多くの血を流して、ついに奪い取った敵の牙城。
最後の前哨基地である街を奪ったカスター家の軍勢は、その街に居座り勝利に浮かれる。
そんな場面は、どこにも存在しなかった。
街の外は張り巡らせた塹壕と防塁によって地形が変わり、激戦の血によって黒く染まっている。
そこまではいい。それは当たり前だ。
それに比べて、街中の様子は異常である。
家々は無傷のまま佇み、倒壊の跡も、焼け焦げた壁も見当たらない。
市場はそのままに食料品だけが根こそぎなくなっている。まるで時が止まったかのように、街はその形を保ったまま、ただ静寂を保つ。
最も多くの人が住んでいたはずなのに、その形跡はあるのに今は人の気配が一切ない。
不気味な沈黙だけが街全体を支配し、見えない何かがこちらをじっと見つめているような感覚だけが、肌を刺すように重くのしかかる。
勝者のはずの彼らは、戦いの興奮が収まった翌日にはもう限界だと悲痛な声をあげていた。
「街に入っても人っこ一人いやしねえ!」
我々は彼らを保護するためにここまで戦ってきたのだ。最後にはありがとうと感謝されると、そう信じていた。
どこにも姿が見えないカルステン領の住民たち。膨大な数の彼らを一人残らず逃すなど常軌を逸している。
「それに、なんだよあの絵は!文字は!」
そして問題は、まさに目の前にあるこれだった。
広場の中央に、大きく簡素な掲示板が立っている。粗削りな木の板を何枚も繋ぎ合わせただけの作りだが、その表面はびっしりと言葉で埋め尽くされていた。
端的に言ってしまえば住民たちからの侵略者たちへ向けた罵詈雑言である。
お前たちのせいで街を捨てることになった。
自分たちが騙されているのに哀れな奴らだ。
どんな理由を並べても人の土地を侵す理由にはならない。
そんな大人たちの痛烈な批判も心にくる。
けれど、そんなことよりもさらに響くものがあった。
子供たちからの言葉だ。
たどたどしい言葉で書かれた恨みは、家族を持つものたちの心を抉った。
おうちをかえして。
お父さんをころさないで。
どうしてこんなことするの?
この言葉の周りには、子供たちの絵が描かれていた。
その描かれた無垢な敵意の前に、多くの兵士が膝を折って、心も折れる。
なぜならこのような言葉の攻撃は、これまで通過してきた全ての街で残されていたのだから。
そしてそれは、奥に進むほど多くなっていった。追い立てられた彼らが行先でさらに書き残すのだ。
心が耐えられない。体は治してもらえるが、もう嫌だ。戦いたくない。
そうして一人、また一人と折れそうになる。
そんな時に響くのが、荘厳な鐘のような美しい声。
「皆様。お気を確かに」
我らの『竜の巫女』。ああ、『南の聖女』様がおいでくださった。
彼らは地面に下ろした足をそのままに、首を垂れる。
髪は細い金糸のような黄金で、肌は陶器のように白く透明感があり、光を反射してまるで自身が光を放っているかのように見える。その肌は柔らかく繊細で、治療の際に汚れた我が身に触れるのを思わず止めてしまうほどに汚れひとつない。
彼女は純白のゆったりとしたローブをまとう。見るからに高級だが、いやらしさの無い品格を持っていた。柔らかな光沢を持つ布地で仕立てられていて、彼女の清廉な雰囲気を一層引き立てている。腰元には銀の糸で刺繍されたシンプルな模様が入り、控えめながらも神聖な印象を与えてくれる。
「きっと、辛い言葉が書かれているのでしょう。しかし、これも全て必要なこと。子供達を思うのなら尚更この地を魔女教の好きにはさせてはいけません。ここを好きにさせてしまったらきっと、ルグニカ全土が奴らの手中に落ちてしまう。王選における彼らの優勢は今や明白です。王国を救えるのは、今この時のみ。そして我々しかいないのです」
彼女の言葉に皆が癒されていく。
「信じなさい。私も何より神龍様を信じています。強く固く信じるほどに、我々は強くなれる。かの偽りの竜の巫女を廃し、正しき王選へと戻しましょう。そこでは私が勝てるかは、分かりませんけどね」
