トリスタニア診療院繁盛記   作:FTR

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その33

風に、秋の気配を感じる日だった。

 

トリスタニアの中央広場の噴水の傍で、僕は荷物を下ろして一息ついた。

ズタ袋の中身は、配属される任地に持っていく上官や先任への挨拶用の贈答品。主に酒類だ。

持てないほどの重さではないはずなのに、下ろした途端に安堵を感じた。体の端々に、厳しかった短期訓練の名残がこびりついているのだろう。どこか、体が借り物のような違和感もある。

噴水の縁に座って出店で買いこんだフルーツの果汁を口に含むと、火照った体が心地よく冷えるのを感じた。

訓練で流した汗がすごかっただけに、未だに体が乾いているのかも知れない。

昨日まで城の外郭にあるシャン・ド・マルスの練兵所で短期集中の修練をしていただけに、まだ体は回復しきっていないようだ。今も全身が風邪を引いたように熱っぽく、体調は正直思わしくない。

訓練はかなり厳しかった。過程の半ばで数人が脱落したくらいだったし、体格に恵まれた方ではない僕にしては、よく乗り越えられたと思う。

いくら僕らの年代が若くても、あれはやりすぎだと訓練中は思ったりもした。でも、今の情勢はいつ大規模な作戦があっても不思議じゃない不安定なものだ。

だから、あの厳しい訓練は、できることはすべてやっておけという教官の親心だったのだろうと思う。鬼のような教官だったけど、僕らが死んだら泣いてくれるような根は優しい人だった。

そんな訓練を経て僕が得たのは、空海軍の少年兵としての正式な立場と、新鋭艦への乗り組みという栄誉だ。

艦名は『レドウタブール』。今はラ・ロシェールで最終艤装中だと聞いている。

来週にはラ・ロシェールの艦隊本部に出頭し、そのまま配属になって訓練に入る。今日はその前の最後の休暇だ。

そんな僅かな余暇で、僕は買い物をしつつ王都の親戚の家を訪ねるつもりだった。

 

 

聖堂の鐘が、午前11時の鐘を鳴らした。

一休みを終えて腰を上げ、お店のあるチクトンネ街を目指した。

チクトンネ街は表通りと違って賭博場や酒場が多い、どちらかというと夜に忙しい街だ。

来るのは数年ぶりだけど、雰囲気はあまり大きく変わっていなかった。柄の悪さも相変わらずだ。

目指すお店は通りに面していて、酒場と宿屋を兼ねているため大きな構えをしている。

準備中を知らせる札のぶら下がったドアを開けると、開店前の静かな店内が目に入った。

ドアに付いた鈴の音で僕に気づいたのか、奥から久しぶりに聞く従姉の声が飛んでくる。

 

「ごめんなさい、まだ開店前…あら! あらあらあら!!」

 

他のスタッフたちと一緒に仕込中だったようで、厨房から顔を出した黒髪の従姉は僕に気付くと、笑顔で奥から出てきて僕の手を取ってぶんぶんと振る。

 

「久しぶり~! 元気にしてた!?」

 

「おかげさまで。ジェシカも元気そうだね」

 

「元気元気。いや~、背が伸びたね、あんた」

 

僕の頭に手を伸ばして表情豊かにジェシカは驚く。身長は僕の方がちょっと高いくらい。

 

「そう?」

 

「ちょっと前まではこんなにちんちくりんだったのに。まあ、大きくなっちゃって」

 

僕と1つしか違わないのに、ジェシカは相変わらず姉貴風を吹かせるのが好きだ。彼女が弟を欲しがっていた話は聞いたことがあったけど、確かに昔から何かにつけて僕を構ってくれた従姉のお姉さんだ。僕が軍に入ったことも知っている。

 

「それで、どうしたのよ、今日は突然」

 

「うん。配置の関係で、しばらく王都にいたんだ。今日は休暇」

 

「トリスタニアに?」

 

「訓練でね」

 

