トリスタニア診療院繁盛記   作:FTR

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その40

「先生」

 

 客の姿がまばらになった店内、ジェシカは一番奥のテーブルに突っ伏していた小さな客の肩を揺すって起こした。

 

「ん?」

 

 アルコールで濁った眼をした少女が覚醒し、ジェシカに顔を向ける。

 

「看板かい?」

 

「もうじき日が変わるわ」

 

「おや、それは長居しちまったね。じい様連中は?」

 

 周囲を見回し、先刻まで一緒に飲んでいた人々を探す。

 

「もう帰ったわ」

 

「うわ、置き去りとは薄情な連中だなあ」

 

 寝ぼけ眼のまま財布をまさぐり、硬貨を取り出してジェシカに渡そうとする。

 

「もう、もらっているわ」

 

「誰に?」

 

「先生が言うところのじい様たちに」

 

「何だ、また勝手に払っちゃったのか。けしからんなあ、もう。ジェシカ、お前さんも私にただ酒を飲ませる片棒を担いじゃダメじゃないか」

 

「はいはい、次は気を付けるわよ。今度先生が奢ってあげればいいでしょ?」

 

「それもそうだね。それじゃ、帰って寝るよ」

 

 判っているのかどうか怪しい感じで受け答えしながら、少女が黒いコートを着こむ。

 

「毎度どうも。気を付けて帰ってね」

 

「ありがとう。御馳走様」

 

 どこか怪しい足取りで店を出行く少女の後姿を見送り、ジェシカは傍らの父親に話しかけた。

 

「見ちゃいられないわ。ここのところ連日だけど、お店が開いてから日が変わるまでよ。大丈夫なのかしらね」

 

「健康については、あの子の方が専門家よ」

 

「でも、お酒の量もどんどん増えてるし、あの顔色……」

 

「眠れないのよ、きっと。ここに入り浸る理由も、判るわ」

 

 どこか、悟った口調でスカロンは言う。

 

「……そうだったわね」

 

 誰もいない家。それがどれほど辛いかはジェシカにも想像がついた。これまでの少女の日常を知るだけに、少女の心境は察するに余りある。

 

「何とか、ならないかしら」

 

 かつて、母を亡くして悲嘆にくれた記憶があるジェシカにしてみれば、その立ち直り方にも思うところもある。だが、自分には父であるスカロンがいたが、今の少女には支えてあげられる者がいないことも知っていた。

 

「今は、耐えなきゃいけない時よ。潮目が読めない時は、待つのが鉄則」

 

「そんな簡単に変わるものなの、潮目って?」

 

「……変えてくれる人がいればね」

 

 そう言ってスカロンは妙に深い目を愛娘に向ける。

 その手には、届いたばかりの封筒が一通。

 

 

 

 

 

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「石頭、間に合わせ、接待、いかがわしいイカ、花葬、うちわゲンカ、かず子ちゃんの笛……『え』は何だっけなあ……」

 

 アルコールの名残が残る呆けた頭で自分でも訳のわからないことを呟きながら、上着のポケットに手を突っ込んだままに夜の街をそぞろ歩く。酔いはあらかた醒めているが、まだ少々足元が覚束ない。

 夜気が妙に寒い。酒が抜けかけているせいもあるのだろう。

 医者とて人の子。くさくさする時だってある。そんなくさくさを酒精で洗い流そうと酒場に出向くのだが、その度に街のじい様たちが寄って来て酒を注いでくれるから困る。いつも分量超過で酔い潰れてしまうのだ。

 そんな困った連中だけど、私が診療院で一人暮らしを始めた事は皆知っている。広いようで意外と狭い王都の住人達のネットワーク。私以外の3人が、当分の間マチルダの故郷に行っているという私の説明はあっという間に広まっていた。日頃楽しくやっていた私たちを知っている人達なだけに、今の私の心情を察してくれるのだろう。酒瓶を持って軽口を叩きながらも、私を元気づけようとしてくれているのが判って鼻の奥がつんとなったのも一度や二度ではない。

 トリスタニアは、いい街だと思う。

 この街の人達のためならば、生涯を捧げても私は後悔しないだろう。

 皆のために働き、穏やかに歳を取り、町内最強の謎の婆さんと呼ばれながら、やがて街外れの墓場に眠る。

 それは、予感にも似た将来の夢だ。

 そうやって、私はこれからの私の時間を過ごしていくのだろう。

 

 夜の闇が絶好調の時間、私はチクトンネ街をふらふらと自宅に向かった。

 ちょっと前までは、こんな時間に家に帰れば、般若面のような形相をしたマチルダが玄関先に仁王立ちしていたものだ。

 

『何の連絡もなしに午前様とは、いい御身分だねえ、え?』

 

 今でもそんな幻聴が聞こえそうなくらい、こっぴどく怒られたものだった。あの頃はお前は私の父ちゃんか~、と思ったりもしたが、今となってはその暖かさが懐かしい。『寂しさは 叱ってくれる 人がいない』という川柳は何で読んだっけね。

 つらつらとそんなことを考えながらコートのポケットから手を抜いて、その手にある杖をゆっくり壁際の物陰に向ける。

 

「待て待て、撃つんじゃねえ馬鹿、俺だ!」

 

 割と焦った声が闇の中から響き、最初に拳銃を持った手が出てきて、次いで男の全身が現れる。

 

「何だ、あんたかい」

 

「何だ、じゃねえよ。いいから杖降ろせって」

 

 言われるままに杖を下げると、現れた武器屋は甚だ不本意そうな顔をした。

 

「つくづく可愛げがねえ女だな。何だか護衛に回ってるのが馬鹿らしくなってきたぜ」

 

「だから大丈夫だって言ってるじゃないか。薬屋もあんたも心配性なんだよ」

 

 なりは小さくとも、これでも水のスクウェアメイジだ。我が身くらいは守れる。

 

「馬鹿、俺が心配してるのは検死のお役人連中だよ」

 

「何でさ?」

 

「おめえ、自分がこの間やったこと忘れたのか? 検死の役人、皆揃ってゲロぶちまけてたぞ」

 

 あれは正当防衛だったのだから勘弁してもらいたい。

 これまではディルムッドと言う腕の立つ従僕がいたがために私に一目を置いていた連中が、彼がいなくなった途端に私を見る目を変えるのは仕方がないことだろう。私を怨んでる奴らや功名心から私の首を欲しがっている連中など、襲ってくる連中の種類はいろいろいるのだが、だからと言って牙を剥いて来るその種の輩に対し、素直に首を差し出してやるつもりはない。スクウェアメイジというものがどういうものか判っていない奴が多いのも確かだ。最初の内は3日に一度は挨拶があったのだが、その都度律義に対応をしていたので最近はさすがに静かになって来ている。

 先週、そんな連中が久々に刺客を送って来たので、連中の一人を捕まえて、ちょっと『お話』して教えてもらった組織の根城に出向いて親分を含めて10人ばかりちょんちょんとスライスしたのだが、遺体の損傷があまりに酷いために司法当局ではそれなりに問題になっていると聞いている。

 

「しょうがないじゃないか。一気にあれだけの連中を片づける魔法、これしか知らないんだから」

 

 真面目に攻撃系の魔法を覚えればいいのだろうが、今のところ使い慣れたウォーターカッターで足りているのでその種のモチベーションが上がらないのだ。

 

「前々から俺らにやり方がスマートじゃねえとか言ってたけど、相方がいないとおめえが一番えげつねえんだよ。とにかく、街の平和のためにもおめえは今日は帰って寝ちまえ。俺はこれから夜回りだ」

 

「御苦労さん」

 

「じゃあな」

 

 そう言って歩き去る武器屋が鋭く口笛を吹くと、屋根や物陰で人が動く気配がする。一体何人潜んでいるのやら。味方でよかったが、敵にしたら厄介極まる奴だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 家に帰って、コートをハンガーにひっかけ、戸棚から酒瓶を取り出してちびちびと飲みながら居間のソファに体を投げ出した。

 実際、私を狙う輩が出て来るケースはいろいろ考えた。私個人に対する恨みであれば全てはシンプルなのだが、政治的な視点となるといろいろ面倒なことになってくる。ウェールズ殿下の支配が日増しに強まっている今となっては対アルビオン的な意味での私の利用価値はすっかり底値になっているだろうが、虚無が絡みの視点ではロマリアあたりは未だに私に価値を見ているだろう。

 あるいは、気まぐれな無能王が思い付きで私に興味を示したら、花壇騎士団のどす黒いのを送り込んで来るかもしれない。そうなるとさすがに音に聞こえたトリスタニア町内会も旗色が悪いが、その種の動向は動きがあった時点で耳に入るだろう。その時には三十六計だ。気になるところはシェフィールドか。純粋なメイジ相手と言うことならルイズすら追い詰める虚無の使い魔だ。さしの喧嘩で勝てるかどうか。いつもディルムッド頼みだったからなあ。今度来るときはどんなのを連れて来るのかと思うと少々気が滅入る。

 そんな事を考えながら、明かりを落としたリビングを見る。

 静かだ。

 瓶の中で微かに揺れる酒が立てている、あるかなしかの波紋の音が聞こえてくるようだ。

 

「一人……なんだねえ」

 

 一人暮らしは独り言が増えるものだが、確かに私も独り言が増えた。

 夜になれば、音のしない家で一人でご飯を食べる。

 朝になっても、音がしないことには変わりはない。

 朝一番でディルムッドから念話が届くが、便利だろうと思ったそれは、却って己の孤独を浮き彫りにするツールにしかならなかった。

 

『おはようございます。そちらはいかがでしょうか?』

 

 そんなメッセージから朝は始まるが、それに対して後ろ向きな事は言えない。

 

『問題ないよ。うまくやってる。そっちはどうだい?』

 

『こちらも問題なくやっております。テファさんが、主がきちんと食事をしているかを気にされておられます』

 

『ちゃんと食べているから安心するように伝えておくれ』

 

 そんな感じに返すが、実のところ、あまり食欲がない最近の私の食生活は至って適当だ。それこそ『ベルムス巻き』に勝るとも劣らぬ手抜きをしているのだが、それをテファにそのまま伝える訳にはいかないので返す言葉は綺麗事ばかり。見えないのをいい事に、日々強がりを重ねている。

 話ができれば辛くはなかろうと思っていたが、やはり皆が自分の前にいてくれなければ彼の話越しに見えてくる情景もどこか現実感が乏しい。それは、渇きに苦しむ者が、一滴だけ水を与えられたような感覚に近い気がする。いっそない方がマシと言う奴だ。

 確かに、会話ができることはありがたいことだ。それがなければ今頃私はどうなっていたやら。

 だが、その事が副作用として寂しさを増幅すると言うことにまでは気が回らなかった。

 お姫様をやっていた頃も寂しくはあったが、ここまでは心が痛まなかった。だが、なまじ皆と触れ合う温もりを知ってしまっただけに、そのダメージをいなすためにとてつもないエネルギーを費やさねばならない。

 でも、方法を知らない訳じゃない。一時的にでも、思考の中からそれを追い出すことはできる。

 脳のデフラグ作業。すなわち、睡眠だ。

 とは言え、最近は素のままでは眠気と言うものが全然訪れてくれないから困っている。故に、ここは酒の神様バッカスさんの出番だ。

 酒瓶からダイレクトにぐいぐいと飲み、肝臓の許容量を超えれば勝手に意識は落ちてくれる。

 そんな訳で、飲むだけ飲んで、あとは身体の反応に任せるだけ。 

 血管を駆け巡るアルコールを感じていると、酒瓶にえらくしょぼくれた顔をした女の子が映っているのに気付いた。

 

 誰だね、あんたは?

