スバルたちが監視塔の前で合流して一息ついた、というか意識を飛ばす寸前。
巨大な壁だと思っていたものが、音を立ててゆっくり開いた。
この光景を見れば扉であったのだとようやくわかる。
一体何のためかわからぬほどに重厚で巨大な扉。それがあまりに小さな人影によって開けられている光景にスバルは瞠目する。
そして相手の姿を一目見ると、スバルは意識を手放した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――暗い、暗い澱みの中に意識はあった。
そこを訪れるのは、ナツキ・スバルにとっては久しぶりのことだ。
以前にも何度か、それこそ、『死に戻り』するたびに強制的に呼び寄せられていたような気がする、地にも空にも果てのない、闇だけが広がる黒い世界。
思えば、ここも不思議な空間だった。
なにせスバルは、この場所にいた記憶を外に引っ張り出せた試しがない。出入りするのは初めてではないのに、外に出たときには入ったことを忘れてしまう。
それはまるで、泡沫の夢のような儚い感覚だ。
意識だけで浮上し、肉体はもちろん、手足も目も耳も口もない感覚も慣れた。
上下左右がわからないことへの頼りなさも、奥行きも何もかも見えないことへの不安も、ただ一つのことだけに支配される意識にとっては関係ない。
意識の中核に位置し、あるいは意識そのものを形成するのは、耐え難く止め処ない激情――否、それは親愛であり、信愛であり、深愛であった。
ここへくれば、その愛情の源に出会うことができる。
意識はそれだけを学習し、再びここを訪れることができたことに歓喜する。
ずいぶんと久しぶりに味わう邂逅を前に、ないはずの胸が弾み、存在しない唇は歌うような喜びに満たされていた。
しかし、そんな意識の感慨は――。
「ずいぶんと、浮かれきっているようなのデス」
「まったく冗談じゃないよね。ちょっとばかり運が良かったぐらいで勝ち誇って、その後も調子に乗られっ放しじゃたまらないよ。図々しいにも程があるっていうかさ。もうちょっと、自分のことを客観的に顧みてほしいんだよね。そうしたらさ、自分がどれだけ厚顔無恥なことをしてるかわかりそうなものだってのに」
ふいに聞こえてきた、本来なら届くはずのない声に邪魔される。
闇の中に浮かび上がる、ナツキ・スバル以外の『意識』の存在に気づいた。
「おぞましくも浅ましい、これは独りよがりの産物に他ならないのデス!あぁ、なんと罪深く、汚れた在り方か!ただただ、軽蔑に値するのデス!」
「並以下どころか人間以下、不完全ここに極まれりって感じじゃないか。そんな奴がさぁ、満たされていたこの僕を足蹴にするなんて何を考えてたんだ?分を弁えれば最初からわかりきってたはずだろ?僕の前に立つのも、立ちはだかるのも、邪魔するのも!阻むのも!何もかも!不足なんだよ!足りてないんだよ!人間らしく論理的に考えればさぁ……!人以下の、人畜風情にもさぁ!」
闇に浮かび上がる『意識』が、揃って不完全なナツキ・スバルに罵声を浴びせる。
片方は狂的に、片方は禍々しく、それぞれの憎悪をナツキ・スバルへぶつける。
ただ、残念ながら、意識だけのナツキ・スバルにはその憎悪が理解できない。
理解するための心が、脳が、このナツキ・スバルには用意されていない。その『意識』たちの言い分を理解しようとするなら、肉体を用意したように、この視覚を作り出したように、理解するための器官を生み出す必要がある。
『――――』
――だが、なんとなく、そのための器官はいらない気がした。
少なくとも、この二つの『意識』の言い分を理解するために、そうした機能を持たせようとすることの意味は薄く、何より欲求を覚えない。
いや、本当に、他意はなく。
「なんたる不遜!なんたる軽視!なんたる侮蔑!これほどまでにワタシが勤勉を以て訴えかけているというのに、わかろうとする努力さえ欠くのデスか!それはなんと、あぁ、あぁ、嗚呼……!怠惰!アナタ、怠惰デスね!」
「どこまで他人をコケにすれば気が済むんだよ、人畜野郎……!いいか?僕を誰だと思っている?僕はこの世で最も満たされ、あらゆる出来事に心乱されない日々を望む、無欲で平凡な幸福だけがあればいい男なんだよ。それをお前が邪魔をする。権利の侵害だ。邪悪の所業だ。他人の幸福を足蹴にするのも大概にしろよ……!」