そういうと、ジェシカの顔が少しだけ曇った。

 

「う~ん、詳しく聞きたいけど…ダメなんでしょ?」

 

ジェシカは呟きながら渋い顔をした。軍関係の情報には守秘義務があるから、僕が答えられないことに気をまわしてくれているようだ。

 

「ごめんね」

 

「いいのよ。時間はあるの?」

 

「うん、夕方の門限までに戻れば大丈夫」

 

外出許可は午後6時まで取っている。

 

「じゃあ、お昼でも食べて行きなさいよ。作ってあげる」

 

「お願い。叔父さんは?」

 

「ちょうど寄り合いでいないのよ」

 

「そうか。残念」

 

「このお店の中だと、叔父さんっていうと怒るわよ」

 

「あはは、ミ・マドモワゼルだっけ?」

 

「そういうこと。ごめ~ん、ちょっと調理台貸して」

 

ジェシカは笑うと、厨房に戻っていった。

 

 

昼食を食べながら、お互いの近況について話した。

姉さんは学院で元気にやっているそうだ。貴族の子供たちが集まった学院なだけにそれなりに気苦労はあるみたいだけど、生活の安定と言うことでは無難にこなしていればそうそう困ったことにはならないだろうと思う。

ジェシカの方はと言えば、お店の方は最近の王都は人の流れが活発なためか、かなり景気がいいらしい。ちょっと前までは徴税官に嫌な奴がいたそうなんだけど、ある日通り魔に襲われて半殺しの目に遭って以来大人しくなったんだとか。ジェシカの話では、何でも体より心を病んでしまって今も寝込んでいるそうで、よほど怖い目に遭ったのか、うわ言で『赤い槍』がどうとか言っているとか。

 

生活の方は、最近は物価が上昇傾向らしい。加えて軍需物資を中心に物資の不足も徐々に出始め、王都全体が戦時体制に移りつつある気がするとのこと。

恐らくは遠からずアルビオンへの遠征が発布されるのではないかと誰もが思っているらしい。

それを裏付けるように、いろいろなものの税率が引き上げられ、新税も課されているそうだ。

そんな状況を聞きながら、軍の状況を思い出す。

空海軍に身を置く者として感じることだけど、先のタルブの戦いのダメージは、トリステインとしては決して軽くない。

基幹艦隊が全滅し、その再建のため大規模な艦隊の建造が今も急ピッチで進んでいる。かなりの戦力を失いながらも、今なおアルビオンの艦隊は精強だ。対抗するには相応の数の戦列艦が必要になると思うから国民に負担を強いるのも仕方がないことだと思う。

問題は、フネを造ってもそれを動かす人が足りないことだ。王軍や諸侯軍のように戦時だけ組織される陸軍と違い、空海軍は平時からの訓練が物を言う常備軍だ。

僕のような、まだ訓練も不十分な少年兵にも急な育成過程が組まれるなど、兵の練度には誰もが不安を抱えている。心得のある者は、少しでも早く現場訓練に就かせたいのだろう。

恐らくは遠征までには貴族の方々にもかなりの規模の動員がかかると思うし、そうなると空海軍にもかなりの数の臨時将兵が配属されると思うから、全体の練度の底上げのためには仕方がないことなのかも知れない。

戦列艦は安い買い物ではないけど、乗組員の養成もお金と時間がかかる。

僕ら少年兵ならば見張りや弾薬の運搬や伝令のような仕事しかないけど、航法関係の兵を錬成するのは大変なことだ。

戦列艦に乗り組むことは危険が多い。海の上の船なら揺れても波による翻弄くらいだけど、空軍のフネの場合は突風に煽られたり、空気の狭間のせいで急に高度が下がったりしたりと揺れが物凄い。それだけに、あまり慣れていない人が船務に就くと簡単に事故を起こす。帆桁の上の作業などは、慣れた人でも命懸けだ。実際事故も多いし、演習ですら死者が出たりもする。