 

 ……私だった。

 

 あまりにひどい顔だったので、無理にでも笑顔を作ってみようとしたが、ダメだった。

 笑顔ってどうやるんだっけ。笑えばいいと思うよ、と言われて綾波は器用に笑ってたよなあ。どうやったんだろう、あれ。そんな事を考えながらも、私の顔の表情筋はどうしても笑顔を作ってくれない。

 何でだろうね。

 どうしてなんだろうね。

 テファ、マチルダ、困ったよ。

 私、笑えなくなっちゃったよ。

 笑おうと頑張るほど泣きそうになってしまうのは何でなんだろう。

 マチルダ、何でこんなに私は弱っちいんだろうね。

 ダメだね、ダメだよねテファ。本当に、ダメなお姉ちゃんだね。

 

 

 

 …………眠い。

 

 ソファにそのまま寝そべって、私は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 泣こうが喚こうが拗ねようが腐ろうが、朝が来れば日は昇るし、日が昇れば街は動き出す。街が動けば、当然ではあるが病人や怪我人は待ってはくれない。

 これでもプロの端くれ。日常のお仕事だけはきっちりこなさねばならない。

 そうして患者を捌いていると、日頃いかにテファに助けられていたかがよく判る。

 バイトを雇おうと考えてはいるが、どうしてもテファを基準に考えてしまうので、面接の段階で不採用にしてしまいそうだからうっかり募集もかけられない。

 

 皆がいなくなって以来、正直、診療院の経営は思ったより順調ではない。

 秘薬の確保は問題ないが、医療器具の手配と事務の関係は壊滅的なダメージを受けていた。

 これまでは診察だけに集中し、カルテに薬の処方を書けば後はテファが薬の受け渡しと会計を済ませてくれていただけに、その事務的な負担はかなりの物だ。面倒なので薬は診察室で手渡しにしてしまい、会計については受付に『御志』と書いた箱を置いて適当にお金を入れていってもらうようにしてしまった。蓄えはそれなりにあるし、お金はあるところからしっかりいただくからどうでもよかったのだが、箱会計にしたら何故か以前より収益が上がってしまったのは悩みの種ではある。

 

 医療器具の確保は、それ以上に切実だった。

 マチルダのアトリエの技術力は、間違いなく王都トリスタニアでも最高レベルだった。それだけに私が扱う医療器具の水準も胸を張れるレベルだったのだが、それを失った今は痒いところに手が届くような理想的なレベルは確保できていない。商工会に相談して腕の立つ職人を紹介してもらってはいるが、マチルダのせいで目が肥えてしまった私には一つ下のランクの物で我慢しなければならない物足りなさを感じている。この事が、以前から考えていた義肢の開発に大きく影響を与えている。

 いかんせん大きな戦争の後であり、四肢を失う障害を負った兵士が少なくないことから私なりに工夫を凝らした義肢を開発できればと知恵を絞っていたのだが、思い描いていた能動式義手や多軸型の義足などの高性能な義肢の実用化にあたっては難題が山積み。これまで如何にマチルダに世話になっていたかを思い知らされている。

 

「いかがですか。それなりに調整を施したつもりなのですが」

 

「だいぶ良くなっていると思う」

 

 目の前に座るフェヴィス氏は、義手をきゅきゅっと動かしながら真面目な顔で頷いた。それは前世の記憶を頼りに作った可動式の義手で、ハーネスを体に装着してその操作で手の部分の開閉を行うものだ。通常の義手と違い、物を掴む等の動作が可能になる。外見と機能性の両立はさすがに難しく、どうしても義手に見えてしまうのは仕方がない。現在はその試作品を試している最中で、診療院に出入りしている誼でフェヴィス氏にモニターをお願いしている。

 

「慣れもあると思うが、日常生活をする上ではかなり助かるのは間違いないね。チェスを指すくらいは問題なくできるよ」

 

「それは良かった。義足の方は?」

 

「悪くない感触だが、まだ少々違和感がある。ぐにゃついた感じがするので歩いていても不安を感じる時があるね」

 

 この辺りで、マチルダの錬金のレベルの高さを痛感する。職人たちも良く頑張ってくれているのだが、どうしてもあと一枚足りないレベルでの妥協を強いられている。

 

「う~ん……もうちょっと固い素材の方がいいのかも知れませんね。ソケット部分の違和感は?」

 

「少しはあるが、型から起こしてもらっているだけあって良く馴染む感じだ。痛みはないからあとは慣れだろう。もう少し様子を見させてもらいたい」

 

 ソケット部分は生体と密着する部分であるため、一番神経を使う。出来る事なら粘土などの柔軟な材質で型を作り、それをそのまま錬金してもらえばいいのだが、ここまで大きな素材を意のままに錬金するには、やはり土のトライアングルメイジくらいの力は必要になる。もちろん、薬品の錬金くらいがせいぜいの私では無理だ。後は街の職人連中に頑張ってもらうしかない。

 言われたことをメモしていき、次の職人連中との打ち合わせの際に持ちかけて改善策を講じよう。ゆくゆくは義肢装具士のような専門職が育ってくれればいいのだが。まだまだ前途多難だ。

 

 そんな日々を過ごしながら一週間が過ぎていく。

 何もかもが変わってしまった日々。それでも虚無の曜日が来れば診療院は休診なのは変わらないのだが、それに伴って変わらないことがまだあった。

 

「お~っす」

 

 勢いよく入って来た才人。こいつだけは以前と変わらず虚無の曜日になると訪ねてくる。以前はテファのご飯目当てにルイズと一緒に押し掛けてきたものだが、今は私がご飯を作って振る舞っている。ウィークデーは適当に流している食生活だが、さすがに私の料理を楽しみにしてくれているこいつに適当なものを食べさせるのは自称姉の沽券に係わる。テファに対する対抗意識も少しはあるだけに、それなりの朝食を用意せざるを得ない。

 相応に品数を揃えた朝食の食卓に向き合って座り、お祈りもそこそこに食べ始める。何を食べても栄養価でしか判断できない最近の食生活で、この時だけはご飯を美味しく感じられる。

 食卓に誰かがいてくれる。それは私の幸せの原風景だ。

 考えなしに朝食を食べに来ているようだが、恐らくは彼なりに私を気にかけてくれているのだろう。主従揃って私のことを知っているだけに、恐らく二人で相談のうえでこうして訪ねて来てくれているのだろう。そう思うと何だか申し訳なくてありがたくて、そして嬉しい気持ちが溢れて来て胸がいっぱいになる。

 

「またルイズは直行かい? って、誰も取りゃしないからもうちょっとゆっくりお食べよ。よく噛まないと栄養にならないよ」

 

 朝食を荒っぽくがっつく才人に苦言を述べる。

 

「ああ、結構いろいろ忙しいみたいなんだよ……これ美味いなあ。何だかひじきの煮つけみたいだ」

 

 女王陛下の女官であるルイズは、虚無の曜日の度に城に参内している。その際に才人も王都まで来ているだが、ルイズの方はどういう訳かアルビオンから帰って来て以来ご飯を食べに来ることが滅多にない。理由は多忙ゆえであって私の料理が気に入らないと言う訳ではないと言われてはいるが、いささか気になるのも確かだ。この時期に原作で何かあったかな、と記憶を反芻しても確たるところは思い出せない。変な鏡を使った変装舞踏会があったような気がするが、あとは何があったかな。ガリア騒動はまだ先だったはずだし、イベントとしてはこの時期は女王様とあれこれやる時期だったと思うから、彼女なりに充実している毎日なのだろう。

 

 

 

 そんな感じの食事を済ませてから、私と才人はマチルダの工房に向かう。

 鍵を開けて中に入り、ほったらかしの工房内の掃除を行う。本当ならばマチルダ謹製の『生きてるホウキ』が部屋を掃除しているはずなのだが、その箒も、今は部屋の隅で力尽きてしまっている。

 人の生活の気配がしない、死んだ空間。マチルダの放つエネルギーを受けて生き生きとしていた工房なのに、今は道具も、調度も、作りかけの品々も、どれもが死体みたいに生気を感じない。あの頃、この工房がこんなことになるとは思っていなかった。

 

「とりあえず窓開けるぞ」

 

 才人が慣れた感じでてきぱきと掃除の準備を始める。アルバイターとして、かなりみっちりこき使われた過去が伺える。

 そんな彼をよそに、私は作業台の椅子にマチルダの幻影を見ていた。

 私の無茶振りに文句を言いながらも、結局は形にしてくれた『工匠』の土メイジ。

 その工房を、再び彼女が訪れる事は恐らくもうないだろう。そのことを理解しつつも、やはりここを引き払うことはどうにも抵抗があった。テナント料については毎月発生するが、それを払いながらでもこの場所をマチルダが最後に置いたままの状態にしておきたいのは、紛れもなく私の未練、そして彼女との約束故だ。

 

『工房の掃除も頼むよ』

 

 マチルダの言葉は、今も耳に残っている。彼女のが口にしたそれは、約束ではなかったかも知れない。でも、言葉の裏側には、それと同種の暖かさがあった。いつかトリスタニアに戻ると言う、あり得ない意思表示。それが嘘と判っていても、その言葉が私の寄る辺になる事を、あの人は判っていたのだろうと思う。彼女の記憶を払う事なんかできる訳がないことは、もうとっくに判っている。後はこの幻影とうまく付き合っていくしかない。

 そんな工房の中に鎮座する、でっかい牛のオブジェ。その四本足の一本をぽんと蹴飛ばすと、妙に大きく、乾いた音が響いた。

 

 

 

 午前中で大まかに掃除を済ませ、余った時間で自主練をしている才人を眺める。

 

「どうだ、かなりやるようになっただろう?」

 

 才人が素振りをしている傍ら、デルフリンガーが話しかけて来る。

 

「そうだね。見違えるようだよ」

 

「あのお師匠さんのおかげだよ」

 

 確かに、出会った頃に比べて体がだいぶ出来上がって来た感じがする。身長や骨格などは大男と言う訳ではないので絶対的な膂力では寂しさはあるものの、それを補ってあまりある速さとしなやかさが備わりつつあった。野球で言えば、俊足巧打の内野手といったイメージだ。

