歳を取ると朝は早くなる。
そんな言葉が身に染みるようになったのは、果たしていつの頃であったろうか?
パチリという形容が似合うほどに、瞼が開く。革張りの椅子が少し軋んだ。
「すう……」
「…『アロナ』は寝ているのか」
机に置かれた『シッテムの箱』。その画面の中で、静かに寝息を立てているのは、このタブレットのOSを名乗る少女のアバター。
あの教室で邂逅して以来、それなりに友好な関係を維持している、数少ないキヴォトス人であると言える。
実際、彼女には多くの事で助けられてきた。縁もゆかりもなく、右も左もおぼつかない老人に付きっきりでいてくれたのは、彼女くらいだろう。
そのことには感謝の念しかないが、だからこそ、「
「…実際、これだけの書類の山を、よく捌いたものだ」
そう言って、俺は目の前に積まれた「白い
内容は実に様々である。格式ばった挨拶状から始まり、緊迫感を忍ばせた嘆願状もあれば、好奇心を滲ませた雑多な依頼まで、実に様々である。
それら全てはS.H.A.L.E.という、この組織を形作るピースだ。正直、煩わしさも感じてはいたが、だからと言って疎かな対応が許されるものではない。
2人がかり。
『アロナ』をオペレーターに、こちらは実働役として四苦八苦しながら終わらせた書類を、不備がないか再確認するべく一枚一枚とめくっていく。
いくら高性能AIだからと言って、その能力の上に胡座をかくわけにはいかない。人間は人間なりに、仕事をこなさなくてはならないのだから。
「そう言えば、そろそろか…」
「
時計の針が「7」を指した。タブレットの画面に来訪者を報せるアイコンが現れる。
軽く指でタップすれば、画面にシャーレ正面玄関の様子が映し出された。
「扇喜か…」
予想通り、あるいは予定通りか…。
そこには、つい一週間ほど前から、この『部活』に特例で入部した連邦生徒会員、扇喜アオイの姿があった。
ーー
一枚一枚と、紙の擦れる音がいやに響いた。
見れば、箱の中の『アロナ』も緊張を滲ませた表情を浮かべている。
拳を固く握りしめ、どんな結果でも受け入れると言わんばかりの身の入りようであったが、その姿は少々力みすぎである。
俺はそっと、その頭に指を添える。
彼女は途端に顔を
とは言え、心なしか表情に柔らかいものが戻ってきたのを感じ取ると、俺は扇喜の方に目をやる。最後の一枚を終えた時、彼女は静かに呟いた。
「問題はないようです」
「そうか…」
「枝葉から末節まで、すべて連邦生徒会の規則に則っていますね。…ここまで早く習得されるとは、正直驚きました。若い子たちに、貴方の爪の垢を
あるいは…、そう言って俺の手元にある『箱』に目をやる。
「ギクリ」と口にしながら、画面の中の『アロナ』は、小さく肩を跳ね上げた。
「…いずれにせよ、貴方は定められた期間の中で、自らの能力を示しました。ならば、私から言える事は一つだけです」
「お疲れ様でした」そう言って、彼女は初めて笑みを浮かべた。
張り詰めていた空気が
深い息と共に、ぐったりと机に突っ伏した『アロナ』の姿を横目に、俺は扇喜へと語りかけた。
「少し、あの日のことを思い出した。…「先生」という文字はどう書くか、だったか?」
「「英語の
そう言って、彼女は手に取った器を小さく揺らす。
中に満たされた緑茶を見つめると、一口、口に含んだ。
「「
「そうだな…」
ここに来ても、俺は迷っている。
「先生」という言葉は、俺の人生の中で、ついぞ縁遠いものであった。それに近い「
飴と鞭を与え、自らの意のままに他者を使う。冷酷なハンドラーという評価は、決して的外れなものではない。
だからこそ、彼女たちの目の中に浮かび上がった感情に、最初は安堵を覚えた。
