 

「あはは。ならば、お前さんも早くあの域に上り詰めるんだね」

 

そんな会話をしていると、キッチンからテファのパタパタと出てくる。

 

「あ、お帰りなさいサイト。皆も、そろそろご飯出来るよ」

 

嬉しそうに微笑むティファニア。髪をバンドで留めた、エプロン姿のテファの姿は冗談抜きで可愛い。いつ見ても防御不能の破壊力。本気でそのまま標本にして飾っておきたいくらいだ。

キッチンに戻るテファの愛らしい姿をポヤ~っと蕩けながら見送る私と、その隣で『どこ見てるのよ、あんたは!』とルイズに殴り倒されてスカートも顧みぬストンピングを浴びている才人。まあ、エプロンというものはふくよかな人がつけると胸が目立つから気持ちは判らないでもない。本来なら私が折檻したいところだが、ルイズのそれの方が苛烈なので追い討ちは勘弁しておいてあげよう。

 

 

 

 

 

来客があったのは、夕食が終わったころだった。

 

「夜分にごめんなさい」

 

呼び鈴が鳴り、玄関口から艶っぽい声が聞こえた。どこかで聞いたような声だ。応対に出ようとしたテファを制して私が席を立った。

 

「急患かね?」

 

パタパタと出てみると、キュルケがタバサやギーシュを従えて立っていた。後ろに見え隠れする金のドリルロールはモンモンか。はじめましてだね。ルイズたちにも劣らぬ綺麗な子だこと。妙に興味深げにあちこちを見ているあたりは水のメイジらしい。

 

「おや、ツェルプストーの。どうしたね、こんな時間に」

 

彼女を知る者なら、場末の診療所を訪れれば避妊に失敗でもしたのかとも思うだろうが、私の勘ではキュルケはまだ未経験だ。火遊びを楽しんでいるようで、最後の最後の根っこの部分で意外と純な子だと私は思っている。

 

「ティファニアはいるかしら?」

 

「テファ? いるけど?」

 

「ちょっとささやかながら宴を張ろうと思って王都まで来たから、よければあの子も一緒にどうかと思って」

 

なるほど。宝探し組の誼かね。テファに夜遊びの誘いと言うのも珍しいね。

 

 

出発までには、ちょっとごたついた。

ルイズが出てきて『何しに来たのよ!』の言葉にキュルケの『あんたを誘いに来たんじゃないわよ』の返しから始まり、まあ女二人でも充分に姦しい悶着を玄関先で繰り広げた。

余計なお世話とも思ったが、ルイズとキュルケは喧嘩するほど仲がいいを地で行く二人だ。きっかけを与えてあげた方が話が早い。

いい加減喧しいので割って入り、テファの保護者と言う名目でルイズを丸め込んで才人を付けて追い出す。若い連中同士で楽しんでくるがいいさ。

仄かに笑うキュルケは私の腹の内を判ってくれているようだ。なかなかに懐が広い。将来はきっといい御領主になることだろう。

 

 

「じゃあ、ちょっと行ってきます」

 

外出着に着替えて楽しそうなテファの顔に、こっちの顔も綻んでくる。

ご飯食べたばかりだけど、付き合い酒だしね。

そんなテファの手にお小遣いをねじ込み、『え~、悪いよ~』と遠慮するテファを『たまにはお姉ちゃんらしいことをさせとくれ』と宥めながら一釘刺す。

 

「変なおじさんに着いていったりしちゃダメだよ。あと、近いからいいけど、できれば午前様になる前に帰ってくること。いいね」

 

「は~い。行ってきます」

 

玄関のドアが閉まる。

同時に、私は背後に向かって声をかけた。

 

「ディルムッド」

 

「これに」

 

打てば響くのタイミングで、影のように背後に控える我が忠臣。

 

「頼まれてくれるかい?」

 

「喜んで」

 

「楽しい宴だ、くれぐれも気取られないように。青い髪の娘は勘がいいから気を付けること。何かあった時の対処は任せる。行け」

 

「御意」

 

かき消すようにディルムッドは消えた。

テファももう立派な女性なだけに夜遊びの一つで大げさなことはしたくないが、心配なものは心配なのだ。第一、テファのような可愛い子を世の男どもが放っておくことを期待する方が無理な話だ。