 ずっとディルムッドの指導監督のもとで技術と体力の双方を磨いてきたのだから、出来栄えが見事なのは当然だろう。それに加え、戦闘に関する考え方等の戦略眼も惜しみなく教えてもらっているはずだ。見た目も内面も、原作の彼とは大幅に違っているだろう。

 振り返ってみれば、テファの身の安全の保険の為に彼に接触したのが彼との付き合いの始まりだった。先の展開が読めず、無限に分岐する可能性を信じ、運が良ければ私が知る歴史とは全く違う未来が開けていればと期待していたあの頃。

 

 結果から言えば、未来は変わった。

 変えられた。

 『ゼロの使い魔』という物語には存在しないはずのヴィクトリア・オブ・モードという異分子の行動により、テファは隠棲せずに成長し、マチルダは盗賊に身を落とさず、ウェールズ・テューダーは今も生きている。

 だが、歴史の根っこは変わってはいない。大河の流れを消すことができないように、万象は滔々と流れ続けている。

 それは、どこか諦めにも似た感情を私にもたらす。

 転生者と言えど、生まれてしまえば所詮は人の子。その世界では人と人との間で生きていかなければならない。

 優しくしてもらえれば嬉しいし、嫌な事をされれば悲しくなるし、賑やかならば楽しいし、周りに誰もいなければ寂しさだって感じる。

 そんな感情を捨てられたほうが、幸せだったかも知れない。傍若無人に、自分勝手に生きられたら、こんな思いをしなくても済んだかもしれない。

 その感情を捨て切れなかったが故に、私は母を殺し、王都に来てからも大義名分を振りかざして多くの人を殺めてきた。

 それ故に、いつかはそれらの報いを受けるだろうとも思ってはいた。いつかは皆と共に歩けなくなるであろうとも。

 『いつまでも あると思うな親と金 ないと思うな 運と天罰』と教えてくれたのは前世の母だったと思う。

 穢れなき、虚無の担い手たるティファニア。

 この世界では、ごく真っ当に正道を生きるマチルダ。

 二人を陽のあたる世界に居続けてもらいたかったからこそ、私は全てを背負ってこの手を汚し続けてきた。その代償として、己が地獄に落ちることも厭うまいとすら思って。

 そしてその願いは、運命を弄ぶ誰かに届いた。

 テファはアルビオンの聖女となり、マチルダも貴族に戻れた。

 そして私は、望み通りに孤独と言う名の地獄に落ちた。

 まるで、荒野に取り残された猫になったようだ。

 幾ら物陰に身を伏せていても、吹きつける喪失感と言う風が体温を奪い、虚無感と言う砂が目と耳を塞ぐ。

 抗いようもない、少しずつ自分が死んでいく寒さ。

 前世で母を失い、今生では伯父上を失った経験を反芻しても、今のように自分が徐々に希薄になっていくような感覚はなかった。

 それはきっと、死に別れと生き別れの違いなのだろう。すべてが無くなってしまったのならば、諦めることもできるだろう。だが、私の家族たちはアルビオンにいるのだ。それは、寒い冬の夜に、他人の家の暖かそうな暖炉を窓越しに眺めているような悲しい寒さだ。私はそこに入ることができない、それをどれほど欲しても、気が狂わんほどに求めても、でも、手にする事は許されない温もり。

 すべてが、私には遠すぎる。

 私が辿りついた結末は、そんな底冷えがする世界だった。

 

「なあ、娘っ子」

 

 デルフの言葉に我に返った。

 

「ん?」

 

「おめえ、ちょっと痩せたんじゃねえか?」

 

「そうかい?」

 

 もともとあんまり肉付きいい方ではなかったが、他人が一目見て判るくらいには私の外見は不健康になっているようだ。

 

「何だかどこか体が悪いみてえだ」

 

「あんまり食欲がなくてね」

 

「……どん底だな」

 

「どん底、だねえ」

 

 それだけ答えると、デルフからどこか考え込むような雰囲気が感じられた。

 

「まあ、あれだ、こう言う時は考え込む方が毒だぜ。まずは出来ることから片付けていけば、そのうち調子も戻るだろうよ。どん底ってのは、逆に考えれば、あとは上がるだけなんだからよ。元気出しな」

 

 デルフらしい、そっけない感じの物言いだったが、それでも好意に根差した励ましの言葉は素直に嬉しかった。  

 

「ありがとう」

 

 這い上がるだけ。実はそれが何より難しい。

 だが、出来ることから片付けるという意見には賛成だ。私には一つ、やるべきことがあったのを思い出した。

 そんな事を考えていると、一段落したらしい才人が素振り用の木剣を手に戻ってくる。まだ寒い時期なのに、額には玉の汗だ。こいつは根は単純で判りやすい男だけど、その分素直で一途だ。言われたメニューは手を抜くことなくきちんとこなしているのだろう。それが自分の身を守ることに繋がることについて理解しており、また、その鍛錬が命の値段が恐ろしく安いこの世界では重要なことだと判っているのだと思う。

 タオルを渡すと、才人は礼を言って受け取った。一生懸命な汗と言うのは、見ている方も気持ちがいい。

 

「少年」

 

「ん?」

 

「来週、ちょっと私に付き合っちゃくれないかい?」

 

 

 

 

 

 

 ラグドリアン湖。

 才人の後ろに乗せてもらい、馬で一気にここまで連れて来てもらった。前回来た時は優雅に馬車だったが、今回は甚だお尻が痛い馬の旅だ。

 前回来た時に比べれば季節が良くないだけにいまいち寒々とした景色だが、今の私にとってはそれはどうでもいいことだ。

 湖畔に降りてみれば、ここにも、皆の幻影はうろついている。

 皆で焚き火を起こして、楽しく過ごしたあの日の記憶。

 幸せの後ろ姿は、いつだって去ってからしか見えない。

 

 そんな記憶を振り払いながら、とことこと湖の際まで歩く。

 

「何か用事なのか、ここに?」

 

「ちょっとね」

 

 問いかける才人に応じながら、私はポケットから一個の指輪を出した。

 アンドバリの指輪。

 アルビオンでシェフィールドが捨てていったものだ。すでに石は無くなってしまって台座だけになってしまったが、この状態であってもきちんと水の精霊に返して頭を下げるのが筋道と言うものだろう。何より、約束した才人が死んだらまたまた水かさが増加してしまうだろうし。引き渡し条件が原状有姿ということについては誠心誠意謝ろう。

 本当ならばモンモンも一緒に来て欲しかったが、さすがに顔を見た程度の彼女に同道を頼むのは説明が難しいので、とりあえずは約束した人物である才人がいればいいやと思って引っ張って来た。

 そんな才人に指輪を差し出し、目線で湖の沖を示す。

 

「それじゃ、これを思い切り遠くまで投げておくれ」

 

「指輪?」

 

 何の事か判らない才人が首を傾げながら指輪を受け取った。

 

「これはアンドバリの指輪と言ってね。アルビオンの馬鹿がここの水の精霊から盗み出したらしいんだよ。ある人から、トリステインに戻ったらこの湖に投げ込んでくれって頼まれてね」

 

 そんな説明を目を丸くして聞いている才人。嘘も方便、全てを丸く収めるための虚言だから許してもらいたい。

 

「これ、俺も探していたんだよ」

 

「え、そうなのかい?」

 

「ああ、ここの精霊と約束したんだ。これ取り返して来るって。でも、どうしたらいいか判らなくて困ってたんだよ」

 

 適当に説明しておけば偶然とでも思ってくれると思った私の思惑は当たったようだ。悪く言えば鈍感、良く言えば純朴な男だ。素直に信じてくれるのは嬉しいが、その性格が災いして変な詐欺に引っ掛からなければいいんだけど。

 頼んだ通りに思い切りオーバースローで指輪を投げ込む才人。

 放物線を描く指輪は冬の弱い日差しをきらきらと時折反射しながら、はるか沖の方で微か余韻を残して着水した。

 これでいい。相手は全ての水に通じる精霊だ。わざわざ呼び出しをかけなくても指輪の存在は認識してくれるだろう。

 そのまま待つ事数分。指輪の惨状に怒れる精霊が血相変えて飛び出して来るかと思ったが、静かな湖面にリアクションがないことに私は安堵した。

 

「さて、帰ろうか」

 

「ちょ、待て、ヴィクトリア」

 

 さっさと帰ろうと踵を返したその時、才人が泡を食って私の袖を引いた。

 振り返ると、そこに怪しげに水が盛り上がる様が見えた。

 水でできたヌードモンモンかと思ったら、何だか良く判らない人っぽい姿が浮かび上がる。

 やばい、怒っているのだろうか、と思ったら水の精霊が静かな口調で話しだした。

 

「お前の中を流れる液体の流れを、我は知っている。また来たのだな、単なる者よ」

 

「ああ。遅くなってごめん。指輪を取り返してきた」

 

「秘法を投げ込んだのはお前か」

 

「そうだ。石の部分は何だかすり減っちまってたけど、あれが探してた指輪なんだろ?」

 

「然り。我が求めていた秘法に相違ない。形は失えど、時が満ちれば再び水の力により石は戻る。故に、我は約束は果たされたものと思う」

 

「実際には取り返したのはこいつだけど」

 

 私を指さす才人。余計な事を言う。自分の手柄にしておけばいいものを。

 その時初めて私に気づいたように水の精霊が私の方を振り向き、唐突に体をぐにゃぐにゃと動かし始めた。

 正直、不気味だ。

 

「小さな単なる者よ。お前は何者か?」

 

「は?」

 

 こんな寄生獣みたいな動きをしている存在に何者かと言われても困る。難癖付けられたって、私だって答えられる事は多くはないのだ。

 しかし、慌てている私の思惑など一顧だにせず、唐突に水の触手が鞭のように伸びて来て私の手に絡みついた。

 するりと何かが私の中に溶け込む感じがして、その途端に私の視界がパチンと弾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 床に散らばった破片。それは、素焼きのコーヒーカップだった。

 青くなってそれを見降ろす、子供だった私。

 それは、父が使っていたと母から聞いたカップだ。

 夜勤明けの母は寝ている。

 壊れたカップをそのままに、母の目覚めを待つ。

 眠そうな顔で起きだしてきた母の前で、私は土下座して頭を下げた。

 

「ごめんなさい、お父さんのカップを割っちゃいました」

 

 ワシントンの桜の故事は知っていたが、別に素直に言って許してもらおうと思った訳ではない。母が悲しむことが嫌だったのだ。

 

「あ~、しょうがないね」

 

 割れたカップの破片をつまんで、母は頭をかいた。

 

「いつかは壊れるものだよ。気にしないでいい。お前が素直に謝ってくれた事が私は嬉しいよ。怪我はしてないね?」

 

