トリスタニア診療院繁盛記   作:FTR

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その34

 夢は、嫌いだ。

 良い夢は起きたら覚えていないし、見たくもない夢に限って目覚めた後も私を追いかけてくるからだ。

 

 殺伐とした人生を送っているだけに、私は夢見については悪夢の割合が非常に多い。

 伯父の悪夢がその最たるところだ。

 ところがだ。

 その日見た夢によって、夢見の最悪ランキングは大きく入れ替わることとなった。

 ぶっちぎりで1位をひた走っていたあの夜の記憶を軽々と抜き去り、圧倒的な1位に躍り出るような夢を私は見る羽目になった。

 

 

 それは、海の夢だった。

  小舟の上に、テファが乗っていた。

しかし、ただ乗っているのではなかった。

 ただならぬ気配の中、周囲を数名の兵に囲まれていた。いずれも、テファのように耳が長い。

 エルフ。テファが『まじり者』呼ばわりされて迫害されると言っていた種族だ。

 その中心にいるのは垂れ目の女。

 あろうことかその女は、手にした拳銃をテファに向け平然と、いや、むしろ嬉々として引き金を引いた。

 テファの細い体が弾け、血が、舞った。

 

オ……オ マ エ 、 ナ ニ ヲ シ テ イ ル ?

 

 夢なのは判っている。

 しかし私は、人の可聴範囲を超えるような声で悲鳴を上げた。

 パニックに陥りながら、杖を求め、使い魔を呼び、魂を振るわせて怨嗟の声を上げ続けた。

 そうしている間にも、垂れ目はテファに向かって銃を放ち続ける。わざと急所をはずし、テファの苦痛を心ゆくまで味わうように。

 見ていることしかできない私は半狂乱だった。殺意をまき散らし、血の涙を流してそれを阻止する術を求めた。

 しかし、何故か私は自分の手足は認識できず、声も出ず、魔法を紡ぐこともできない。

私の目の前で、テファが、壊されていく。

 テファが、死んでいく。

 我が身を切られるより辛いという言葉すら、私の感情には追いつかない。

 私の存在そのものが砕けそうな衝撃に、私は翻弄されていた。

 ぐらりぐらりと、世界が揺れる。

 

 

「主!」

 

 ふと、力強い手を感じ、私は覚醒した。

 灯りを落とした部屋の中で、我が忠臣が私の肩をゆすりながら悲壮な顔をしていた。

 

「……あ?」

 

 我ながら間抜けな声だったが、忠臣は落ち着いた声で答えてくれた。

 

「御寝所に踏み入る御無礼は承知なれど、ただならぬ気配を察しまかり越しました。酷く魘されておられたご様子。大丈夫でしょうか?」

 

 重厚な現実感を持った声に、私は現実への回帰を確信した。

 寝る前にかけるサイレントの魔法も、パスで繋がる私たちには関係ないことを思い出した。

 その頼もしい使い魔の言葉に安堵したが、その刹那、体が精神の変調に忠実に反応した。

 強い嘔吐感を感じて、私はディルムッドの腕の中から飛び出してトイレに飛び込んだ。

 あらかた消化された夕飯を戻し、それでも吐き足らずに胃液を吐く。黄色い胃液と共に内臓そのものを吐き出すような勢いで吐き続けた。

 何なのだ、あの夢は。

 私は嘔吐感に苛まれながら、そのことを考えていた。

 夢と言うのは記憶の再整理だとか願望の表れだとか諸説あるが、あれはあまりにリアリティがありすぎた。風景はおよそ記憶にないし、あの垂れ目のエルフだって知らない。まして、テファを傷つけるようなことを私が望むことはありえない。それこそ、魂の核まで掘り下げてもそのような願望は欠片もないはずだ。

 あらかた吐き終わり、必死に荒い呼吸を整えつつ、涙を滲ませながら自分が戻したものを見ていると、背中をさする優しい手を感じた。

 

「大丈夫?」

 

 聞こえた声は、優しいテファのものだった。

 

「あ、ああ……うぅ……」

 

 我ながらよく判らない悲鳴をあげながら、私はテファに縋りついた。

 柔らかい感触とともに、確かな温度がそこにあった。

 夢で銃弾を撃ち込まれていた肩も、腹も、足も、傷一つない。

 私が知るテファだ。

 私の妹の、ティファニアだ。

 私が、守ると決めた女の子だ。

 それだけで、罅が入った心が急速に修復して行く。

 

「ほら、口を濯ぎな」

 

 聞こえた声はマチルダ。起こしてしまったのだろうか。

 心配そうな面持ちで、手にした水の入ったコップを差し出してくれる。

 礼を言って受け取り、冷たい感触を手のひらに感じながら、水を口に含む。

 うがいをする私の後ろに、3人の家人を感じる。

 そこに感じるのは、一人ではないという安心感だ。

 皆がいてくれると思うだけで、心が暖かいもので満たされる。

 思わずうれし涙が滲みそうになるのを感じながら、口の中の饐えた胃液の名残を洗い流した。

 

 

 

 

 翌日、気もそぞろに診察をこなす。

 あの明晰夢の後遺症は、私の心身に微妙な影響を及ぼしていた。

 エルフに襲われているテファ。

 あれは何のお告げなのだろうか。未来の予感か、あるいは私の歪んだ記憶の生み出した虚像なのか。原作にだってあんなシーンはなかったはずだ。あったとしても、私は覚えていない。記憶の狭間の深いところに落ちているのだろうかと思ったりもするが、さっぱり見当がつかないだけに性質が悪い。

 ヒュプノスの悪戯なのか知らないが、余計な夢を私に見せないで欲しい。

ただでさえ、私の脳のリソースはかなりの割合が才人救済の模索のために食われていると言うのに。

 秋の深まりに従って、徐々に世相は戦争一色に移行しつつある。

 そんな中、私は間もなく始まるアルビオン戦役において、単身で殿を支える羽目になる才人を救済するためにはどうすればいいか考えていた。

 夏が過ぎ去り、才人とルイズの体験アルバイトは終了して、彼らは彼らの日常に帰っていった。

 彼ら英雄たちと私たち一般人の奇妙な交差は、互いの居場所へと分岐していった……というようなことはなく、毎週虚無の曜日になると二人して押しかけてきては朝食をたかっていくのが常になっていた。実に困った奴らだ。

 いいとこのお嬢様ともあろう者が平民の家に飯を食べに寄ると言うのも奇妙なものだと思うが、確かにテファの料理は美味しいし、日本食の『お惣菜』の遺伝子を持つそれは、一度食べ慣れてしまうとしばしば無性に食べたくなる謎の中毒性を有している。才人あたりは『何となく故郷の味がする』と言って実に美味そうに食べる。意外と違いが判る男のようだ。

 朝食が終わったらルイズはヴァリエールの街屋敷へ、才人は工房の手伝い兼稽古へと別れてそれぞれの休日を過ごしていた。

 しかし、それも長く続かないことを私は知っていた。

 案の定、ギューフの月が始まる頃、予定調和の通りに二人が渋い顔でやってきて、しばらく顔を出せない旨を私たちに告げた。

 はっきりとは言わないが、恐らく里帰りなのだろうと察しがついた。

 折しもアルビオン侵攻が発布されて一か月、挙国一致の雰囲気が否応もなく盛り上がり始めたころだ。

 今回の帰郷は、実家における戦争参加の押し問答イベントだろう。才人が晒し首になりかけるあれだ。それを機に、半ば出奔に近い形で二人は連合軍の陣に合流していくのだろう。

 娘に手を出されて怒り狂うヴァリエール公爵との初対決。

 ルイズ獲得のための、まずは最初の試練だ。うまく生き残れよ、少年。

 

 そんな才人救済について、私にはいくつかの選択肢があった。

 