悪い虫には殺虫剤。ディルムッドさえいればテファのガードは鉄壁だろう。

安心してテファの帰宅を待てると言うものだ。

 

 

居間に戻ると、マチルダがソファに座って気持ちよさげに宙を仰いでいた。

テーブルにはボトルと酒器。ちょっとご機嫌なマチルダ姉さんといった感じだ。

目で勧められたが、ちょっとだけ首を振って答える。臣下を扱き使いながら酒を食らうのはさすがに憚られた。代わりに茶を淹れる。

 

「出かけたのかい?」

 

「うん。楽しんでくるといいさね」

 

カップを手にマチルダの対面に腰を下ろす。そんな私にマチルダは面白そうに言った。

 

「しっかし、あんた本当にアレだね」

 

「アレ?」

 

「シスコン」

 

いきなり随分なことを言ってくれる。

 

「何でだい?」

 

首を傾げる私に、マチルダがにやにやと笑いかけてくる。

 

「夜遊びくらいであれだものねえ。ティファニアちゃん大好きオーラがだだ漏れだよ」

 

「そ、そうかい?」

 

「そこで顔を赤らめるんじゃないよ。そんなに妹が可愛いかい?」

 

こういうのを愚問と言う。

 

「そりゃもう、可愛うて可愛うて」

 

身悶えする私を見るマチルダの冷めた視線が痛い。次いで、私にジト目を向けたまま、とんでもない事をのたまう。

 

「…たまに心配になるけど…あんた、ノンケだよね?」

 

さすがに茶を吹きだしかけた。

 

「ちょっと、言うに事欠いてそれはないだろう」

 

「そうは言うけどさ、あんた、本当に男に興味なさそうじゃないか」

 

「お前さんの頭の中だと、男に興味がなければ同性愛指向なのかい…もし本当にそうだとして、お前さんに迫ったらどうする気だね?」

 

「どう、って……………………ぽ」

 

わざとらしくマチルダが自分の頬を抑える。

 

「おやめよ、気持ち悪い」

 

露骨に嫌がる私に、マチルダは膝を叩いて大笑いした。何だかもう、ずいぶんと酒が回っているのかね。陽気なお酒で結構なことだ。

 

「あー、おかしい。で、実際どうなのさ。坊やにずいぶん入れ込んでたみたいなのに、踏み込んでみたらそんな気なさそうだし」

 

「ああ、あれは端から売約済みだからダメだよ」

 

「そうなのかい?」

 

「見れば判るさね。あれはルイズオンリー、ルイズフォーエバーだよ。たま~に余所見するみたいだけど、基本的に一途っぽいからね」

 

「おやおや、よく見ている事」

 

盃を口に運びながらマチルダは笑う。

今日はだいぶ押し込まれている。こっちもそろそろ反撃せねば。

 

「そういうお前さんはどうなんだい。一歩外に出りゃ籠一杯なくらい、男には不自由してないだろうに」

 

「ん~、確かにそれなりにモテるけど、ちょっとピンと来るのがいなくてね」

 

人差し指を頬に当てて視線を彷徨わせるマチルダ。こういうことを素で言うあたり、結構こいつも嫌な奴だ。

 

「ハードル高そうだねえ。理想のタイプってのはいないのかい?」

 

「ああ、そういうのはジェシカにも訊かれるけど、特にないね。惚れたタイプが好みのタイプだよ」

 

「今のところ該当者なしってところかい?」

 

「街の男どもも悪い奴はいないんだけど、そういう目じゃ見られないね」

 

今の言葉をスピーカーで街に流したら、トリスタニアの酒蔵は男どものやけ酒のせいで空になることだろう。

そんなマチルダが、腕を組みながら唸る。

 

「そもそも、すぐ近場にいる奴がいけないよ」

 

「近場にいる奴?」

 

「あんたの使い魔だよ」

 

言われるまで気付けなかったのは、我ながら意外だった。

彼の因果を知っているだけにそういう目で見るまいとは思っていたけど、確かに心技体どれをとっても完璧。どこに出しても胸を張れる男だ。あれを基準に考えては、下手したらこの世界に眼鏡にかなう男はいなくなってしまうだろう。

