/prologue
薄汚い部屋、仄暗い暗がりの中でも、それは感じられた。
空気を伝い、流れてくる微かな揺れ。肌のひりつく感覚が、原始的な本能を刺激し、過去という泥濘に沈み込んでいたはずの記憶を蘇らせていく。
紅い炎
過ぎゆく宇宙船の窓から見た光景は、一瞬閃いたかと思う間もなく、視界が赤一色で埋め尽くされた。
それは星を焼き、宇宙をも焼いた大火の記憶。
忌まわしく、そして僅かばかりの温かい思い出は、しかし全て焼き払われ、一人の子供は木星へと逃げ延びた。
それでも、炎の跡には灰が降り積もる。
寡黙な性根は、硝煙と砂塵の中で、さらに磨かれた。ぴくりとも筋肉は動かず、いつも顰めっ面のまま。
少年は青年となり、そして額に皺が重なる程の老人になった。体はとうに無理が効かなくなり、歩くことさえ、杖がなければままならなくなった。
だが、為すべきことがあると、そう一心に信じ続け。ただ前へと歩み続けた、得てきた全てを失い続けながら。
それでも降る灰が止むことはなく、積もったそれに一歩一歩と。踏み出せば踏み出すほど、沈み込み、囚われていく。
ーありがとう、うぉるたー
…振り払うことは、出来なかった。
肩に降り積もっていく灰が、いつかは大きな重石になることなど、とうに分かっていたはずなのに。
「お前に、意味を与えよう」
それでも、俺には出来なかった。
情など湧かぬように、型番のみで呼び続けた。
最低限の体調管理は、ただ一つの戦力を温存するため。ただ、それだけだった。
貴重な戦力を、大したことのない仕事で損耗させたくなかった。…そう、それだけだ。
……入れ込むべきではない。
ソレが互いの為にならない、と骨身に染みた「教訓」としていたはずなのに。
…
……
………
…………。
「…621」
俺の、最後の猟犬。
背負うべきではない業を背負い、お前は火をつけた。
お前には、可能性があったはずだ。
とうに燃え尽きた過去を捨て、空を超え、宙へと羽ばたいていけるはずの翼を、しかし俺は折った。折ってしまった。
許されることでは、ない。
「それでも、お前は…背負ってくれた」
ならば、俺はそれに応えよう。ボロ切れに成り果て、こうして意識を保つことさえおぼつかない。そんな無様で、救いようのない、一人の愚かな男の望みを、お前は汲んでくれた。
その献身に、許されるのならば、心から応えたい。
「よくやった、…621」
俺たちの仕事は、終わった。
ーー
炎は全てを焼き払った。
精一杯に生きたい逞しき人々の日々も、悪酔いたちの刹那の酔夢も。
貪欲なる企業の果てない野望も、全てを律しようとした鉄の法さえも。
全てを飲み込み、広がっていく。
破壊、破壊、崩壊。
やがて火が鎮まる頃には、ただ一つの不毛の惑星が残されるだけとなった。
そして、宇宙には深刻な汚染がもたらされ、復興には、ゆうに一世紀は費やすだろう。
それでも火は、等しく焼き払った。 全ての始まりを、罪人たちの罪咎を。
その原罪を。
ならば、「
ー/ー
我々は覚えている、7つの古則を
我々は望む、ジェリコの嘆きを
ー/ー
…夢を見ているのだろうか?
朧げな景色が、ぼんやりと視界に広がった。
「ゴトン、ゴトン」と規則を持って揺れるのは、ここが列車だからだろうか。
しかし、自分が座っている席は、馴染みのある無骨な革張りとは違い、乗る者を意識した柔らかさを感じさせる物だった。
『私の、…いや、これは私たちが犯した過ち』
久しく感じていなかった微睡みの中で、ふと誰かの声が聞こえてくる。うっすらと目を開ければ、差し込む光の中で、誰かが向かいに座っていた。
血、大量の血。手遅れなほどの出血量。
仕立ての良い服を真っ赤に染めた「
「お前の、その傷は…」
呟きのような質問に、やはり聞こえてはいないのだろう。
目の前に座る「誰か」は構わず、淡々と、一方的に、独白のような言葉を続けていく。
『選択することの意味を、とうに分かっていたはずなのに…。それでも、私たちは繰り返してしまった』
『抱え、背負い、傷を負いながら。それが正しい事だと、信じて』
『だから…、また繰り返してしまった」
その言葉が耳に入った時、スイッチを切り換えたかのように意識が鮮明になる。
「お前は、誰だ?」
「…名も知らない誰か、貴方に願いを託す私たちの不義理を許してください」
ぼやけた視界にピントが合い始める中、始めて目に入ってきたのは「青」だった。
こちらを見る、透き通るような空の青に思わず見惚れてしまう。
「選択の意味を知りながらも、私たちには、この捻れた結末を解けなかった」
だが、何故だろう?