 一つは、アンリエッタのところに、いつぞやのスカウトの話を蒸し返しに行くこと。

 アルビオン亡命軍の旗印となって歴史に介入することになるが、これは早々に没にした。

 旗印は結構なのだが、実際はまさに名ばかりの司令官だ。それに、艦隊などと言う図体の大きい物を引き連れては、歴史の流れに抗うことは難しいだろう。作戦という大局的な流れに流され続け、最後には私も敗軍の将の仲間入りするのがオチだろう。

 

 次が、傭兵として軍に志願して戦争に参加すること。

 これもまた制約が多い。

 いかんせん軍隊は一つの生き物だ。所属したが最後、全ての自由は無きに等しい。

 そうなると自分の都合で動くことはできないし、下手に動こうとしたら敵前逃亡で死刑になってしまうだろう。

 何より、私のような小娘が傭兵募集に出向いたら、頭を撫でられながら『お嬢ちゃん、出口はあっちだよ』と言われるだろう。戦争は男の物と言う思想はこの世界にも根強いようで、学院の女生徒ですら招集はかかっていなかったはずだ。

 

 その次が、自前で医療法人を立ち上げて慈善団体として戦場に乗り込むこと。

 これは自由度は高いが実現性が乏しい。組織を作ろうにも、水メイジが私しかいないのに団体は組織できないだろう。平民の女たちを集めて女子挺身隊を組織するのも手だろうが、時局に鑑みると、後送された傷病兵の看病に回され、アルビオンに渡ることすらできないだろう。

 

 あれこれ考えてはいるが、生半可な方法では私の望むようなプランに組み上がらない。戦争と言うものがいかに物事が複雑に絡み合っているかを思い知らされる思いだ。戦時下においては、民間人の私ではアルビオンに渡ることすらままならないのだ。

 才人の戦争への参加を阻止するということならば、いっそ零戦をぶっ壊してしまってはどうかとも思うが、状況からしてアンリエッタは手段を選ばずルイズら主従をアルビオンに放り込むだろう。生存率を考えると、零戦はあった方がいいと思われる。

 ともあれ、私がいくら跳ね回ろうが、市井の女一匹の奮闘など物事の流れからすれば大河の一滴に過ぎず、大局をどうこうできるようなものではないだろう。

 

 そんなことを考えていたところに、あの最悪の夢見だ。

 嫌な予感が胸に根付いて離れてくれない。それがただの夢なのか、あるいは未来のビジョンなのかは判らないが、何であれ、あの垂れ目が敵だとしたら厄介なのは確かだ。

 この世界のエルフは人より遥かに発達した文化と魔法を持っている。ハルケギニアの系統魔法しか知らない私では勝ち目がない物騒な連中だ。

 ディルムッドがいてくれればあの程度の輩なぞ秒の単位で一寸刻みにしてやれると思うが、何故彼があの場にいなかったのかは判らない。

 もし、あれが今の時間軸の未来の光景であり、あの垂れ目が夢の通りにテファを害するのだとしたら、私は何をおいてもそれを阻止しなければならない。

 テファを害する奴は、私が知覚し得る範囲において存在することを許さない。それは私の不動の誓いだ。

 系統魔法がエルフに効かないと言うのなら、私の持てるすべてを動員してでも他の手段を模索しなければならない。それこそ、この世界の因果や脈絡を超越してスターライトブレイカーあたりを身に付けてでも、あの垂れ目のあばずれを全力全壊で抹殺しなければならない。

 テファを楽しみながら撃ち殺そうとする等、断じて許容できん。それが大いなる意志とやらの思し召しなら、その大いなる意志とやらも含めて私の敵だ。

 

「先生、何だか今日は妙に黒い靄を出しとるのう?」

 

 患者さんの声で我に返った。

 検診に来た馴染みのじい様が、私の様子にいささか引いていた。

 酒豪で知られているが、それだけに脂肪肝が進んでいる患者さんだ。

 

「ああ、すまないね。何度言っても酒をやめてくれない困った患者がいるんでね」

 

「あちゃ、ばれてしもうたか」

 

 水メイジにそんな嘘が通るわけがないだろう、と言うより少しは悪びれんかい。レクター教授よろしくフォワグラ切り出して酒のつまみにしちゃうぞ、こら。

 こんな感じに、私を困らせて愉しむ輩が多いからこの街のじい様連中は困る。

 

「まったく、何回言ったら判るんだい。このままじゃ肝臓壊して死んじまうよ。奥さん呼んで、アルコールを摂取すると下痢が止まらなくなる薬を処方しなくちゃいけないかね」

 

「そりゃ困る」

 

 ちなみにその禁酒薬は実際にうちにある薬だ。食べた後に誰かにぴーぴーと言われると腹を下すキャンディーを開発しようとして失敗した際の副産物で、主成分はアルコールに反応して獰猛に変質する食物繊維。飲兵衛の宿六にとっては断酒を強制される悪夢のカーズアイテムだ。それでもめげずに酒を飲むような奴は、アルコール依存症として隔離しなければなるまい。

 

「だったら、言われたとおりに生活習慣を改めておくれな。そこに書いてあることをもう一度良くお読み」

 

 壁に貼ってある、東方の賢者のありがたいお言葉として紹介している貼り紙を私が指差すと、じい様は他人事みたいな顔で音読した。

 

「『週に二日は休肝日。酒と女は『2ごう』まで』」

 

「2合ってのはこれくらいのコップ2杯程度。ジョッキじゃないからね。今度約束破ったら本当にお薬だよ」

 

「ちぇ。つまんないのう」

 

 

 

 

 

 

 そんな、ごく当たり前の、平和な一日。

 そういう一日に、なるはずだった。

 最後の患者が入ってくるまでは。

 

 

「次の人~」

 

 テファに案内されて入って来た人物を見て、私は息を飲んだ。

 

 それは、輝くような美少年だった。

 美しい金髪に、長い睫毛。

 だが、私の心臓が急激に鼓動を増したのは、断じてときめきからではない。

 

「初めまして、美しい治療師さん。お目にかかれて光栄の至り」

 

 目の前の美少年に、私は自分の中の何かがコトリと音を立てて回り出した。

 今まで、幾度も感じたことのあるそれに似て、しかし、その回転は私の意思とはかけ離れたところで速さを増していく。

 なるほど、こう来たか。

 運命と言うものは、こういう風に来るか。

 神よ、始祖ブリミルよ、私は今、御身に対する新たな呪いをまた一つ積み上げたよ。

 こいつが何をしに来たのかは知らないが、とりあえず訊くべきことは訊いてみよう。

 ここは診療院。患者を治す所だ。

 

「それはどうも。まずは名前から聞こうか」

 

 カルテを手に問う。

 

「ジュリオ・チェザーレと申します。美しい治療師さん」

 

 人違いであってくれと願ったが、私の見立ては残念ながらはずれなかった。

 

 ジュリオ・チェザーレ。

 教皇の、狗。

 

 少年の顔をまじまじと見る。

 その瞳は左は鳶色で、右は碧眼。なるほど、話に違わぬ美少年だ。

 この時代の、何も知らない初心な娘ならころりとひっかかるのも頷ける。

 こいつの登場は予想外だが、その用向きが私にとってろくでもないものだという確信だけはあった。

 

「それで、今日はどこが悪いんだい?」

 

「貴女のような美しい女性に出会えたためか、心臓が早鐘のように鳴って困っております」

 

 私の言葉に、ジュリオは大げさな仕草で胸を抑えてみせる。

 私は心底ため息をつきたくなった。日々メディアが垂れ流す多くのエンターテイメントに触れてきた女に、そんな三文芝居が効果があるとでも思っているのだろうか。地球舐めるな、ファンタジー。

 

「この胸の高鳴りを抑えるには、どうすればよろしいでしょうか」

 