 

「あはは、そりゃしょうがないよ。いい男だからねえ、あいつ」

 

「ああいうのが近くにいちゃ、目が肥えちまってしょうがないよ」

 

笑いながら杯を干すマチルダに、ちょっとただならぬ気配を感じる。

 

「何、何、もしかして?」

 

身を乗り出す私にマチルダがにやりと笑う。

 

「…だと言ったら?」

 

恐らくマチルダが本気で言っている訳ではない事は判る。でも、今後のためにも、ここは私の意向は伝えておくべきだろう。

 

「私は歓迎だよ。心から祝福する。主としては、お前さんなら文句はないよ」

 

美男美女の、嫌味なくらい似合いの組み合わせだ。性格的にも相性が悪いとは思えないし、状況的にも彼の中のタブーにも抵触するまい。少なくとも主である私は全面的に応援するカップリングだ。

 

「それはまた光栄だね。でも、私としてはまだあいつは従業員かつ同居人かな。男ってのとはまた違うかな。でも、何だかあいつ、使い魔って言う気もしないんだよね。英霊って言ったっけ。幽霊とは違うんだよね?」

 

マチルダの問いには、私も満足には答えられない。いかんせん、あの世界の知識はFateどまりの私だ。空の境界や月姫は熟読したことなかったし。

 

「う~ん、高位の精霊ってとこかな。霊は霊でも人間霊とは違うんだよ。人々の祈りによって編まれる存在。人の持つ破滅回避の祈りである抑止力『アラヤ』、だったかな。神様と霊魂の中間みたいなのが肉体を持っている、って感じに考えてればそんなにはずれじゃないと思う。詳しいことは私にもよく判んない」

 

「そんな大層なものをよく召喚できたもんだね」

 

それは私の感想でもあるんだよ、マチルダ君。

 

「私も、まさかあんなのが出て来てくれるとは思わなかったよ。あの時は、できればドラゴンとか幻獣みたいな強い生き物が出て来てくれればとしか思っていなかったんだ」

 

あの時、私はとにかく『力』を欲した。

だが、その力は義によって振るわれるものでなければならない。

正義の味方を気取るつもりはないが、お天道様に顔向けできない理由で人を殺めることはしたくなかったからだ。狂犬みたいな使い魔では困るのだ。

故に、正義や仁義や忠義、そういったもののために力を振るってくれる存在を私は欲した。

だからといって、サモン・サーヴァントの術式が『座』に繋がるとは思わなかったし、ディルムッドみたいなとんでもない霊格のものが出てくるとは思ってもいなかった。

今思えば、本当に召喚に応じてくれたのが彼で良かったと思う。

ドラゴンや幻獣あたりが出てきたら、あの時だけは良くてもその後の維持がまずできなかっただろう。一食ごとに豚を丸飲みするような燃費の悪い使い魔では、とてもではないが懐がもたない。

サーヴァントを想像してみても、ディルムッド以外はどいつもこいつもまず私では御せないような連中ばかりだ。かろうじて何とかやっていけるとしたらエミヤアーチャーと小次郎アサシンくらいか。消去法というのもあるが、やはり私の中の順位付けというのもあったのかも知れない。

私が望みうる最高レベルの戦力にして、私の考えを理解してくれる存在。それを考えた時、他の英霊たちでは令呪もなしにあの切羽詰まった状況で協力を得られたか自信がない。

確かに、すべてのサーヴァントの中で、ディルムッドの気高さは私のツボに嵌った。特に黄薔薇を折って見せるシーンは鳥肌が立つほどかっこ良かった。

たまに、思うこともある。

もし、私があのまま大公家で公女をやっていて、サモン・サーヴァントを行ったらどうなったか。

恐らく、ディルムッドは大公家の兵団長として腕を振るってくれたことだろう。彼の誉に見合うような規模の兵団とは思えないが、少なくとも工房の受付をしながら接客するよりは相応しい立場のような気がする。

そういう意味では、彼にはすごく申し訳ないことをしている自覚はある。

信頼だけは惜しみなく注いではいるが、肝心の名誉は用意できていない。

夜毎街を巡回して盗賊団のような連中がいたら一緒に叩き潰しているが、そんなチンピラ相手に振るうには彼の槍はもったいない。

本当に、不出来な主だ。

 