期待外れの徒労感と、膨れ上がっていく不信感。
俺はようやく「地獄」に堕ちたのだと…。
「俺の中に答えはない。だが一人、
「…後学のため、お聞かせ頂けませんか?」
…いざ言葉にしようとすると、思いの外、形にはならない物だ。
ふと、画面の中のアロナと目が合う。不安げにこちらを見つめている。…いや、これは心配をしてくれているのだろうか。
揺れる空色の瞳を見ながら、おれは言葉を続けた。
「善き人、良き大人だった。そして…、俺に世界での「
「在り方、ですか」
「こんな事を言っていたな…、
ー人が歩く方法は二つある、一つは杖、もう一つは意思だ
と。
杖に頼れば、もはやそれ無くして歩くことは困難だ。だが、それを知っていながら、大半の人間は寄りかかってしまう」
「…」
「あの人は、その事をよく知っていた。
…だから、最後のその時まで、己の足で立ち続けていた。俺はその人の背中を追いかけていたつもりだったが、いつの間にか、杖が手に馴染んでいった」
「……」
「あの人が今の俺を見て、どう思うのか…。
…済まないな、老人の独り言に付き合わせてしまって」
「いえ、興味深い話です」
そこまで言って、俺は喉の渇きを覚え、扇喜の物に似た取手のないコップを手に取る。
誰の趣味かは分からなかったが、コップの上では、やけに胴体の細長い猫が躍動していた。
「
「はい」
「お前は確か、『
「…はい」
「一つ聞きたい事がある。
「……ウォルターさん、これは『七神リン』会長代行とN.E.S.T.が交わした合意の写しとなります」
そう言って、彼女は側に置いていた書類鞄から、紙封筒を一つ取り出す。
机に置かれた封筒を手に取ると、扇喜は静かに語り始めた。
「タワーの基幹OSである『N.E.S.T.』と、あくまで対等であるのは
「…」
「幸い、N.E.S.T.はこれまで理性的な判断を下してきました。七神とも、良好な関係を維持しています。しかし、個人の関係が良好だとしても、システムの根幹に刻まれた「
『
そこまで、扇喜が一拍間を置いた時、部屋に大きな影が落ちた。
見れば、ガラス張りの窓の向こうで、巨大な蜘蛛の姿をした多脚機械が、複雑なマニュピレーターを忙しなく動かしている。
清掃作業を行う『ミュルミドーン』を見ながら、扇喜の口から言葉が溢れ落ちていく。
「七神代行は今、難しい立場に立たせられています。
代行は、不在となった生徒会長の代理人に過ぎず、その権限が及ぶ範囲も限られています。それでも、生徒会長がいなくなった事で、空いた穴を埋めるかの如く、本来
「……」
「ウォルターさん。いえ、『ウォルター先生』」
澄んだライトブルーの瞳と目が合った。
それは言葉以上に、彼女の意思を雄弁に伝える。
「基幹OS『N.E.S.T.』、及び生徒会長代行『七神リン』の合意の下、現時刻「10:35」をもって、『S.H.A.L.E.』に課せられた業務停止措置を
ー今後とも、よろしくお願いします、『先生』
その言葉を残し、彼女はS.H.A.L.E.を辞した。
ー/ー
『先生?』
机に置かれたタブレットから、声が聞こえてきた。
手元の書類から顔を上げれば、窓の外はすっかり暗くなっていることに気づく。
時計を見るまでもなく、キヴォトスは夜が支配する時間となっていた。
「時刻に合わせて、室内照明が作動するようになっているのか…。『アロナ』、お前の仕事か?」
『これに関しては、
シッテムの箱が、青く輝く。
ホログラムの要領で現れたのは、『アロナ』だ。
『私の管理下に置かなくとも、S.H.A.L.E.のビルは自律的に動くよう設計されているようです。…多分、私よりも上位の
「
『問題ないと思います。何というか、「