その空は潤み初め、そして一筋の雫が流れ落ちていく。
「お願いします。世界を、私たちが愛したエデンを
…終わらせて下さい』
ー/ー
まず感じたのは、氷のような冷たさだった。
それに次いで薄暗い部屋が現れた。その中央には、ポツンと手術台が置かれている。
優しげで、それでいて、確かな狂気に蝕まれた声が聞こえた。
天井には、施術用のランプが一つ。
酷く無機質なそれに照らされて、「
そうして、手は近づいてくる。
全てを覆い尽くそうとするかのような、そんな黒い手が。
ーこれで、母さんに会いに行けるよ…
それは最も古く、…そして、最も忌まわしい記憶だった。
「っ」
意識が浮上し、そして瞼を開く。
痛む体を起こしながら、周りを見渡した。
何処からか光が差し込んでいるのだろうか?薄暗いながらも、室内の様相は把握できた。よく整理されていて、しかし人の痕跡を感じられない寂し気な空間。
「ここは…」
少なくとも、自分の知っている生活様式とは似通っているようだったが、それだけにすぐに違和感に気づく。
「随分と古典的な空間のようだが、一体…」
机やその上に置かれた各種雑貨、そして電子機器。
全て面影はあったが、どれもかつて学習教材で見た、まさに『古典期』地球の様式に近い特徴を持っていた。
立ち上がるべく、何か支えになる物を探していると、ふと手に触れた物が一つ。
恐らくタブレットだろうそれを手に取ってみれば、確かに予想した物であった。
「形から察するに、『先中世紀』の物か。これだけが、妙に先を行っているようだが…」
とは言え、薄暗い部屋を照らすには、ちょうど良い光源だ。そう思い、電源ボタンを探ってみる。すると、青白い光が一瞬奔り、にわかに画面が明るくなる。その眩さに思わず目を眇めた。
よく見れば、画面には一つの入力欄が浮かび上がっている。
それが意味するものは明白だった。
「パスワードか…」
ふと、頭に過った言葉があった。
すでに去った神の軌跡を綴る、ある考古資料に出てきそうな、格式ばった文句。
だが、不思議とそれが正解なのだ、とらしくもなく直感した。
ーー
『我々は覚えている、7つの古則を』
『我々は望む、ジェリコの嘆きを』
ーー
「…今度は、何処だ?」
先程とは打って変わって明るい空間に、少しばかり面くらいながら、辺りを見回す。
「ふむ…」
一瞬前までは、パスワードを打ち込んでいたはずなのに、今は、何故か椅子に腰掛けていた。
この不思議な体験にどう理屈づけるべきかと頭を悩ませていると、ひんやりとした感触が足を伝ってくる。
「なるほど」
見れば、水が床一面に張っていた。誰かが気を利かせてくれたとようである。
そう思いながら、心地よい冷たさを感じていると、ふと一つの机が目に入ってきた。
立てかけてあるのは、少しばかり使い古した趣のある杖。
「ようやく、まともに立つことが出来るな…」
ちょうど手の届く場所にあったそれを掴んでみれば、よく手に馴染んだ。
椅子から立ち上がった俺は、改めて、室内を見回してみる。
並べられた椅子と机。
ついぞ縁はなかったが、確か「
そして、その先へと目を向ければ…。
「あれは、「
目に飛び込んできた景色は、決して見慣れないものではない。だが、それは本当に透き通るような「
木星は当然、ルビコンでさえも見たことがない、空のように明るい海。
空、青、……そして涙。
刹那脳裏に過ったのは、あの「青」と声だった。涙と共に、望みを託した誰かの声。
「……
夢はもう朧げではあるが、その願いだけは、確かに覚えていた。
一体何を思いながら、
「…んぅ、むにゃむにゃ…」
…このまま海を見て、物思いに耽るのも良いだろうが、まずは
「カステラには、いちごミルクよりも…バナナミルクの方が…」
「…おい」
「んへへへ…まだまだ、たくさん……んむ?」
可能な限り声を抑えたつもりだったが、それでも少女は気づいたらしい。
先程まで机に伏したまま眠っていた少女は、年齢相応の辿々しい仕草で起き上がると、寝ぼけ眼を擦りながら、まだ焦点の合っていない視線をこちらに向けた。
「…」
「……」
「……んえ!?」
混乱しているのか、驚いているのか。恐らく、その両方が混じっているだろう。
意識がはっきりとした彼女は、あたふたと慌てた様子で立ち上がるが、この世には慣性の法則というものがある。
水面を強かに打ちつける鈍い音が響き、そして部屋には静寂が戻った。
「ーーーっ!」
妙な姿勢で固まり、顔を赤らめる少女。
その内面に渦巻く物は察するに容易いが、今は推し量るよりも先に、彼女を落ち着かせたほうが良いだろう。
…そうだな、ならば。
「初めまして…だな」
「…俺は、『ウォルター』」
まずは、あいさつから始めよう。
「お前の『
/prologue end.