 あまりにくさいセリフに鳥肌が立ってきた。嫌悪感が背筋を這いあがって行く。高鳴りとやらを鼓動ごと止めてやろうかと思うくらいだ。ひょっとしてこいつは嫌悪感を使って私を殺そうとしているのだろうか。

 

「なるほど、それは大変だね。ロマリアじゃそういう時はどうしていたんだい?」

 

 私の言葉に、ジュリオはやや眼光を鋭くした。これでも感情を表に出さないあたりは大したものだ。一流の結婚詐欺師になれるだろう。今でも似たようなものか。

 

「何故お判りに?」

 

「そんな阿呆な台詞を真顔で言えるような破廉恥な生き物は、ロマリアにしかいないとばあちゃんが言ってたのさ」

 

「これは手厳しい。おっしゃる通り、僕はロマリアより新たなる美を求めて参ったのです」

 

「なるほど」

 

 私は声の震えを抑えるのにかなりの労力を費やさなければならなかった。

 こいつが何を知っているのか。何を求めてここに来たのかが知りたい。

 知らねばならない。

 

「くだらない腹芸はおやめ。用向きだけ簡潔に言っておくれな」

 

 さすがにジュリオの表情が真面目なものに一変する。

 

「さすがはヴィクトリア殿下。噂通りの慧眼ですね。お見通しと言うことなら話を端折らせていただきます。モード大公の忘れ形見であるお二人に、神の思し召しについてお伝えに参りました」

 

 私の中の何かの回転数が、一気に跳ね上がった。呼吸が知らず早くなってくる。

 何だか妙な感じだ。変な汁が脳から出ているようだ。

 

「それはどうも。だけど、神の思し召しが必要なら街の寺院に行くよ。あんたみたいな青二才にわざわざ御足労いただくまでもないさ」

 

「高貴なる身分のあなたが、このようなところに埋もれている事については教皇猊下も心を痛めておいでです。また、魔法が使えぬ妹君につきましても、我々としてはお力になれるものと思います」

 

 音なき音が、聞こえた。

 それはガラスが砕けるような、派手な音だ。

 この男は今、地雷を踏んだ。

 私の中で回っていた何かの回転軸が折れて、私の中で何かが暴れ出す。

 動悸が、危険ほど激しく私の胸を打っている。

 呼吸が荒い。舌先に感じる、アドレナリンの味。

 私は極度の興奮状態にあるようだ。

 

「ふふ、馬鹿な男だね」

 

 私の笑顔を見て、ジュリオは一瞬だけキョトンとし、そして恭しく言った。

 

「すべてはお任せ下さい。悪いようには致しません。お望みとあらば、御身がアルビオンの王座に就かれるお手伝いもさせていただきます」

 

 何を勘違いしているんだろうね、こいつは。

 私の手を取ろうとした美少年の手を避けて、私は杖を手に取った。

 

「知ってるかい? 馬鹿ってのは死ななきゃ治らないそうだよ」

 

「え?」

 

 意味が判らず呆気に取られた顔をするお坊さん。

 忘れているようだ。

 ここは診療院。患者を治す所だと言うことを。

 私は告げた。

 

「どれ、私が治療してやろう」

 

 

 

 

 

 その日、チクトンネ街はおおむね平和だったと思う。

 いつも通りの、賑々しくも穏やかな街並み。

 その平和を破ったのが私の診療院だったことについては、後で方々に謝ることとしよう。

 玄関ドアを内側からぶち破って、直径1メートルほどもある水の球が唸りを上げて飛び出してきたのだから通行人は目を丸くしたことだろう。

 ドアを破った時点で水の球は派手に飛び散り、局地的なにわか雨になって通りに降り注いだ。

 

「ちょ、ちょっとお待ち下さい!」

 

 命冥加なことに、ぎりぎりのところで私の一撃を避けたジュリオは転がるように往来に逃げ延びていた。今ので楽になっておけば良かったものを。

 コンデンセイションで作った水球を、力任せに相手に叩きつけるウォーターハンマー。

 風魔法エアハンマーの水魔法版みたいなものだ。エアハンマーのように不可視の槌ではないだけに避けることが可能だが、水の密度は空気の800倍以上、まともに食らえば高度数十メートルから水面に叩きつけられるように結構簡単に死に至る。

 私が、母親を殺した魔法だ。

 あの時感じた、杖を通して伝わって来た命が壊れる感触を思い出すことを無意識に忌避していたのかトリスタニアに流れて来てからは使わなかった魔法だが、今の私にはそんな感傷は微塵もない。むしろ積極的にジュリオの命を刈り取るために杖を振るっていた。

 私の本能の深い部分が、こいつを生かして帰してはいけないと叫んでいる。

 理由は簡単。こいつは、私の城を攻めて来た明白な敵だからだ。

 私が大切にしている今の生活を、破壊しに来た怨敵だ。

 私たちの素性を知っており、それを利用するために接触してきたロマリアの尖兵。

 そして、タバサを騙し、ジョゼットを籠絡してまで事を進めようとする許し難い女の敵でもある。

 それだけなら、まだいい。

 それだけなら、大義のために苦悩する、迷える子羊として見ることができた。

 だが、こいつは口にしてはいけない言葉を口にした。

 

『魔法が使えぬ妹君』

 

 こいつはテファの事を知っている。その特殊性を理解している。そのうえで、私の診療院に乗り込んできたのだ。

 にやけ面下げて、まるで、落ちぶれ貴族の小娘など軽いものだと言わぬばかりに。

 噛みしめた奥歯が鈍い音を立て、上がった血圧で目の前がくらくらしてきた。

 まるで体が借り物のようだ。そんな借り物の体は一歩一歩と通りに転がり出たジュリオを追う。

 迫る私に対し、側溝から数匹のドブ鼠が飛び出して飛びかかって来た。さすがはヴィンダールヴというところだが、私を止めるには少々投資が足りないよ、坊や。

 そのドブ鼠たちに対して私の杖から銀光が跳び、水流カッターを受けた哀れなネズミたちが寸断されて地に落ちた。

 その切れ味を見て、ジュリオの目に初めて恐怖が伺えた。

 それでいい。存分に恐怖しろ。だが、絶望するにはまだ早い。心の聖域に土足で踏み込まれた私の怒りは、こんな程度では吊り合わない。

 どう刻んでやろうかと考えながら、右手に持つ杖を静かに構える。

 だが、振り下ろそうとした手を、誰かが掴んで邪魔をした。

 放せ、こいつが逃げたらどうするんだ。

 しかし、そいつは邪魔をするだけじゃなくて、腕ごと私を抱きかかえてきた。

 

「ダメ! 姉さん、それ以上はダメ!」

 

 ギュッと抱きすくめられ、顔の辺りに感じる二つの充実感。

 はて。

 

「あなた、姉さんに何したの!」

 

 私を抱きしめたまま凄まじい怒気を発している人の匂いは、テファによく似ていた。

 似ているというより、テファの匂いそのものだった。

 押し付けられた充実感から顔を上げると、柳眉を逆立てたテファの顔が見えた。

 テファが本気で怒っている。これは中々レアな眺めだ。美人が起こるとこんなに怖いんだなあ。

 そんなことを考える私の中で荒れ狂っていた何かがすとんと落ち着き、自分の体が自分の支配下に返ってきた。

 同時に感じたのは、強烈な疲労だ。体が鉛のように重く、息が苦しい。アドレナリンの余韻が痺れたように体に残っている。

 テファに押さえつけられながら、周囲を見回す。

 私の憤怒の余波を受け、ひどい有様だった。ドアが外れ、往来は水浸しだ。

 その周囲で、街の人たちが怪訝な表情で私たちを見ている。

 

「ぼ、僕は何もしていない」

 

「嘘おっしゃい! 何もされてないのに姉さんがこんなに怒るわけないわ!」

 