「怪我はないけど……」

 

「それで充分さ」

 

 そう言うと、母はレジ袋を持ってきてカップの破片を流し込んだ。

 その時の母の顔に、少しだけ、本当に僅かな逡巡が見えて私は息を飲んだ。子供だった私にだって判る。僅かに残った父の欠片が無くなってしまうことが、平気な訳がないのだ。

 

「どうするの、それ?」

 

「しょうがないよ。捨てちまうしかないさ」

 

「だ、ダメだよ。私、直すから」

 

「直すったって……粉々だよ?」

 

「嫌だよ。絶対に直すよ。私、頑張るから」

 

 僅かに残った父が感じられるものがなくなってしまう事が私には耐えられなかったし、何より、母が我慢している事が判って尚更それを処分することが受け入れられなかった。

 なかば母から強奪するようにレジ袋を受け取り、母が仕事に出かけるのを見送ってから、私は財布を抱えて近所の文房具屋に走り、瞬間接着剤を買い求めた。私の小づかいでは痛い出費だが、そんなことより母の思い出を壊してしまったことの方が私にとってはよほど重要だった。そのまま走って家に戻り、すぐに修復作業に入った。

 プラモデルを作る趣味はなかったが、プラモデルをセロテープを使って仮組をしている級友の男子のことを思い出してちょっとずつ組み立てる。今どき色が塗っていないプラモデルを喜んで作っているそいつも変わった奴だったが、今はその情報がありがたかった。

 大きなパーツは概ね組上がったけど、細かい破片はどうしても時間がかかる。ピンセットを持ち出して少しずつ組み上げていく。まるで立体パズルだ。

 このカップの由来について、詳しい事は聞いたことはない。

 だが、母がいつも使っているカップと対になっており、母が毎日欠かさず仏前にコーヒーを入れて供えてもいるのだから、母にとってとても大事なものだと言う事は私にも判っていた。

 好きな人が、大切な人がいなくなってしまうと言うことがどういうことなのか、その時の私は想像でしか知らなかった。でも、恐らくそれはとても悲しい事なのだろうことは判った。その悲しみには、縋るべき寄る辺がなければ立ち向かう事は難しいだろう。そんな事を微塵も見せず、ぼやきも泣きごとも言わずに働き、私を育ててくれている母。その母を支えているのは、恐らく父との幸せな思い出なのだろうと子供心に思った。

 この種の作業は集中すると時間はあっという間に経過してしまうものだが、時計を見ると既に日付が変わっていて驚いた。

 恐ろしく早く秒針が進む部屋の中で少しずつ破片を組み合わせていくが、粉になってしまった部分はどうしても埋まらない。どうしようかと悩みながら作業を続けたのだが、最後はどこまで作業が進んだのか良く覚えていないくらいに疲れ果て、補修の半ばで力尽きて私はテーブルに突っ伏して眠ってしまった。

 

 顔に朝日を感じて目が覚めると、肩にかかった毛布が落ちた。

 目の前に、綺麗に復元された父のカップがあった。修復しきれなかった細かい隙間に、パテのようなものが詰まっている。カップの隣には、骨ペーストらしきシリンジが転がっていた。

 リビングに目を向けると、母がソファに寝そべって穏やかな顔で眠っていた。

 その寝顔が、何だかとても幸せそうに見え、涙が滲んでしまった。

 この人の娘で良かった。

 この人が母で、本当に良かった。

 私は、心の底からそう思った。

 上着を被って寝ている母の上着を取りあげて代わりに毛布をかけ、上着をハンガーにかけてからコーヒーを淹れ、ある程度冷ましてから綺麗に復元されたカップに注いだ。罅は綺麗にくっついており、コーヒーが漏れるようなこともなかった。

 元に戻った、割れたカップ。

 それを仏壇に持っていき、一回だけ、静かにお鈴を叩いた。

 お鈴の澄んだ響きがカップに伝播し、褐色の表面に、少しだけ小波が立って消えた。

 穏やかな褐色の液体を湛えたカップ。

 ところどころつぎはぎが入った、ちょっとだけかっこ悪いそれに、母の優しさが満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヴィクトリア!」

 

 スイッチが入ったように視界が切り代わり、戻った視界の正面で才人が私に向かって呼びかけてきた。

 

「少年?」

 

「大丈夫か? 具合とか悪くないか?」

 

「具合?」

 

 呆気に取られて辺りを見回すと、水の精霊の姿はどこにもなかった。

 

「平気だけど、今何があったんだね?」

 

「水の精霊がお前に触れたら、お前が動き止めちまったんだよ。何かされたのか?」

 

「特におかしいところはないけど……」

 

 あれこれと自分の体を確認しても、おかしなところはない。頭の中も、これと言って変わった感じはない。

 

「何だったんだろうね?」

 

「俺にも判らないよ。何か怒らせる事でもしたのかな」

 

「う~ん、どうなんだろう」

 

 結局、この時私が何をされたのかは判らずじまいだった。昔の記憶を思い出させて何をしようというのだろうか。

 そんなことを考え、首をひねりながら私たちは家路に着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 慌ただしく時が流れていく。

 ラグドリアン湖から戻って1週間ほど。私なりに折り合いをつけながら日々を送っている時、診療院の前に一台の馬車が止まった。

 

「院長はいるか?」

 

 玄関先で大声を上げてるのが聞こえたのでボソボソと食べていた昼食を中断して出てみれば、どういう訳か、訪ねてきたのはアニエスだった。

 

「どうしたね、騒々しい。急患って感じじゃなさそうだね。私を捕まえてチェルノボーグ監獄にでも送ろうってのかい?」

 

「よく判ったな」

 

「……」

 

 回れ右する私の裾を、アニエスが隙のない動きで捕まえた。

 

「冗談だ。これだ」

 

 ジト目を向ける私に、アニエスは一枚の書状を差し出した。

 

「トリスタニアのヴィクトリアに女王陛下からの直々のお召しだ。すぐに支度してくれ」

 

「陛下が?」

 

 

 

 着たくもない礼装に袖を通し、マントを羽織って馬車に揺られて王宮に向かう。

 普通ならば平民は中に入ることなどできないはずなのだが、銃士隊隊長のアニエスに連れられての道行きは受付も何もすべて顔パスだ。そんな王宮の奥の奥。通されたのは、アンリエッタの執務室だった。

 ポールウェポン風の軍杖を手にした阿吽像のような衛兵が両脇に立つドアに着くと、アニエスは慣れた感じで伺いを立てた。

 

 通されたその一室は、原作で描写されていたように何もない部屋だった。

 古道具屋で買ったと言う机と、本棚に燭台、簡単な応接セット。

 まさに清貧女王と言った感じだ。

 部屋の中にはアンリエッタと、久しぶりに見るルイズが待っていた。

 

「陛下、ヴィクトリア殿下をお連れ致しました」

 

 恭しく挨拶するアニエスの後ろ、部屋の入口のところで私は同種の低頭をした。アルビオンならともかく、トリステインにおいては私はただの平民だ。屋内に入っただけでもありえないことなだけに、王の居室に足を踏み入れることには抵抗があった。

 

「よく来てくれましたね、殿下。どうぞお入りになって下さい」

 

「そうは言われましても……」

 

「そのような所にいては話もできません。お掛けになって下さい」

 

 ここまで言われては仕方がないので、私は一礼して室内に入り、アンリエッタの着席を待って勧められた椅子に座った。正面にアンリエッタ、その隣にルイズが陣取る。

 私の方を観察するように眺め、アンリエッタが静かに口を開いた。

 

「少し、痩せられましたね」

 

 滅多に会わないだけにアンリエッタにはすぐに判ったのだろう。確かに、今の私はちょっと人前には出たくないコンディションだ。頬がこけてしまっているし、顔色も冴えない。髪の艶も見る影もないありさまだ。

 

「お恥ずかしい限りです」

 

 アンリエッタは少しだけ悲しそうな顔をして、当たり障りのない世間話を始める。この種のやり取りはせっかちな私にとっては退屈極まりないものだが、さすがに女王の言葉に待ったをかける訳にはいかないので、しばし相槌だけの会話に終始する。ルイズは珍しいことに一言も言葉を挟もうとしない。女官の立場でこの場にいるつもりなのかも知れない。

 そんなアンリエッタが、話の流れの中で不意に表情を切り替えて切り出してきた。

 

「ところで、アルビオンで行われた諸国会議のことはご存じですね?」

 

「先般、ロンディニウムで行われた戦後処理の事でしたら……」

 

 私にはおよそ関係のない、天上界のお話だ。

 

「そこで、ある人物のことが話題になりました」

 

 首を傾げる私に、アンリエッタが言う。

 

「『血十字の聖女』と呼ばれる治療師。貴方のことです」

 

「……」

 

 全身の毛穴が収縮して絵に描いたような鳥肌が立ち、そこから羽毛が生えて来そうな気分だ。何だ、その恥ずかしいネーミングは。

 

「地獄となったシティオブサウスゴータで、自らの血で描いた十字の旗を掲げて敵味方問わず負傷者の治療を行ったそうですね。己の身も顧みず、身分の貴賤はおろか敵味方の隔てすらなく人々を救済したと」

 

 所属の誤認による誤射誤爆を避けるため、どっちの軍勢の物でもない旗印をということで掲げた急ごしらえの赤十字の旗が、何だか不穏な物事の引き金になったようだ。第一、あの赤十字はシーツにありふれた顔料で描いたものだ。自分の血で旗を作るような出血大サービスをする奴がどこにいるというのだろうか。

 

「な、何だかやたら話に尾鰭がついているようですが、脚色が過ぎます」

 

 引き攣った笑いを浮かべる私を見るアンリエッタの目は、どこまでも優しげだ。 

 

「結果がそうなっていれば、話はひとりでに歩きだします。悲しい戦争であればこそ、人は英雄や美談を欲しがるものですから。しかも、その正体はアルビオンのさる高貴な出の姫君。国を追われながらも、祖国の危機に起った慈愛の水メイジとなれば、吟遊詩人が飛びつかない方が不思議です」

 

 歴史と言うのは、こうやって歪められていくのだろう。『講釈師 見てきたような 嘘をつき』とはよく言ったものだ。

 ともあれ、赤十字の精神は戦争や災害の際に人種や思想や所属等一切の区別なく人々に人道的な支援を行うことだが、人権と言うものがいささか怪しいこの世界でも困っている人に手を差し伸べるのは人として当然のことであることには変わりはない。それを過剰な美談と捉えられるのは私としては不本意だ。

 

「大袈裟な……」

 

「ですが、根拠のない話ではないでしょう。これをご覧下さい」

 

 渋い顔をしている私に、アンリエッタは追い討ちのように数枚の書面を示した。丁寧に言葉が綴られた、幾枚もの書類だ。読み進める私の顔色は漫画のように青くなっている事だろう。