そういう空海軍の増強を短期間のうちに行うということは、アルビオン征討と言う目標があってもかなりな冒険だと僕は思う。

それでも、自分の国は自分で守らなくちゃいけない。

現状では、遠征についてはアルビオンの亡命艦隊が頼みの綱という状況なのは確かだけど、誇り高いトリステイン空軍がそれに頼りきりと言うのは情けなさすぎる。戦後処理においても戦争における貢献度と言うものは軽視できないだろうし、何より、タルブの戦いで後れをとった不名誉を挽回なくちゃいけない。

あの戦いの時の艦隊全滅の報には、全空海軍が凍りついた。

幸いにも、タルブでは奇跡の光というのでアルビオン軍を打倒したそうだけど、あの戦いに僕が参加していたら、今頃こうしてジェシカとご飯を食べられなかったかもしれない。

知り合いの兵も、たくさん死んだ。

あの戦いの仇討ちは、空海軍の上層部だけでなく、僕ら末端の兵に至るまで悲願と言ってもいいくらいの大目標になっている。

 

 

 

「御馳走様。美味しかった」

 

「お粗末様。私の料理もなかなかでしょ?」

 

確かに美味しいご飯だった。

軍人に食通なしと言われるくらい、軍人で味にこだわる人は少ない。食べられるだけでも御馳走、という人の方がむしろ多い。

食事が自慢の空海軍と言うけれど、保存食主体の食事はやはりお世辞にも美味しい物ばかりじゃない。糧食主体の食生活に慣れた身としては、ごく普通のご飯と言うのはそれだけで御馳走だ。

何より、誰かが自分のために作ってくれたというだけで、そのご飯は糧食とは全く違う意味を持つと僕は思う。

真心がこもったご飯と言うのは、それだけで暖かくて美味しい。

食後のお茶を飲んでいると、ふと気づいたようにジェシカが僕の顔を覗き込んできた。

 

「あんた、ちょっと顔赤くない?」

 

「そうかな?」

 

「ご飯食べたからって感じじゃないわね」

 

そういうと、ジェシカが僕の額に手を伸ばしてきた。ひんやりした手が額に触れるや、ジェシカの顔色が変わった。

 

「ちょっと、あんた、熱あるじゃない!」

 

「大丈夫だよ、これくらい」

 

「ダメよ、軍人は体が資本でしょ」

 

出来るだけ穏やかに返した僕に、ジェシカは思いの他強い口調で僕に迫った。いつもは余裕ある態度のジェシカにしては珍しく、何だかひどく慌てていた。

 

「本当に大丈夫だって。本当にダメなら軍医に相談するから」

 

「こじらせたらどうするのよ。…まだ時間あるわよね?」

 

「夕方まで大丈夫だけど?」

 

「ならいいわ。ちょっと来なさい」

 

ジェシカは強引に僕の腕を取った。

昔は強いと感じたジェシカの腕力だったが、精一杯引っ張っているのだろうけど、思ったより強いと感じなかったのが印象に残った。

僕は男で、ジェシカは女の子なんだな、と場違いなことを考えていた。

 

 

 

引きずられていった先は、同じチクトンネ街の片隅にある建物の前だった。

薬瓶の紋章と並んで、杖に絡まった一匹の蛇が表わされている看板。奇妙な図柄の看板を見て、そこに書かれた文字を読んでみる。

軍にいるだけに、僕も一応読み書きは身に付けている。

 

「診療所?」

 

市井の診療所と言うとイメージとしてはどちらかと言うと怪我の治療が専門なイメージがあるけど、薬瓶と言うからには薬師も兼ねているのだろうか。熱さましくらいなら、近くの秘薬屋でもらった方が安いと思うけど。

 

「見た目はちょっとアレな先生だけど、頼りになる人よ。往診に行ってなきゃいいんだけど」

 

ジェシカは玄関の脇についている紐を引っ張った。呼び鈴らしい。

奥の方で軽やかな鈴が鳴る音が聞こえる。

 