埒が明かない気がして、二つの『意識』に背を向ける。
今はそんな些事にかかずらわっている暇はない。
『――――』
何故なら、ナツキ・スバルの意識の前には、目的の影が姿を見せつつあるからだ。
『――――』
何も見えないはずの漆黒の闇、黒の中でより濃い黒を纏う影はいっそ鮮やかだ。
その姿形は明らかに、以前の邂逅のときより明瞭になり、距離も近い。
以前の邂逅では腕と体つきだけが見えていた人影は、今では身に纏うドレスと、長いドレスの裾から覗く素足まで見える。ほとんど肉体は完全に再現され、ナツキ・スバルに見えないのは闇に隠れる顔貌だけだ。
もどかしくはある。しかし、今はそれでいい。
前より強く、より近くに彼女の存在を感じる。だが、ナツキ・スバルの方に、明瞭になりつつある彼女を迎える準備が出来上がっていない。
今はただ、すぐ近くに在れることを喜べばいい。
いずれ必ず、その頼りない指先と触れ合い、細い腰を抱き寄せ、愛を交わそう。
『――愛してる』
その言葉に、出来上がったばかりの顎を引いて、ナツキ・スバルは応じた。
それだけのことに影が喜ぶのがわかり、申し訳ない思いが芽生える。
次の機会には、こちらからも愛の言葉が告げられるよう、『口』と『舌』が必要だ。
そんな感慨を覚えながら、ナツキ・スバルの意識は影の庭園から離れ――。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……ここ、は?」
目覚めた瞬間、スバルは自分が『死に戻り』とは違う覚醒を迎えたと理解した。
「ベッドで寝てる……」
そこは緑色の部屋だった。
部屋中、育ちすぎた蔦がのたくるように覆い尽くし、壁は完全に隠れている。仮に蔦でできた部屋だと言われたら信じそうなぐらい、突飛な外観の部屋だった。
「っなんでこんなことに……!?」
見知らぬ天井どころか、四方八方が知らぬ部屋だと理解し、スバルは上体を起こす。その瞬間、起こした体の右手が誰かに掴まれていることに気付いた。
どこか安堵した顔でスバルの手を握るのは、銀髪を一つに纏めたエミリアだ。彼女は眠っていた。
その手を離す事に抵抗を感じつつもそっと手を置き、身を起こす。
ベアトリスがスバルの目覚めに気づき、そして労ってくれた。
「スバル、まだ具合が悪かったり、体調に不安があるなら寝てていいかしら。急いで起きる必要はひとまずないのよ。試験はベティーたちだけでどうにかするかしら」
「……なんだって?」
額に手を当てて、俯くスバルをベアトリスが気遣う。その気遣いの言葉の中に、聞き慣れない単語があって、スバルは思わず聞きとがめた。
「今、なんてった?いや、それよりも…」
スバルはわずかに声を低くし、あって当たり前の疑問を口にした。
それは――、
「ここは、どこだ?」
「スバルも、想像がついていると思うかしら」
ベアトリスが物憂げに吐息し、それから腕を組んだ。
そして、少女は天井を――その向こうの外を見上げる仕草で、軽く踵を鳴らし、
「――プレアデス監視塔」
「――――」
「あの砂丘の果てにあった監視塔、その中にベティーたちはいるのよ」
と、そう言った。
緑の部屋は塔の内部の一部屋だった。
いくつか置かれたベッドにはレムの姿もあり、心の底から安堵する。
詳しい説明も後回しに、バタバタと誰かが駆け寄る音がする。皆が集まってようやく話ができるかと思ったが。
見覚えのないものがそこにいた。いや、それは嘘だ。
その姿、その外見に、見覚えはある。意識を手放す寸前に見たはずだ。この姿を。
「お前は……」
つかつかと、歩み寄ってくるのは長身の女だ。
黒に近い褐色の髪をポニーテールにして、大胆に手足、腹や背中まで露出した半裸と言って差し支えない格好。胸と下腹部を最低限にだけ隠し、その服装の上から黒いマントを羽織った、ずいぶんと偏った衣装の人物だった。
スバル的に言えば、ホットパンツに黒ビキニを付けてマントを羽織った痴女だ。
すらりと長く白い手足に、惜しげもなく揺らされる豊満な胸。背丈はスバルと同じぐらいか、やや向こうの方が高く、腰の高さは比べるべくもない。