どこまでも謙虚で敬虔な彼女は、最後に笑いながらそう言った。
「残すは領都のみ。私と共に、ただ信じて進みましょう」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ルミエールという女は、ルグニカの辺境の村。そのさらに端の片隅で生まれ育った。
きっと親の親が何かしたのだろう。ルミエールの母が生まれた時からずっと村八分は続いていた。
ルミエールが幼い頃に苛烈な暴行を受けてその目の光を失ったとしても、きっとそれは仕方のないことなのだ。
全てに頭を下げて、誰も不快にさせないように生きてきた。
それでも村では彼らの一族に任された仕事があり、それをすることだけは一族の誇りであったのだった。
それが汚物の処理であっても、必要とされるのは素晴らしいことなのだと父は言う。
光を失うが家族は優しかった。歳の近い兄は彼女をいつも背負ってどこにでも連れて行ってくれる。
母は物語を語って聞かせてくれるし、父は肉を取ってきて美味しく焼いてくれるのだった。
そんな日々がずっと続くのだと思っていた。
けれどある日、家族が家に帰らなかった。
こんなことは今までにない。何も見えないルミエールは一人でこの家を離れる術すら知らない。
恐怖で体が震えた。もし家族が事故で死んでしまっていたら?それは本当に悲しいことだ。最悪の悲劇とも言えるかもしれない。
けれど、それは最悪じゃない。生まれと育ちに逆らうように聡明に育った彼女の知性はもっと残酷な可能性を指し示す。
もしも、私が家族に捨てられたのなら?
納得してしまう。彼らは健康でどこでもやっていけるだろう。でも私を連れてはきっといけない。
家族三人で、別のところでやり直し。そんな選択を誰が責めることができようか。
きっとまた私が悪いのだ。
世界に謝り続ける。家の食糧と水が尽きたら、それくらいしかやることはなかった。
朦朧とする世界の中でも謝り続ける。
すると、声が聞こえた。初めて聞く声。誰だろう。
「君はもう謝らなくていい。僕が助けてあげるよ。おいで、一緒にここを出よう」
でも、私は役立たずだ。足を引っ張ることしかできない。
「いいや、それは違うさ!君は選ばれたんだ。この国のルグニカの一族に代わる王選候補にね」
その声は、スッと脳に入ってくるような響きで。
一番欲しいことを聞かせてくれた。
「僕と契約して『竜の巫女』になってよ!」
誰かが私を必要としてくれる?
どうして?どうして私が。私なんかが?何一つ出来はしないのに。
「わからない。けれど僕は君に導かれたんだ。『神龍』と『賢者』の導きだよ。ほら、僕に触れてみて」
そう言われて手を伸ばすと、そこに触れたのは冷たい鱗の感触。でも、嫌じゃない。滑らかな鱗を纏う小さな何かが、人の言葉で語りかけていた。
「僕は神龍の使いさ。今この国には恐ろしいことが起こっている。だから君に協力して、国を救ってもらいたいんだ。『聖女』なんて呼ばれるかもね」
そのあたりで、もう意識の限界だった。
「ええ、そんなこと…できないわ。でも本当なら…どんなに…」
「今はゆっくりお休み。目が覚めたら、きっと世界は一変するよ」
ルミエールは目が見えない。だからその小さな龍がどんな顔で笑っていたのかなんて気づけるはずもなかった。
「きっとみんなから愛される『聖女』になれるさ」
本当に目が覚めてから全てが変わった。
お付きの賢者が先導し、ルミエールと龍を導く。
南部の公爵領に魔女教の魔の手が迫っていると聞かされ、恐れ慄いた。
「自分で気づいていないかもしれないけど、君なら人を癒せるんだ。深く瞑想すればきっとできる。さぁ僕に身を預けて?」
そう言われて、素直に祈る。
祈ることだけは得意だ。ずっとそれだけをしていたんだから。
まるで後ろから誰かに触れられたような感触がすると意識が遠のく。
そして目覚めると、再び世界は変わっていた。