「考えてみれば、初めて会った時、あいつ私のこと後ろから刺そうとしてたんだよね。それが今じゃ助手だよ、助手」

 

何だか変な感じだよね~、とマチルダは笑う。

 

「あの時は驚かしちまってすまなかったね」

 

そこまで言ったとき、マチルダがふと思い出したように言った。

 

「そういえば、一度訊こうと思ってたんだけど」

 

「何だい?」

 

「あんた、あの時、どうしてテファの事を助けようと思ったんだい?」

 

いきなりな言葉に、私は一瞬手を止めた。

冗談めかして言っているようだが、マチルダの目は笑っていない。こういう機会を前から伺っていたのだろうか。下手な答えでは納得してくれそうもない、堅い雰囲気を感じる。

 

「…そりゃ、妹だからだよ」

 

「ん~、それじゃちょっと理由が弱いかな」

 

「弱い?」

 

「あんた、自分の体を張ってまでテファを助けたじゃないか。普通はあれくらいの事をするなら、それなりの関係がないとできないと思うんだよ。そこが判らない」

 

痛いところを突いてくる。

言われてみればの話ではある。テファも、腹違いの姉である私の事は知っていたようだが、実際には会ったこともなかった私たちだ。妹だからという理由だけで命がけで助けに行くと言うのも変に思われるだろう。

正確なところを言えば、原作の彼女やマチルダが不幸になるのが嫌だったから干渉したという転生者なりの独善的な理由だったのだが、それを違和感がないようにアレンジして伝えるのは難しい。沈黙するしかなかった。

 

「確かにテファはあんたの妹だし、今のあんたならば、それこそ世界を相手に喧嘩をふっかけてでもテファを守ると言うのも想像できるさ。けど、あの時はそこまでの繋がりがあった訳じゃないだろう? むしろ、あんたの立場だとテファのことを恨む方が自然だと思うんだよね」

 

「恨む?」

 

何でテファのことを恨まなくちゃいかんのだ?

 

「あんたの生活を壊したのって、考えてみればテファの母親にも一因があるじゃないか。普通なら恨むとこだよ。それなのに、あんたはテファにもその母親にも、この上なく優しいし、丁重だ」

 

「テファや御母堂とは面識はなかったよ。でも、恨みなんかないよ。恨むどころか感謝したいくらいさ」

 

「感謝?」

 

「あのころの私の待遇は、そりゃ酷いもんでね。あれは家じゃなくて、牢獄だったよ。何がお姫様なんだか。毎日が辛くてたまらなかったよ。だから、どういう形でも大公家から出られたことは私としては感謝はしても、恨みなんてこれっぽっちもないんだよ」

 

私の言葉を噛み締めるように聞きながら、マチルダは深く考え込んだ。

そして、少し間をおいて口を開く。

 

「じゃあ、何があんたを動かしたんだろうね?」

 

今夜のマチルダの追及は厳しい。二人きりになることは滅多にないだけに、千載一遇のチャンスとでも思っているのだろうか。

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、ソファの上に胡坐をかいて改まって訊いてきた。

 

「馬鹿な事を言っていると思ってくれてもいい。これから言うことに他意はないよ。私はあんたが好きだ。信じてもいる。生まれとかそんなものはさておいて、あんたもティファニアも私にとっちゃ可愛い妹だよ。そこを踏まえての問いかけだ。いいかい」

 

あまりにストレートな物言いに、私は頷くしかなかった。

 

「最初はね、あまりにも都合がよすぎるもんで、あんたのことをヴィクトリア公女を騙るどっかの国の工作員なのかとも思ったことがあるんだよ。テファは、下手したらアルビオンにとっては致命傷になりかねないファクターだからね。それに、ヴィクトリア公女が母方の実家に引き取られていったという話は私も聞いていたんだ。その公女が、遠くサウスゴータにいること自体が信じられなかったんだよ」

 