「は~い」

 

次いでパタパタと走る音がして、玄関が開いた。

出てきた女の人を見て、僕はびっくりした。

長い金髪の、まるで妖精のように美人のお姉さんだった。

ただ美人なだけじゃない。胸のボリュームが尋常じゃなかった。

ジェシカも姉さんも歳の割に立派な方だけど、これは次元が違うと思う。

この人がジェシカが言う先生なのだろうか。

 

「あら、ジェシカ。どうしたの?」

 

「先生いる?」

 

違ったらしい。先生にしては若すぎるとは思ったけど。

 

「姉さん? いるわよ?」

 

「ちょっとこの子を診て欲しいのよ。私の従弟で、ジュリアンっていうの」

 

「まあ」

 

お姉さんは目を丸くして僕を見た。結構ジェシカと親しい人らしい。挨拶をしていると、お姉さんの後ろからパタパタと音が聞こえた。

 

「どうしたね?」

 

聞こえてきた声に振り向いて、僕は息をのんだ。

ブラウンの長い髪の下で輝く、黒い瞳の眼差しが強い。

10歳くらいの、こちらも綺麗な女の子だった。可愛いというのではなく、美しいという感じだ。

金髪のお姉さんが妖精なら、この子は夜の闇を結晶にした宝石のような美しさだ。何となく、『魔の者』と言われても納得できる気がする、引き込まれそうな深い美しさだった。

そんな思考が、ジェシカの言葉を聞いた途端凍りついた。

 

「先生、いてくれて助かったわ」

 

この子が先生!?

僕のことを説明するジェシカの声を遠くに聞きながら、僕は女の子に見入ってしまっていた。

この歳で治療師…どういう子なんだろう、この子は。

いろいろなことが思い浮かぶけど、思考は一向にまとまらない。

 

「ほら、よかったわね、診てくれるってさ」

 

「え?」

 

ジェシカに背中を叩かれて、ボケっと女の子に見惚れていた僕はようやく現実に帰還した。

そんな僕を見て、女の子は笑う。

 

「兵隊さんなら門前払いはできないやね。とりあえずお入りな」

 

「ほら、こう言ってくれてるんだから。きちんとご挨拶なさいよ」

 

何だか母さんみたいなことを言うジェシカに押されて診療所の中に押し込まれてしまった。

 

 

ジェシカを待合室に待たせて診察室に入ると、そこは見たことがある軍の軍医の医務室とはまた違った雰囲気の部屋だった。

見たことがない道具が並ぶ中、何だか女王様のような貫録を漂わせながら女の子は椅子に座って自分の前に椅子を指し示した。

僕が座ると、カルテを手に簡単な問診をされた。

名前、年齢、身長、体重、罹っている病気、罹ったことがある病気、蕁麻疹が出た経験等々。

問診が終わると女の子は僕の顔に手を伸ばして、下瞼を下げて目を覗き込む。

黒水晶のような瞳が、まっすぐに僕の目を見ていた。

 

「口を開けて」

 

言われたとおりに開けると、金属のヘラで舌を抑えて喉を覗き込んだ。

ランプをかざして喉の奥を見終わるとヘラを傍らの洗面器に放り込んで、また僕の前に座った。

 

「それじゃ、上だけ脱いでおくれ」

 

言われたとおりに脱ぐと、女の子は慣れた手つきで僕の胸をトントンと打診して、次に聴診器を当てた。金属の表面が冷たい。

 

「深く息を吸って」

 

何だかおままごとみたいな雰囲気だけど、音を聞いている女の子の表情は真剣そのものだった。

顔つきでわかる。この子は間違いなくこの道の専門家だ。

左胸のあたりに聴診器が移動した時、彼女の手が止まった。

 

「ん、これはどこかでぶつけたのかい?」

 

僕の左胸にある微かに赤くなっている打ち身に目が止まったようだ。

 

「この前、訓練で…」

 

「いつ頃?」

 