「そうか…、お前はやはり頼りになるな、『アロナ』」
『ふふん、『アロナ』は出来る秘書なのです。ところで…』
そう前置きを置くと、心なしか、すこしばかり険しい表情を浮かべる。そっと俺の頬に手を当てると、『アロナ』は、右へ左へと視線を動かしていく。
眉間に皺が寄り、彼女はようやく口を開いた。
『先生、体調に問題はありませんか?』
「特段、感じてはいないが」
『…ちなみに、睡眠はいつ取りましたか?』
「覚えてはいないが、「
何故か怒らせてしまった。
『
「だが、何かしら不調のような物は感じていない。それに、目を通すべき書類はまだまだ多くある」
『むう…、
そう言って、頬を膨らませる『アロナ』。
この少女の姿をしたAIは、最近では一層人間味を増していた。
彼女と出会ってから長くはなるが、学習意欲が旺盛な彼女は日に日に成長を遂げ、今では秘書も兼ねながら、こうして日常生活の面からも俺をサポートしてくれている。
拒む理由はないが、…少しばかり、
「繰り返すが、問題はない。…むしろ、休んでいる暇はないとさえ思っている」
『ふうん、…
そう言って、彼女は『ガリレオくん!』と声を張り上げた。
床を擦る独特なキャタピラ音が聞こえてきたかと思えば、横合いから書類を取り上げられる。
そこにいたのは、先頃導入したばかりの自動書記ロボットだった。
「『ML_EC/567:ガリレオくん』。『ミレニアム・サイエンススクール』における、
主な機能は、「
…仕様にない、不要な「Bluetooth」機能やコーヒーメイカーが追加され、長尺の電子説明書がメモリの大半を消費し、当初は実用に程遠い
「…どういう事だ?」
『
「
記憶の片隅で、「そのような事を相談されたな」と思いつつ、彼女の口から出てきた言葉の迫力に驚く。
すでに幼くして大虎の片鱗を見せる少女は、腰に手を当て、意志強くこちらを見上げてきた。
『先生、戻ってきたこの子は、既に優秀な書士として生まれ変わりました。書類仕事は、「
「……つまり」
『先生、「
彼女の言葉を借りるのならば、「激おこ」という表現が合うのだろうか?
俺はどうやら虎の尾を踏んでしまったらしい。幼くとも虎は虎だという事を、すっかり失念していたようだった。
『順番良し、混入なし。現時点での記載漏れ、誤字脱字は確認されず!』
そう数える声に合わせて、『ガリレオくん』と呼ばれたロボットは、マニュピレーターを器用に動かし、丁寧に紙を捲っていく。
人間よりも遥かに速く入力が進んでいったが、アロナもそれに合わせて丁寧に数え上げる。「ひい、ふう、みい」と始まった確認が終わり、彼女は満足げな笑みを浮かべた。
『読み込むサンプルデータも十分に確保できましたから、今後はこれに則って、ガリレオくんが適切に処理してくれます。という事で…先生、寝室へ行きましょう!』
俺の手を引こうとするアロナ。無論ホログラムなのだから、直接触れる事などできない。それは互いにわかっている。
……少々、意地を張り過ぎたのかもしれない。
そう思いながら、俺は机に立てかけておいた杖を手に取った。
「…分かった。お前の言う通り、少しばかり仮眠を取ろう」
『
今日は、随分と頬を膨らませる。
未だ計り知れない力を秘めた、『シッテムの箱』を司る管理者。
俺など本来ならば足元に及ばないだろうに、目の前にいる彼女は、年相応に背伸びをしたがる一人の子供のようだった。
その姿に、眩しい物を覚える。
『あれ?先生、もしかして笑っ…て、ちょっとなんですか!』
「何となくな…、昔を思い出した」
『むう…。頭を撫でた所で、アロナは屈しません!……ふふ♪』
/Kivotos/Log.2 end.