 

「貴方がシティオブサウスゴータで治療した我が国の兵から、私のところに送られてきた嘆願書です。どれも内容は、貴方に恩赦を出すようアルビオンに働きかけることを求めたもの。同じような動きはゲルマニアでもあるようです。加えて、アルビオンの内部でもそういう動きがあると聞いています」

 

 ありがたい話ではあるが、これは好ましくない状況だ。恐らく、話はウェールズ殿下の耳にも入っている事だろう。ただでさえ国内の統制と復興と言う大問題を抱えて忙しい時期だろうに、この事でそういう貴重な時間を削られる羽目になっていなければよいのだが。

 そんな事を考えている間も、アンリエッタの言葉は続く。

 

「それに、貴方が治療に当たった場所は寺院だったそうですね。始祖の子らを救うために寺院を使いたいと強引に頼みこんだと」

 

 あの時に、寺院が一番乗っ取りやすい大型施設だと思ったのが裏目に出たようだ。

 

「あれは、あの場に合わせた方便です」

 

「例え方便であっても、通ってしまえば結果が全てです。それを受けて、ロマリアから貴方の行動を称える声明が出ています。神の愛の本質を理解した人物だと」

 

 ロマリアがらみとなると、どうしても耳に入る段階でバイアスがかかる。必要以上に私を褒め称えるあたりは、あの国らしい一手だと思う。持ち上げるだけ持ち上げておいて、裏で搦め手を使って取り込む嫌らしい手をあいつらが使う事は知っている。虎街道の戦いの時期に、ルイズがあっさりとその手に落ちていた記憶がある。

 

「おそれながら、話を美化しすぎです。こんな王族のはみ出し者の私でも誰かの役に立てたと言うのなら嬉しい事です。ですが、陽のあたる部分だけを抜き出されては、事の本質が見えなくなります。あの時、私は聖女などとは聞いて呆れるほど、多くの命を取りこぼしました。それもまた、私が負わねばならない業なのです。この書状にある方々のお気持ちは嬉しく思います。ですが、『聖女』などと言う肩書きはこの身には過ぎたもの。どうかそこをお間違えなきようお願いします」

 

 前世の報道番組でも良くあったのだが、名医だの神の手だのと賞賛される医師の報道において、その栄光の影で、どれだけの患者を救えなかったかまでは報道されていなかった記憶がある。メディアに取り上げられるだけに確かに素晴らしい技術を持った方々だとは思うが、まるで全ての患者を救えるとでもいうような番組の在り方には、見ていて違和感を覚えたものだ。美談先行では、当人と異なる人間像が世間にはびこってしまうことになる。それは虚像だ。『あの医者のところに行けば大丈夫』と藁にもすがる思いで訪れた患者が助からなかった時、そこに生まれる感情はどうしても負のそれにならざるを得ないだろう。せっかく違う世界に生まれたのに、それと同じ轍は踏みたくないというのが私の本音だ。そんな私の言葉を静かに聞き届け、アンリエッタはルイズと顔を合わせた。困った感じのアンリエッタと、私の言葉を予見していたような顔のルイズ。

 

「ルイズ、貴方が言うとおりですね」

 

 事前にどういう会話がなされたかは判らないが、ある程度私のことを知っているルイズだ。表舞台に立つ事を忌避する私の性格は判ってくれていると思う。しかし、ルイズが発した言葉に、私は物事にまだ先がある事を知らされた。

 

「姫さま、全部話してしまった方がいいと思います」

 

「そうですね」

 

 ルイズの言葉に同意し、アンリエッタが続ける。

 

「諸国会議の話ですが、貴方の事を褒め称えるだけで終わった訳ではありません。貴方自身の事より、貴方の活動内容が議論となったのです。貴方が実践して見せた『負傷者に対しては、国も身分も分け隔てなく向き合う』と言う思想を、会議に参加した5国において広く共有しようと言う動きがあります。それについて、その具体的な方法を模索するため、国をまたいだ連絡会議を置くことが取り決められました」

 

 聞いて驚きだ。前世の赤十字社は、デュナンの戦争時の活動をきっかけに国際委員会が発足した事に始まるが、この世界においてもその思想が思わぬ形で芽吹き始めているようだ。既得権益のことを考えるとそのすり合わせは簡単には行かないとは思うが、実現すれば画期的な事だろう。言いだしっぺは誰だろうか。

 

「単刀直入に申しましょう。貴方にとって歓迎していただける話ではないかも知れませんが、これだけの事をなした人物を野に置いておくということは、我が国にとって好ましくないのです」

 

 ようやくアンリエッタのドレスの下に、鎧がちらつき始めた。きっかけがこんな大法螺というのは私としても何ともやり切れない思いだが、これはある程度予想していた事でもある。確かに、何かあったら国の監督下に入ると言うのはヴァリエール公爵との約束でもあった。出自も状況も、微妙な立場の私だ。むしろ今まで非公式滞在を黙認してもらっていた方が幸運だったのだ。一度何かのバランスが崩れれば、すぐにこういうことになるだろう事は私も判っているつもりだった。

 

「やむを得ないことと思います。ご存分にお差配下さい。これまで私の勝手に目を瞑っていただいていただけでも感謝すべきところ。こうとなっては仕方がありません。ですが、こんな私でも頼ってくれる人々が王都にはおります。できましたら、彼らの今後の事についてもご高配賜れましたらと思います」

 

 既に守る物はない私だ。違う国に逃げ出す必要も、それだけの気力もない。どこかの家の預かりになるか、はたまた僻地に封じられるかするのだろうか。政治的な縁組によって嫁に出される事だけは断固拒否したいが、いずれにしろ、トリスタニアを離れざるを得なくなった場合、やはり街の人たちの行く末が気になる。その点について何とかしてもらわねばならない。

 

「御心配には及びません。貴方を王都から動かすつもりはありません」

 

 意外な言葉に私は呆気にとられた。そして、続くアンリエッタの言葉は私は全く予想もしていなかった。

 

「実は、その連絡会議における我が国における方策の策定のため、貴方を参与としてお迎えしたいと思っているのです」

 

「参与?」

 

 一瞬、呆気に取られた。参与は私が知る限りではオブザーバーとか相談役に近い役職、いわゆるブレーンの事だ。

 

「この連絡会議は、貴方が実践して見せた理想の展開から始まったもの。言うなれば、それが目指すべきものの正解は、貴方の胸の内にしかないものです。ならば、詳しいところは貴方に訊くのが適当だと思いますから」

 

「お待ちください。私は貴族位を持たない平民です。平民は官職に就けないのが国法ではありませんか。何より、私は咎人です。ただでさえややこしい立場ですし、そんな私を取り立てては、下手をすればトリステインの国益を損ねることにも繋がりかねないでしょう」

 

 アニエスの肩身の狭さを思うと、平民の私をそんな立場に置く事が軋轢を生まないほうが不思議だ。ここはトリステイン。主要各国の中では貴族と平民の身分の差が一番厳しい国だ。それに、対アルビオンについては言わずもがなだろう。

 しかし、そんな私の問いに、それもまた織り込み済みと言う顔でアンリエッタは言う。

 

「身分についてはできれば然るべき肩書きを差し上げたいのですが、お立場を考えますと確かに難しいでしょう。ですが、御存じと思いますが、私は平民であっても積極的に登用する方針なのです。それに、確かにただの平民を参与とするなれば抵抗を覚える者はいるかも知れませんが、貴方が持つ『血十字の聖女』の名はロマリアすら認めたもの。迂闊な事を口走る者はまずいないでしょう」

 

 銃士隊の例を見てもアンリエッタは実に柔軟な思考の持ち主だ。私を取り込みたい考えた場合、ロマリアのお墨付きは使い勝手がいい御免状なのだろう。確かに、ロマリアの威光があればほとんどの貴族は口を閉じることと思う。

 

「ですが、それではアルビオンが黙ってはいないでしょう」

 

「そうですね。追放の身である貴方を重用するにはアルビオンに対してそれなりの姿勢での対応が求められるでしょう。ですが、諸国会議で交わされた構想の中心にいるのは、他ならぬ貴方なのです。アルビオンとて、そう簡単に異を唱えられないでしょう。もちろん、我が国としてもアルビオンの面子を立てるための手は打ちます。その手始めと言っては何ですが、殿下の監督にヴァリエール公爵が名乗りをあげて下さっておいでです」

 

 然るべき人物を付けることで、決して好き勝手をさせている訳ではない事を相手方に伝える意図によるものだろう。公爵が動いてくれたのは、以前交わした約束の通りだ。律儀に守ってくれる彼には本当に頭が下がる。それに、確か公爵はアルビオンに渡った経歴があったはずだ。あちらに相応のパイプもあるだろう。

 

「それともう一人、是非殿下の後見をと望まれている方がおられます。殿下は、マルシヤック公爵をご存知ですか?」

 

「……お会いした事はありませんが、お名前はかねがね」

 

 記憶が確かなら、アルビオン再興後に代王として立つ人物だったはず。野心がなく、内政の手腕に定評がある人物だった、かな。ウェールズ殿下が存命となると、確かにアルビオンにいる必要はないが、そんな大人物が何でまた国を追われた小娘のために名乗りを上げるのやら。

 

「王宮の相談役でもある方ですが、会議における我が国の代表についてお願いしています」

 

 アンリエッタが侍女に目くばせすると、隣室にいる人を呼んだようだ。

 ややあって入って来た人物を見て、私は心底驚いた。

 

「お久しぶりですな、先生」

 

 現れた人物は、私が知っている人だった。

 白い髪と髭。絵に描いたような好々爺。何と言うカーネルサンダース。

 それはいつぞやテファと一緒に遠征した、トリスタニア郊外の公園の管理人だった。あの時は作業用のありふれた服を着ていた彼だが、今の彼の身を包むものは仕立ての良いマントだ。

 そしてその胸には、鮮やかな公爵家の家紋の刺繍。

 世の中と言うのはどこに落とし穴があるか判らないことを私は改めて思い知った。

 目を剥いて驚く私に、公爵はしてやったりと言った顔で笑いかけて来た。

 

「その節はお世話になりましたな」

 

「お戯れが過ぎます、閣下」

 

「ははは、いや、申し訳ない。あの公園の手入れは、この年寄りの数少ない楽しみでしてな」

 

 お気楽に笑うが、大貴族もいいところの御大が、自らボロい作業着を着て庭いじりと言うのはいかがなものだろうか。自領の城の庭ならともかく、あそこは一般に公開されている庭だぞ。確かに雰囲気に人品卑しからぬところが見えた人物だったが、まさか公爵とは思わなかった。とんでもない人物に失礼を働いていた事実に、私は心底狼狽した。

 

「顔見知りと言うことでしたら話は早そうですね。この通り、王家だけでなく、トリステインの大貴族2家が貴方の監督にあたります。アルビオンにも、その旨の申入れを行いました。了承は得られなくとも、恐らく黙認はするでしょう」