「一昨日かな」

 

「う~む」

 

女の子は唸りながら患部に手を触れた。ちょっと冷たい手だった。

少し触診して、納得したように女の子は顔を上げた。

 

「ちょっと体ごと左をお向き」

 

椅子を回して左を向く。女の子は立ち上がり、僕の背中と胸のそれぞれの真ん中に手を触れた。女の子の体が小さいので、何だか抱きしめられかけているような格好だ。

 

「7番かね…よいしょ」

 

掛け声を出して、僕の胸と背中を挟み込むように軽くぎゅっと押す。その途端、僕の左脇腹に刺すような痛みが走った。

 

「い、痛たたた!」

 

あまりの痛みに声が漏れた。焼けた鉄片を押し付けられたような痛みを肋骨の辺りに感じる。

 

「原因はそれだね」

 

女の子は眉を落とし、困った顔で言った。

 

「そ、それって?」

 

「ここの骨が折れてるのさ。熱はそのせいだよ」

 

僕の脇腹の痛みが走った部分を指さす。

 

「こ、骨折?」

 

「打撲による亀裂骨折。要するに罅だね。肋骨は弓状だから、正面にダメージを受けて体側部や肋軟骨が折れることもあるんだよ。ずれない程度の軽い罅だったから腫れも痛みも出なかったんだろうけど、ほっといたら何かの拍子に今みたいに突然痛みが来たかも知れないね」

 

「ど、どうしよう」

 

僕は狼狽した。明後日からは新しい艦に配属になり、恐らくすぐに訓練が始まる。

やることは山ほどあるし、力仕事だってたくさんある。何より、この国難にのんびり休んでいるわけにはいかないのに。

 

「安心おし」

 

女の子はそう言って笑うと、傍らに置いてあった水晶の棒を手に取った。

杖!?

僕は驚いた。

この子、メイジなのか?

平民でも魔法を使える人はいるけれど、平民相手に診療所をやっているメイジがいるとは思わなかった。

そんな僕の思惑も知らず、女の子は呪文を唱え、杖の先を僕の脇腹に当てた。

春の日差しに雪が溶かされていくように、僕の中にあった違和感が消えていく。

ため息をつく僕に女の子は微笑んだ。

 

「これで大丈夫。あとはできるだけ乳製品や魚を多く食べておくれ。だいぶ疲労がたまっているみたいだけど、体はもう回復期に入っているようだからできるだけ睡眠をとるなどして体を休めること。物はついでだ。他のところも診ておいてあげよう。手をお出し」

 

差し出した僕の手を握って女の子は目を閉じた。

 

 

 

 

30分ほどで待合室に戻ると、ジェシカが心配そうな顔をして待っていた。

 

「どうだった?」

 

「肋骨が折れてたって。治してもらったよ」

 

僕の言葉を聞いて、ジェシカはほっとしたような顔で笑った。

 

「よかった。来て正解だったわね」

 

「メイジだなんてびっくりしたよ」

 

「見た目はあんなに可愛いけど、腕はいいのよ」

 

そんな話をしていると、受付のお姉さんが僕の名前を呼んだ。

忘れてた。会計をしなくちゃいけない。

受付に行き、告げられた金額は、ちょっとどうなのかと思うくらい安かった。

それでいいのか、と訊いたら、お金はあるところからいただくんです、とお姉さんは笑った。

何だか釈然としない感じがするけど、安いのならば助かる。

お金を払おうとした時、僕は財布をズタ袋の中に入れっぱなしだったことに気がついた。

 

「ごめん、ジェシカ。財布忘れた」

 

「あら、じゃあ立て替えてあげる」

 

ジェシカがポケットに手を入れた時だった。

 

「立て替えなくていいよ」

 

診察室の中から女の子が出て来てジェシカに言った。

 

「お金は、診察を受けた人からもらうことにしているからね」

 

そうは言われても、今の僕は一文無しだ。

 

「でも、財布を忘れてしまって…」

 