変も何も、あの時はとにかくハイランドからできるだけ遠くに逃げなきゃこっちが危なかったのだ。

年に3人は女中が不始末を咎められて『御手打ち』になることで有名だった侯爵家。屋敷の地下にある現役臭漂うピカピカの拷問具の数々を知っていただけに、私だって必死だったのだ。あれだけの事をしでかして、のほほんと侯爵の膝元なんかにいたらどんな目に遭わされていたか。

 

「そんなヴィクトリア殿下が、恐れ多くも顔も知らない妹のために王軍の兵と対峙するっていうのは、いくら義憤でもテファに入れ込みすぎな気がするんだよ」

 

「まあ、そう見られるかも知れないね」

 

「それでも私は、あんたの事は信用できるって思ったよ。腹に一物あるような奴なら、テファを助けるだけならともかく、危険を冒してまでテファの母君を丁重に送るような真似はしないだろうからね。それだけに判らないんだよ。ねえ、ヴィクトリア」

 

マチルダは息を吸い込み、そして言った。

 

「あんた、何者なんだい?」

 

偉く抽象的な質問に、私は答えに詰まった。

 

「何者、って?」

 

「あんた、ちょっと普通のお姫様じゃないよね。アルビオンから逃げ出す算段やこの街での生活基盤の手回しは、とてもじゃないけど公女様に出来る事じゃないよ。治療師としての技術もそうさ。考えれば考えるほど、あんたがやらかすことは普通のお姫様とはかけ離れたことばかりだと思うんだよ。あんたがよほどの妙な教育を受けたのか、さもなきゃ神の声が聞こえでもしない事には、私としては飲み込めない事が多いんだよ」

 

「そうかな?」

 

「責めているわけじゃないってことは判って欲しい。理由はともかく、あんたには、私もテファも本当に感謝しているんだよ。あの時、あんたの助けと采配がなかったら、今頃どうなっていたやら。テファは恐らく命はなかっただろうし、私だって行き場を無くしてひどい生活をしていたに違いないからね」

 

「おやめよ、水くさい」

 

感謝してくれている事は面映ゆいが、彼女らと一緒になって得られたものは、圧倒的に私の方が多いと思う。未だ、その事に対する感謝の言葉を口にできない自分が情けなくはある。

そんなマチルダの言葉を聞きながら、あの頃に味わった生活の記憶を反芻する。

 

侯爵の追っ手から逃れるべく荷馬車に潜りこんでひたすら南を目指して半月あまり、空腹と寒さに震えながらエジンバラやマンチェスターを経て、アルビオンを縦断する形でロンディニウムの下町に辿りついたのは今思えば我ながら大冒険だった。

顔を汚し、虫が湧きそうな粗末な服に着替え、考えうる手段を全て講じて平民に溶け込み、アルビオンにいる限り侯爵の追手がいつかかるか判らないだけに、王家に連なる公女がいるとは誰も夢にも思わないであろう思考の死角に身を置くことに腐心した。

下町に溶け込んだのはいいが、最初の生活基盤の構築で躓いた。ガキんちょな私には、働き口がなかった。つまり、食べる手段がなかったのだ。頼れる人はいないし、他国ならともかく、どこに侯爵の手下がいるか判らないアルビオンでは下手に魔法を使うと足がつくし、宝石だってアングラな手段で処分するのでもなければ自分の居場所を叫んで回るようなものだ。魔法を使って盗みを働くのは簡単だが、それは私の中の規範に触れる。夜、鳴りやまぬ腹を抱え、寒さに震えて物陰で蹲りながら、明日の糧を求めるための知恵を絞ったっけ。

そんな浮浪児生活はまさに弱肉強食の世界で、顔見知りの浮浪児にしても皆自分の事で精一杯であり、互いを助けるような殊勝な奴はいなかった。逆に、隙あらば誰かの財布や食べ物を掠め取るほど荒んだ連中ばかりだった。野犬の群れの方がまだ紳士的だったとすら思う。同病相哀れむような真似をしていたら、今頃私はどこかの女衒の手にかかっていただろう。誰かのその日のパンのためにだ。

あの頃の体験を思うと、原作のマチルダがどのような辛酸を舐めたのかが想像でき過ぎて胸が詰まる。オスマンにスカウトされるまでは酒場の女給をしていたマチルダが、太守の娘の立場からその職に辿りつくまでにどれほど苦労をしただろうか。目の前に優しい姉がそのような目に遭わなくて済んだだけでも、私は己の行動が間違っていなかったと思いたい。