 

 言ってみれば、これはトリステイン王国が私の身元引受人になるという意思表示だ。異を唱えればトリステインの面子を潰すことになるだろう。現在の力関係を考えた時、確かにアルビオンがここで問題を拗れさせるとは考えづらい。

 

 そんなこんなで、公爵も交えて、しばし詳しい話を聞く。

 連絡会議におけるトリステインの代表には公爵が立ち、私はトリステイン国内の分科会の筆頭委員として考えられているらしい。また、この部門のアンリエッタの政策決定について助言する事が私に宛がわれる仕事になるのだそうだ。勤務は非常勤で、通常は診療院の方で今まで通りの業務を行い、月に数回の定例会にのみ出席を求められるというものだった。聞こえてくる話はどれも都合がよすぎて怖いくらいだ。

 公爵が『よろしくお頼みしますぞ』と朗らかに言い残して去ったところで、私は声を落としてアンリエッタに問うた。

 

「何故、私なぞのためにここまでしていただけるのでしょう?」

 

 私の問いに、アンリエッタは笑う。

 

「貴方と私とは、利害が一致していると思うからです」

 

「利害の一致?」

 

「この会議の成果により貴方の発言力が上がり、貴方が日々実践している平民相手の医療活動が広まることが私の望みです。もし、平民でも大金を求められずに魔法治療が受けられ、それにより我が国の脇の甘さでもある平民に対する厚生が前進するのであれば、間違いなくそれは我が国の国力の増強に繋がる事でしょう。それこそが私が欲する国益です。そして、そのモデルを見た各国が足並みを揃えてくれれば、ハルケギニア全土で病魔や怪我が人々の暮らしに影を落とすことも減ってくる事でしょう。貴方の日々の営みを、より大規模に、このトリステインからハルケギニアに広めていただければ、それが可能になると私は思うのです」

 

 確かに、この赤十字もどきは私の流儀に合致するものだ。それに、平民の生活水準向上が政権の安定に繋がることも確かだろう。医療の発展に伴う人口増加等の問題も無視はできないが、そうであってもやはり医療は国の根幹をなす礎の一つだ。充実するに越したことはない。そんな事を思いながらも、頭の中でその会議に対する様々な提言や日常のスケジュールを無意識に考えていた自分に驚いた。私は、この会議を好ましいものを思っているらしい。そんな私に、アンリエッタはとどめを刺しに来た。

 

「そして、殿下が参与になっていただいた時、それに伴うものこそが殿下の利と考えて下さい」

 

「それはどういう意味でしょう?」

 

 その問いに、アンリエッタは最後のカードを開いた。

 

「この先、会議のやり取りで各国に渡る機会も増える事でしょう。当然、アルビオンにも出向くことになると思います」

 

 そこまで言われてようやく私は理解した。

 アルビオンという単語と、私の社会的な立場。

 その事が、一つの答えを導き出した。

 

「陛下……」

 

「我が国の使節としての入国であれば、その人物についてアルビオンは異を唱えることはできません。大手を振ってアルビオンに入国できましょう」

 

 この時代、外交官特権などは正式に取り決められてはいないが、逆に生々しいほど名誉偏重のハルケギニアにおいて、他国の王の随伴者の身元について意見することもまた難しい。それが例え追放中の罪人であっても、他国の王の名において入国した者には文句を言えないだろう。言うとなったら国際問題を覚悟しなければならない以上、そのスタンスは黙認が基本となると思われる。

 その事実が、私の中でざわつき始める。

 アルビオンに、行ける。

 皆に、会う事ができる。

 全く自由に会える訳ではないだろうが、それでもその姿を目にすることはできるだろう。

 私が元気でやっている姿を皆に見せることもできる。

 その事実に、知らぬ間に手が震えていた。

 

「これは、貴方に対する返しきれないほどの借りの返済の一部とお考え下さい。私だけではありません。ウェールズ様もです。貴方の意図がどうであったかは判りませんが、貴方は結果的にアルビオン王国を救い、ウェールズ様を助けてくれました。その借りは、決して安いものではありません」

 

「その場に居合わせられた事が幸運だっただけです。それに、その分の褒美は既にウェールズ殿下からいただいております」

 

「そうですね。ですが、私たちはそれで貴方が報われたとは思っていないのです。家族同然に過ごしてきた方々と離れ離れになっている現状、それを私たちは看過できないのです」

 

 私は発すべき言葉が見つからなかった。一国の王が、何も持たないただの女の事を考えてくれているのだ。どんな感謝の言葉でも追いつきはしない。

 

「大切な人たちと引き離される辛さは、私なりに理解しているつもりでいます。そして、これはウェールズ様のたっての願いでもあります。貴方を日の当たるところに引き上げ、今一度貴方の家族と手を取り合えるようにしたいと。今すぐ叶えて差し上げられない事は申し訳なく思います。ですが、その状況を変えていくためには、貴方の社会的な立場の向上が必要なのです。それこそ、アルビオンにおいて誰も文句を言えないだけのものが。むしろ、貴方を国外に置いておくことを愚策だと周囲がウェールズ様を突き上げるくらいの空気が必要です。もちろん一朝一夕ではいかないでしょう。しかし、既に殿下には相応の名声があり、状況も追い風。これを元手にしない手はないと思います」

 

「私は……何と申し上げればよいか……」

 

 アンリエッタの言葉に、胸が詰まって声が出なかった。

 思わず、目元に涙が滲んだ。

 

 だが、アンリエッタの次の言葉は私の予想の斜め上をいった。

 

「良いのです。それに、これは貴方に対する恩返しであると同時に、貴方に対する貸しの取り立てでもあるのですから」

 

「貸し?」

 

 脈絡が読めない言葉に、私は混乱して首を傾げた。

 その途端、アンリエッタの穏やかな表情がいきなり無表情になった。感情を押し殺したような、どこか能面のような凄味を感じる。平たく言えば怖い顔だ。美人が怒ると怖いものだが、今のアンリエッタが発している禍々しいオーラは映画『アダムスファミリー』のウェンズデーにも通じるそれだ。

 

「貴方は、想い人から違う女性の話をされることをどう思いますか?」

 

「は?」

 

 アンリエッタの気配に、王宮全体が地響きを起こしているような感覚を覚えた。

 

「昔からそうでした。素敵な従妹がいるから、是非私と会わせたい、と。お会いすれば、いつも貴方の話ばかり。私と共通の話題のつもりだったのでしょうが、幾らなんでも毎回あれというのはいかがなものでしょう。ウェールズ様にとって私は一体何なのかと幾度も文句を言いましたわ。先日の会議の席でもそうでしたわ。再会を喜んでくれるのはいいのですが、話は知らぬ間に貴方の行く末についての相談ばかり。どう思われますか、こういうのを?」

 

 黒い。瘴気が黒いです、陛下。

 隣に座っているルイズも顔を引き攣らせてアンリエッタから遠ざかっている。

 やい、アルビオンのアホ殿下、アンアンが本当に黒化したらどうしてくれる。

 

「そういう訳で、私にとって、今の貴方は非常に危険な存在なのです。不遇の姫君ともなれば、殿方にとってはさぞ庇護欲をそそられることでしょう。貴方を追放の身に据え置いたままでは、いつ何時、彼が変心するか判りません。ですので、ここは貴方の立場を引き上げ、きちんと私との決闘の場に立っていただきたいのです」

 

「け、決闘、って……ウェールズ殿下のお気持ちは明らかではありませんか」

 

 私がフォローの言葉を発すると、スイッチを切り替えたようにアンリエッタの表情が一変し、その顔には勝者の余裕が浮かぶ。

 

「そうですね。ウェールズ様は私を愛して下さっておいでです」

 

 臆面もなく言うか、そういうことを。あまりの馬鹿らしさに、私は全てを投げ捨てて、このまま即座に家に帰りたくなった。そのまま荷物をまとめて火竜山脈の麓に庵を結んで、そこで生涯を過ごすのだ。

 

「ですが、貴方を野に追いやったまま、その隙にウェールズ様と添い遂げるというのも私のルールに反するのです。正々堂々、貴方が私と同じレベルの立ち位置で勝負し、その上でウェールズ様に私を選んでいただかないと気が済まないのです。ですから、貴方にはどういう形であっても大手を振ってアルビオンに出入りできる身分になっていただきたいと思います。今回のお話は、その始めの一歩です。今の貴方は我が国の臣民。王として、貴方には首を縦に振る以外の選択肢は与えません。これは勅命と理解していただいて結構です」

 

 半ば冗談で、半ば本気みたいなアンリエッタ。甚だ迷惑な思惑はどうあれ、王にあるまじき気遣いは素直に嬉しかった。

 

「冗談はともあれ、アルビオンにて、ウェールズ様を助けて下さったことは私にとっては一生の恩義。それなのに、できる恩返しがこの程度と言うのは申し訳なく思います」

 

 ちょっとだけ寂しそうに言うアンリエッタに、私は首を振って応える。

 

「私のような者に対し、望外のお心遣い、もはやどのように謝意を述べればよいか、私には判りません」

 

「その言葉はルイズに言って下さい。これらはすべて、この子の発案です」

 

「姫さま!」

 

 隣のルイズが慌てて手を振った。

 

「あ、そうそう。あなたは知らないことになっているのでしたね」

 

「ルイズ……」

 

 私が視線を向けると、ルイズは血相を変えて否定に走る。

 

「知らないわよ」

 

「でも……」

 

「知らないったら知らないのよ。あんただって、ちい姉さまの治療のお礼、言わせてくれないじゃない」

 

 ここでそれを持ってくるか。

 それとこれとは明らかに別だろう。プロとして仕事をした私と、善意に基づいて動いてくれたルイズ。

 両者の差は明らかなのだが、それでもルイズは頑として私の話を聞いてくれなかった。

 残りの時間は、そんなルイズとの押し問答で終始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 城から戻る頃、街は既に茜色に染まっていた。

 夕飯の食材を求めに市場に寄り道し、売れ残りの食材をぼちぼちと買いこむ。

 晩御飯の献立を何となく考えながら、私は陛下の部屋を出た後でルイズがしてくれた話を反芻していた。

 

「言っておくけど、姫さまに持ちかけた案は私だけが考えたものじゃないからね」

 

「じゃあ、誰が?」

 

「主なところは、ちい姉さまよ」

 

「カトレア嬢が?」

 

「悪いとは思うけど、あんたのこと全部話したの。悔しいけど、私だけじゃどうにもできなかったから。あんたが泣いてたって話したら、ちい姉さま、物凄く怒ってたわ。滅多に怒る人じゃないけど、あんなに怒ったちい姉さま見るの初めてだった。そうしたら、そのまま父様のところに乗り込んでいろいろ相談して、父様と一緒にいろんなところに根回しを始めたの。手紙を何通も書いて、ヴァリエールの名前で各国の貴族に片っ端から話を持ちかけてたわ」