 私のことを守るように抱きしめたまま、テファは親虎のように唸り声をあげてジュリオを威嚇している。

 その様子を見ていた周囲から、妙な気配が漂い始めた。

 衆人環視。街の連中がテファとジュリオのやり取りを見ているが、知らぬ間に危険な空気は静かに広まっていたようだ。

 口火を切ったのは、配達途中らしい八百屋のおばちゃんだった。

 いきなり飛来したジャガイモが、ジュリオの横っ面にヒットした。

 

「あたしらの先生に何したんだい、この変態!」

 

 おばちゃんのその怒声を合図に、街の皆が一斉にジュリオに罵声を浴びせ始めた。

 罵声の次は物だ。石をはじめとしたいろいろなものがジュリオに向かって投げつけられ始めた。

 

「ち、違う……」

 

「うるせえ! このスケベ坊主!」

 

 ジュリオの反論は圧倒的な数の圧力の前に飲み込まれ、通りがかった職人や荷役夫の連中が数名でジュリオに飛びかかって袋叩きにし始めた。

 もともとが血気盛んな連中なうえ、原哲夫の漫画に出てきても違和感がなさそうな体つきの男たちだ。いくら腕自慢のガキ大将でも、多勢に無勢では如何ともしがたいだろう。

 坊さんをフクロにしちゃって後で大丈夫なのかと今更ながら不安になったが、そんな私の前でジュリオの小憎たらしいほど整った面がボクサー的な意味で男前に整形されていく。さすがはチクトンネ街の連中だ。手加減ってもんを知らない。

 鼻血まみれになり、お岩さんのように目を腫らしたジュリオがたまらず叫んだ。

 

「ア、アズーロ!」

 

 上空に待機していたのかジュリオの叫びを受けた風竜が即座に舞い降りてきて、翼の風圧で職人たちを吹き飛ばした。

 そして、そのままジュリオをホールドして、あっという間に飛び去って行った。

 

 

 

 

 あっさりと逃げられてしまった後の呆気にとられた空気の中、私の周りに街のご婦人方が心配そうに寄って来た。多くの女性に案じてもらえるのはありがたいのだが、総じて『おお、よしよし、可哀そうに。怖かったよね。もう大丈夫だよ』と言った暖かいニュアンスの言葉をいただいている。旧新宿区役所跡で開業している白い院長先生のような怖い医者様を理想と標榜する私の沽券に関わるような扱われ方が少々気になったが、あのエロ坊主についても何だか妙な誤解が独り歩きしているようだ。

 とりあえず、これでジュリオはこの界隈に近寄れないだろうから改めて誤解を解くような真似はしないでおこう。ロリコンだのペドフィリアだのといった噂が根付いてくれれば、この街の女性陣が奴の毒牙にかからなくて済む。

そんな皆に短く礼を言って、ちょいと杖を振って外れたドアを元に戻し、私はテファに促されて院に戻った。

 ひどく、疲れた。

 少し横になろうと自室に行こうかと思ったら、それはテファに止められた。

 

「今、飲み物淹れるから、居間にいて。見えるところにいて」

 

 と泣きそうな顔で言われては逆らう気力もわかない。

 リビングのソファにもたれて、私は襲ってくる疲労感を噛み締めた。

 極度に興奮した場合、その後にはひどい疲労感がやってくる。

 無様だ。これでも、平常心にはいささか自信はある方だったのだが。

 何しろ、目の前に凶刃があろうが杖を向けられていようが、そういう喧嘩出入りでは私は恐怖を感じないのだ。無論、すべてに対して恐怖を感じないわけではない。先日、変態の悪意に晒された時などはもちろん怖かった。だが、初めて人を手にかけて以来、事が闘争であると認識をした時、すべてがどこか他人事なように私の心はフラットになる。そういう点で私の心は、母を殺して以来どこか歪んでいるのだ。

 だが、今日の憤怒については、私も人が持つべきごく当たり前な感覚を味わうこととなった。

 言葉を発するのも億劫なくらい疲れた私は、回転が鈍った頭で考え込んだ。

 

 ロマリアが、テファの事を掴んでいた。

 予想はしていたことではあったが、その現実が、押しつぶすほどの勢いで私にのしかかって来た。

 いつかどこかで歴史が変わるのではないか、と淡い期待を持って過ごしてきた私の手持ちの時間がゼロになる瞬間の到来は、怯えていた割には結構あっさりとしたものだった。

 恐らく、爪を切り過ぎた時のようなものだろう。後から静かに深く痛んでくるのだと思う。

 そんな益体もない思考を遊ばせていたためか、自分の意識が勝手に落ちたことに私は気づかなかった。

 

 

 

 

 

 

 大事なことなので、もう一度言おう。

 夢は、嫌いだ。

 良い夢は起きたら覚えていないし、見たくもない夢に限って目覚めた後も私を追いかけてくるからだ。

 

 父の、夢を見た。

 今生の父だ。

 私の中の父の記憶は、本当に数えるくらいしかない。

 国政に携わっていただけに、相応に忙しかった父だった。財務監督官なんて大変な仕事をしていれば、仕事漬けで自領に帰ることがあまりなくても仕方がない。

 もっとも、彼にしてみれば政略結婚であてがわれた私の母よりも、自ら選んだシャジャルの方が共にいて心休まるのだろう。本宅より別宅に足が向くのもむべなるかな。

 そんな事情もあって、本当に滅多に見ない父だった。

 私の中の彼の記憶は、書斎の机で調べ物や書き物をしている姿ばかりだ。ランプの点いた部屋の中で、ペンを手に書類をサインで埋めている後姿。僅かに開いたドアの隙間から、その姿を覗いた時の記憶が私の中では一番鮮明な父の肖像だった。

稀に本宅に寄った時でも、帰宅を使用人たちとともに出迎える私に視線を向けることもなく、食事も一人でさっさと済ませて部屋に籠ってしまう父。

 人として、王族として、好いた相手と一緒になれない彼の境遇には私なりに同情していた。でも、私をまるでいないもののように扱い、愛情の欠片すら見せてくれない彼の姿勢は、やはり悲しかった。

 砂漠のような日々の中、ほんの少しでもいい、優しさは欲しかった。

 

 黙って父を見ている私の脇を、金色の影が通り過ぎる。

 何故かそれは、幼いティファニアだった。

 見たこともない、私とは違う場所に住んでいたはずの小さなテファ。

 なるほど、夢と言うのは何でもありだ。

 そのテファが仕事中の父の元に駆け寄り、子供らしい、天真爛漫な言葉を紡いでいく。

 振り返り、それを見る彼の視線の、なんと穏やかなことか。

 小さなテファを膝に抱え、父親らしい威厳と愛情を持った言葉をテファにかけていく。

 あの父が、ここまで無防備で穏やかな表情ができるとは思わなかった。

 

 それを理解した時、何故か私の目許に、涙が滲んだ。

 優しく笑う父。しかし、私が打ちのめされたのは、彼のそんな態度のためではなかった。

 一心不乱に自分の存在を拙い言葉で笑顔とともに伝えるテファ。子供故にできる、力任せで微笑ましい自己の主張だ。

 その姿が、正視に堪えぬほど眩しく見える。

 その眩しさが、私の心の闇を煌々と照らしていた。

 

 転生と言うものは、武器であると同時に、枷だ。

 前世の私は、父というものを知らなかった。

 その温もりも、力強さも、優しさも。成長するに従って、物心がつくかつかないかの頃にわずかに触れ合った記憶すら風化し、私の中には彼の記憶は全くと言っていいほど残っていなかった。