 

 

「そんなに変かな、私」

 

「ああ、変わってるね」

 

マチルダはきっぱりと断言した。

 

「確信したのは先日の坊やの剣騒動さ。あんた、何であの剣に固執したんだい?」

 

確かに、あの時の私の挙動は不審の一言だったことだろう。

 

「あの時、坊やがあの剣の『使い手』というものだってことを、あんたは知っていた。一応はその道の専門家である私も気づかなかった坊やとあの剣をつなぐ線を、何で坊やとさして親しい訳でもなかったあんたが知っていたんだろうね」

 

名探偵マチルダの前に、私は発すべき言葉を見つけることができなかった。

油断は至る所にあったとは思うけど、それでも、これだけの推論を並べられてしまうとどうにも整合性の取れた説明を返すことは難しい。

だが、俯く私を責める訳でもなく、マチルダの声音はどこまでも優しい。

 

「もし、あんたが私たちに内緒で何かを抱えて何かを悩んでいるのなら、私はそれを看過できないよ。テファに内緒と言うのなら、今がいい機会さ」

 

そう言うと、マチルダは深い視線を私に向けてきた。いつか屋根の上で見せてくれた、慈母のような優しい視線だ。

 

「教えなよ、ヴィクトリア。私は、あんたのお姉ちゃんだよ。妹の持ってる荷物の一つも抱えてやるのが姉ってものじゃないか」

 

ああ、かなわない。

マチルダの言葉に、しみじみ、そう思う。

人として、家族として、そして姉としての器において、本当にこの人にはかなわない。

その優しさに甘え、ふと、全てを話してしまおうかという誘惑に駆られる。

全ての事象を俯瞰的な視点で見降ろす転生者であることを告げた時、マチルダはどう思うだろうか。

泥棒として、罪人として歩いていた可能性の世界のマチルダの話をしたら、笑い飛ばしてくれるだろうか。

そんな事を思いながら、尚も私は躊躇する。

全てを話してしまった時、絶対にマチルダもまた、テファの保身を第一に考えるだろう。

そこに彼女自身の保身が計算に入らない事は、原作を知っている私には判る。

私が知るマチルダはそういう人だ。

だが、テファとマチルダ、どちらが欠けても私の理想は成就しない。

一人ではなく、二人に、幸せを。

だから、私は答えた。

 

「もう…少し」

 

「ん?」

 

「もう、少しだけ、待ってくれないかな」

 

私は顔をあげた。

 

「必ず、全部話す。知っている事は本当に全部ね」

 

「今じゃダメなのかい?」

 

「できれば今は、訊かないで欲しい。もう一度訊かれたら、私は答えなくちゃいけない」

 

私の視線を受け止め、数秒、マチルダは考え込んだようだった。

やがて、ソファにもたれて宙を仰いだ。

 

「あ~あ、逃げられたか」

 

冗談めかして、それでも少しも悔しくなさそうで。

その様子に、私の中に申し訳ない気持ちが溢れる。

 

「…ごめんよ、頑固な妹で」

 

「はは、いいよ。あんたなりに考えがあるんだろう?」

 

「本当にごめん。でも、これだけは信じておくれ。私は、我が家の皆が好きだよ。皆が幸せであってくれることだけが私の望みなんだ」

 

「いいって。その代わり、その時が来たらきちんと話してくれるんだろう?」

 

「それは必ず。約束する」

 

「それじゃ、今夜は酌の一つで勘弁してあげるよ」

 

「…私の酌は高いよ?」

 

マチルダが笑って酒器を差し出して来て、私は黙ってボトルを手に取った。

 

 

 

 

 

 

「何だか外が騒がしいね」

 

酒に口を付けた時、マチルダが通りから聞こえる物音に眉を顰めた。

何だか通りが騒がしい。

 

「本当だね。はて、何かお祭りでもあったかね」

 

マチルダと並んで玄関から外を見ると、軍の兵隊たちがぞろぞろと隊伍を組んで行進していた。

 

「演習なんかあったっけ?」

 

「いや、記憶にないね」

 