 

 公爵も一枚噛んでいたのか。

 大公爵ともあろうものが、国を追われた小娘のために尽力してくれるなど、まさに身に余る光栄と言うものだ。どう言って礼を述べればいいのか見当もつかない。

 

「どうしてそこまで……」

 

「あんたはどう思ってるか知らないけど、ちい姉さまにとってはあんたは一番の友達だからよ」

 

「友達?」

 

「ちい姉さま、体が悪かったでしょ? 歳の近い友人、あまりいないのよ。だから、あんたのことすごく大事に思ってるの」

 

 私は思わず唸った。ただひたすら遊ばれているだけのように思っていたが、あのお嬢様がそういうことを考えていたとは。

 

「それに、言ったでしょ、あんたが困っていたら力になるって。ちい姉さまのことやサイトのこと、あんたが私たちにしてくれたことをそんなに軽く思わないで欲しいわ。ヴァリエールは、受けた恩は忘れない。これくらいの事はさせてもらいたいわ」

 

 屈託なく笑って、事もなげに言うルイズの言葉が、胸に染みた。

 彼女の発するエネルギーの前に、自分の不甲斐なさが浮き彫りにされたようで恥ずかしかった。

 ルイズだけではない。カトレアや公爵、アンリエッタやウェールズ殿下の深い情けもまた、私の心の奥底に染み透っていた。

 

 見上げると、茜色に染まった街並みの上には、いつか見たアルビオンの空のような赤い雲が幾つも泳ぐ。

 不意に己の器の小ささを覚え、たまらず私は自分の両の頬を叩いた。

 

 出かける時より少しだけ前を向いた私は、やや多めの食材を買い込んで家路に着いた。

 元気を取り戻すためには、まずは体重を戻さなくてはならないからだ。

 

 

 

 

 

 信念がツキを呼ぶ。ギャンブラーの鉄則だが、ギャンブラーに限らず何かを前向きに考えると、物事もまた前向きに転がっていくものなのかも知れない。

 診療院に戻った時、ドアのロックを外そうとして違和感に気が付いた。出る前に施したロックが解除されている。

 買い込んだ食材を置いて、杖を抜いた。サイレントの魔法をかけて、静かにドアを開けた。

 気配を探りながら中に入ると、たたきに一足の靴があった。女物の、品のいい靴だ。土足禁止の診療院で、いつもこの場所にあった、見覚えのある靴だった。

 

「……嘘」

 

 慌てて中に飛び込む。誰かがその靴を釣り餌に私を害そうとしていたら、私はあっさりと殺されていただろう。だが、リビングに入った私が見たものは、刺客ではなかった。

 ソファを占有して、疲れた大型犬のようにぐてっと寝ている長身の女性。

 私は大声をあげてしまった。

 

「マチルダ!?」

 

「んあ?」

 

 私の声にマチルダは目を覚まし、ソファから起き上がった。私を見ながら緊張の欠片もない様子で頭を掻く。

 

「ああ、帰って来たか。いやはや、長旅で疲れちまってね」

 

「どうして?」

 

「ほい」

 

 声を震わせる私の前に、一枚の紙が差し出された。

 最初に目についたのは、冒頭に書かれた書類のタイトルだった。

 

「任命状?」

 

 文字を追うごとに、私の手が震える。

 曰く、『マチルダ・オブ・サウスゴータ。右の者を、トリステイン駐在官に任ずる。ウェールズ・テューダー』

 

「駐在官……って」

 

「ああ、要するにアルビオンとトリステインの連絡員みたいなもんさ。トリステインを良く知る人材としちゃ、まあ、確かに私は適任だからね」

 

「領地はどうしたのさ?」

 

「そっちも何とか整理がついたんだよ。昔の伝手頼って声をかけたら、サウスゴータの旧臣で頼りになる能吏が集まってくれたのさ。もともとサウスゴータは議会の力が強いから、太守と言っても名ばかりだしね。それに、太守代行にすごい人が名乗りを上げてくれたから、安心して任せて来られたんだよ」

 

「代行?」

 

 言うなれば代官みたいなものだが、太守の代理人となると責任は重大。よほどの人物でないと務まらないだろう。しかし、マチルダの口から飛び出した人物はそんな懸念を吹き飛ばして山のようなお釣りが来そうな人物だった。

 

「パリー老さ」

 

「パリーが?」

 

 仰天する私を余所に、頭を掻きながら起きだして、まるでこれまでの日常と何一つ変わらぬ所作でキッチンに向かうマチルダ。水場で水を汲んで、美味しそうに飲む。よほど疲労しているのだろう。

 

「城勤めは正式に引退して、私の所領の面倒を見てくれるって。領地の方は自分が何とかするから、私はあんたのところに行け、って追ん出されたんだよ。すごい剣幕だったんで押し切られてトリステイン行きの事を殿下に相談に行ったら、その書状がもう用意されていてさ。殿下と示し合わせていたんだね、きっと」

 

「……」

 

「真面目な話、アルビオンの復興には基礎になる工業の復興が急務だからね。こっちの商工会への援助要請とかもいろいろあるから、当分こっちにいなくちゃいけないんだよ」

 

「……」

 

「それにしても、やっぱりあんた一人じゃ置いておけないね。部屋は埃だらけだし、食べる物も結構手抜いてたみたいだし。医者の不養生一直線じゃないか。いい大人としてどうかと思うよ……聞いてるのかい?」

 

 やはり、こいつは意地悪だ。絶対知っててやってるよ、これ。

 長く一緒に暮して来たんだ、お互いの弱点は知り尽くしている私たち。

 マチルダの攻撃に対し、私に対抗する術などありはしない。

 馬鹿みたいに突っ立ったまま、ぼろぼろと泣いている私にようやく気付いたのか、マチルダは頭を掻きながら寄って来た。

 

「も、もう、会えないど……思っ……」

 

 感情の内圧が高すぎて、言葉が喉に詰まって出て来ない。そんな私の頭にマチルダが手を置く。お嬢様とは言い難い、厚みのある、働いている人の手だ。そのまま私を胸元に抱きよせて、優しい声でマチルダは言う。

 

「馬鹿だね。あんたみたいな泣き虫を一人で置いとけるわけないだろう」

 

 私は理解した。

 恐らく、こいつには一生勝てないのだろう。

 何もできなかった無力な私が、今、自力でこの家に帰って来たマチルダの腕の中にいる。

 

 それが恥ずかしくて、照れ臭くて、そして嬉しかった。

 

 

 

 

 街の面々への挨拶は明日に回し、まずは晩御飯を作った。

 マチルダの好物ばかりを作り、久しぶりに、私は心から笑いながらご飯を食べた。

 

 夜、マチルダと一緒にリビングに布団を引っ張り出して来て並んで床に就いた。

 親子ほども体格が違う女二人のパジャマパーティーだ。

 寝転がりながら、アルビオンの事をあれこれと聞く。

 

 私が帰って早々、最初にやらかしたのはディルムッドだったそうだ。

 虚無の担い手の事は公にはされてはいないが、テファを知る一握りのアルビオン上層部において、虚無の担い手の衛士としていきなり平民を登用することの是非について多少の衝突があったらしい。

 そんな折、発布されたのがウェールズ殿下公認の仇討ちだった。

 サウスゴータで襲ってきた連中以外にも未だ少なくない私が手にかけた兵たちの身内たちに対し、兵たちを殺めた実行者であるディルムッドと立ち合う機会を設けたのだそうだ。発案が殿下なのかディルムッドなのかは判らないが、ウェールズ殿下の性格からして、こういうイベントをそう易々と承認する事はしないだろう。恐らくはディルムッドが彼を口説き落としたに違いない。

 討っ手の人数には上限を設けずの通達に基づき、会場である闘技場には数十人が集まったらしい。

 対する槍兵は一人。

 周囲は当然の帰結を予感して、静かにその公開処刑を環視していたそうな。

 その際に取り交わされた約束事は簡単。槍兵が倒れた場合、即座にトリステインに対し私の身柄引き渡しを求めた上、処断すると言う事。逆に、討っ手が敗れた場合は全ての恨みを水に流す事が謳われていたそうだ。

 知らぬところで私の命が賭け物になっているとは驚きだが、1と1を足せば2になるような当然の結果を思うと私にとっては他人事に等しい話だった。

 結果は話を聞く前から判っていたが、まあ私が予想した通りの結果になったらしい。死人こそ出なかったそうだが、突如仕事が山と湧いた水メイジたちは気の毒なことだ。

 そんな彼の立ち回りを見て、声をあげたのは撤退戦の時に神聖アルビオンに与していた者たちだ。真紅の槍を振るう悪夢の権化。散々に神聖アルビオンの軍勢を蹴散らした槍兵の実力は、鰭を纏いながらあっという間にロンディニウムに広まった。その勢いの前に、アルビオン上層部にも虚無の担い手の衛士は彼しかあり得ないと言う意識が確固たるものとして根付いたのだそうだ。その余禄として、私が買った恨みについても妙な形で清算が済んでしまったのだからうまいことをやったものだと思うが、恐らくは、ディルムッドの本当の狙いはこっちだったのだろうと私は思う。

 

「それで、あの子はどうしているね?」

 

 私の言葉に、マチルダは少し顔をしかめた。

 言うまでもなくテファの事だ。

 

「あんたと御同様だよ。顔色は冴えないし、何だか元気がなくてね。二人で話せばあんたの話題ばかりだよ。ご飯はきちんと食べているだろうかとか、寂しがってないかとか。まあ、よくあそこまで話題が出てくるもんだよ」

 

 私は赤面するしかなかった。

 どこかから覗いていたんじゃないだろうな。遠見の鏡とかで。

 

「まあ、帰って来てよかったよ。こんなに痩せちゃって。馬鹿だね、本当に」

 

 マチルダの優しさが、胸に染み込んでくる。その暖かさを噛み締めながら、私は彼女からもらった宿題を思い出していた。

 

「ねえ、マチルダ」

 

「ん~?」

 

「前に、訊かれたことがあったよね?」

 

「何?」

 

「……どうしてテファの事を助けようと思ったのか、って」

 

「ああ」

 

 以前、はぐらかしてしまった答えだ。何だかずいぶん昔の話のように思う。

 

「私が、変な夢を見る話は覚えているよね?」

 

「ああ」

 

「その夢の中でね、テファは、アルビオンで森の中で暮らしていたんだよ。ウエストウッドの森の中で、孤児たちと一緒にね」

 

 それは、あり得たかも知れない未来。私が壊してしまった、否定してしまった一つの可能性だ。

 

「あ~ん?……生活費とかどうしてたんだい?」

 

「マチルダが稼いで、仕送りしてた」

 

「仕送り?」

 