 父と言うものは、想像の世界の存在でしかなかった。

 故に、父と言う存在と触れ合う方法を、私は知らなかったのだ。

 思い返せば今生の父に対しても遠慮がちに、それこそ焼けたストーブに手を伸ばすような態度でしか触れてこなかったように思う。

 目の前のテファの姿に、その自分の振る舞いが、いかに歪だったかを浮き彫りにされていく。

 私は馬鹿だ。

 どこの世界に、意味もなく躊躇いがちに親と接する子供がいるというのだろう。

 自分と言う存在を主張することなく、父を他人のように見つめ、子供ゆえの無邪気な愛情の要求もしなかった私が、彼の目にはどのように映っていたのだろう。

 何と不気味な子供だったのだろうか。

 何と自分勝手な私だろうか。

 彼の情の薄さを責めるばかりで、私自身が彼を愛そうとしていなかったのだ。

 幸せそうに笑い合う、テファと父の姿。

 もし、私が子供らしく彼に真正面から向き合っていれば、私もまたあの膝の上で、彼を「父様」と呼ぶことができたのだろうか。私に、優しく笑いかけてくれたのだろうか。

 テファの邪気のない笑い声が心に刺さり、私は耳を塞いで蹲った。

 そこにあるのは、ひとつの完成された幸せの形だ。

 二人を見れば見るほど、テファとシャジャルを手放さなければならなかった父の心が理解できてしまう。

 生木を裂かれるように、大切な誰かを理不尽な理由で奪われるのだ。

 辛かったことだろう。

 悲しかったことだろう。

 己の命と引き換えにしてでも、守りたかったことだろう。

 

 私の口から、乾いた笑いが漏れた。

 堪え切れず、それは哄笑となって虚空に響き渡った。

 父と私の感情が同期し、私は初めて理解した。何と愚かな私だろう。私は、何を見てきたのだろうか。何故、今まで父の気持ちを考えようともしなかったのだろう。

 モード大公、いや、許されるものであれば、父上と呼ばせていただきたい。

 私は、貴方の娘は、この上なく愚かな親不孝者は、今、ようやく理解しました。

 守りたい。

 大切にしたい。

 いつまでも、一緒にいたい。

 私がテファに対して抱いている感情は、まさにあなたがシャジャル親子に抱いたものと同質のものなのでしょう。

 だから、今の私は、あの時貴方が抱いたであろう苦悩を我が事として理解できるのです。

 

 なるほど、これは辛い。

 なるほど、これは耐え難い。

 生き別れは、死に別れより苛烈な責め苦だ。

 大切な人の手を離すと言うのは、これほどまでに辛いものだったのだ。

 

 父を恨みもした己の浅慮が、許し難い罪として重く心にのしかかる。

 彼を物事の損得勘定もできない人と思ったこともあった、どうしようもない自分を許せぬほどに。

 

 体内の酸素を消費しきるほどに、体内の毒素を吐き出しきるほどに、ひたすら笑い続けて、ようやく私は落ち着いた。

 吐き出すものをあらかた吐き出し、私の思考はようやくクリアになった。

 突きつけられたものは、今となっては償いようがない罪だ。

 私がこの先、永劫に渡って背負わねばならない十字架。

 ならば、罪には罰を。

 罰がないのならば、贖罪を。

 父が大切にしたものを守ることをもって、父への贖罪としよう。

 そしてそれは、私の望むものでもある。

 この胸の耐え難い痛みこそが、その罪科なのだと心得よう。

 だからこそ、私は戦わねばならないことを理解する。

 敵と、この世界と、そして自分自身と。

 悟りにも似た、玲瓏なものが心に満ちる。

 大丈夫。

 今の私なら、始められる。

 

 甘美で幸せだった、夢の幕引きを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 柔らかい感触に目が覚めると、私は仰向けに寝ていた。

 外は夕焼け。茜色の光が差し込むリビング。

 私の目の前に、泣きそうなテファの顔があった。

 テファの膝枕と言う贅沢な状況を理解するのに、数秒かかった。

 

「姉さん、大丈夫?」

 

 私の額に手を当てて、自分のことのように辛そうな顔でテファが言う。

 

「ん?」

 

 違和感に顔をに手を当てると、涙が滲んだ跡があった。寝ながら泣いていたらしい。

 目元をこすって、乾いた笑いを浮かべて体を起こす。

 そんな私を、見つめるテファ。

 夢に出てきた女の子の面影を残しながら、大人になり始めている私の妹。

 泣き虫で、ちょっとドジで、でも誰よりも優しい女の子。

 できれば、いつまでも一緒に暮らしていたかった。

 テファが誰かに嫁いでも、家族ぐるみで付き合えればと夢見たこともあった。

 だが、それを望むことは破滅への一本道をひた走ることに他ならない。

 その先にあるものが何なのかは、父が教えてくれた。

 だから、私は逆の道を選ぶ。

 父とは違う道を、選ばなければならない。

 手を握ると、力は戻っている。体調は回復していた。

 ディフェンスに回ると感情に呑まれる。ここは、攻めなければならない。

 両の頬を両手で叩き、私は意を決した。

 悩む時間を作らぬよう、私は切り出した。

 

「テファ」

 

「何?」

 

「夕飯は、軽く摘まめる程度のものにしておくれ」

 

 それすらも、喉を通らなくなるかもしれないが、酒だけでは間がもつまい。

 私が言っている事を理解できないような顔で首を傾げるテファに、私は静かに告げた。

 

「前々から言っていた、『いつか話す』という、その『いつか』が来たようなんだよ」

 

「え?」

 

「今夜、話すよ。皆に、私が何を知っているのかを、ね」

 

 私は、かりそめの幸せの終焉を告げるベルを鳴らした。

 

 

 

 

 

 リビングのソファに陣取り、幾度も思考を巡らせる。

 さて、どう話したものか。

 どこまで話したものか。

 何を言っても、信用はしてもらえると思う。それだけの付き合いをして来た私たちだ。

 だが、どこをどう説明しても、どこかが嘘っぽくなってしまう。

 物語を眺めていた前世の私。皆が、その物語の登場人物だと言って、理解してもらえるだろうか。

 カレーを知らない人に、カレーパンの話をするような気分だった。

 

 工房組が帰宅し、ただならぬ私の気配に身構えながら私の周りに座った。

 テーブルにはサンドイッチと飲み物。全員が、無言で私の言葉を待っていた。

 始めよう。

 一世一代の知恵と勇気を絞り出してでも、皆に話さなければならない。

 姉として、妹して、主として、そして、家族として。

 

「私は、ね」

 

下腹に力を入れて、私は話し始めた。

 

「生まれつき、ちょっと変わったところがあるんだよ」

 

 ここから先の話は大博打だ。信じてくれなかったら、そこまでの話。

 私は意を決して踏み出した。

 

「予知夢って、知ってるかい?」

 

「……夢で未来のことを見るって奴だろう?」

 

 マチルダが穏やかな声で応じた。頷いて、私は続ける。

 

「私はたまにそれがあってね。変な知識や技術なんかは、子供のころからその関係で身についたんだよ」

 

 転生という言葉はさすがに厳しいと思い、苦肉の策でひねり出した設定だ。

 所詮この世は胡蝶の夢。そう間違った説明ではないだろう。

 

「……信じてもらえるかい?」

 

 戸惑いを隠せないテファに対し、マチルダは得心がいったように頷いている。ディルムッドは無言で聞いているだけだ。

 リアクションはマチルダからだった。

 

「信じるよ」

 

「いいのかい? 言ってる私だって突飛な話だと思うことだよ?」

 

「嘘を言ったわけじゃないんだろう?」

 

「そりゃそうだけどさ」

 

「こんな状況で、あんたが嘘をつく奴だとは思わないよ。…なるほどね。そういうことだったのか」

 

 先日の、テファの窮地に駆け付けたことに対する問答のことを思い出しているのだろう。

 その辺はあとでテファにも説明しよう。今は、それよりも重要なことがある。

 

「信じてもらえるなら話は楽だ。今日来た奴の話もしやすい」

 

「誰が来たって?」

 

「ロマリアの、神官だよ」

 

「ロマリア?」

 