まあ、戦争でも始まるならともかく、大ごとじゃなければ関係はない。

そんなことを考えていた時期が私にもありました。

 

居間に戻ると、タイミングを合わせたかのように乱暴な足取りで才人が飛び込んできた。

 

「何事だね?」

 

息を切らせて自室に向かおうとする才人を捕まえて問う。

 

「ちょ、ちょっとトラブってさ」

 

トラブル。

その言葉を聞くと同時に、マチルダと私は玄関に走った。

私たちの考えることは、テファのことだけだった。

 

 

『魅惑の妖精』亭に向かって飛ぶと、そこで行われていたのは1対数百のハンディキャップマッチ。

ディルムッドが押し寄せる兵隊たちを相手に大立ち回りを演じていた。

ハンディキャップマッチだが、ハンディをもらっているのはもちろん兵隊たちの方だ。

ディルムッドは『野良犬相手に表道具は用いぬ』と言わんばかりに槍を持っていない。しかし、無手とは言っても1個中隊程度では話にもならないだろう。

私的な基準では、こいつに素手ゴロを仕掛けるくらいなら、指輪を手にした冥王サウロンのお住いにカチコミをかける方がまだ気が楽なくらいだ。

知らぬとは言え、兵隊さんたちも命知らずなことだ。

 

『こら、何をやっているね?』

 

『これは主』

 

『何事だい? 弱い者いじめじゃないだろうね』

 

『は。テファさんに酌を強いようとした馬鹿者をキュルケ殿が懲らしめたのですが、その者が仕返しに1個中隊を引き連れて来たので誅を下しております』

 

『何~っ、テファに酌をさせようとしただぁ!?』

 

気安くテファに酌をさせようとするなどとは、そのような暴挙、神が許しても私が許さない。

ディルムッドと念話をしていた私にマチルダが訊いてくる。

 

「何だって?」

 

「あいつら、テファに酌をさせようとしたんだとさ」

 

「ほう…」

 

説明するや、マチルダお姉様がずいぶんと味な顔をしなさる。

全身から、神取忍が相手でも3秒でタップを奪いそうな濃霧のような黒い殺気を漂わせていた。

そんな人型の危険物を引っ張って妖精亭に向かうと、入口のところでテファがルイズやギーシュたちと一緒に心配そうにディルムッドの乱闘を見ていた。

 

「テファ、無事かい?」

 

私の声にテファが振り向き、泣きそうな顔をする。

 

「姉さん、どうしよう」

 

「大丈夫だったかい、もう危ないことはないからね」

 

「私は大丈夫。でも、兵隊さんたち、大怪我しちゃう」

 

論点はそこかい。

さすがに付き合いが長いだけに、同居人の実力は良く判っているらしい。

そのテファの隣では、ディルムッドの実力を知っているルイズとジェシカが惚れ惚れと言った感じで観戦してるが、奴を初めて見るギーシュやモンモンは顔に縦線を引いて絶句していた。

それらの視線の先で、手加減はしても容赦はしない感じで精兵たちを叩きのめしていく我が忠臣。見たまえ、人がまるでゴミのようだ、って、あんまり派手にやると後が大変なんだがなあ。相手は軍人だし。

 

そんなことをしていると、

 

「遅くなりました!」

 

と元気よくデルフ片手の才人が追いついて来た。

 

「よし、いい機会だ。日頃の成果を見てやる。50人ほど受け取れ」

 

「了解っす」

 

ディルムッドの言葉を受けて、威勢よくヤクザキックをかましながら乱闘に飛び込む未来の英雄。

「負けるんじゃないわよ!」というルイズの声援を受けながら、ディルムッドに負けず劣らずの勢いで峰打ちの刃を振るっていく。

気付けば周囲は野次馬が十重二十重。

いけ好かない軍人連中をやっつける平民二人に、やんやの大声援が巻き起こっている。

 

「何だか出る幕なさそうだねえ」

 

ちょっとだけつまらなそうなマチルダお姉さま。

 

「まあ、今日はあの二人が主人公と言うことしておこうよ。姫君を守るナイトは、やはり殿方の方が似合うさね」

 

「それもそうだね」

 

 

 

そんな、暑い夏の日のお話。


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