白い肩の上には整った顔が乗っており、気だるげだが目力のある美貌があった。
――それは間違いなく、スバルが意識を失う直前、最後に見た顔だ。
「……お前が、『賢者』なのか?」
「――――」
無言で歩み寄る女に、スバルは喉の渇きを覚えながらそれだけ問いかける。
しかし、女はスバルのすぐ目の前にくるまで何も答えず、手を伸ばせば届く距離まで近付いたところで足を止め、しげしげとこちらを見るだけだ。
その視線は全身を舐めるようで、正直、スバルは落ち着かない。
「――――」
「お、おいって……聞いてる?ほら、あの、ベア子も落ち着いてるところを見るに、別に敵対するつもりとかない……んですよね?」
「――――」
「あの、黙っていられると不安になるんで、なんか言ってもらえると……それともひょっとして、言葉じゃなく念話で繋がる系とか?だと、困るなぁ。はは」
「――――」
じろじろと、推定『賢者』はスバルの言葉に反応せず、見てくるだけだ。
居心地の悪さ、ここに極まれり。口調も歪むほどの気まずさと不安を抱え始める。
――そんなスバルの不安は、ふいに破られた。
「……4つ。いや…3つ?」
「へ?」
「――――」
スバルをじっと見つめていた女が、急にそんな風に呟く。
その声はやや掠れてはいたが、続けて聞くことができればおそらく美声と判断できるハスキーボイスだ。
「ま、それはいいッス。そんなことより、見つけた」
「ええ、と?」
急に女は何か投げ出すように言って、表情を変化させる。
それまで真剣に、スバルの内を覗き込もうとするかのような態度だったものが、ゆっくりと大きく、時間をかけて、凍ったものが溶け出すかのように。
女の口元が横に広がり、それは笑顔と呼ばれる形になって、
そして女は、スバルを見つめて、言った。
「――お師様」
「……は?」
まったく聞き覚えのない単語と、まったく身に覚えのない感情。
「いや、悪いけどたぶん人違いとかそういう類の……むぐっ!?」
「お師様ぁ!もうもうもう!待ってたッスよ~!」
感極まった女、しかも美女に好意的に抱きつかれる。夢のような状況であるが、素直に喜べない。
なぜなら、万力のような怪力でスバルを締め上げていたのだから。
「お師様!お師様!長かったッス!寂しかったッス!もうずっと、このまま近付く奴らを狙撃するだけの人生かと思ったッス!」
「ま、待て!待て待て!なんだ!?何の話だ!?」
「なんだってひどいッスよぉ!お師様が命令したんじゃないッスかぁ。祠に近付く奴らの邪魔をしろって……方法はまぁ、別ッスけど」
「じゃなくて、俺がお師様!?何を言ってやがる!?」
柔らかい女の肌と直接触れ合っているが、そのラッキースケベを堪能する心の余裕もない。異常な腕力に掴まれたまま、スバルは必死に逃れようとする。
「お前、とにかく、離れろ……話にならねぇ……!」
「いやッス!絶対にいやッス~!そんなこと言って、また目ぇ離した隙にいなくなるつもりに違いないんス!お師様変わってなさすぎ!」
「知るかぁ――!!」
強情な女は何のトラウマがあるのか、スバルから決して離れない。その顔を乱暴に掴んで遠ざけようとしながら、スバルは噛みつくように叫ぶ。
「そもそも、お前は誰で!なんなんだ!」
「何を言ってるッスか!シャウラッス!プレアデス監視塔の星番!お師様の可愛い教え子のシャウラッスよぉ!」
「覚えがねぇ――!」
スバルは断固として、意味不明な状況に異議を申し立てる。
しかし、そうしてもつれ合って進展のない場に、ふいに変化が飛び込んだ。
それは――、
「えい」
「痛い!?エミリアたん、なんで今、俺蹴ったの!?」
「スバル。起きてくれて本当によかった。でも、よくわからないけど、すごーくもやもやしたの」
目覚めたエミリアが無意識にスバルに蹴りを見舞い、しばらく騒がしい怒鳴り合いは続き――。
結局、騒ぎに気付いたユリウスたちが合流するまで、プレアデス監視塔の『賢者』(仮)との悪戦苦闘は続いたのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
汗に塗れて組み合う男女。