 マチルダが怪訝な顔をする。今まで私たちの日常の中には、出てきたこともない単語だからだろう。

 

「宗教庁の狗さ。さすがはハルケギニアで一番腹黒い国だ。私のこともテファのことも知っていたよ」

 

「じゃあ、姉さんが怒ってたのって……」

 

 テファが驚いた顔をしている。

 

「すまないね、テファ。別にあいつに無体をされたわけじゃないんだよ。私が『識』っていたあいつは、とんでもない悪党なんだ。女を平気で泣かせる外道と言う意味じゃ、無体を働くよりたちが悪い奴さ。その調子で乙女の純情を踏みにじろうとしたから、お返しに奴の人生を踏みにじってやろうとしていたんだよ」

 

 とりあえず、誤解を解いておく。誤解と言うより、テファの認識よりもっと悪どい奴だと思ってもらうのが適当だと思う。あれはこの世のすべての女の敵だ。

 そんなやり取りを他所に、マチルダが訊いてきた。

 

「アルビオンの話に、何か関係があるのかい?」

 

「私を担ぎ出そうとするだけだったら、まだ良かったんだけどね」

 

 私の答えに、マチルダは意外な顔をした。昨年の騒動以来、荒事が起こるとしたら私の血筋というのが彼女の中の認識なのだろう。それを否定するため、私は告げた。

 

「奴が用事があったのは、私じゃなくてテファなんだよ」

 

「私?」

 

 不意を突かれたテファが目を丸くする。

 私は、一つ息を吸い込んで言った。

 

「テファ……お前はね、『虚無』の担い手なんだよ」

 

「虚無?」

 

 呆気にとられている女二人と、険しい顔をする男一人。

 私はできるだけ噛み砕いて虚無のことを話した。

 始祖直系の3国とロマリアに、一人ずつ虚無の担い手が顕れること。

 担い手は王家かその係累に顕れ、魔法が使えないという共通項があること。

 始祖の秘宝と呼ばれる4つのルビーと4つの秘法によって封印が解けること。

 虚無に目覚めると、系統魔法では及びもつかない強力な魔法が使えること。

 テファの忘却の魔法は、そのうちのひとつであること。

 虚無の担い手は、テファがたまに歌う歌にある四種類の使い魔を呼び出せること。

 ロマリアがその力を使って聖地奪還を考えていること。

 そして、近い将来、未曽有の大隆起が起こるということ。

 ただし、ロマリアが本当に大隆起の阻止のためだけに四の四を揃えているのかは疑問符が付くということ。

 

 すべてを話し終え、私はため息をついた。

 

「私が把握している話は、こんなところだよ」

 

 話があまりに大きいだけに、二人とも黙り込んでしまった。

 無理もない、ただの女の子が、いきなり世界の命運云々を背負わされると言っているのだ。

 

「ヴィクトリア……」

 

 マチルダが言う。

 

「こんな大事なこと、何で今まで内緒にしてたんだい?」

 

「私の予知夢も、百発百中とはいかないからさ。去年皆に迷惑かけちまったことなんか、夢に見たことなんかなかったしね。たらればの話で、皆を振り回したくなかったんだよ」

 

 私が知る歴史と、少しだけ違う今の時間軸。何がどうなるか判らないうちから、皆を巻き込んで大騒ぎをしたくなかったのは本当の事だ。

 

「それで」

 

 口を開いたのはディルムッドだった。転生がらみの話に行きかけた流れに、このフォローはありがたい。

 

「主はどのようにするべきとお考えなのでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜、自室に戻り、私は窓辺に座って月を見上げた。

 

 ただ、ひたすらに考える。未来を、どうやって切り開くか。

 現状維持と言う未来がない以上、善後策をどうして行くかで私たちの状況は大きく異なるだろう。

 その中で、大きなウエイトを占めてきたのが、才人がらみで考えていた場所。

 私たちの故郷、アルビオンだ。

 

 才人を救うには、アルビオンに渡るしかない。

 困難極まるその方策について、ひとつ心当たりがあった。

 普通の手段では、組織に縛られず自由闊達に活動しながら戦争の帰趨にメスを入れることは確かに至難の業だ。

 しかし、私にはここで切れる前世の知識というカードが手元にある。

 その手札の中には、私の計画を実現できる接ぎ穂になりうる手段があった。

 

 慰問隊。

 

 降誕祭に合わせ、遠征軍への補給とともに王都の主だった店がアルビオンに出向いて兵を慰撫するイベントがあることを私は知っている。これにオブザーバーとして同道する。民間人が異郷に行くにあたっての付き添いの町医者と言うことにでもすれば通るだろう。それくらいの実績と信用は積み上げてきたつもりだ。公然とアルビオンに渡るのに、これ以上の機会はないだろう。私が元王族であることが全く表に出ず、年齢性別関係なく、一般人の平民に溶け込んでの移動だ。全てにおいて理想的だと思う。

 問題は、アルビオンで何をするか。

 前線に出張って行って、『やあやあ、我こそは』とディルムッドをけしかけるつもりはない。

 これは所詮、神聖アルビオンとトリステイン・ゲルマニア連合の喧嘩であって、私の喧嘩ではない。そこに義がない以上、彼に命を懸けてもらう訳にはいかない。

私が記憶している歴史では、まともな展開であれば中飛車急戦が決まって連合軍が勝利していただろう。兵力や士気、いずれも神聖アルビオンに勝ち目はなかったはずだ。

 神聖アルビオンが首都ロンディニウムを放棄し、焦土戦術を取れば戦費の問題から連合軍は攻勢限界を迎えただろうが、その手を使えば策源地を失った神聖アルビオンの方が兵力を維持できなかったと思う。制空権を失い、上陸を許した時点で神聖アルビオンは半ば詰んでいたはずだ。

 その逆境を覆した要素こそ、アンドバリの指輪と、我が最愛の怨敵であるシェフィールドだ。

 ガリアの髭が注いだアンドバリの指輪と言う猛毒。サウスゴータの水源に放たれた先住の魔法により連合軍は敗走することになる。

 しかし、この世界にはその猛毒を無効化できるイレギュラーが存在する。

 シェフィールドと同様に、国家間の戦争とは全く違うところで双方の運命を左右できる力を行使しうる存在。

 それが私だ。

 向こうがアンドバリの指輪という鬼札を使えるならば、こちらにも強烈な鬼札が存在する。

 英霊ディルムッド・オディナ。その力は完全武装の戦闘機にも相当し、この世界での兵力換算でメイジ千人分はくだらない戦力だ。相手が虚無の使い魔であっても負ける気はしない。

 策は至ってシンプルだ。アルビオンに渡り、サウスゴータ郊外の水源で網を張る。そこに来たシェフィールドを討てばいい。

 Xデーは降誕祭初日。舞台はシティオブサウスゴータから30リーグほど離れた山の中。水源を辿れば会敵できると思われる。指輪の行使さえ阻止すれば、正攻法で決着がついて連合軍は勝利できるだろう。不確定要素は、ガリアの両用艦隊の動向だけだ。

 護衛に髭がいたと思うが、邪魔をするなら奴も一緒に始祖の御下に送ってやるまでだ。

 風のスクウェアと虚無の使い魔に対し、こちらは水のスクウェアと規格外の使い魔。正面衝突ならばこちらに分がある。

 それまでは、ただひたすら時期の到来を待つ。

 焦る気持ちはあるが、才人救済と言うことでは現状ではそれが最善手だと思う。

 

 これに、もう一つの目標を追加する。

 その事を考えながら、私は先ほどまでの話を反芻した。

 

 

 

 

 

 

 ディルムッドに問われ、私は指を二本立てた。

 

「取れる手段は二つ。一つは逃げること。サハラを越えて、東方くらいまで逃げればロマリアも諦めるだろうよ。残念だけど、ハルケギニアにいる限り連中の目から逃れる術はないだろうからね」