目の前で涙を流して礼を言う公爵家の令息。いや、先ほど当主が息を引き取ったようで、彼が公爵その人なのだ。
「おかげで家臣と母の命が救われました。あなたのお名前、そしてその力は一体?」
戸惑いつつも、あったことをありのままに話す。
「自分でも信じられないのですが、私のお話を聞いていただけますか?」
そうして、公爵は受けた仇をその主犯であるカルステン家に返し、恩をルミエールに返すと誓った。
その犯行は噂に聞く、魔女教でなければ不可能であると思わされるほどの惨状であったから。
異形に変えられたものたちは聖女の一触れで人の形を取り戻した。重傷者は欠損していても全快する。
その光景はまるで『神龍』の奇跡である。
そこで明かした『竜の巫女』であるという言葉は衝撃だったが、受け入れられた。
先日、水門都市が魔女教に襲われたのだがそこでどうやら、実際にはカルステン公爵は魔女教によって敗北したらしい。
『傲慢』によって操られているか。『色欲』によって成り代わられているか。そのどちらかによって、『竜の巫女』に空席が出たのだと、神龍の使いが言っていた。
それで全てに説明がついたと公爵も納得し、その危機に対処を始めたのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
彼女の純粋無垢な祈りは本物だ。誰もが見ればそうわかる。
邪悪な魔女教、ましてや大罪司教などではありえない。
いつも懐に抱く幼龍はいつも通りに眠っている。赤子を抱くようにしたいつもの姿を見せるだけでも、皆の活力になるのだ。
彼らは信じた。心から信じた。
すると、どこからともなく食料が供給されるのだ。龍の血肉であると言われ、感動に咽び泣きながらそれを食した。
白き龍は自らの身を削ってでも聖女に尽くしているらしい。
彼らはさらに信じた。
すると、聖女の力によって傷が治されるのだ。以前より体が頑健になったものも、決して治らないと思っていた古傷が治るものもいる。それもただ触れるだけでその奇跡が起こるのだ。
彼女はこの陣営の全てから愛されている。涙ながらに感謝を捧げられ、敬愛を受ける。
少しはにかみながら、その気持ちを受け止めていく。
それは戦いが終わった後の決まった儀式になっていた。
戦いの最中に治療を受けると、戦意が高揚しすぐにまた戦いたくなってくる。
聖女のお付きである、『賢者』の問答に答えて無事を確認すると戦いのことで頭がいっぱいになるのだった。
最初は怪しい風体の老人だと思ったが、彼もまた英雄の一人だと皆が納得している。
そうして続く、血で血を洗う塹壕戦。どこからともなく現れる巨人族や竜。そして食糧。彼らがそれらに疑問を覚える地点はとっくに過ぎていた。信じる心が彼らを強くし、駆り立てる。
疑心を抱くものはいない。一人もいなかった。皆が一心に祈っている。
戦いが進むごとに、まるで物語が進むように兵たちの士気を高めていく。
「この戦いが終わったなら、アレクシス・カスター様を一の騎士として、私がこのルグニカの王となれるよう。全力を尽くすことを約束します」
「我が剣は、あなたに。竜の巫女であり『南の聖女』ルミエールの一の騎士となることをここに誓う」
「偽りの王選候補を廃し、ルグニカ王国を正しい道へと導こう」
狂奔が止まらない。おかしいほどに。
その渦中のものたちは気づかない。信じる心が団結させ、そして他の迷いを断ち切る。
ともにカルステン公爵に暴虐を受けたものとして、巨人族と討伐軍がともに並ぶ。
巨人族は隠れ住んでいた集落を襲われ、復讐のために参戦した。誰一人話すことはできないらしいが、聖女に付き従っている。
狂奔がこの苦境にあって、最高潮に達した。
そこには人種の垣根はなく、ただ祈りがあり、信仰がある。
そして、カルステン領地。その最後の砦である領都は、二日に渡る防衛戦ののち『南の聖女』の手に落ちた。
申し訳ないですが、明日は諸事情により…
二話投稿です。