「全ての雨は、天が地と、そこに在る全てに与える慈悲である」、ある運命の行人は、そう口にした。雨とはすなわち神の情動であり、それがまだ降っているということは、神は世界を見限ってはいない、ということなのだ、と。彼女は、そう信じている。
「雨は、どれくらい続いている?」
一つの赤い和傘を差しながら彼女が尋ねると、蓑笠を被った老人は静かに言う。
「かつて、私も君のようにそう問いかけた。それはこの雨がいつか止むことを願っていたからだ。しかし、長い時の中で……雨よりも先に、「希望」が止んだ。どうやら、この雨は慈悲などではなかったらしい」
そう言って、彼は岸辺から海を眺める。静かな、黒い雨の中で、水底から現れた黒い手のような影は、何かを求めてひたすらに空へと伸びていく。老人は、その様子をずっと見守っていた。
「せっかくだ、私からも少し昔話をしようじゃないか」
「昔話、か」
「只人が運命を歩むということは、大海に小舟で漕ぎ出すことによく似ている。望んで、あるいは望まずに、その小舟は無数に航路を変えながら、幾重にも波を立てて進んでいく。そうして広がる波紋は、たった一瞬に過ぎない人の一生とは違い、いつまでも、いつまでもその痕を残し続ける。そして、あまりにも大きな波紋は、その中に漕ぎ手の影すらも映してしまうことがある」
「まるで……あの「手」のように」
「「血罪霊」……運命の行人の執念が、この世に形を遺したものだ。「
「だから、あなたはここにいるのか?それを、見守るために」
「見守る?いいや、そんな大層なことじゃない。私は見届けているんだ。かつて、宇宙を巻き込んだ戦いの末……絶滅大君「誅羅」が死を迎えた。だが、そのために払われた代償を知る者は、もうこの宇宙に覚えてる者もほんの僅かまでに減ってしまった。だが、だからこそ、「巡狩」は決して朽ちることはない。誰かが、その行く末を見届けなければならない。かつての英雄達が「虚無」に成り果てる様子など、誰も見たくはないだろうからな。ならば、あの戦争の代償ごと、私がそれを果たそうというわけだ」
「だが……結局、「血罪霊」は彼等ではない」
「君も、そう思うか?この行いに意味など無いのだ、と。……だが、意味はなくとも、果たすべきことが人にはある。自らに課した使命が、人にはあるのだ」
「なら、私も手伝おう」
「何故、君はそれを選んだ?」
「私も「虚無」の意味を求めている」
「……そうか。只人は、決して足を踏み入れぬ領域だ。心からの礼を述べよう、見知らぬ旅人よ。君の答えが、その旅にあることを祈っている」
「なら、私からも、最後に一つだけ聞かせて欲しい。血罪霊の行いは、私達から見れば決して意味のないものだ。だが、彼等がそれを望み、そして意味を見出していたとするなら、私達はそれを咎めるに値するのだろうか」
「なるほど、いい質問だ。おそらく、私の一生では答えの出ない問題だろう。ただ、誰もに終わりが来るという不変の事実がそこにはある。そして、私がそこに辿り着いたとしたら──」
老人は、僅かに顔を上げていった。
「──私の墓前にも花を手向けてくれる人がいることを、心から願う」
◇◇◇
研究が一段落するとともに、呼び鈴が鳴った。ルアンは温めようとした菓子を仕舞い直し、玄関に向かう。
「……ヘルタ?」
「やっほー」
そう言って、人形体ではないヘルタはひらひらと手を振り、そして部屋の奥から漂う匂いを嗅いで「もしかしてこれからお茶?」と問いかける。ルアンは「ええ」と頷いた。
「珍しいですね、あなたが自分から来るなんて」
「そう?「ルアン・メェイが娘を訪ねに行ったらお仕事中で会えなかった〜」って聞いたから慰めてあげようと思ったんだけど」
「そういうことでしたら、お茶くらいは出しましょうか」
「入ってください」とルアンは耳に髪をかけ直しながら言う。ヘルタもその後をついて行った。
「そういえば、ヌースに謁見は出来ましたか?」
「全然。ヌースは今も自分の計算で手一杯みたい」
「もしかして、悩んでいますか?」
「まさか。悩みって言うなら、あの機械頭よりもあなたの娘の方がずっと私のことを悩ませてる。「知恵」と「繁殖」、理性と本能の芸術的な混合物であり、完全な「中性」。それ故に、全ての運命に染まる可能性を持ってる。ちょうど、星核を取り込んだ星とおんなじ状態だね。本当、私のことを飽きさせない」
「後は再現性があれば完璧だったんだけど」と口にするヘルタに、ルアンは「天才は再現性を持って生まれてこないでしょう?」と微笑む。「私も、あなたもね」とヘルタは笑い返した。
「そうそう、そういえば、今度インシァンを借りてくことになったから」
「今度……具体的には?」
「分からない。でも、ヌースの演算が弾き出したの。良い?」
「……仕方ありません。あの子も、ヘルタにはよく懐いていますから」
「私からは何も」とルアンはテーブルの上に2つのティーカップを置く。さくらんぼの甘い香りがふんわりと漂った。