 

「サハラを……」

 

 テファが複雑な顔をする。エルフにとって、自分がどのような存在なのかをテファは知っている。

 そんなテファの頭を撫でて、マチルダが言う。

 

「まあ、逃げようったって、宗教庁がおいそれと逃がしてくれるとは思えないよ。それは最悪の場合の最後の手段として考えようじゃないか」

 

マチルダの意見に私は頷いた。

 

「逃げるとなったら、それこそあの時のアルビオン脱出どころじゃないだろうね。国境線は厳重に封鎖されると思う。追っ手もわんさか出てくるだろうさ。下手したら、ヴァリエールの公爵夫人あたりまで出て来かねない。ディーがいれば突破はできるだろうけど、犠牲者の数はとんでもない数字になるだろうよ。そうなれば、私たちは未来永劫お尋ね者さ」

 

 東方に逃げるのだからお尋ね者も何もあったものではないが、やはり後味は良くないだろう。

 

「それで、もう一つというのは?」

 

 一縷の望みと言う感じでテファが訊いてくる。

 

「ハルケギニアにいる限り、ロマリアの手からは逃げられない。ならば、懐に飛び込んで死中に活を求める。トリステインの庇護下に入るのがこの場合は適当だろうね」

 

 そう、まともにやってもロマリアには勝てない。それに矢を向けることは、中世ヨーロッパでカトリックを敵に回すよりも厳しいことになるだろう。

 この世の中、武力だけが力ではない。いつかの例えではないが、朝の一杯の牛乳に毒が入っているだけでも人は死ぬのだ。お国柄に鑑みても、カンタレッラくらい普通に持っていそうな連中だし。

 組織と対峙する時は蛇の頭を潰すのがセオリーではあるが、討って出た場合、私の勢力がロマリアに入った時点で捕捉されるだろう。教皇暗殺にディルムッドを差し向けた時点で、無防備な私たちを抑えれば敵の勝ちだ。用事があるのはテファで、私はスペアとくれば、マチルダを刻んで威嚇するくらいはしてくるだろう。とんでもない話だ。

 

「アルビオン王家の血筋、加えてハルケギニアの最重要人物の一人なんだ。悪いようにはされないだろうよ。貴族に名を連ね、トリステインの庇護下に入る。偉いさん達の目の前でお前の魔法を見せれば、あとは勝手に向こうが守ってくれるだろうさ」

 

「貴族……って、私だけ?」

 

 テファの表情の中の不安分が急速に増加する。

 

「そうなるね。住むところも王宮が用意してくれるだろう。言った通り、立場が立場だ。ここで暮らすのは、さすがにちょっと無理かな」

 

「そ、そんな事って……」

 

 さすがにテファは真っ青になった。その表情に、流石に胸が痛む。

 この子にこんな顔をさせてしまう自分が、正直情けなかった。

同時に、この子もまた、私たちと一緒にいたいと思ってくれているのだと判って嬉しくもある。

 共に暮らして4年。血よりも濃い絆と言うのがあるのかどうかは知らないが、間違いなく私たちの間に通い合ったものがあるのだとその表情が語ってくれている。

私だって、離れ離れにはなりたくはない。でも、これは仕方がないことなのだ。

 

「すまないが、今度ばかりは私たちだけじゃお前を守ってやれない。ハルケギニアに残るなら、必要なのは武力より相応の政治力だよ。それがないことには、後ろ盾のないお前がどんな目に遭うか判ったものじゃないんだ」

 

 少しだけ涙を滲ませながら、テファは頷いた。

 

「それで、具体的な方策は?」

 

 マチルダの問いに、私は答える。

 

「戦争が落ち着きかけたころにヴァリエール公爵に持ちかけて、渡りを付けてもらうのがいいだろうね」

 

「今すぐじゃダメなのかい?」

 

 マチルダの言葉に、私は首を振った。

 

「トリステインは、既に虚無の事を認識しているからね。でも、困ったことにアンリエッタ女王は虚無を兵器として使う考えを持っているんだよ。そのために、ルイズと才人は今頃出征の準備中だろうさ」

 

「ルイズ……って、まさか、さっき言ってたトリステインの虚無の担い手ってのは……」

 

「ルイズのことさ」

 

 これにはさすがに全員絶句した。

 

「あの子の虚無が発動したのがこの間のタルブの戦いだ。あの子の魔法一つで、神聖アルビオンの艦隊は全滅したそうだよ」

 

「まさか……」

 

 核兵器を知っている私ならば地上に太陽が生まれても想像はできるが、知らなければその光景を想像することも難しいだろう。

 『烈風』カリンが恐れられた理由に、スクウェアクラスの魔法『カッタートルネード』があったと思うが、あの規模でもこの世界では恐怖される攻撃だ。ピヨった状況ではあったものの、あれをライブで見たことがある身としては確かにその凄まじさにビビったものだが、それでも核兵器じみたルイズのエクスプロージョンに比べれば見劣りすると思う。あれは光らせてはいけない光なのだ。

 

「それだけ強大なるが故に、エルフは悪魔の力として虚無を恐れている。まさに国家として切り札になり得る潜在能力が、虚無にはあるのさ」

 

「今トリステインに保護を求めると、テファが戦争に放り込まれかねないということかい?」

 

「恐らくね。アルビオンでは、ウェールズ殿下が生きているという情報があるんだよ。彼に恋い焦がれるアンリエッタが使える駒を放置しておくわけがないだろうさ」

 

 

 その説明を最後に、皆黙り込んだ。

 仕方がないことだ。あまりに突飛な話なのだから。完全に飲み込むには時間がかかるだろう。

 

「ティファニア」

 

 私の言葉に、テファはびくりと反応した。

 

「今すぐ選べとは言わないよ。ロマリアも今日のことを受けて、ロマリア本国の判断が届くまではおいそれとは動かないと思う。今日来た坊主だって、本来は義勇軍として従軍するために来たんだしね。でも、お前が逃げることを選ぶなら、私も腹をくくるよ。追っ手は私とディーで引き受ける。何があってもお前は逃がして見せる。逆に、トリステインに取り入るなら、さっき言ったタイミングで動こう。それに、この二つ以外にもまだ手はあるかも知れないし、この国の状況だってどうなるか判らない。お前の人生の岐路、どっちを取っても大変なことには変わりはない。どうすればいいか、皆で考えよう」

 

 その会話を最後にテファが泣き出してしまい、悲しい家族会議は終了となった。

 

 

 

 

 

 

 

 問われて提示はしたものの、逃げるも残るも、私としては本心ではどちらのプランも及第点は付けられなかった。

 正直、私はアンリエッタをそこまで信用していないのだ。

 教皇の甘言に騙され、いいように踊らされていた原作のあり様は一国の元首としては少々器量に疑問が残るからだ。成長過程にあると言っても、今の私が用事があるのは充分な能力を持った王様なのだ。大人の世界は結果がすべて。過程の努力を褒めてもらえるのは少年期だけの特権だ。

 何より困ったことに、テファが虚無の看板を掲げてアンリエッタに擦り寄っても、既にトリステインにはルイズがいる。ハーフエルフであり、後ろ盾すらないテファとルイズを秤にかけたら当然のごとくルイズが重くなるだろう。何かあった時にテファを人身御供にされてはかなわない。

 後ろ盾が欲しい。アンリエッタだけでは不足する、強い政治的な影響力。

 それこそ、ヴィットーリオが、そう気安く手出しができなくなるくらいのレベルで。

 相応の地位がある人物で、私が接触可能な人物を模索する。

 ヴァリエール公爵は、いくら親しくしてもらっていても王室やロマリアを敵に回してくれとまでは頼めない。いろいろお世話にもなっている彼を苦しめるのは本意ではない。

 幾人も候補者を想像し、同じ数だけのダメ出しを自分に出す。

そんな中で、テファの安全を担保してくれそうな人物に、一人だけ心当たりがあった。

 交渉の余地があり、相応に視野が広いであろう為政者側の人物。

 結論として行き着いたのは、私とも縁がある人だった。

 