「うん。サウスゴータの家、ダメになっちゃってたから。酒場で働いたり、魔法学院で秘書やったり」

 

「ふーん」

 

「秘書やりながら、学院長にスカート覗かれたり、お尻触られてた」

 

「何だって~?」

 

「あはは。その度に学院長半殺しにしてたよ。それと……」

 

 ちょっとだけ言うのに抵抗があったけど、ここで言っておこうと思った。

 

「密かに、泥棒もしてた」

 

「泥棒?」

 

「金持ちの貴族相手に、怪盗やってたんだよ」

 

「それは嫌だなあ」

 

「でもね……」

 

 露骨に嫌な顔をするマチルダに、私は言った。

 

「確かな絆があったんだよ、あんたたち」

 

 今なら、判る。

 テファというキャラが、好きだった。

 マチルダというキャラも好きだった。

 でも、それだけじゃない。

 私は、二人の信頼関係が羨ましかったんだと思う。

 私には、姉妹というものがいなかった。親だって、前世の母しか知らない。そんな私にとって、テファとマチルダの二人の優しい絆が、心の琴線に触れたのだ。確か11巻だったかな。泣いているテファを、抱きしめるマチルダ。

 

『どんな道だろうが、私と行くよりは、マシだからさ』

 

 本当は、テファと一緒にいたかっただろうと思う。

 でも、それでも闇の中を歩き続けたマチルダ。

 それが、あまりにも悲しかったのだ。

 

「私も、そんな私が知るあんたたち二人みたいになれたら素敵だろうな、って思ったんだよ」

 

 私の言葉を、マチルダは黙って聞いてくれた。

 

「貴族やってた頃の私は、父親とはろくに話をしたこともなかったし、母親だって、私のことは欠片ほども愛してなどくれなかったよ。ずっと一人で、私の事を見ようともしない人たちに囲まれて、意味もなく豪勢な城で、空っぽなものばかりに囲まれて暮らしていたんだよ。だからね、お互いを大事にできるあんたたちが、私には眩しかったんだ。もちろん、テファは妹さ。助けてあげなきゃと思ったよ。でも、あの子はあんたと一緒じゃないと幸せになれない事も私は知っていたんだよ。誰に迷惑をかけた訳じゃない。たまたまエルフの血が流れてるってだけのテファと、そのお姉ちゃんだっただけのあんたが、みすみす不幸になる事がたまらなかったんだ。あんたたち二人には、陽のあたるところにいて欲しかった。テファが森の中に隠れ棲んだり、あんたが泥棒になるなんて、許せなかったんだ。それが、私が出しゃばった理由なんだよ」

 

 言葉にして、初めて判る気持ちもある。

 私の中にあったのは、二人に対する羨望だったのだ。

 

「なりゆきだったけど、厚かましくあんたたち二人の間に割り込んじゃったけど……私は、すごく嬉しかった。毎日が楽しくて、何気ない会話だけでも暖かくて……この場所は、本当に幸せで一杯だったんだ。だから、失いたくなかったんだ……皆と一緒にいられる、この場所を……」

 

 言葉を続ける私の頭に、マチルダの手が伸びてきた。

 私の髪を優しく撫で、柔らかい笑みを浮かべた。

 

「背負い込みすぎだよ、馬鹿」

 

 その声がすごく優しくて、私は照れ臭くなって布団を被った。

 

「さて、今日は寝ちまうよ。おやすみ」

 

 マチルダは笑うと、すぐに寝息を立て始めた。

 本当に疲れていたのだろう。

 布団から顔を出して寝顔を見つめながら、マチルダの帰還と言う肝心な事を言わない困った使い魔をどうとっちめようかと思いながら念話を送る。

 

『やい、ディルムッド』

 

『は』

 

 全然悪びれた感じがしない返答が癪に障る。全てを判った上でやっているような悪戯っぽい気配がした。困った奴だ。

 

『この裏切りは相当高く付くぞ?』

 

『喜んで』

 

『……お前、しばらく会わない間に変な風に毒されちゃいないかい?』

 

『滅相もない。皆、主の薫陶の賜物かと』

 

『私はそんなに意地悪じゃないよ』

 

『「喜びと復讐は静かな方が味わいが深い」とは主のお言葉であったかと』

 

 ぐうの音も出なかった。

 こんな事を言いながらも、この使い魔が何よりも私を大切にしてくれている事は知っている。さっきマチルダが教えてくれた、アルビオンでの彼の活動には目頭が熱くなった。

 

『……覚えといで。今度会ったらひどいからね』

 

 こいつの好物を、テーブルに山と並べて全部食えと命じてやろう。そんな事を考えている私に対する忠臣の返答は明るい。

 

『楽しみにしております』

 

 これ以上はやめておいたほうがいいだろうか。照れ隠しの八つ当たりにしかならない気がするし。

 

『ディルムッド』

 

『は』

 

『ありがとう』

 

 それだけ告げて、念話を閉じた。

 

 

 

 布団を直しながら、私は自分の考えの浅さを噛みしめていた。

 アルビオンを去る時、私は全てを諦めていた。

 何もかもを失い、それを二度と取り戻す術はないのだと思い込んでいた。

 そんな私に差し伸べてくれた、皆の手。

 私が打ちひしがれ、己の内に籠っている間に、皆は私なんかのためにそれぞれができる精一杯の事をしてくれていた。

 私がめそめそしている間に、そんな私のために、時間を使ってくれていたのだ。

 そんなことが判った今日、一つ思い知った事がある。

 『ゼロの使い魔』という物語において、何故ルイズや才人のような登場人物たちが英雄になりえたのか。

 彼らは、彼女らは、諦めると言う事をしないのだ。

 原作の物語の中において、厳しい状況に置かれることもあった。

 身を切られるように辛い出来事もあったはずだ。

 それでも彼らは進む事をやめようとせず、逆境にあってなお、それをバネに成長して行った。

 今なら判る。

 それこそが、英雄と言う存在に求められる資質なのだろう。

 それに対し、私はどうだっただろうか。

 ただ事実を嘆き、心を閉ざして傷が塞がるのを待っていたように思う。いつの日か、今日という日を振り返っても心が痛まない時が来てくれる事を信じて。

 それでは、ダメだったのだ。

 それを教えてくれたのが、『ゼロの使い魔』という物語を織りなす皆だった。

 運命に抗う事を知っている人たちだ。

 そんな彼らが、力を合わせて状況を変えようとしてくれている。

 私が諦め、絶望した壁を打ち壊そうとしてくれている。

 おかしな話だ。

 彼らの事を神の視点で理解し、その行動が手に取るように判るはずの転生者のくせに、実際にこの世界に暮らしてみれば現実はままならない事ばかりで、ただ喘ぐことしかできない。

 物語の英雄たちは、そんな私すら救いあげようとしてくれているのだ。

 

 そう思った途端、私の中の、私を私たらしめている何かが動き出す。

 ここまでお膳立てしてもらっていながら立ち上がろうとしないとしたら、もはやそれは私じゃない。

 できるとかできないじゃない。

 やらねばならない。

 失った物を嘆くのではなく、それをどう取り戻すかを考えるのだ。

 皆の目を、正面から見られるようになるために。

 皆と、胸を張って肩を並べられるようになるために。

 一足飛びは無理でも、まずは半歩。

 私にできる事を探すところからだ。

 始めよう。

 私なりの、運命に対する逆襲を。

 私なりのやり方で、テファに会いに行こう。

 色褪せてしまった、私の世界の色彩を取り戻すために。

 できないはずはない。

 私には、こんなにも優しい人たちがいてくれるのだから。

 

 

 

 そんな決意を固め、もう一度マチルダの方を見る。

 静かに寝息を立てている寝顔。

 何となく、面と向かっては恥ずかしくて言えない言葉を、私は小さく呟いた。

 

「ありがとう……………………お姉ちゃん」

 

 まだ伝えた事がない、でも、いつかは言おうと思っていた言葉。

 ありったけの、感謝を込めた言葉。

 だが。

 

「どういたしまして」

 

 ……寝ているはずのマチルダが、目を閉じたまま返事をして来よった。

 ぎょっとなって、私は慌てて自分の布団にもぐりこんだ。

 うわ~、うわ~、恥ずかしー。顔が熱い。

 愛の囁きより恥ずかしいぞ、これは。

 前世で、級友の男の子に懸想していた友達が学校の屋上で私を実験台に告白の練習してたら、給水塔を挟んで反対側にその相手がいたのに気付かなかったのと同じくらい恥ずかしい。そいつらは結局くっついて、私は『爆発しろ~!』と言って祝福したっけ。

 

 その時だった。

 

「ん?」

 

 私は奇妙な違和感を感じて動きを止めた。異変は外部ではなく、私の内側で起こっていた。

 下腹部に感じた違和感。初めてのものであり、昔経験した記憶のあるものであり。

 うぬぬ。

 違和感の波は徐々に大きくなり、私は跳び起きてトイレに駆け込んだ。

 私に何が起こっているのかは判らない。いや、何が起こったのかは判る。これでも医者であり、女の端くれでもある。

 問題なのが、何故今この時期にこんな事が起こるのか。

 ホルモンバランス? 精神的な要因?

 幾つもの心当たりが脳内を駆け巡るが、理由は判らない。判らなくても前世以来久々に体験する痛みと気持ち悪さは現実となって我が身を訪れている。

 

「う~む……」

 

 唸りながらトイレを出ると、マチルダが心配そうな顔で立っていた。

 

「どうしたのさ、具合でも悪いのかい?」

 

「具合が悪いと言うか、悪かったものが正常になったと言うか」

 

「はあ?」

 

 私は、自分の中の混乱した物事に整理を付けるように口にした。

 

「初潮が来た」

 

「……え?」

 

 成長が止まったこの体は、今に至るまで無月経だった。恐らく、生涯来る事はないだろうと思っていたそれの到来について、私はどうにも理解できなかった。

 

 とりあえず患者用の用品で手当てしようと思い、診察室に入る。

 その時、目に入った一つの機器。

 身長測定器。

 それを見た途端、脳内の神経が結びついた。

 錆びた時計の秒針が、震えながら動き出したイメージがよぎる。

 まさかと思い、慌てて測定器に乗った。

 バーをスライドさせ、頭頂部に合わせる。誤差がないよう、無意識に背伸びをしていないかを確認して、恐る恐る目盛りを見る。

 

「伸びてる……」

 

 目盛りは、私がいつも見つめていた数値から、明らかに半サント程増加していた。

 朝と夜に計測すると、夜の方が微妙に身長が低くなるのが人の体だが、今は夜。にもかかわらず、私の身長は伸びていた。

 何が原因なのかは判らない。

 だが、確実に変化が起こっている事は明らかだ。

 私の中の時計が、再び時を刻み始めていることを、私は知った。

 

 

 その日、私を取り囲む様々なものにおいて、新しい何かが動き始めた。


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