そして、その二人を冷めた目で見る、それ以外の面々――。
「なんだよ、その目! 俺が、俺が悪いってのかよ!? 俺は悪くねぇ! 俺は悪くねぇ――!!」
「スバル、あまり幻滅させないでくれ」
「ずいぶん眠っていた後にこれとは、驚かされるよ。英雄色を好むとは本当らしい」
「少しはいいところもあると思ったけど、所詮、バルスはバルスね」
「大将…俺は、俺は…どうすりゃァいいんだクソ!」
「ご無事で何よりです。スバル殿」
シャウラにいいように組み伏せられるスバルに対する、降りてきたユリウスとエキドナとラムの感想はそんなところだった。
無力に打ちひしがれるガーフィールも、気にしないでくれと伝える。どれだけ腕っぷしが強くなってもこの問題は解けるものじゃない。
ヴィルヘルムさんだけはスバルを労ってくれるが、この女についてはノーコメントを貫いている。泣きそうだ。
ともあれ、
「無事に合流できたのは僥倖だ。君が目覚めてくれたのも朗報だが……状況は、一体何なんだ?理解に苦しむよ」
「俺も説明できるもんなら……クソ! 離せ!」
「いーぃやーぁッスーぅ!」
スバルの腕にしがみつくシャウラを見て、剣の柄に手をかけていたユリウスが肩をすくめる。彼女に攻撃の意思はない、と見取ったが故だろう。その点に関してはスバルも合意するが、それとは別に引き剥がすのに苦労しているのは事実。
「エミリアたん痛い! 髪の毛引っ張ってもあんまり助けにはならないかな!?」
「あ、ごめんなさい。全然、助けようとしたんじゃないの」
「そこ謝んだ!?」
強情なシャウラはスバルの腕を離さず、エミリアはなんだかやけに無表情でスバルの髪の毛を引っ張ったりしている。ちなみにスバルとシャウラのもみくちゃに巻き込まれたベアトリスは目を回しており、「きゅー」と赤い顔で潰れている有様だ。
閑話休題。話を戻すのはいつだってカルステン陣営だ。
「そおれでえ?そんな風になってるのはどういうわけえ?お兄さんたらほんとに節操ないのねえ。無口なお姉さんは途端に話し出すし、おじさんはあのザマだし。あっちもこっちも変になりすぎよお」
「無口? これが?」
「これじゃなく、シャウラッス。お師様~」
「うぜぇ……いや、それよりおじさんってゴドフリーさんだよな?確かに変だけど、どうかしたのか?」
「見てよおこれ。こんなの、どうしていいかわかんないんだからあ」
そう言って指し示すのはずっと挙動不審だったゴドフリーだ。
なぜかメィリィの影に隠れるようにコソコソとして、体を丸めている。
モジモジとしつつもこちらを見て顔を赤らめている初老の巨体は、はっきり言って不気味である。
「まさか、ゴドフリーさんも俺のこと師匠なんて呼び出さないよな?」
シャウラにも困っているが、ゴドフリーに組み付かれるとなればいよいよ話は変わってくる。断固拒否である。
「違うわあ。おじさんが見てるのはそっち。『賢者』さんのことを一目見た時からこんなになっちゃんだからあ。情けないったらもう!」
そう言ってポカスカと殴りつけるが、ゴドフリーは一切動じた様子もなくそこで照れている。正直キモい…。
「あのお姉さんが気になるのは確かに認めるけどお。明らかに自分の子供より年下でしょお?ちょっとあり得ないわよお」
常識的な一撃に、別の角度から非常識な言葉が投げられる。
しかし、そんなことを言いつつ。メィリィはいそいそとシャウラの背に登っておんぶの形に落ち着いた。
ふんすと女の背に陣取り満足気な少女、いや幼女だこれ。
そんな様子を見た一同は困惑し、真っ当なはずのメィリィの非難声明から説得力が剥げ落ちていく。
まるで義理の娘に認められた継母のような収まり具合である。
確かにシャウラはおかしいが。彼女に対しての二人の反応もおかしい気がする。
「あーしは400年以上は生きてるッスよ。ちびっ子とおじさんも、もしかして古株ッスか?人の顔とか覚えられないし、忘れっぽいんで会ってても勘弁ッス!ていうかちびっ子は何してるッスか!そこはお師様の場所ッス」
年の差問題は逆転しクリアした。したのか?
そんな大騒ぎを抱えつつ、スバルたちは無事を確かめ合ったのだった。
くっそ!この話をなんでバレンタインに当てられなかったんだ!