「じゃあ、後で払いに来ておくれな。今日じゃなくてもいいよ。テファ」

 

女の子が指示すると、受付のお姉さんはメモに僕の名前と金額を書き、後ろにあるボードに画鋲でメモを留めた。

困ったことになった。

戦列艦に配属になったら次にいつ王都に来られるか判らない。下手したら、もう二度と来られないかも知れないのに。

 

「僕は今日しか都合がつかないんです。今から取ってきますから」

 

僕が説明しても、女の子は取り合ってくれなかった。

 

「悪いけど、もう今日はこの後往診に出ちまうんだ。支払は明日以降にしとくれな」

 

「だから、払いに来られないんですって」

 

「いつだって構わないんだよ…戦争が終わってからでもね」

 

女の子が、まるで子供に言い聞かせるようにすごく優しい目で言葉を続ける。

 

「だから、必ず自分で払いにおいでな。いいね?」

 

そこまで言われて、僕はようやくこの子が言っている事の意味に気がついた。

アルビオン遠征の話は、恐らく女の子も知っているのだろう。それを踏まえて、この子はちょっと会っただけの僕の無事を願ってくれているのだと。

何だか、人の情けが身に染みて、胸にじわっと来た。

 

「…判りました。借りておきます」

 

「踏み倒したら許さないからね」

 

厳しいようで、優しい物言いだった。

そんな言葉に、ふと、先日故郷の母に手紙を書いた時の返事が、いつになく短かったことを思い出した。

飾りもなく、ただ、体に気を付けるようにとだけ書かれた手紙。

ちょっと素っ気ないな、とも思ったけど、あの手紙を読み終えた時、僕の親不孝を咎めるでもなく、そっと泣いている母の姿が思い浮かんだのを思い出した。

 

 

 

「ねえ、先生」

 

そんなことを考えていると、ジェシカが話に割り込んできて嬉しそうに言う。

 

「支払を待ってもらうお礼の代わりと言っちゃ何だけど、この子が帰ってきたら、芝居見物にでも誘わせてもいいかしら?」

 

それだけで真面目な雰囲気が木端微塵になってしまった。何を出だすんだ、この人は?

受付のお姉さんも目を丸くして驚いている。

 

「ジェシカ、それは幾らなんでも失礼だよ!」

 

「馬鹿ね、支払いを待ってもらうんだから利息を払うのは当然でしょ」

 

うろたえる僕に、物凄く意地悪そうな笑顔でジェシカが言う。そんなやり取りを聞きながらキョトンとした顔をしていた女の子が、突然にぱっと笑った。

 

「へえ、それは気の利いた利息だね。私なら構わないよ」

 

「え?」

 

「嬉しいね、こういうお誘いは初めてだよ。服を新調して待ってるからね」

 

それはもう、にこにこと嬉しそうな笑顔だった。でも、そこにジェシカより意地悪なものを感じるのは気のせいだろうか。

 

 

 

 

 

お店に戻って、お菓子を御馳走になりながら、昔話を軸にした身内同士の話に花が咲いた。

うちの両親の昔の話や、僕が子供のころの恥ずかしい話とか。

ジェシカと話してるうちに、まだ人生の半分も生きていない僕にも、こんなにも振り返れる過去があるのかと驚いた。こんな時でもジェシカの姉貴風は健在で、ずいぶん面倒を見させられたと愚痴のような小言をたくさんもらった。

そんな、懐かしくて暖かい話が続く。いつまでも続いて欲しい、柔らかい時間だ。

それでも、聖堂の鐘が時刻を告げると、僕の時間が終わってしまったことを否応もなく気付かされる。

 

夕方の茜色の光の中、荷物を背に立ち上がる僕を、店の出口まで見送ってくれるジェシカ。

いつも通りの笑顔で、肩のあたりでひらひらと手を振った。

 

「元気でね。風邪引くんじゃないわよ」

 

「うん。ジェシカもね」

 