 ウェールズ・テューダー。

 

 己が人の上に立つことの意味を知っている人だ。

 アンリエッタの亡命の勧めすら拒絶して城を枕に討ち死にする覚悟を決めたあたりは、間違いなくアンリエッタよりも成熟した為政者だと思う。

 彼に、トリステイン預かりとなった場合のテファの後見人、もしくはアルビオンでテファを受け入れた上で庇護者の任を託せないだろうか。トリステインとアルビオン両国のトップを引き込めれば、政治的な盾としては及第点が取れる気がするのだ。

 少なくとも、トリステインの庇護下に入るというプランを保険として保持しながらも、アルビオンとのパイプを作る努力は無駄にはならないだろう。ドジを踏みかねないアンリエッタに対する牽制にも有効だと思う。

 欲を言えば、アルビオンの王権の復興が成った時、そこで掌中の珠としてもらった方がテファの安全を担保できるように思うのだ。

 それには、最低条件としてまず戦争の勝利が必要だ。勝利さえすれば、戦後に同盟両国に然るべき国益を与える等の問題を抱えることになるだろうが、始祖の3本の杖として、その主権は保証されることだろう。

 確かにテファがハーフエルフであること、また失脚した父の子であることはハンデだ。これまでの経緯も、取り沙汰される可能性はあるだろう。

 だが、ルイズがあげた実績を考えれれば、虚無と言う要素はそれらを払拭してお釣りがくるほどの魅力を持つだろう。

 何より、虚無はロマリアも認める始祖の属性だ。下手をすれば、始祖直系を名乗っても通るほどの威光を持つ。そんな属性のテファならば、過去はどうあれ、聖女と持ち上げられることはあっても邪険に扱われることはないと思う。

 

 無論、リスクはある。

 私の都合のいい妄想にも似た想像と、実際の物事がかけ離れたところで推移することがありうる。

 アルビオンが復興まで、国力や軍事力で他国に対し引け目を感じるというのもある。

 テファが呼び出すとされる使い魔の存在も看過できない。

 神の心臓・リーヴスラシル。

 「記すことさえはばかられる」と言われる第4の使い魔の存在が何なのか知らないが、ロマリアにとっても鍵になる存在だろう。その身柄のやり取りにおいて、強権発動すら辞さないロマリア相手に、対等の立場での交渉が可能だろうか。

 あげればきりがないくらい不安要素はあるが、それでもウェールズ殿下の王器を考えるとアンリエッタを頼るよりは良手であるように私には思えるのだ。

 どうやってコンタクトを取るかは考えなければならないが、連合軍の陣営にいれば、どこかで機会がないこともないだろう。

 所在さえ判れば、ディルムッドに投げ文を頼めば何とかなると思う。

 

 そんな状況の中、何よりも怖いのがアルビオン遠征の戦いの中でウェールズ殿下が倒れると言う可能性があることだ。

 残存する王党派の数はさほど多くはあるまい。大所帯では、今まで神聖アルビオンの目から逃れることなどできなかっただろう。その程度の兵力では上陸作戦に呼応して決起したとしても、どこかで何かをとちれば各個撃破されてしまいそうな小勢だろう。

 もし、ウェールズ殿下が死んでしまった時はどうするか。

 私が考えうる、最悪の事態がそれだ。

 そうなった時、私が取れる選択肢は一つしかない。

 私には為政者の器はない。しかし、先日のアンリエッタの様子では、そんな事情はお構いなしにすぐさま私は引っ立てられて、被りたくもない茨の冠を被せられることだろう。それは私の意思では取ることができない呪われたアイテムだ。想像しただけで身の毛がよだつ。

 しかし、もし本当にウェールズ殿下が死んでしまったとしたら、私は自分の心を殺してでも王として戴冠しなければならないだろう。テファを守るため、己の無きに等しい王器やカリスマを度外視してでも権力を求めねばならない。

 王になぞなりたくはない。

 だが、それをしなければテファの周囲に暗雲が立ち込めるというのであれば、私は迷わない。

 私の自由を対価にテファの未来が買えるのならば、充分にバーゲンセールだ。

 マチルダが私に言ってくれたように、私もまた、ティファニアのお姉ちゃんなのだ。

 それ程度の覚悟くらい決められなくて、何が姉であろうか。

 

 ともあれ、まずはアルビオン戦だ。

 どういう選択をするにしても、連合軍に勝ってもらわなければ私たちの未来は見えない。

 

 私は一つ頷き、窓辺から降り立って口を開いた。

 

「ディルムッド」

 

「これに」

 

 闇が人影を生み出すように、音もなく室内に私の使い魔が現れた。

 振り返り、私の前に立つ美貌の使い魔を見る。

 およそこの世で勝てる者はいそうにない、傑出した使い魔。

 何度考えても、私には過ぎた従僕だ。

 

「ディルムッド、お前は、後悔していませんか?」

 

 この時、私が口から発したのは、私人ではなく、王家に連なる者としての公式なものだ。

 それだけの礼を尽くさねばならない言葉を、彼にかけるつもりだった。

 

「後悔……お言葉の意図を計りかねますが」

 

「私は生まれはともかく、今は名も地位もない、ごく平凡な一般人です。誰かに忠義を捧げてもらうような立場にはありません。それこそ何も背負っていない、ただの女です。それに引き換え、お前は誉れ高き希代の英雄。さすがに、これでいいのか、と思うことがあります」

 

「何を仰るのかと思えば」

 

 私の言葉に、ディルムッドは笑って答えた。

 

「主は、既に多くのものを背負っておいでと存じます」

 

「何を。私くらい勝手気ままな者も珍しいくらいでしょう」

 

「本当に勝手気ままな方であれば、今の主のように苦悩することはありますまい」

 

「己の欲に忠実であるだけです」

 

「そう思えることこそが、崇高であると臣は考えます」

 

 彼なりの気遣いが、胸に暖かい。

 

「買いかぶりを」

 

 尚も反論する私に、ディルムッドは微笑みを持って答えてくれる。

 

「胸をお張り下さい。主は、私がお仕えするに相応しい方と信じております」

 

 この上なく、ありがたい言葉。本当に、私などにはもったいない言葉だ。

 だが、何となく、彼がそう言ってくれると思っていた。

 だからこそ、私は告げることができるのだ。恐らくは、彼が欲しているであろう言葉を。

 

「その言葉、心より感謝を。ならば、その言葉を縁として、お前に言わねばなりません」

 

 私は杖を構え、大きく息を吸ってから彼に告げた。

 

「我が無二の忠臣、騎士ディルムッド・オディナよ。伝説に謳われし英傑よ。アルビオン王国モード大公が嫡女、ヴィクトリアの名において命じます。お前の名誉にかけてその槍を、我が悲願と勝利のために振るいなさい。私の心と血肉は、お前の槍の誉れと共にあります。今度ばかりは、負けるわけには行かぬのです。我が妹ティファニアを守るため、お前の力を、私に貸してください」

 

 私の言葉を静かに聞いていたディルムッドは、やがて俯き、肩を小刻みに震わせ始めた。

 安っぽい言葉ではあるが、私なりに精いっぱいのそれを、彼なりに意味あるものと受け止めてくれたらしい。

 私の前に片膝をつき、希代の騎士が私の手を取って深々と頭を垂れる。

 

「そのお言葉を……お待ちしておりました」

 

 無敵の使い魔は、厳かにそう答えてくれた。

 それだけで百万の援軍を得た思いだ。

 心の底から、彼を頼もしく思う。

 

 

 これでいい。

 心の準備はもう、これでいい。

 

 

 

 征こう、アルビオンへ。

 あの、風の国へ。


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