「あんた、いつも肝心なところで抜けてるんだから、気を付けなくちゃダメよ」

 

ジェシカが、無理に明るく振る舞おうとしてくれているのが、何となく判った。

でも…。

 

「ア、アルビオンに、行ったら…ちゃん、と…」

 

そこまで言葉を紡いだ時、ジェシカの笑顔に罅が入った。

まるで無理に施した漆喰がはがれるように、明るい、お陽様のような笑顔がぼろぼろと崩れていく。

目にいっぱいの涙をためて、下唇を噛んで。それでも何かを言おうとしてくれて、でも、言えなくて。

そして、ついにジェシカは泣き出してしまった。

僕の首に手をまわして、顔を伏せて、声を殺して泣いているジェシカ。

そんな彼女の背中を優しく叩くことしか、僕にはできなかった。

 

 

 

ようやく落ち着いた頃、ジェシカは僕にもたれたまま小さな声で言った。

 

「ジュリアン」

 

「ん?」

 

「女を泣かせたことは高く付くわよ。女を泣かす男は半人前、その後で笑わせて初めて一人前なんだからね」

 

「うん」

 

「生きて帰って来てね。絶対に」

 

一瞬、返事に詰まった。

それは、約束はできなかった。絶対に生きて帰れる保証のある戦争なんか、ない。

僕が行くのは、恐らく死地だ。

人の命が簡単に消えていく場所に、僕は行かなければならない。

だから、ちょっとだけ悩んで、僕は答えた。

 

「うん。頑張る」

 

告げたのは、約束ではなく、努力目標。

それは、僕と言う個人ではなく、軍人としての返事だ。

ジェシカにとっては頼りない従弟かも知れないけど、僕にだって男としての意地はある。

多くの戦友たちがそうであるように、国のため、女王陛下のため、そして守るべき人々のために、僕らは征かなければならない。

戦場が死に方を選ぶことすら贅沢な場所であっても死ぬなら納得して死にたいとは思うけど、場合によっては、僕の命すら戦場の損得勘定の中で消し込まれてしまうかも知れない。でも、それで守りたいものが守れるのなら、それは仕方がないことだと思う。

 

でも、もちろん僕だって死にたくはない。

ここに、僕を待っていてくれる人がいるのだから。

覚悟は持ちつつも、最後まであがいて、意識がなくなるその瞬間まで生き残るための努力をしようと思う。

叔父さんのためにも、タルブで待つ家族のためにも、学院で働く姉さんのためにも、成り行きで借りを作ってしまった診療所の女の子のためにも、そして、ジェシカのためにも。

戦って、生き残って、そしてきっと帰って来よう。

もう一度、この場所に。

 

ジェシカの笑顔が、見えるところに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<同日の夜>

「うふふふふふふふ…」

 

「で、いったいどうしたのさ、この子?」

 

夕食の席で、ひたすらニヨニヨと悶えているテファを指してマチルダが言う。

 

「さあ?」

 

私は首を傾げてとぼけることにした。

奇妙な声を上げているテファに、マチルダがさすがにこめかみに井桁模様を浮かべる。

 

「テファ、いい加減にしなよ。気持ち悪いよ」

 

「だって~」

 

私の頬をつつきながらテファが笑う。

 

「春よ、春。姉さんに春ですもの。いいなあ、年下の男の子」

 

その言葉に、一瞬食卓が凍りついた。

私の浮いた話がそんなに意外か、こら。

 

「な、何ですと!?」

 

何故マチルダよりも先に声を荒げるね、ディルムッド。

 

「テファさん、お相手はどこのどなたですか?」

 

「何をいきり立ってるね、お前は?」

 

いつになく血相を変えている我が忠臣。

 

「憚りながら、我が主の伴侶ともなれば、私にとっても重要な立ち位置となるお方。臣として、仔細を伺いたく存じます」

 

「何を一足飛びにそこまで飛躍しとるかっ!」

 

 

 

 

そんな1日。


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